伍 ~四~
天は鳴雪のいる部屋に戻った。
すると、戸の前に砕花が立っていた。何故中に入らないのかと思えば、砕花は襖を少しだけ開けて中の様子を見せた。そこではおかしな光景が繰り広げられている。
座敷で鳴雪と林火が向かい合っていた。どうやら、鳴雪が林火に説教されているようだ。
「――だから、何度も言いますけど、そう簡単に忘れてもらっちゃぁ困るんですよ」
「そう言われてもなぁ。林火、そろそろ勘弁してはもらえぬだろうか?」
ほとほと困り果てた様子の鳴雪に、それでも林火は容赦がない。ペシリと畳を叩く。
「怪しげな秘薬か何かなのかもしれませんよ。でも、想いの力があればどうとでもなるんじゃございませんかね? あれじゃあ莉々ちゃんが可哀想ですよ」
「想いと言われても、身に覚えがな――」
そこで鳴雪が黙ったのは、林火がものすごい形相で睨んだせいだろう。砕花は嘆息すると襖を閉めた。
「さっきからずっとこの調子だ」
鳴雪が悪いとは言い難いけれど、可哀想だとも思えなかった。
天は鳴雪に莉々を任せたいわけではない。こうなったからには認める必要もないということだ。
秀真以外の狸たちは思い出させたいと思うようだが、天はもういいという気になっていた。
すると、砕花は眉間に皺を寄せ、つぶやく。
「莉々に林火の手当てを受けろと言ったが、あんな話をしていたのでは入りづらかっただろう。林火に声をかけず、その辺をうろついているかもしれないな」
砕花の言う通りだろう。莉々の性格ならそうする。
そう考えたら、天は余計に腹が立った。
莉々だけが痛みに耐え、鳴雪はそれを知らずにのうのうと過ごしているのだから。
天は襖をスパン、と勢いよく開く。鳴雪も林火も動じてはいなかった。むしろ鳴雪は林火の小言から解放されると思ったのか、顔が笑っていた。
その能天気さに苛立ちながら、天は低く言った。
「莉々が秀真に噛まれた。手当をしてやってくれ」
「ええっ! また秀真なのね、ほんとにあの子は……」
林火は冷ややかに目を細めた。いつもは朗らかな林火だが、今回のことでは砕花同様に怒っているようだ。
砕花と林火は、莉々と旅をした期間が長いせいかもしれない。
「秀真がな。何があったのかは知らんが、それはいかんな。私からも叱っておこう」
やや真剣な顔をした鳴雪を天がギロリと睨んだので、鳴雪はわけもわからないままに慌てていた。そんな鳴雪を放置し、林火は立ち上がる。
「莉々ちゃんは今頃、隠れてどこかで泣いてるんじゃないかしらねぇ」
「……それでも、傷の手当だけは頼む」
「はいな。それくらいしかしてあげられないものねぇ」
鳴雪一匹を部屋に残し、襖を閉めた。
すると、廊下を水巴が歩いてきた。手の平には小さな金物の壺のようなものを載せている。
水巴は砕花に向け、それを差し出した。
「秀真から受け取った。旅先で野犬に襲われていた老婆を助けて礼にともらったものだそうだ。この香の香りを嗅がせながら暗示をかけると、その相手は大事なものを忘れてしまう効果があるという……」
これは香炉らしい。砕花が香炉を受け取り、上の蓋を開けると、中には灰が残っているだけだった。
手掛かりになるかもしれないけれど、天はもとより砕花たちでさえ、これだけではなんとも言えないようだった。
林火がぼやく。
「こんな時、月斗がいれば手っ取り早いのにねぇ」
「あいつは妖しの術には精通しているからな」
月斗というのは、百匹頭狸の一匹だろう。また一癖ありそうだが、今はそんなことを言っている場合ではない。
砕花は香炉の蓋を閉じると、それをフッと消してしまった。力を使ってどこかに片づけたのだろう。
それから、林火に向かって言う。
「鳴雪の記憶を戻す方法を探すため、俺はしばらく別行動を取る。なるべく早く合流できるといいが」
そのひと言に林火は眼鏡の下の目を大きく見開いた。
けれど、次の瞬間にはどうにかして笑った。
「そう。じゃあ、その間、あたしも頑張るからね」
行くなとは言わない。笑って送り出そうとする。こうしたところが林火は大人だ。
無言でうなずいた砕花も、そんな林火を頼もしく感じているのではないだろうか。
「さて、それはそうと、まずは莉々ちゃんを探さなくちゃね」
「莉々がいないのか?」
そこで水巴がギクリとした。莉々がショックのあまり飛び出したとでも思ったのだろう。
「俺に黙って出ていったりしない。宿の中にはいるはずだ」
天がそう言うと、水巴は幾分ほっとした様子だった。
ここは莉々にとって馴染みのない、それも妖怪が出てくる世界なのだ。迂闊に一人で外へ出たりしない程度の分別はある。
ここはそれほど広い宿ではない。莉々が隠れていたとしてもすぐに見つけられるだろう。
そうして、天と砕花、林火と水巴に分かれて探すことにした。男女別れたのは、風呂に行っている可能性もあるからだ。林火と水巴には風呂場を見に行ってもらったのである。
天は途中、庭園に目を向けた。するとそこで、砕花が顔をしかめた。
「血のにおいがする。莉々のもののようだが……」
それならば、この庭園に隠れているのか。もしくは、莉々が血を落としただけなのか。
天は狸たちほど鼻が利くわけではない。においだけではとても辿れない。
そこで砕花は難しい面持ちのまま首を傾げる。
「別のにおいが混ざっていて判別しにくいな。猿のにおいだ」
「そりゃ、猿だらけだからな、ここ」
何せ、猿が営む宿なのだから、そのにおいは仕方がない。
しかし、砕花は不思議そうにつぶやく。
「猿と、あと、松脂のような鼻を突くにおいがする」
「松脂?」
天にも馴染みのないものなので、松脂と言われてもピンと来ない。この宿のどこかで何かに使っているのだろうか。
とりあえず、天は庭園に下りた。木や茂みの裏に莉々がいないか捜していく。
その時、正方形に畳まれた小さな布が落ちていた。その布には乾きかけの血がついていた。天はとっさにそれを拾い上げる。
木綿の布は、ハンカチのようだ。この世界の人間は基本、てぬぐいを使っている。この大きさの布を持ち歩くことはほぼない。前も莉々が林火に頼んで妖力で出してもらっていた。まず、莉々のものだろう。
けれど、そこに莉々はいない。
「莉々……」
この時になって、天は急に不安になった。砕花もかぶりを振る。
「駄目だ。においでは辿れない」
かくれんぼが上手だと言うべきなのか。色々なにおいが入り混じってしまっているのは、莉々が画策したことではないだろうけれど、それのせいでにおいが途切れているように感じられるらしい。
仕方なく、天と砕花は足を使って宿の中を捜す。
玄関先に出ると、秀真が柳の木の根元でまだ呆然としていた。膝を抱えている辺り、拗ねているのか、反省しているのかのどちらかだろう。
天はそんな秀真に近づき、言った。
「おい、莉々がこっちに来なかったか?」
「え?」
秀真はビクリと驚いて顔を上げた。そうして、怯えた様子で首を大袈裟なくらいに振った。
「私はずっとここにいた。こっちには来ておらん」
このタイミングで林火と水巴が合流する。
「天! 風呂にもいなかったぞ」
水巴が不安げに言う。
天は言葉もなく呻いた。ただ一人の妹だ。なんと言われようとも離れるべきではなかったと後悔してしまう。
秀真はただ青ざめていた。もともと、直情的ではあるものの、気は小さいのかもしれない。
顎に指の節を当てて考え込んでいた砕花がポツリと言う。
「猿に訊ねてみるか」
宿で働いている猿だ。何かを知っていてもおかしくはない。
忙しそうに動き回る、袢纏を着た猿をつかまえて皆で囲むと、猿はうひぃと叫んで恐れおののいた。
「すまない。少し訊ねたいことがあるだけだ」
水巴がそっと言うと、猿はきょどきょどと皆を見回し、それからひとつ息をついて言った。
「なんでござんしょ?」
「我らの連れの娘を見なかったか? 人間の娘だ」
砕花がそう訊ねると、猿は急に跳ねた。なんともわかりやすい。
「に、人間の?」
「そう。浅葱色の着物に黒髪の若い娘だよ」
林火が補足すると、猿は手の指を口に突っ込み、あわあわと言い出した。
「い、いないので?」
「いないから訊ねてるんだ」
苛立った天が強い口調で言うと、驚いた猿はきゃん、と鳴いた。
「そ、それはもしかするとあれでございますよ。ほら、その、ねえ――」
明らかに時間を稼ごうとしている猿を、天がさらに凄む。
「早く言え」
「へい……」
しょんぼりとして、猿は渋々語り出す。
「永い年月を生きた動物は『経立』と呼ばれるものになります。この私もそうなのですが……時折、悪さをする輩もおりましてね、そいつらは人里から人間の娘を盗み去ることがあるようでして……」
皆がそろってギクリと体を強張らせた。猿は慌てて言う。
「あ、いえ、まだそうと決まったわけでは……。そうした輩は簡単に討伐されないように、体の毛を松脂と砂を使って固めて、刀も通らない鎧のように硬くしたりするのですが――」
それを聞いた瞬間に、天は絶望した。
ここへ来て、あの庭に残っていたにおいが繋がるとは――
天が認めたくなかったことを、砕花が押し殺した声で言った。
「莉々の血がついた布が落ちていた場所で、松脂のにおいがした……」
❖
天たちが皆、莉々の身を案じて慌てていた頃、鳴雪は部屋で横になり、肘をついてすやすやと眠っていた。一応事情を伝えに戻った皆がそれを目にした途端、天の中で何かが切れた。
それを狸たちはすぐに察知した。
「て、天、今は堪えろ」
水巴がとっさに天の袖を引いた。こんな時まで庇ってやらずともいいものを。
しかし、その天に代わり、砕花がつま先で鳴雪の頭を蹴る。手加減はあまりしていなかったように見えた。
「起きろ」
低く凄むと、鳴雪は大慌てで起き上がった。
「な、なんだ? 何事だ?」
「この状況下で昼寝か」
ここへ来てようやく、天から尋常ではない威圧感が流れ出ていることを察知したようで、鳴雪は顔を引きつらせた。
「て、天殿、どうしたのだ?」
そののん気な顔に、天は怒りをぶちまけた。
「どうしたもこうしたもない! 莉々がいないんだ! 今のお前にはどうでもいいことかもしれないけどな!!」
鳴雪はぽかんと口を開け、それからつぶやく。
「莉々殿が……いない?」
砕花が疲れた様子でため息をついた。
「猿の経立の仕業らしい。どこに連れ去られたのかはわからぬが、あいつらは人間の娘を好むそうだ」
その言葉に、天がゾクリと身震いする。今、莉々がどれほど心細い思いをしているのかを考えると、いても立ってもいられない。
鳴雪は急に立ち上がった。そうして、吟じるように澄んだ声で言う。
「我が眷属たちよ、ヒトの娘を連れた猿の経立を探し出すのだ。八百八狸の名に恥じぬ働きを見せよ!」
砕花、林火、水巴、秀真、四匹が引き連れる妖狸の数は四百。ここで四百四匹、半数がそろっているのだ。その四百匹が長の声に呼応し、百匹頭たちの袂から赤く眼を輝かせて飛び出す。部屋の中が狸の獣臭さに染まった。天は呆然と鳴雪を見る。
それは、大妖隠神刑部狸としての顔だった。厳しい面持ちは整った顔を際立たせ、眼がうっすらと妖しく光る。
「経立ごときが……」
そう零した鳴雪の様子に、皆がゾクリと肌を粟立てた。それほどまでに、いつものおどけた様子とはかけ離れていた。
狸たちは長の怒りを感じ取ったのか、飛ぶようにして散った。経立が探し出されるのも時間の問題だろう。そう疑いもなく思えた。
砕花は怪訝そうに訊ねる。
「鳴雪、お前、もしかして莉々のことを思い出したのか?」
すると、鳴雪はゆとりのない強張った顔で眉根を寄せた。
「思い出すとは? 私がどうして莉々殿を忘れるのだ?」
皆が唖然とするひと言だった。
「いや、あの、現に……」
忘れていましたよ、という言葉を狸たちは飲み込んだようだ。秀真はただ震えていた。
出所の怪しい香の効力は、大妖である鳴雪に対して一日ももたない程度であったのだ。そんなことを知らない皆は、結果として踊らされてしまった。
それでも、天は納得がいかなかった。
その程度の効力ならば、それこそ気の持ちようでどうにかならなかったのかと。莉々への気持ちはその程度かと。
厳しい目を鳴雪に向けると、鳴雪は天の視線を静かに受け止めた。
けれど、その意味を理解してはいない。天は噛みつくように言った。
「お前のせいじゃないのかもしれないけどな、お前は莉々を忘れて冷たい態度を取った。そのせいで莉々は傷ついてた。それだけは知っておけ」
「私が?」
これには鳴雪の方が傷ついた顔をした。それこそ、身に覚えもなく、寝耳に水なのだろう。
その時、秀真は畳に額を擦りながら土下座した。
「わ、私がいけないのです! 私が勝手に行ったこと。百匹頭の任を解かれても仕方がないほどの愚行です。どうか処罰を――」
鳴雪はきっと、まだ混乱していた。それでも、秀真が何かをして、自分が莉々を忘れ去っていた時間があったことだけは呑み込んだのだろう。
しかし、ゆるくかぶりを振った。
その仕草には先ほどまでの力がなかった。
「今はそうした話をしている場合ではない」
それから、鳴雪は放った妖狸たちが戻るまでひと言も口を利かなかった。
誰も声をかけられないほどに張り詰めた空気をまとって、鳴雪は口を閉ざした――