伍 ~三~
チュンチュンと雀の鳴く声で莉々は目を覚ました。寝ぼけ眼を擦り、上半身を起こして大きく伸びをする。ちらりと見遣ると、林火と水巴はまだ眠っていた。
眠る二匹を眺めてぼんやりと思う。
二匹とも、こうして改めて見ても綺麗だ。林火は砕花以外には興味がないので仕方がないにしても、水巴はどうだろう。
こんなに綺麗な娘がそばにいて、自分に仕えてくれているのだから、鳴雪は水巴のことを好きになったりはしなかったのだろうか。忠義につけ入るようで嫌だと思えたのだろうか。
それとも、妹のような存在だから、そういう対象として見ていなかったと。
鳴雪の考えはよくわからない。どうして、人間の莉々を選ぶのか――
そんなことを考えているうちに二匹も目覚めたので、皆で着替える。
林火が妖力で新しい着物を出してくれた。莉々の分は、爽やかな浅葱色に白抜きの雛菊が可愛らしい。
「うん、似合う似合う」
林火はくるりと回って見せた莉々にうなずく。
「赤もきっと似合う。今度は赤にするといい」
水巴は朱の着物だ。赤が好きなのかもしれない。水巴には華やかな色がよく似合っている。
林火はコロコロと笑った。
「鳴雪様、なんて言うかしらねぇ。きっと、聞いているこっちが砂を吐いちまうような言葉で褒めちぎるんだろうねぇ」
そう言われると、莉々の方が恥ずかしくなった。
鳴雪は誰がいようとお構いなしなところがある。二人きりでも恥ずかしいのに、困ったものだ。
あれやこれやと女性たちは身支度に手間取るが、男性陣の支度は短い。あまり待たせてもいけないだろう。
莉々たちは隣の襖を開いた。
「おまたせ」
林火と水巴との間に、莉々は浅葱色の着物姿で立つ。
「遅かったな」
天はせっかちなので、待たせてしまったようだ。
「ごめんね、お兄ちゃん」
謝ると、天は優しく笑う。
「新しい着物だな」
「うん、林火さんが出してくれたの」
そこで莉々は恐る恐る鳴雪を見た。静かにしているけれど、今にいつものオーバーリアクションが来るかと身構える。
しかし――
その時の鳴雪の表情は、甘く蕩けるようなものではなかった。ひたすら怪訝そうにしている。
その表情の理由が、莉々にはわからなかった。
すると、鳴雪は口を開いた。
「兄、と? なんだ、天殿には妹御がおったのか? それは初耳だ」
今度は皆が目を点にした。砕花が白けた面持ちになる。
「鳴雪、押して駄目なら引いてみるとか、それは駆け引きのつもりか?」
「砕花? 意味がわからぬよ。まあ、天殿の妹御なら挨拶をせねばな」
ニコニコと微笑むと、鳴雪は莉々の前で立ち止まった。その表情は、『天の妹』を見る友好的なものだった。
逆にいうならば、それだけであった。
「私は鳴雪と申すのだが、おぬしの名はなんと申す?」
「え、あの……」
「鳴雪様ったら、悪趣味ですよぅ。ますます嫌われても知りませんからね」
と、林火も少し冷ややかになる。
誰もが戸惑っていた。けれど、そんな中、秀真だけが――笑っていた。
戸惑う莉々のそばで水巴が震えた。カッと目を見開き、着物の裾も気にせずに秀真の方に駆け寄り、その胸倉をつかむ。
「秀真!!」
水巴の急な激昂に皆が唖然とするも、秀真は何故怒られるのか心当たりでもあったのだろうか。秀真は水巴から目をそらし、手を振り解こうとする。水巴はそんな秀真をさらに揺さぶった。
「お前の仕業か! 答えろ!!」
その剣幕に、鳴雪が驚いていた。
「水巴、どうした? 秀真が何かしたのか?」
その問いには、誰も答えなかった。誰も答えられない。
ただ、砕花はスッと目を細めると、いつもよりも数段低い声で言った。
「……秀真、少し事情を訊かせてもらう。こちらへ来い」
激しく声を荒らげるよりも威圧感がある。砕花は百匹頭の中で鳴雪が最も信頼している狸である。秀真も逆らえないのだろう。
言葉に詰まり、秀真は悄然として砕花に連れられて出ていった。その後を水巴が追う。
残された莉々と天、鳴雪、林火の四人はひどく居心地の悪い空間に無言で耐えた。
どうやら、鳴雪が莉々に初対面のような態度を取るのは、ふざけているわけではないらしい。そしてそれは、秀真によって画策されたことなのかもしれない。力のある妖狸である鳴雪に対し、秀真がどのようにしてことを行ったのかもわからない。
わからないことだらけだった。
そんな中、沈黙を破ったのは天だった。
「鳴雪、莉々のことがわからないなら、どうして俺のことは認識しているんだ?」
今、一番状況がわからないのは、当事者である鳴雪なのだ。彼はひどく難しい顔をした。
「皆、そろいもそろって何を言っておるのだ? 天殿は封印を解いた霊力を持つ御仁。我が眷属を集めるために協力してくれるようになったが、出会った時から天殿は一人であったではないか。妹御と私が顔を合わせたのは今が初めてだ」
困惑した様子で莉々を見る鳴雪の眼は、本当に他人を見る目つきだった。
莉々は具合が悪くなってきた。グラグラと頭が重たく感じられる。
「鳴雪様ってば、本当にどうしちまったんです?」
林火が鳴雪と莉々とを心配そうに見遣る。鳴雪は少しだけムッとした様子だった。
「どうもしない。私がこの『りり』という娘のことを忘れてしまったとでも言いたいのか?」
名前を呼ぶ鳴雪の声が冷ややかだ。そのことが、さらに莉々を苛む。
「そうですよぅ。莉々ちゃんのこと、思い出してくださいな。あんなに大好きだったじゃないですか」
そんなことを言った林火の言葉を、鳴雪は冗談として受け止めたようだった。
「大好き? なんだそれは?」
クスクス、と笑う声に莉々は耐えられなくなってうつむいた。
「あの、すいません、無理……しなくていいです」
ポツリ、とそんな言葉が口を衝く。莉々はいたたまれなくなって部屋を出た。
「莉々!」
心配そうな天の声が追ってきた。それに追いつかれないように、莉々は足を速める。
色々な感情がせめぎ合い、整理がつかない。
莉々は宿の廊下を抜けた。履物も忘れて足袋のままで表へ出ると、柳の下に三匹がいた。
ただ、その光景に莉々は唖然とした。砕花が柳の幹に秀真を押しつけている。首を片手で締め上げられ、秀真は苦しげに呻いた。
「知ら……ない……」
「まだ言うか」
砕花の細い腕は、濃紫の気をまとっていた。妖力が滲み出している。
普段は流れる風のような砕花だが、今の彼は本気で怒っていることがひしひしと伝わった。
「さ、砕花……」
水巴もどこか怯えた様子で声をかける。砕花は涼しげな目元で鋭く水巴を睨む。
「水巴、お前も共犯ではないだろうな?」
「ち、違う……」
似た者同士の二匹だから、共犯だと疑われてしまったのだろうか。けれど、水巴は莉々と仲良くしてくれている。こんなことに加担したりはしないはずだ。
口ごもった水巴を庇うように、秀真が声を絞り出す。
「水巴は、関係ない」
すると、砕花は再び秀真に目を向けた。
「ならば、やはりお前の仕業だろう? 鳴雪の記憶を勝手に操作するなど、許されることではない。すぐに戻せ」
さらに腕に力がこもる。秀真は朦朧とした様子でこぼした。
「戻し方は、知ら、ない……」
そのひと言に、その場の誰もが愕然とした。莉々を追いかけてきた天も背後で聞いていた。
鳴雪の記憶を秀真が操作し、莉々を忘れるように仕向けた。今、それを認めた。
そのことはわかったけれど、解決策がないという。
莉々は改めてその事実を突きつけられた。
誰かに忘れられてしまうというのは、こんなにも寂しいことなのだ。
もう、思い出してくれることはない。すべてが振り出しだ。
ふと、これでよかったのではないかという気持ちを抱く。
強すぎる想いを怖いと思った。応えきれずに戸惑った。
それらがすべて消えたのだ。これで、当たり障りなく浅いつき合いができる。
そう考えてみてはどうだろうか。
もともと、無理しかなかったのだ。だから、これで――
自らに言い聞かせるようにして考える。そうしなければ、動揺している自分を認めてしまう。
莉々が必死で考えを巡らせていると、秀真は限界だったのか狸の姿になった。砕花の手から滑り落ち、柳の根元に倒れる。それでも砕花は容赦しなかった。
「お前には仕置きが必要だ」
その言葉にハッとし、莉々は駆け出して倒れている秀真を抱き上げた。そうして、膝を突いたまま、砕花に懇願する。
「砕花さん、やり方はよくなかったかもしれないけど、秀真さんは鳴雪さんのことを心配してやったんだよ。もう、このくらいで――」
そう言った途端に、ぐったりとしていた秀真が莉々の手を噛んだ。
「っ!!」
親指のつけ根に鋭い痛みを感じ、莉々は涙を浮かべて秀真を見た。毛を逆立てた秀真は、弱っていても敵意に満ちた目をしていた。そんな秀真の首根っこを砕花がつかんで莉々から引き離した。
砕花は莉々に声をかける。
「莉々、林火に傷を診てもらってこい」
「あ、あの――」
血を滴らせながら口を開いた莉々の言葉を、砕花は拒絶している様子だった。
これは狸たちの間のことで、莉々が口を挟んではいけなかったのだと思い知った。莉々はまだ、浅はかな子供なのだ。
駆け寄ってきた天が莉々の肩を支えて立たせる。
「莉々……」
心配そうな声だった。けれど、莉々を傷つけられた怒りが天の中に渦巻いている。
天までもが秀真に怒りを向けてはいけない。仲間内で争うのは嫌だ。
莉々はとっさにそう思って笑ってみせた。
「大丈夫だから、お兄ちゃんまで怒らないで。秀真さん、もう十分苦しそうだから」
そうした時、ふと天の視線が水巴に止まった。水巴にとっても今回のことは相当にショックだったのだろう。
呆然と青ざめて、今にも倒れそうに見えた。莉々はそっと天に耳打ちする。
「お兄ちゃん、水巴さんも心配。わたしは林火さんに診てもらってくるから、お兄ちゃんは水巴さんについてて?」
「莉々……」
戸惑う天に、莉々はさらに言った。
「それから、できれば砕花さんのことも宥めてほしいの。仲間同士だもん、喧嘩してほしくないよ……」
争いを嫌う莉々の性根を知るからこそ、天は心配しつつもうなずいた。
「わかった。早く止血してもらえ」
「うん」
そうして莉々は懐から林火に頼んで作ってもらったハンカチを取り出すと、廊下を汚さないように傷口を押えた。
再び宿の中に入ると、莉々はようやくほっと息がつけた。
そのまま素直に部屋に戻ることはせず、庭園へ抜けた。その庭の茂みに身を潜めると、ポロポロと涙が溢れる。
一人になったと気が抜けた途端、込み上げてくるものがあった。
嗚咽を噛み殺しながら、疼く手を押える。喉も頭も、感情に締めつけられて痛んだ。
焼けつくほどにあちこちが痛いのは、悲しいからだ。もう二度と、鳴雪が以前のような親しみを向けてくれることはない。
しつこいくらいに好きだとささやかれることも、苦しいほど抱き寄せられることもない。
再び同じ感情が芽生えることはないと、あの目を見ればわかる。
それを悲しく思うのは、勝手かもしれない。気持ちに答えるつもりがあったわけではないくせに、離れていくことを嘆くなんて――
悲しむ自分がどうしようもなく嫌だった。それでも、涙は止まらない。
❖
「……俺は鳴雪の記憶を戻す方法を探しに行く」
砕花は苦々しい顔でそう告げた。
狸型の秀真は身を丸め、柳の木の根元でうずくまっている。
莉々が悲しむから、秀真にそれ以上の仕置きをするなと砕花に伝えると、砕花もそれ以上のことはしなかった。その代わりに言った言葉がこれである。
天と水巴は不安げに砕花に目を向けた。
「俺がいない間、鳴雪を頼む」
すると、秀真はようやく人型に戻った。とはいえ、立ち上がる気力はないようで、ぐったりと柳の幹に背中を預けている。
「そうまで……しなければならないのか?」
風に攫われるような声でつぶやく。その問いに、砕花ははっきりと言った。
「しなければならない。少なくとも俺はそう思う」
この状態で砕花が欠ける不安は誰もが抱いた。けれど、止めることはできない。
「今の鳴雪に言っても仕方のないことだがな」
そう言うと、砕花は背を向けて宿に戻った。
いつもはぶっきらぼうにしているけれど、砕花が一番鳴雪のことを理解しているのだろう。その砕花が言うのなら、それが正解だ。
その後、天がちらりと水巴を見遣ると、水巴は無言のままにはらはらと涙を零していた。
「す、水巴?」
天が戸惑いがちに声をかけると、水巴はようやく涙を拭った。そうして、ポツリと零した。
「私がもっと気をつけていればよかったのだ」
「お前のせいじゃないだろ?」
そんな慰めに水巴は首を横に振った。
「私の心の弱さが招いた結果に思えてならない」
何故、水巴が責任を感じて泣くのだろうか。
やったのは秀真だ。水巴は関係ない。
それは、水巴は莉々を認めたふりをしつつも、本音では人間など認めていなかったと言うことだろうか。
鳴雪に莉々を諦めてほしいと願っていた、そういう意味が含まれているように思えてしまった。
水巴は秀真のように莉々を攻撃しなかった。仲良くしてくれた。
それでも、鳴雪の伴侶としては認められないのだ。それは、天が鳴雪に莉々をやれないと思うのと同じで、本人たちのせいというよりも種族間の問題であったかもしれない。
あの時、水巴が身を挺して天の攻撃から鳴雪を護ったことが思い出される。
天は落ち着かない心境になった。
「それでも、お前のせいじゃない……」
結局、そんなことしか言えなかった。