肆 ~四~
一行は遊里のある緋原を抜け、町の外に家を出した。その中の一室に水巴を休ませる。
医術に長けている林火が、疲弊して体力が落ちているだけで少し休めば大丈夫だと見立てたので、皆一様にほっとしたのだった。
狸の姿のまま布団で眠る水巴に、林火がつき添う。天もさすがにくたびれたらしく、隣室で休んでいた。
砕花は食事や風呂の支度と、こまごま動いてくれている。
莉々はとりあえず、この慣れない装いから早く解放されたかった。砕花に頼んで風呂に入らせてもらおうかと思い、家の外に出る。
すると、先に外にいた鳴雪に呼び止められた。
「莉々殿。改めて、水巴を助けてくれたことに礼を言おう」
「わたしは何もしてないよ。頑張ったのはお兄ちゃん。お礼はお兄ちゃんに言ってね」
本当に、礼を言われるようなことは何もない。だから、そう言われても莉々は苦笑してしまうのだ。
鳴雪はそんな莉々をじっと見つめていた。
「水巴のため――それでもやはり、莉々殿がそうした格好をしていると、心中穏やかではいられぬのだ」
「え?」
「他の男に見せたくない」
鳴雪は、はっきりとした声で言い放った。
莉々はただ赤面し、うつむくことしかできなかった。鳴雪はこうしていつも正直な気持ちを伝えてくれるけれど、嬉しいというよりも返答に困る。
すると、鳴雪の手が急に莉々の顔を包み、上に向けさせた。その袖口が莉々の口を塞ぎ、グイ、と唇を拭うように動く。
「紅など、もう落ちてもよいな」
鳴雪の白い袖に赤い紅が移る。そう言った鳴雪の表情がどこか切なかった。
そのせいもあり、莉々に隙があった。
露出して冷えた肩に鳴雪のあたたかい手が載る。その手に引き寄せられ、莉々は鳴雪の腕の中にいた。
「待つ間、気が気ではなかった。本当ならば莉々殿のことは閉じ込めておきたいくらいなのだ」
莉々の心臓がバクバクと大袈裟なほどに鳴る。それでも、次第に鳴雪の腕の中に慣れてしまいそうな自分を感じた。
大切に護ろうとしてくれる気持ちは痛いほどに伝わる。
鳴雪は莉々から僅かに体を離した。やっと解放されるのかと思ったが、そうではなかった。鳴雪は莉々をじっと見つめ、顎をすくい上げる。ドキリとした瞬間に、鳴雪の顔が迫り、唇が触れ合う寸前であった。
しかし、戸口でガタン、と音がした。鳴雪の動きが鈍り、莉々はとっさにその腕から逃れ、距離を取った。
そこには怒りで形相の変わった天がいた。
「お、お兄ちゃん……」
いつからそこにいたのだろう。
莉々の方まで疚しくなってしまった。天の怒りが鳴雪に向かう。
「お前――っ」
それでも鳴雪は引かなかった。
「私は莉々殿を妻に迎えたいと申したはずだ。その気持ちは変わらぬ」
そんなことを堂々と言ってのける。
天はひとつ大きく息をついた。冷静になるべく呼吸を整えているわけではなかった。
自らの拳に向かってつぶやく。現れた錫杖はいつものお仕置きである。
「ふざけるな!」
怒号と共に鳴雪へ錫杖を叩き込むと、鳴雪は避けるでもなくそれを受ける覚悟のようだった。
しかし、そんな時、少女の澄んだ声が飛んだ。
「鳴雪様!!」
天は自分の脇をすり抜けた姿に気づきながらも、とっさに手を止めることができなかったようだ。鈍い音を立てて天の錫杖が打ったのは、鳴雪ではなく、彼を庇った水巴の柔らかな体であった。
甲高い悲鳴を上げて崩れ落ちた水巴を、鳴雪はとっさに抱き止めた。
「水巴!」
「水巴さん!」
莉々も驚いて倒れた水巴を覗き込む。そこへ遅れて駆けつけた林火と、悲鳴を聞きつけた砕花がやってきた。
天の手にある錫杖がふわりと消えた。
そうして、呆然とつぶやく。
「悪かった。そんなつもりじゃ……」
砕花は一瞬で事態を把握した様子だった。大きく嘆息する。
「天、お前の力はお前が思う以上に強い。痛い、で済むのは鳴雪くらいだ。俺たちがまともに受ければ結構な苦痛だ。水巴は忠誠心が強いから、今後もこうしたことになる。それは覚えておいてくれ」
突然手にした力を、天自身も理解しきれていないのだ。天は静かにうなずいた。
鳴雪は水巴を抱き上げ、林火に言う。
「林火、手当てを」
「はいな」
そうして狸たちが去った後、莉々は天の手を取った。
「お兄ちゃん、ごめんね」
天が怒るのは、莉々を護らんとするがためだ。天だけが悪いように思われるのは悲しかった。
気遣う莉々の頭に手を添え、天は苦笑した。
「お前が責任を感じることじゃない。俺が軽はずみだったんだ。水巴にはちゃんと謝ってくるから、心配するな」
そう言うと、天は家の中に戻った。
❖
水巴を部屋に運んだ後、鳴雪は林火に部屋を出されていた。すごすごと出ていく鳴雪を目で見送ると、天は障子の前に立って声をかける。
「林火、水巴の様子は? 気がついたら教えてほしい」
しかし、水巴が気を失ったのは短い時間だったらしい。すぐに彼女の鋭い声がした。
「入れ、ニンゲン」
怒っているのか、冷たい響きだった。けれど、それも仕方のないことだ。天は覚悟して障子を開いた。
水巴は布団の上で上半身を起こしていた。林火がその横に座っている。
「『ニンゲン』じゃなくて天くん。これから一緒に旅をするんだからね」
と、林火がやんわりと取り成してくれるけれど、水巴の怒りは冷めやらぬようだった。
それでも天は水巴の前に座り、頭を下げた。
「悪かった。お前に怪我をさせるつもりじゃなかったんだ」
謝っても、水巴は簡単に許してくれなかった。きつい目をして言う。
「鳴雪様にならば怪我をさせてもよいと言うのか?」
水巴が怒っているのは、怪我をさせられたことではない。鳴雪を傷つけようとした行為に対しての憤りなのだ。
天が思わず言葉に詰まると、水巴は急に帯を解いた。
「っ!?」
シュルリ、と衣の擦れる音がして、水巴の白く滑らかな肩から着物が滑り落ちる。そうして、姿勢よく伸ばした背があらわになった。そこにひと筋の赤い痕が残っている。肌の白さがそれを際立たせていた。
水巴は天に背を向けたまま、それを見せつけ、鋭く言った。
「この痕をよく覚えておくといい。お前の力は容易に振るってよいものではない。我らを害する覚悟を持ってのことだと言うのならば、私もお前を敵とみなして容赦はしない。わかったな」
「……わかった」
その痕と滑らかな肌を直視することができずうつむいた天に、ようやく水巴はひとつ息をついて柔らかな声を出した。
「――けれど、お前には助けてもらった恩もある。わかってくれたのならばよい。今回のことは水に流そう」
天がそっと顔を上げると、水巴は少しだけ微笑んだ。そうしていると、目元と唇が艶を増す。
「我らにも心があると言ってくれたお前の言葉は嬉しかった」
この状況で上手く言葉が出ずに戸惑う天を見て、横から林火がコロコロと笑った。
「水巴ってばそろそろその格好なんとかしなさいな。天くんは純情少年なんだからね」
そう言われると余計に恥ずかしくなって、耳まで赤くなった。そんな天を、水巴は濁りのない眼で見た。肌蹴た着物のままで正面を向きそうになった水巴から距離を取り、天は思わず後ろへ引いた。
「い、や、まあ、とにかくそういうことで……」
なんでも卒なくこなす天であるけれど、男子校生なのである。
他校の女子に告白されようと、見ず知らずの相手だからとやんわり断り、まともに取り合ったこともなかった。妹以外の女性に慣れているとは言いがたい。
天はそそくさと部屋を後にする。林火の目が笑っていた。
しかし、水巴の忠誠心は砕花や林火とは比べようもないほどに強い。
真面目なやつだ、と天は水巴のことをそう評価した。
それぞれの想いは交錯し、絡まり合う。
その先に、何があるのか。
今はまだ、誰も知らない。
【 肆・不夜城 ―了― 】