陸 ~一~*
鳴雪の手下、百匹の妖狸を束ねる『百匹頭』も砕花、林火、水巴、秀真の四匹がそろった。これでようやく半数である。
自由に遊び回っている青畝のことはひとまず放置し、とりあえずは残りの三匹を探すことになった。
今回は離島の方に誰かがいないものか探しに行くつもりである。船に乗るため、まずは港のある丹の国を目指す。
「――ねえ、皆は泳げるの?」
道中、莉々は無邪気にそんな質問をした。端整な顔を締まりなくゆるめ、鳴雪は答える。
「泳ぐというより、私はその気になれば神通力で水も操ることができるのでな。溺れることはないのだよ」
予想以上に反則的な答えが返ってきた。
「そういうわけだから、俺たちの乗る船の旅は快適だ」
と、鳴雪の一の手下である砕花も微笑んだ。優美な姿をした、どちらかというと狐っぽい少年なのだが、こう見えて怒らせると怖い。
「あ、浜が見えてきたよ!」
そう言ってはしゃぐのは、林火だった。
丸眼鏡をかけた知的美人。姉御肌で頼りになる。
「海は魔物が多く棲まう場所。いくら鳴雪様がおられるとて、気を引き締めねばな」
真面目を絵に描いたような少年狸、秀真はそんなことを言った。若々しく高く結った髪を揺らしてうなずいている。
「魔物……」
天が眉間に皺を寄せて考え込んだ。何かを想像しているのだろう。
十八という年齢よりも落ち着いていた天も、最近はよく怒鳴ったり狼狽えたり、感情を見せる。鳴雪がそうさせるのだが、厳しい祖父が今の天を見たら未熟だと竹刀でつつき倒すかもしれない。
けれど、これが本来の天であるのだろうと思う。伸び伸びとしていて、莉々はそんな天のことも好きだった。
「天も莉々も船旅には不慣れだというが、海にはあまり来たことがないのか?」
水巴がそんなことを訊ねる。短めの髪に牡丹の花飾りを挿した娘姿は、同性の莉々から見ても麗しい。百匹頭の中で一番の化け上手だ。
「海水浴くらいにしか行かなかったかな」
莉々が潮風にそよぐ髪を押えながら笑うと、水巴は首をかしげた。
「かいすいよく?」
「泳ぐために遊びに行ったってことだ」
天が苦笑して補足すると、水巴は何故か難しい顔になった。
「海で泳ぐことが遊びだと? お前たちの遊びは過酷だな」
どんな想像をしたのかはよくわからないが、水巴の目は真剣だった。
ふと、林火が不思議そうに言った。
「泳ぐ時ってどんな格好で泳ぐんだい?」
「どんなって、水着――」
言いかけて、この世界に水着はないと莉々は気づいた。なるべく伝わりやすいように丁寧に言う。
「えっと、水の抵抗を受け難い、薄くって体にぴったり沿った露出の高い服みたいなものがあってね」
そこで驚嘆の声を上げたのは鳴雪だった。
「薄くって体にぴったり沿った露出の高い服!?」
何を考えているのか、誰もがわかった。だからこそ、何も言わずに放置した。ついでに言うならば秀真は真っ赤になってうつむいていた。
見たいけれど、見せたくない、呪文のように繰り返してつぶやいている鳴雪に構わず、砕花はふと白い砂の続く浜に視線を向けていた。
そこには使われずに伏せられている船が何艘か置かれている。
しかし、船よりも不自然に、その浜でうつ伏せに倒れている小柄な人間がいた。
「あ! 誰か倒れてる!」
莉々がとっさに声を上げた。
それは少年のようだった。明るい茶色の髪をした頭部が見える。格好は涼しげな色合いの小袖と袴だった。
近くの漁村にはそぐわない、労働を知らない小綺麗さがあった。
厄介ごとに巻き込まれる可能性はないか、それを皆がまず考えたようだ。けれど、ここで見捨てるという選択を莉々が良しとしない以上、放ってはおけないのである。
一行は渋々その行き倒れに近づいた。
「おい、生きているか?」
と、砕花がその頭を拾った枝で小突く。ひどいと莉々が言う前に、行き倒れの少年は呻いた。砕花がそれをころりと仰向けに転がす。
その雑な扱いで少年は気がついたらしい。砂を頬につけて起き上がった顔に、莉々と天は呆然としてしまった。
それは、ここにいるはずがないと思っていた幼なじみであった。
「し……っ」
天が声を詰まらせる。少年はあどけなさの残る顔を二人に向けてその場に座り込んだ。
そんな少年に、莉々は涙を浮かべて抱きついた。
「シロちゃん!!」
「わっ!」
少年、紫緑は莉々の勢いによろけて後ろに手をついた。
「シロちゃんまでこっちにいたなんて! でも、無事でよかった……!」
熱い抱擁を続ける莉々の横で、鳴雪は顎が外れそうなほど口を開けていた。けれど、莉々はそんなことに構っていられなかった。
紫緑はどこか苦しそうに零す。
「あの、さ」
「うん?」
莉々はようやく涙の浮いた目尻を拭い、紫緑に顔を向けた。
紫緑の表情には強い戸惑いと不信感がある。莉々は思わず首を捻ったけれど、すぐにその理由がわかった。
「俺、悪いけど何も覚えてないんだ。あんたは誰だ?」
「ええ!!」
莉々が耳元で甲高く叫んだせいで紫緑は顔を歪めた。そんな彼のそばに天も膝を突く。
「世界が混ざった時の衝撃で飛ばされたせいか? お前も災難だったな」
紫緑はポリポリと頭を掻いた。意味がわからなかったのだろう。
そんな三人の様子を眺めながら、砕花は冷静に言った。
「つまり、こいつはお前たちの知り合いなんだな?」
「うん、幼なじみなの。封印が解けた時、一緒にいたんだけど、こっち側には来てないんだって思ってたから……」
けれど、紫緑は記憶を失ってしまったらしい。しょんぼりとした莉々の頭に手を置くと、天は立ち上がった。
「でも、とりあえず生きてたんだからよかった。記憶もそのうち戻るかもしれないし」
「そう……そうだよね」
莉々はそっと微笑んだ。
事情は違うけれど、鳴雪も少し前に記憶を操作されたのだが、すぐに元に戻った。紫緑もきっと思い出してくれると思える。
「莉々ちゃん、最近こんなことばっかりだねぇ」
林火もそんなことを言って嘆息する。
「うん、だからシロちゃんもすぐに思い出してくれるよ」
莉々は紫緑の手を取って立たせた。
「体は大丈夫?」
「ああ、頭が少し痛いくらい」
「どうしようもなく痛かったら診るけど?」
そう林火が訊ねると、紫緑はかぶりを振った。
「そこまでひどくないからいい。……そんなことより、俺がわかるように色々と説明してほしい。その、獣みたいな耳の人たちはなんだ?」
訝しげな紫緑の視線は、砕花、林火、秀真に向けられた。フサフサとした狸の耳が奇妙なのだろう。
「……そうだな、莉々殿たちの幼なじみだというのなら礼を尽くして説明してやっても良い」
いつもよりもどこか低い鳴雪の声が、莉々の背後から降った。そして、その次の瞬間には背後から莉々を抱き締めて紫緑を威嚇する。
「ただし、莉々殿は私の伴侶となる娘故に、いかに幼なじみとはいえあまりに馴れ馴れしい振る舞いは控えてもらおう」
「…………」
紫緑の表情が固まった。怯えているのではなく、きっと剥き出しの嫉妬に呆れている。
鳴雪の腕の中でもがく莉々の髪を鳴雪は撫でて満足するのであった。
天は冷え冷えとした口調で紫緑に言った。
「あいつ、虚言癖があるから気にするな」
「え? あ、うん」
天は鳴雪から莉々を離し、二人の間に立った。鳴雪も天には逆らえない。
微妙な空気の中、とりあえず一行は落ち着ける場所を探した。漁村の一軒家に空きがあるらしく、今回は家を出さずにそれ借り受けることにした。
❖
「せ、世界が混ざるなんてことが……」
囲炉裏を皆で囲みつつ現状の説明を受けると、紫緑は目を丸くした。そうしていると、童顔がさらに強調される。
語られた内容はにわかには信じがたいものであるのだから、その反応は当然であったのだけれど。
「でも、鳴雪さんがもとに戻してくれるって言うし、大丈夫」
楽天的な莉々の言葉に、紫緑はうなずける根拠が見つけられなかったのかもしれない。まだ不安げな面持ちだった。
「うん……」
妖怪だ狸だと説明された者たちに囲まれた状態で、紫緑の気が休まるはずもなかった。
「紫緑、少し二人で話そう」
「あ、はい」
天が気を利かせて紫緑を伴って外へ出た。その天のことも覚えていない紫緑だが、人間であるだけマシだろう。
素直に従って天の後ろに続いた。
「わたしも――」
と、後に続こうとした莉々の手を鳴雪が取った。
「莉々殿、男同士の話だ。邪魔をしてはいけない」
もっともらしいことを言ったけれど、ただ単に行かせたくなかっただけかもしれない。それがわかるのか、砕花がやや冷ややかな目を鳴雪に向けた。
けれど、同性の方が無理をせずにいられるのは事実だ。紫緑も天になら弱音を吐けるだろう。
「うん、わかった」
莉々がうなずくと、鳴雪はほっと胸を撫で下ろした。
何を話しているのか気になったけれど、天に任せておけば問題はない。莉々はそう判断した。
❖
夜の砂浜は足を取られやすく、草履では歩きづらかった。日が沈んでも星が瞬き、空が明るく感じられる。
天は空を見上げながら浜に座り込んだ。紫緑もその隣へ座る。
そうしていると、紫緑の方から口を開いた。
「あの、鳴雪さんっていつもああなんですか?」
「ああって?」
「莉々さんにべったりと言うか……」
紫緑の口から『莉々さん』などという言葉が出ると、天はすわりの悪さを感じた。それが仕方がないことだとしても。
「気になるのか?」
「え?」
「お前は莉々のことが好きだったからな」
「そ、そうなんですか?」
戸惑う紫緑に天はうなずく。
「本人はバレてないつもりだったんだろうけど、わかりやすかった。俺も、莉々の相手はどこの誰ともわからないようやつよりはお前の方がいいかなって思ってた」
紫緑は言葉に詰まっていた。覚えていない以上、答えようもないのだろう。
天はなんとなく、もう一度空を見上げた。高く遠い空を何か懐かしく思う。
「きっとまた、何事もなかったみたいに、いつもの暮らしに戻れる。だから今は耐えるんだ」
すると、紫緑は夜の海の持つ独特の薄暗さの中でつぶやいた。
「天さん」
「お前に『さん』づけされたくないな。天でいいし、敬語もやめてくれ」
「……じゃあ、天。なあ、あの狸たちは本当に信用していいのか?」
迷いを秘めた紫緑の瞳を目の当たりにし、天は苦笑した。
「そりゃあ、普通の高校生だった俺たちにしてみれば妖怪だもんな。抵抗があるのは仕方ないと思うけど、つき合ってみると案外気のいいやつらだったりするんだ」
皆いいやつだと思う。鳴雪のことは横に置いておくとして、砕花たちとは気も合うし、この旅が終わった時、すっきりと別れるには寂しさも感じるだろう。
ただし、紫緑は慎重だった。
「気のいいって、天の前ではいい顔してるだけなんじゃないのか? 俺は正直、まだ信用できないな」
種族の違いというものは、とても大きな隔たりである。同じ人でも人種や国籍が違うだけで対立することもある。
紫緑の不安は仕方のないこと。思えば、秀真も人間を受け入れるのに時間がかかった。
そういう天も、狸だからという理由で鳴雪が莉々に擦り寄るのを嫌がっている。莉々の相手は人間であってほしい。
これは難しい問題である。
「でも、まあ、俺たちも一緒だから心配しなくていい」
そのうち、皆に打ち解けるようになる。記憶がなくなったといっても、紫緑はもともと敵を多く作る方ではないのだから。