伍 ~五~
莉々がこの混在世界に迷い込んでから、危険なことはたくさんあった。その都度、鳴雪や天が助けてくれた。
けれど今は、声が出ないほどの恐怖を感じている。
莉々は秀真に噛まれた傷を押えながら庭園の片隅で泣いていた。感情に整理がついたら皆のところに戻るつもりだった。
一度吐き出してしまわないと、鳴雪の前で普通に振舞える自信がなかったのだ。
うずくまって涙を零していると、背後から大きな影が落ちた。直立した影はまるで熊のように見えて、莉々はギクリとして振り返った。
そこに二本足で立っていたのは、熊のように大きな猿だった。毛はべっとりと固まっていて、なんとも言えない強いにおいがする。
この宿の働き手は猿だった。けれど、あの猿たちのように愛嬌があるわけではなく、ただひたすらに恐ろしい。
あの猿たちには知性があったのに、この大猿は知性の代わりに図体が発達したような印象だった。
慌てたあまりその場に尻餅をついてしまった莉々に、猿の長い手が伸びた。猿の手が莉々の首をつかんで引き寄せる。汗ばんだ手の感触に、莉々は震えた。
顔を寄せられ、息がかかる。思わず顔を背けた。そんな莉々の体を、大猿は軽々と担ぎ上げる。
この時から、体が強張って悲鳴すら上げられなかった。
大猿は、その巨躯からは考えられないような軽やかさで跳んだ。ひと跳びで庭園の塀を越える。
着地する時もほとんど音がしない。しなやかな動きだった。
どこへ連れていかれるのかもわからない。障害物を飛び越えていく大猿に連れられ、まるでジェットコースターに乗っている感覚だった。莉々は気を失いそうになって、半分以上は目を瞑っていた。
それでも、大猿が木に登り、岩を蹴り、高い場所へ登っていることだけはわかった。
ようやく大猿が莉々を下ろした。そこは剥き出しの岩肌で、突き飛ばすような乱暴な下ろし方が痛かった。
そこはどうやら崖の一角だった。崖の窪んだ場所にいる。一歩踏み間違えれば崖下にまっさかさまである。
莉々は恐ろしくて真下を見る勇気がなかった。なるべく岩壁に背中を擦りつけて落ちないようにした。
この場に辿り着ける者がいないことと、莉々が逃げ出せないことを確信したのか、猿は一度単独でそこから下りていった。
一人になった莉々は、涙を堪えきれずに呻いた。
「助けて……」
皆からどれくらい引き離されただろうか。空が近く感じられる。
浮かぶ顔は、いつも駆けつけてくれる鳴雪だった。けれど――
莉々はかぶりを振る。もう、鳴雪を頼ってはいけない。
今の鳴雪にとって、莉々の危機はそれほど大事ではないのだ。駆けつけてくれると思ってはいけない。
期待してしまえば、あとで余計に苦しくなる。それとも、あとなどないのだろうか。
ここで食われておしまいなのかもしれない。
それなら、鳴雪ともう一度顔を合わせることもない。そう思うと、ひどく寂しいことのように感じられた。
忘れられてしまって、会うのは怖いけれど、それでも会いたい気持ちもある。
今までありがとう、と礼のひとつくらいは言って別れたかった――
莉々が置き去りにされ、小一時間くらいが経過した頃だろうか。
泣き疲れた頭でぼんやりとしていると、あの大猿が戻ってきた。
「あ……お、お兄ちゃん」
呼べるのは天のことくらいだった。それでも、声が震える。
後ずさりしようにも後ろは岩壁で、下がるところもなかった。大猿の手が伸び、莉々の手をつかもうとする。ヒッと声を上げて莉々がそれを避けると、大猿の手は莉々の袂をつかみ、力任せに引いた。莉々の着物の袖が肩の辺りから破れ、袖が引きちぎられる。
「あ、あ……」
怯え、呻くことしかできなかった。
そんな莉々に覆いかぶさるようにして大猿が近づく。息遣いが聞こえるほどに間が狭まった時、大猿の背後に青白い炎が浮かび上がった。
ぽぅ、とひとつ。またひとつ。
大猿を囲み、炎が揺らめく。
あれは、狸の火だった。
莉々がその狸火に目を向けると、大猿は背後を振り返り、威嚇するようなシャーという声を立てた。崖の縁には、さっきまではなかったはずの人影がある。いつかのように空間を飛び越えでもしたのか、涼しい顔でそこに立っていたのは鳴雪だった。
涼しい顔という表現は適切ではない。凍てつくような面持ちだった。莉々がその顔を見ても、とても安堵できたものではなかった。
大猿は突然の闖入者に飛びかかる。
けれど、その爪が鳴雪に食い込むことはなかった。鳴雪はただのひと睨みで大猿の腕を折った。
あれは妖力のなせる業なのだろうか。あり得ない方向に曲がった腕を押え、大猿が唾を撒き散らかして絶叫している。
鳴雪のまとうドロリとした妖力が莉々の目にも見えるようだった。
それでも、鳴雪は怒りを収めなかった。狸火で大猿の毛を燃え上がらせる。
大猿は叫び、悶えるけれど、その火は莉々にとってはまったく熱を持っていなかった。踊るようにその狭い場所で暴れた大猿は、そのまま転落した。莉々は耳を塞ぎ、大猿の断末魔を必死で頭から追い出す。
今回ばかりは可哀想だと思うゆとりもなかった。
耳を塞いでいても、鳴雪が吐き捨てるようにつぶやいた声だけは不思議と聞こえた。
「経立風情が」
その憎々しげな様子から、あの大猿は鳴雪の敵であり、討伐ついでに莉々を助ける形になったのだと思えた。今の鳴雪は、莉々のためにわざわざやってきたりはしない。
疲れてぐったりと岩肌にもたれていた莉々に、鳴雪が歩み寄る。結果として助けてもらったのだから、礼を言わなければと莉々が頭を整理しかかった時、鳴雪は莉々の前に膝を突いた。そうして、痛々しく顔を歪めた。
「天殿ではなく、私を呼んでほしかったものだが」
「……鳴雪さん?」
まるで以前の鳴雪に戻ったようだ。
そんなふうに感じて、莉々は戸惑った。
先ほどまでの厳しさが嘘のように鳴雪は肩を落とし、消沈した。
「皆から話は聞いた。私は一時とはいえ莉々殿を忘れてしまっていたのだと。生涯の伴侶にと望みながらもなんと不甲斐ない。莉々殿は呆れたであろう?」
鳴雪は、莉々のことを思い出したらしい。こうして語る鳴雪は、莉々の知る鳴雪だった。
もう記憶は戻らないのだろうと、どこかで諦めていた。そのせいか、不意打ちを食らったようなものだ。
心構えがないまま、胸の奥がじわりと熱を持つ。この熱がなんなのか、それは莉々にも説明ができなかった。
悲しかったこと、恐ろしかったことのすべてが冬のようだった。その冬を乗り越えて、あたたかな春が来て、心が色づく花のように開いていく。
言葉に詰まって泣いている莉々に、鳴雪は苦しげに言った。
「けれど、どうか嫌わないでほしい。勝手なことをと思うやもしれぬが……」
それが項垂れた鳴雪の、ささやかな願いだった。
莉々は手を伸ばし、鳴雪の着物の袖をつかんだ。
「嫌ってなんかないよ」
「莉々殿……」
「思い出してくれて、ありがとう」
涙ぐみながら微笑んだ莉々を、鳴雪は力強く抱き締めた。
本当に、いつもの鳴雪だと思ったら、莉々はそんなところまで可笑しくなった。
しかし――
「莉々殿!」
調子に乗って押し倒したため、結果としては驚いた莉々に鳴雪は平手打ちを食らったのだった。
それでも、幸せそうににやけていたけれど。
❖
莉々を伴って宿に戻った鳴雪は、ニコニコと上機嫌だった。
「林火、莉々殿の傷の手当を。伝膏でもなんでも使ってよい。傷を残さぬようにな」
秀真に噛まれた傷のことである。
伝膏というのは秘伝の特効薬なのだが、そんなものが必要な傷ではない。
鳴雪の激甘振りに一同は白けていた。莉々にはそれが恥ずかしい。久々の感覚だった。
「莉々、怖い思いをさせて悪かった」
天が心配そうに言う。
莉々は首を振った。心配をかけてしまったのはこちらの方だ。
「ううん、お兄ちゃんのせいじゃないよ。それに、鳴雪さんが助けてくれたから大丈夫」
その言葉に、鳴雪はデレデレと破顔した。そんな上機嫌の鳴雪に、秀真は恐る恐る言った。
「あの、鳴雪様、私の処遇は……」
鳴雪はすっかり忘れていた様子で、ああ、とつぶやいた。首をかしげて、それからまたニヤニヤし出した。
「んー、何かもう結果だけ見るとよかっ――いやいや、莉々殿に噛みついた件があるな。そこだけは許せぬ」
「そっちか!」
思わず突っ込んだ砕花に構わず、鳴雪は傍らの莉々に目を向けた。
「莉々殿、秀真をどうしたい?」
「ええっ!」
どこまで本気なのかわからないが、鳴雪はそんなことを言う。莉々は困惑するばかりだった。
秀真は意を決したようにまぶたを閉じる。狸の耳を震わせている秀真が可哀想になった。
「秀真さんはもう砕花さんにたっぷり怒られたし、わたしからこうしてほしいっていう罰はないよ。でも――」
秀真は途切れた言葉の先を、恐る恐るまぶたを持ち上げて待つ。莉々は警戒心を解かないままの秀真に笑顔を向けた。
「できるなら、仲良くしてくれると嬉しいけど。罰というよりもお願い。駄目かな?」
「莉々は甘いな」
呆れたように水巴が言った。けれど、その声はどこか嬉しそうだった。
秀真はおずおずとつぶやく。
「許すのか、私を?」
「うん、これからよろしくね」
そう言って差し出した莉々の手を、秀真はじっと見つめた。そうして、壊れ物を扱うようにそっと触れる。
「すまなかった……」
「もういいよ、怒ってないから」
手を握ると、少し前までの毛を逆立てた様子はどこへやら。秀真はほんのりと頬を染め、眼を潤ませている。
「ん?」
鳴雪はそこで眉根を寄せた。
林火がクスリと笑う。
「秀真、鳴雪様の気持ちが身に染みてわかるようになったみたいだねぇ」
「なるほど、ではもう人間であるから駄目だとは言わぬな」
砕花も意地悪く笑っている。
「人間に焦がれることがあるのかなどとは愚問であった……」
ぼんやりとつぶやきながらも莉々の手を離さない秀真だったが、鳴雪が秀真の手を手刀で払った。そして、莉々の肩を抱いて秀真から遠ざける。
そういえば、鳴雪はヤキモチ焼きであった。
「では、そういうことだ。今後も励めよ」
言葉は優しいが、鳴雪のこめかみに青筋が浮いていた。
天が深々とため息をつく。今日はもう、うるさいことを言う気力もないのかもしれない。
「これであとは四匹だ。青畝、普羅、月斗、利玄、次に合流できるのは誰だろうか」
水巴がそんなことを言った。
「青畝は普羅の次だ。また逃げられては敵わぬからな」
と、砕花は苦々しく顔をしかめる。
「利玄はどこかの縁側で茶でも飲んでいるのではないか?」
秀真も首を傾げつつ言う。
「おじいちゃんなのっ?」
莉々が驚いて訊ねると、鳴雪はうなずいた。
「うむ。先代の隠神刑部狸の時から百匹頭を勤める老体だ」
「古狸をこき使うなと言ってはすぐに休む」
砕花もその口振りからするに、持て余しているのかもしれない。
「……変なのばっかりだな」
思わずつぶやいた天は、狸たちに睨まれる。
しかし、気持ちはわからなくもないと莉々も思ってしまった。それを笑ってごまかす。
「どうする? あてがないなら船にでも乗ってみるか?」
砕花の提案に、莉々は驚いた。この世界でも海に出ることがあるらしい。
大昔から船は人によって作り出され、海を渡ってきた。それを思えば、人よりも力のあるあやかしたちが海に出られないはずもなかった。
林火は楽しそうに声を弾ませる。
「おや、島へ渡るのかい?」
「向こうに誰かがいないとも限らないからな。一度行ってみるのもいいんじゃないか?」
船。船旅。
しかし、莉々も天もそれほど船に乗った経験はない。二人は顔を見合わせた。
そんな二人の不安を感じ取ったのか、鳴雪は言う。
「難破することがないとは言わぬが」
「言えよ、そこは!」
「いやいや、したとしても我らの力があればどうとでもなるのでな、心配は要らぬということを言いたかっただけなのだ」
本当だろうか。本当であると思いたい。
「よし、じゃあ次の目的地は港だな」
大きく伸びをして砕花は振り返る。
「海かぁ」
莉々はなんとなくつぶやいた。
不安がないわけでもないけれど、少しだけ楽しみな気もした。
莉々に向け、鳴雪はそっと微笑む。莉々も微笑んで返した。
たったそれだけの些細なことが、とても嬉しく感じられたのだった。
❖
緑深き山の中、獣の声がこだまする。
夏の短き夜に、その獣は何を求めて鳴くのだろうか。
獣の声は哀切に響き渡る――
【 伍・忘却香 ―了― 】