伍 ~一~
それは早朝の出来事だった。
「莉々が……二人?」
そうつぶやいて、天は戸口で立ち尽くしていた。
艶やかな黒髪を背中に流し、黒地に鯉の柄が入った着物を着た少女が二人、対称になって座っている。二人は瓜二つだった。
天の妹、莉々は双子ではない。莉々は一人だ。
呆然としたけれど、天はすぐにかぶりを振った。
「お前、水巴だな」
と、右側の莉々に向かって言う。左にいた莉々は思わず拍手をした。
「お兄ちゃんすごい! 水巴さんは変化の術が仲間内で一番得意なんだって。鏡みたいにそっくりだったのに、よくわかったね」
すると、右の莉々はポンという音を立てて煙と共にいつもの姿に戻った。水巴の椿の髪飾りを挿した短い髪が揺れる。水巴の人型は美しい少女の姿だ。
「何故わかった? 肉親の繋がりなどと不確かな答えではなく、差異を明確に教えてくれ」
水巴なりに自信を持っていたのだろう。天に見破られて少々傷ついて見えた。
そんな水巴に天は言う。
「雰囲気というか、表情なんかが水巴は全体的に硬かったな」
明確に答えろと言うから天はそうしたけれど、水巴はショックだったようだ。
「硬い? そ、そうなのか……」
「あ、うん、まあな」
「修行が足らぬということか」
水巴は根っからの真面目な狸のようだ。他の狸たちはどちらかと言えばゆったりとしている。
長である鳴雪の扱いも雑なものだが、水巴だけはどんな時でも鳴雪を立てるのだ。
「こんな体たらくでは鳴雪様のお役に立てそうもない……」
そんなことを言って沈んでしまった。
水巴は日々、鳴雪の役に立つべく精進しているようだ。健気な少女狸である。
「そ、そんなことないと思うよ。水巴さんはしっかりしてるもん。鳴雪さん、すっごく頼りにしてると思うな」
落ち込む水巴を元気づけようとする莉々だが、そんな莉々を水巴は眩しそうに眺め、余計に落胆してしまった。
「莉々は自然に柔らかい雰囲気を出す。鳴雪様もそうしたところをお気に召されたのだろうな……」
「え?」
「いや、なんでもない」
天はそんな二人のやり取りを見守るだけだった。
❖
明るい空の下、鳴雪は大きく伸びをしていた。茶色の髪が陽に透ける。
その後ろに砕花が懐手をして立っており、林火はそんな砕花に寄り添っていた。
「そろそろ行こうか」
家から出てきた莉々と天、水巴に向けて鳴雪が微笑む。
通力で作り出した家を跡形もなく消し去り、一行は旅を続けるのだった。
そうして、この越の国をさらに南下する。
途中、峠を越えた。見晴らしはよく、美しい絶景を眺めて喜んだものの、莉々の脚は正直だった。歩き通しの疲労感がじんわりと来る。
日が傾きかけた頃、狸たちが夕食におにぎりと茶を出してくれて、それを食べながら少し休んだ。暗くなる前にもう少し進んでしまいたかったため、休憩は短い。
「歩いてばっかりじゃあ疲れちまうよぅ。今日くらいはゆっくり温泉に浸かりたいねぇ」
最初にぼやいたのは林火だった。
莉々だけでなく狸たちも疲れているのだと知り、莉々は内心ほっとした。
「温泉があるの?」
莉々が訊ねると、林火は笑顔でうなずく。
「この辺りは温泉地なのさ。たまには本物の温泉でハネを伸ばすのもいいんじゃないかねぇ?」
越の国の特徴は遊里の他にもうひとつ。温泉が湧きやすい土地柄なのだそうだ。
いつも、風呂は砕花の用意してくれる家に用意されている。不自由はしていないけれど、温泉にも興味があった。
「うむ、それもよいな」
真っ先に乗ったのは鳴雪だった。そんな鳴雪をけん制するように、天はボソリと言った。
「混浴じゃないよな?」
莉々がええっ、と声を上げて怯んだので、林火は笑った。
「ちゃんと分かれてるところにするから安心して。水巴もいいかい?」
「私は構わない」
淡々と答える。水巴は自分よりも鳴雪の意向が大事なようだ。
砕花は小さく嘆息するとまとめた。
「じゃあ、今日は温泉宿だな。俺もたまにはゆっくりしたい」
いつも家を出してくれるのは砕花だ。当たり前のように出してもらっていたけれど、それなりの負担はあったのかもしれない。
温泉と言うだけあり、その近辺に向かうと硫黄の匂いがほのかに漂ってきた。
ゴツゴツとした岩場が続いて、草履だと足が痛い。けれど、もう少しだと思って莉々は我慢して歩いた。鳴雪が狸火を出しているので暗くはない。
夜空に、もうもうと湯気が立ち昇る様子が見えた。木でできた囲いのそばに小さな建物がある。あれが宿だろうか。鳴雪は狸火を消すことなく、堂々とその暖簾を潜った。
「二部屋、空きはあるか?」
皆、鳴雪に続いた。狸火に番頭が腰を抜かしているのではないかと思ったけれど、驚いたのは莉々の方だった。
番台に座っていたのは、どう見ても屋号入りの半纏を着た猿である。猿は鳴雪を見て目を瞬かせた。
「おや、隠神刑部の旦那じゃあございませんか。いや、お久しいですなぁ」
鳴雪は多分、あまりよく覚えていなかったのだろう。とりあえず曖昧な笑顔で言った。
「少し通りかかったものでな」
「さいですか。ええと、二部屋でござんしたね? ご用意させて頂きますとも」
猿は揉み手をしながらペコペコと頭を下げる。流暢に喋ることから、ただの猿ではないことは明らかだ。
この宿はあやかしの宿なのかもしれない。
猿が去ってから、鳴雪はこっそりと砕花に訊ねる。
「ここへ来たことがあったか?」
「さあ? 来たとしたら先代じゃないか」
「なるほど」
先代とは、鳴雪の父親か何かだろうか。鳴雪の前に八百八狸を総括していた存在がいたということか。
そんなことを莉々が考えていると、猿が急ぎで戻ってきた。鳴雪がある程度名の知れた妖怪であるせいか、猿は丁寧な対応だった。
「お部屋へ案内しますか? それとも先に湯へ浸かられますか?」
鳴雪は皆を振り返った。林火は弾むように言う。
「先に疲れを落としたいですよぅ」
「じゃあ、先にお風呂にする?」
そう言った莉々に鳴雪の視線が留まる。莉々はギクリとして思わず目をそらした。
何を考えているのかが残念ながら手に取るようにわかった。
きっと、砕花にもわかったのだろう。突然鳴雪の背中をバシン、と叩き、それから猿に向けて言った。
「先に湯へ浸からせてもらうことにする」
「あい。ごゆるりと」
❖
猿が用意してくれた手ぬぐいと浴衣をそれぞれ持ち、すのこの敷かれた先を行く。
案内されたところにはわかりやすく『男湯』『女湯』と書かれた暖簾がかかっている。男女三人ずつ入り口で別れた。
楽しげなのは女性陣であり、男性陣は特別楽しいことはない。
「……さっさと入るぞ」
砕花に促され、鳴雪と天は脱衣所に足を踏み入れる。やはり、男三人で温泉など楽しくもなんともない。
ぼんやりと白濁した湯に浸かる三人の頭上から、塀越しの楽しげな声が聞こえる。
「うわぁ、結構広いね! 誰もいないなんて貸切みたいで最高!」
莉々の嬉しそうな声に鳴雪の耳がピクリと動いたのを天は見逃さなかった。
水音がして、それから林火の声がする。
「ここの湯はお肌に良さそう。砕花のために磨かなくちゃね」
そのひと言に、砕花が思わず沈みそうになった。口に入った湯を吐き出している。
そんな砕花に天は小声でぼそりと訊ねた。
「砕花は林火をどう思ってるんだ?」
けれど、砕花は整った顔をしかめるばかりだった。そこに鳴雪も乗っかる。
「そうだ、私もそれを聞きたかったのだ」
すると、砕花は大きく嘆息して天に言う。
「ならば、天はどういう女が好みだ? お前が正直に答えるなら俺も答えてやる」
「へ?」
「ああ、それは私も聞きたい」
「……」
興味深々で身を乗り出す鳴雪と、立場が逆転してニヤニヤとしている砕花に囲まれ、天は軽く後ろに引いた。けれど、鳴雪は楽しげだった。
「そうだなぁ、例えば清楚な娘か婀娜っぽい女か、細身か肉感的か――いだだ!」
天は鳴雪の頬を引っ張って伸ばした。なんとなく腹が立った。
砕花は標的が自分からそれたので、後はどうでも良さそうだった。
そんな時、女湯から莉々の悲鳴が小さく上がった。
鳴雪と天は過敏に反応して塀の方を見遣る。
けれど――
「す、水巴さん!」
「ん? なんだ?」
「なんだ、って……」
「いや、私の変化が天にあっさりと見破られてしまったのでな。化ける相手の観察不足でもあったと思っただけだ。私は完璧主義なのだ。気にするな」
「水巴ってば、ほどほどにしときなさいね」
「うむ。しかし、莉々は顔のわりに意外と――」
「ひゃ、ちょっと、水巴さん!」
騒がしい女湯の様子に、男湯は静まり返った。
「ものすごく気になるのだが……」
ぼそりと鳴雪が言う。
いつもならすかさず天が鳴雪を殴るなり睨むなりするところだが、天ものぼせてしまったらしく、頭がぼうっとしていた。
そろそろ上がろうかと思ったその時、ガサガサガサ、と草葉をかき分ける音がした。そうして、男湯と女湯の間の仕切りの天辺に駆け上った獣がいた。狸である。
ただの狸であれば問題はない。けれど、やはりそうではなかった。
「ああ、秀真!!」
鳴雪が叫んだ瞬間に、その狸は湯気で曇った男湯の方につぶらな眼を向けた。潤んだ瞳で訴えかけるように鳴雪を見つめる。ただ、その直後、女湯から飛んだ手桶が直撃し、狸――秀真は男湯に沈没したのだった。
「痴漢がいた」
桶を投げつけたのは水巴らしい。
「あらまあ、秀真が覗きなんて。やっぱり男の子なのねぇ」
林火がコロコロと笑う。一度沈んだ秀真はガボガボと空気を吐きながら浮かんできた。毛玉のようなものなので、よく水を吸っている。
そこを砕花が片足を吊るす形で引き上げた。その顔は呆れている。
「秀真、お前はすぐに周りが見えなくなるな」
プルプルとかぶりを振るのは、ずぶ濡れの水滴を落とすためなのか、痴漢疑惑を否定しているのか、どちらだったのだろう。
ただ、鳴雪はそんな手下を庇うでもなく、青筋を立てた笑顔で言うのだった。
「女湯を覗いていたらお仕置きだ」
秀真は濡れて細くなった尻尾をピンと伸ばして怯えた。