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パラレル808  作者: 五十鈴 りく
伍・忘却香
25/46

伍 ~五~

 莉々(りり)がこの混在世界に迷い込んでから、危険なことはたくさんあった。その都度、鳴雪(めいせつ)(てん)が助けてくれた。

 けれど今は、声が出ないほどの恐怖を感じている。


 莉々は秀真(ほずま)に噛まれた傷を押えながら庭園の片隅で泣いていた。感情に整理がついたら皆のところに戻るつもりだった。

 一度吐き出してしまわないと、鳴雪の前で普通に振舞える自信がなかったのだ。

 うずくまって涙を零していると、背後から大きな影が落ちた。直立した影はまるで熊のように見えて、莉々はギクリとして振り返った。


 そこに二本足で立っていたのは、熊のように大きな猿だった。毛はべっとりと固まっていて、なんとも言えない強いにおいがする。

 この宿の働き手は猿だった。けれど、あの猿たちのように愛嬌があるわけではなく、ただひたすらに恐ろしい。

 あの猿たちには知性があったのに、この大猿は知性の代わりに図体が発達したような印象だった。


 慌てたあまりその場に尻餅をついてしまった莉々に、猿の長い手が伸びた。猿の手が莉々の首をつかんで引き寄せる。汗ばんだ手の感触に、莉々は震えた。

 顔を寄せられ、息がかかる。思わず顔を背けた。そんな莉々の体を、大猿は軽々と担ぎ上げる。

 この時から、体が強張って悲鳴すら上げられなかった。


 大猿は、その巨躯からは考えられないような軽やかさで跳んだ。ひと跳びで庭園の塀を越える。

 着地する時もほとんど音がしない。しなやかな動きだった。

 どこへ連れていかれるのかもわからない。障害物を飛び越えていく大猿に連れられ、まるでジェットコースターに乗っている感覚だった。莉々は気を失いそうになって、半分以上は目を瞑っていた。


 それでも、大猿が木に登り、岩を蹴り、高い場所へ登っていることだけはわかった。

 ようやく大猿が莉々を下ろした。そこは剥き出しの岩肌で、突き飛ばすような乱暴な下ろし方が痛かった。

 そこはどうやら崖の一角だった。崖の窪んだ場所にいる。一歩踏み間違えれば崖下にまっさかさまである。

 莉々は恐ろしくて真下を見る勇気がなかった。なるべく岩壁に背中を擦りつけて落ちないようにした。


 この場に辿り着ける者がいないことと、莉々が逃げ出せないことを確信したのか、猿は一度単独でそこから下りていった。

 一人になった莉々は、涙を堪えきれずに呻いた。


「助けて……」


 皆からどれくらい引き離されただろうか。空が近く感じられる。

 浮かぶ顔は、いつも駆けつけてくれる鳴雪だった。けれど――

 莉々はかぶりを振る。もう、鳴雪を頼ってはいけない。

 今の鳴雪にとって、莉々の危機はそれほど大事(おおごと)ではないのだ。駆けつけてくれると思ってはいけない。


 期待してしまえば、あとで余計に苦しくなる。それとも、あとなどないのだろうか。

 ここで食われておしまいなのかもしれない。

 それなら、鳴雪ともう一度顔を合わせることもない。そう思うと、ひどく寂しいことのように感じられた。

 忘れられてしまって、会うのは怖いけれど、それでも会いたい気持ちもある。

 今までありがとう、と礼のひとつくらいは言って別れたかった――


 

 莉々が置き去りにされ、小一時間くらいが経過した頃だろうか。

 泣き疲れた頭でぼんやりとしていると、あの大猿が戻ってきた。


「あ……お、お兄ちゃん」


 呼べるのは天のことくらいだった。それでも、声が震える。

 後ずさりしようにも後ろは岩壁で、下がるところもなかった。大猿の手が伸び、莉々の手をつかもうとする。ヒッと声を上げて莉々がそれを避けると、大猿の手は莉々の袂をつかみ、力任せに引いた。莉々の着物の袖が肩の辺りから破れ、袖が引きちぎられる。


「あ、あ……」


 怯え、呻くことしかできなかった。

 そんな莉々に覆いかぶさるようにして大猿が近づく。息遣いが聞こえるほどに間が狭まった時、大猿の背後に青白い炎が浮かび上がった。


 ぽぅ、とひとつ。またひとつ。

 大猿を囲み、炎が揺らめく。

 あれは、狸の火だった。


 莉々がその狸火に目を向けると、大猿は背後を振り返り、威嚇するようなシャーという声を立てた。崖の縁には、さっきまではなかったはずの人影がある。いつかのように空間を飛び越えでもしたのか、涼しい顔でそこに立っていたのは鳴雪だった。


 涼しい顔という表現は適切ではない。凍てつくような面持ちだった。莉々がその顔を見ても、とても安堵できたものではなかった。

 大猿は突然の闖入者に飛びかかる。

 けれど、その爪が鳴雪に食い込むことはなかった。鳴雪はただのひと睨みで大猿の腕を折った。

 あれは妖力のなせる業なのだろうか。あり得ない方向に曲がった腕を押え、大猿が唾を撒き散らかして絶叫している。

 鳴雪のまとうドロリとした妖力が莉々の目にも見えるようだった。


 それでも、鳴雪は怒りを収めなかった。狸火で大猿の毛を燃え上がらせる。

 大猿は叫び、悶えるけれど、その火は莉々にとってはまったく熱を持っていなかった。踊るようにその狭い場所で暴れた大猿は、そのまま転落した。莉々は耳を塞ぎ、大猿の断末魔を必死で頭から追い出す。

 今回ばかりは可哀想だと思うゆとりもなかった。

 耳を塞いでいても、鳴雪が吐き捨てるようにつぶやいた声だけは不思議と聞こえた。


経立(ふったち)風情が」


 その憎々しげな様子から、あの大猿は鳴雪の敵であり、討伐ついでに莉々を助ける形になったのだと思えた。今の鳴雪は、莉々のためにわざわざやってきたりはしない。

 疲れてぐったりと岩肌にもたれていた莉々に、鳴雪が歩み寄る。結果として助けてもらったのだから、礼を言わなければと莉々が頭を整理しかかった時、鳴雪は莉々の前に膝を突いた。そうして、痛々しく顔を歪めた。


「天殿ではなく、私を呼んでほしかったものだが」

「……鳴雪さん?」


 まるで以前の鳴雪に戻ったようだ。

 そんなふうに感じて、莉々は戸惑った。

 先ほどまでの厳しさが嘘のように鳴雪は肩を落とし、消沈した。


「皆から話は聞いた。私は一時とはいえ莉々殿を忘れてしまっていたのだと。生涯の伴侶にと望みながらもなんと不甲斐ない。莉々殿は呆れたであろう?」


 鳴雪は、莉々のことを思い出したらしい。こうして語る鳴雪は、莉々の知る鳴雪だった。

 もう記憶は戻らないのだろうと、どこかで諦めていた。そのせいか、不意打ちを食らったようなものだ。

 心構えがないまま、胸の奥がじわりと熱を持つ。この熱がなんなのか、それは莉々にも説明ができなかった。


 悲しかったこと、恐ろしかったことのすべてが冬のようだった。その冬を乗り越えて、あたたかな春が来て、心が色づく花のように開いていく。

 言葉に詰まって泣いている莉々に、鳴雪は苦しげに言った。


「けれど、どうか嫌わないでほしい。勝手なことをと思うやもしれぬが……」


 それが項垂れた鳴雪の、ささやかな願いだった。

 莉々は手を伸ばし、鳴雪の着物の袖をつかんだ。


「嫌ってなんかないよ」

「莉々殿……」

「思い出してくれて、ありがとう」


 涙ぐみながら微笑んだ莉々を、鳴雪は力強く抱き締めた。

 本当に、いつもの鳴雪だと思ったら、莉々はそんなところまで可笑しくなった。

 しかし――


「莉々殿!」


 調子に乗って押し倒したため、結果としては驚いた莉々に鳴雪は平手打ちを食らったのだった。

 それでも、幸せそうににやけていたけれど。



     ❖



 莉々を伴って宿に戻った鳴雪は、ニコニコと上機嫌だった。


林火(りんか)、莉々殿の傷の手当を。伝膏でもなんでも使ってよい。傷を残さぬようにな」


 秀真に噛まれた傷のことである。

 伝膏というのは秘伝の特効薬なのだが、そんなものが必要な傷ではない。

 鳴雪の激甘振りに一同は白けていた。莉々にはそれが恥ずかしい。久々の感覚だった。


「莉々、怖い思いをさせて悪かった」


 天が心配そうに言う。

 莉々は首を振った。心配をかけてしまったのはこちらの方だ。


「ううん、お兄ちゃんのせいじゃないよ。それに、鳴雪さんが助けてくれたから大丈夫」


 その言葉に、鳴雪はデレデレと破顔した。そんな上機嫌の鳴雪に、秀真は恐る恐る言った。


「あの、鳴雪様、私の処遇は……」


 鳴雪はすっかり忘れていた様子で、ああ、とつぶやいた。首をかしげて、それからまたニヤニヤし出した。


「んー、何かもう結果だけ見るとよかっ――いやいや、莉々殿に噛みついた件があるな。そこだけは許せぬ」

「そっちか!」


 思わず突っ込んだ砕花に構わず、鳴雪は傍らの莉々に目を向けた。


「莉々殿、秀真をどうしたい?」

「ええっ!」


 どこまで本気なのかわからないが、鳴雪はそんなことを言う。莉々は困惑するばかりだった。

 秀真は意を決したようにまぶたを閉じる。狸の耳を震わせている秀真が可哀想になった。


「秀真さんはもう砕花さんにたっぷり怒られたし、わたしからこうしてほしいっていう罰はないよ。でも――」


 秀真は途切れた言葉の先を、恐る恐るまぶたを持ち上げて待つ。莉々は警戒心を解かないままの秀真に笑顔を向けた。


「できるなら、仲良くしてくれると嬉しいけど。罰というよりもお願い。駄目かな?」

「莉々は甘いな」


 呆れたように水巴(すいは)が言った。けれど、その声はどこか嬉しそうだった。

 秀真はおずおずとつぶやく。


「許すのか、私を?」

「うん、これからよろしくね」


 そう言って差し出した莉々の手を、秀真はじっと見つめた。そうして、壊れ物を扱うようにそっと触れる。


「すまなかった……」

「もういいよ、怒ってないから」


 手を握ると、少し前までの毛を逆立てた様子はどこへやら。秀真はほんのりと頬を染め、眼を潤ませている。

 

「ん?」


 鳴雪はそこで眉根を寄せた。

 林火がクスリと笑う。


「秀真、鳴雪様の気持ちが身に染みてわかるようになったみたいだねぇ」

「なるほど、ではもう人間であるから駄目だとは言わぬな」


 砕花も意地悪く笑っている。


「人間に焦がれることがあるのかなどとは愚問であった……」


 ぼんやりとつぶやきながらも莉々の手を離さない秀真だったが、鳴雪が秀真の手を手刀で払った。そして、莉々の肩を抱いて秀真から遠ざける。

 そういえば、鳴雪はヤキモチ焼きであった。


「では、そういうことだ。今後も励めよ」


 言葉は優しいが、鳴雪のこめかみに青筋が浮いていた。

 天が深々とため息をつく。今日はもう、うるさいことを言う気力もないのかもしれない。


「これであとは四匹だ。青畝(せいほ)普羅(ふら)月斗(げっと)利玄(りげん)、次に合流できるのは誰だろうか」


 水巴がそんなことを言った。


「青畝は普羅の次だ。また逃げられては敵わぬからな」


 と、砕花は苦々しく顔をしかめる。


「利玄はどこかの縁側で茶でも飲んでいるのではないか?」


 秀真も首を傾げつつ言う。


「おじいちゃんなのっ?」


 莉々が驚いて訊ねると、鳴雪はうなずいた。


「うむ。先代の隠神刑部狸いぬがみぎょうぶだぬきの時から百匹頭を勤める老体だ」

「古狸をこき使うなと言ってはすぐに休む」


 砕花もその口振りからするに、持て余しているのかもしれない。


「……変なのばっかりだな」


 思わずつぶやいた天は、狸たちに睨まれる。

 しかし、気持ちはわからなくもないと莉々も思ってしまった。それを笑ってごまかす。


「どうする? あてがないなら船にでも乗ってみるか?」


 砕花の提案に、莉々は驚いた。この世界でも海に出ることがあるらしい。

 大昔から船は人によって作り出され、海を渡ってきた。それを思えば、人よりも力のあるあやかしたちが海に出られないはずもなかった。

 林火は楽しそうに声を弾ませる。


「おや、島へ渡るのかい?」

「向こうに誰かがいないとも限らないからな。一度行ってみるのもいいんじゃないか?」


 船。船旅。

 しかし、莉々も天もそれほど船に乗った経験はない。二人は顔を見合わせた。

 そんな二人の不安を感じ取ったのか、鳴雪は言う。


「難破することがないとは言わぬが」

「言えよ、そこは!」

「いやいや、したとしても我らの力があればどうとでもなるのでな、心配は要らぬということを言いたかっただけなのだ」


 本当だろうか。本当であると思いたい。


「よし、じゃあ次の目的地は港だな」


 大きく伸びをして砕花は振り返る。


「海かぁ」


 莉々はなんとなくつぶやいた。

 不安がないわけでもないけれど、少しだけ楽しみな気もした。

 莉々に向け、鳴雪はそっと微笑む。莉々も微笑んで返した。

 たったそれだけの些細なことが、とても嬉しく感じられたのだった。



     ❖



 緑深き山の中、獣の声がこだまする。

 夏の短き夜に、その獣は何を求めて鳴くのだろうか。

 獣の声は哀切に響き渡る――


     【 伍・忘却香 ―了― 】


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