伍 ~二~*
それから皆は急いで湯から上がり、浴衣を着込んで部屋に向かった。
猿たちが用意してくれた部屋は広かった。一番いい部屋にしてくれたのではないだろうか。錦鯉の美しい掛け軸がかけてあり、心遣いが伺える。
ただ、そんな座敷に正座させられている少年が一人。いや、一匹。
昔でいうところの元服したてといった少年で、後頭部で束ねた黒髪が初々しい。見た目年齢は十五、六歳で、やはり耳だけは上手く化けきれていなかった。
一見爽やかな少年なのだ。痴漢などしそうもない。
二人と四匹に囲まれ、少年狸の秀真はダラダラと汗を流した。
「も、申し訳ございません。鳴雪様の気配を察知して、喜び勇んで飛んで参った結果、あのようなことに……」
話し方や態度からして、秀真は水巴同様に至極真面目なたちのようだ。林火もそれをわかっているからこそ笑っているのだ。
「あんたはすぐに突っ走るからねぇ」
秀真はコホンと咳払いをする。
「本当は播の国で鳴雪様の気配を捉えたのです。けれど、それが突如掻き消えてしまって、途方に暮れつつも懸命に捜し回っておりました。それで、つい……」
播の国から摂の国には特殊な方法で移動することになった。そのせいで秀真は鳴雪を見失ってしまったのだと言う。
事情を知る砕花はしらばっくれた。
そして、鳴雪はというと、そんな秀真の事情など横に追いやっていた。
「ところで秀真、本当に女湯を覗いておらぬのだな?」
「な、何も見てはおりませぬ!」
傷ついたように言う秀真に、水巴は嘆息した。
「私と林火だけならまだしも、莉々がいるからな」
その発言でようやく、秀真は莉々に目を向けた。それから、天にも。
その目つきは訝しげである。
「先ほどから気にはなっていたのですが、このニンゲンたちはなんですか?」
莉々は鳴雪がどう説明するのかをわかっているからこそ、逃げ出したくなった。いつも、顔から火が出るほどに恥ずかしい。
やはり鳴雪はにこやかに、明確な言葉で言うのだった。
「莉々殿とその兄上の天殿だ。莉々殿を私の伴侶にと考えている」
「伴侶っ? ニンゲンですよ?」
「そんなことは瑣末だ。私がそう望むのだから、それ以上の理由など要らぬよ」
秀真は愕然としていた。
目を細め、莉々を食い入るように見る。その目つきの険しさに莉々は思わず怯んでしまった。
それから秀真は、急に後ろで押し黙っていた水巴に振る。
「水巴! お前はどう思っている?」
急だったせいか、水巴はひどく戸惑って見えた。
「ど、どうと言われても……鳴雪様が望むのだ。我らに否はない」
秀真なりに水巴が一番自分の考えに賛同してくれそうだと思ったのだろう。それが、そうではなかった。水巴は常に鳴雪の気持ちを優先する。
今まで、互いの意見が大きく食い違うことはなかったのかもしれない。秀真は驚いた様子だった。
「お前はそれでいいのか?」
そのひと言に、水巴は柳眉を顰めた。
「いいも悪いもない。鳴雪様がお幸せに過ごされることがすべてだ。……莉々は人間だが、気立ての優しい娘であると、そのことは理解している」
水巴がそんなふうに言ってくれた。莉々にはそれが嬉しかったけれど、莉々の肩を持ったせいで二人が喧嘩になるのも悲しい。
それでも納得が行かないといった秀真に、水巴は厳しい面持ちを向ける。
「秀真、いつまでも鳴雪様のご不興を買うようなことばかり言うな」
「なんだとっ」
そんな険悪な空気にさりげなく砕花が割って入る。そうしたところはさすがと言えよう。
「秀真、鳴雪の決めたことだ。もっとも、莉々が承諾せねばそれまでだがな」
「ぐっ、それを言うのか」
鳴雪が痛いところを突かれて呻いたが、秀真の耳には入っていない様子だった。
意気消沈し、ひどく残念そうであった。莉々は申し訳ないような気になる。
砕花を始めとする鳴雪の手下たちは、皆、友好的であった。人間と化け狸、種族の違いを莉々は改めて考えさせられた。秀真の態度には、はっきりとした線引きがある。
敵意とまでは言わぬものの、相容れない空気を感じたのか、天も秀真に向かって厳しい面持ちを保っていた。
仏頂面で言い放つ。
「妹を狸の嫁にする気はない」
鳴雪はショックを受けつつも、天に膝を向けて手を突く。
「私は本気だと何度も言うておる。天殿、どうしたら認めてもらえるのだ?」
「どうもこうもない。諦めろ」
すげない答えにも鳴雪はすがりつく。
「嫌だ。……すでに何度もこの会話を繰り返しているが、私の気持ちは変わらん」
「しつこいな」
当人そっちのけで口論になる。莉々は困惑してうつむいてしまった。
秀真は統領に対して敬意を払わない天を、先ほどよりもさらに鋭く睨んだ。そして、ボソリと鳴雪に言う。
「鳴雪様。砕花、林火、水巴、私と半数の手下がそろっております。万全でなくとも、このようなニンゲンに侮られる道理はございませぬ」
「秀真、力ではない。私は心で天殿に認めてもらいたいのだ。手出しは無用だ」
鳴雪にそう釘を刺されては、秀真には何もできないのだろう。不満げに唇を噛む。
苦笑すると、鳴雪は天に言った。
「天殿、秀真なりに私を思うてくれているのだ。気を悪くしないでくれ」
手下を大切にする鳴雪のことを、天なりに認めてはいる。鳴雪が莉々につきまといさえしなければ、もしかすると友好な関係が築けたのではないだろうか。
天はひとつ息をついただけで怒り出すことはなかった。
「……わかった」
「すまぬな」
そう言って、鳴雪はにこりと笑う。
この場はそうして収められた。けれど、納得が行かないのは秀真である。
少年狸の顔を見ればそれがありありと伝わった。
❖
それから、秀真は皆と離れて部屋から出ていってしまった。その後、男女、それぞれの部屋に分かれる。
男部屋にて――
敷かれた布団の上で砕花と話し込んでいる鳴雪を、天は壁際からぼんやりと見ていた。
砕花たちは大らかだが、今後合流する百匹頭狸たちが秀真のように莉々のことを認めないとも限らない。そうした時、鳴雪はどうするのだろう。
同胞を取るのか、莉々を取るのか。
どちらにしても、鳴雪なりに大変な選択にはなる。能天気な狸だが、それは少しばかり気の毒なのかもしれない。
――などと天が珍しく鳴雪に同情的なことを考えていると、秀真が戻ってきた。
おずおずと襖を開ける。頭を冷やして来たのだろうか。
「鳴雪様、少しよろしいですか?」
秀真がそう声をかけた。砕花は意外そうに眉を跳ね上げる。
一人になって考えたものの、やはり納得しきれなかったというところか。
鳴雪は砕花に苦笑すると秀真に言った。
「ああ。外で話すか?」
「はい。では裏手で……」
秀真は強張った顔で答えた。立ち上がった鳴雪を気遣うような砕花の視線に、鳴雪は微笑む。
「話して理解してもらうことを怠ってはいけない。私には皆も大切だからな」
すると、秀真は悲しげに目を細めた。その表情が、天には少し気がかりだった。
そうして、二人は宿の裏手へ出ていった。
砕花は嘆息する。
「秀真は鳴雪に幻想を抱きすぎだ」
「……どこにどうやって、そんなものが抱けるんだ?」
能天気でへらへらしていて、情けないところもたくさん見た。天には謎である。
「そう言ってくれるな。八百八の狸を統べることはそう容易ではない。その統領である鳴雪だからこそ、秀真は美化している節もあってな」
「まあ、若そうだしな」
と、十代にしては老成していると言われる天はぼやいた。
砕花は、鳴雪の手下というよりも友としての顔でつぶやく。
「まあ、ある程度は仕方がないとしても、己の理想を鳴雪に押しつけるような真似はしてほしくないがな」
などと気をもんでいるらしい。砕花は苦労人だと、天は思う。
ただ、こうした狸がいるから鳴雪は能天気に過ごせるのかもしれない。
――しかし、程なくして二匹が戻ってきた時、すでに異変は起こっていたのだ。
鳴雪のそばに控える秀真の上機嫌の意味が、天にはまるで理解できなかった。