零 ~二~*
それは獣の鳴き声のようだった。
なんの獣であるかまではわからない。何故自分がそう思ったのかも、莉々は説明できなかった。
紫緑に訊ねてみても、彼は何も聞こえていないと言う。
あの甲高く胸に迫る声は、一体なんだったのだろう。莉々の幻聴にしてはいつまでも耳に残る。
あの声は、このゆるやかな坂の上に続く道から聞こえた。まだ青さの残る木々の中、細く長く続く道の先から――
「あの先には何があるのかな……?」
莉々が熱に浮かされたようにつぶやくと、紫緑は不安げに声を漏らした。
「莉々、どうしたんだ?」
紫緑にはまるで聞こえていないのだ。だから、莉々がどうかしてしまったように思うのだろう。
もどかしい。
この胸の疼きを上手く伝えられない。言葉では表せない。
莉々がくしゃりと顔を歪めると、いつになく慌しい様子で天が駆けてきた。授業を終え、大急ぎで飛び出してきた様子だった。
けれど天は、莉々たちがここにいると気づいてやってきたのではなかった。二人を前に、真剣に驚いている。
「莉々? 紫緑? どうしてここに……」
「お兄ちゃん!」
天が二人のそばに駆け寄る。莉々は天の学ランの袖をギュッとつかんだ。
「お兄ちゃん、この道の先には何があるの?」
その問いかけに、天は珍しく瞠目した。
「……わからない。この先のことは生徒間でも話題になったことがなかった」
わからないというのはおかしなことだ。
普通に考えるなら、森のように自然があるだけで他には何もないのかもしれない。しかし、好奇心旺盛な年頃の男子生徒が誰一人、この先に足を踏み入れたことがないと言うのだろうか。
いくら品行方正な進学校の生徒だろうと、探検くらいしたはずだ。学校側が危険だから立ち寄るなと言ったところでそれは変わらないはず。
なのに、誰も話のタネにさえしないとは不自然だ――
「何かの声がしたよ」
莉々がそうつぶやくと、天もうなずいた。
「ああ、俺もそれが気になって……」
「お兄ちゃん、この先に行こうよ」
「そうだな」
「え、ちょっと二人とも何言ってんだよ。ほら、莉々、テスト勉強しないと。帰ろう?」
慌てて紫緑が止めに入った。彼なりに何か不安に思うことがあったのかもしれない。
本来ならこうした時、天が真っ先に止めただろう。それが今日に限っては率先して行こうとする。天もまた、莉々と同じように何かを感じているのだ。
「うん、先に帰っていいよ。シロちゃん、今日はありがとう」
テスト勉強もある。これ以上つき合わせてはいけないと思っての言葉だったけれど、紫緑は一人だけ蚊帳の外へ追いやられたように感じたようだ。少し厳しい面持ちになって言った。
「俺も行くよ」
天は時間が惜しいといったふうに歩き出した。莉々もその背に張りついて続く。紫緑もさらにその後ろを歩いた。
細い小道は精々二人が並んで歩ける程度のもので、見上げると茂った枝が作り出すアーチのようだった。
次第に日も暮れる。急いだ方がいい。
けれど、そこは不思議な道だった。どこまでも続いていて、終わりが来ないような気になる。
ふと、自分たちは神域に迷い込んで神隠しに遭うのではないかと、馬鹿げたことを思ってしまった。
あの声は、この道の先から聞こえたわけではないのだろうか。紫緑には聞こえなかったのに、教室の中にいた天に声が届いたことが不思議である。
さらに薄暗くなった。それは沈みかけた太陽のせいばかりではなかったように思う。
先頭の天の足がピタリと止まった。
莉々が天の肩越しに先を見遣ると、そこは小さな祠のようだった。注連縄が入り口に施され、紙垂が風に揺れている。風は祠の中から漏れていた。
「……なんだここ? 怪しすぎだろ」
紫緑の声は少し震えていた。それほどまでに、この場の空気は異質であった。
天はその祠の先を目を凝らして見ていたけれど、不意に視線を手前の注連縄に移す。
「注連縄……。これを張る理由はふたつある」
「え?」
莉々が寄り添って天を見上げると、天は思案顔でつぶやいた。
「ひとつは、神を祀る神聖な場所を区別するため。もうひとつは――悪しきものが中に入らないようにするため……」
悪しきもの。
しかし、莉々は不思議と紫緑のように恐ろしさを感じていなかった。この先に待つものが悪しきものだとは思わない。だから、もしこの注連縄に意味があるとするのなら、天が言った前者であるのだろう。
「ねえ、もう少し近づいてみようよ」
莉々がそう提案すると、紫緑は肩を震わせた。それでも、天もうなずく。
「ああ」
「え? ちょっと、危ないんじゃないの?」
紫緑一人が慌てている。何か申し訳ない気持ちになったけれど、この先に惹かれる気持ちは止められなかった。
サクリと草を踏んで近づくと、中からはやはり風が吹いていた。
奥は深いのだろう。見通すことはできなかった。
莉々と天は注連縄を前に互いを見つめた。そうして示し合わせ、その注連縄へ同時に触れた。
ただ、それだけのことであった。
それだけのことが、日常を、世界を大きく歪めてしまう結果となる。
ぶゎん、と耳鳴りのような音と風に打たれた衝撃が莉々と天の周りを駆け巡る。莉々が風圧に息を詰まらせると、隣の天が体を支えてくれた。
そこからは、嵐に呑まれたと言った方がいいかもしれない。
雷らしき轟音と光、渦巻く風が身を切るほどに痛い。着ている服や髪の端々が、風によって肌を打ちつける。
「っ……!!」
体がちぎれそうな嵐の中、天はずっと莉々を庇っていた。
一体何が起こっているのか。やはりここは触れてはならない場所で、神を怒らせてしまったのだろうかと、莉々は今さらながらに怖くなった。
目の前が蒼く染まり、そうして意識が次第に遠退く。後はもう何も考えられなくなった――
❖
再び莉々が意識を取り戻すと、辺りはすでに夜になっていた。
慌てて草むらの中で身を起こす。
そこは皓々と輝く月の下。柔らかな光が夜を明るく照らす。
空を見上げ、それから自分の傍らに倒れている天に気づいて莉々はその胸元を揺すった。
「お兄ちゃん!」
「ん……」
眉根を寄せ、天が呻く。そうしてうっすらとまぶたを開いた。莉々はほっと嘆息する。
「よかった、無事で」
そうは言ったものの、起き上がった天は周囲を見渡して愕然としていた。
「紫緑は?」
「え!?」
慌てて莉々も周囲を見渡したけれど、紫緑の姿はない。
紫緑は、気を失っている二人を捨てて逃げるような、薄情な人間ではない。
何かあったのだろうか。そう考えて莉々は不安になった。
「シロちゃん、まさか……」
あの嵐に飛ばされてしまったのだとしたら。
注連縄は跡形もなく、口を開いた祠を莉々は見遣った。天は一度覚悟を決めて唇を結んだ。
「この先にいるかもしれない」
「う、うん」
怖がっていた紫緑が自発的に中に入ったかどうかはわからない。もしかすると、何者かに連れ去られたとも考えられる。
「探しに行こう……」
莉々はこくりとうなずくと、天にしがみつき、腕を絡ませた。そうでもしていないと、恐ろしさでおかしくなりそうだった。
祠の中まで月明かりが届くはずもないのに、中は不思議と暗いとは思わなかった。奥へと続く洞窟を二人で寄り添って歩く。ローファーから伝わる岩肌はごつごつとして硬かった。
中はただの空洞で何もない。ここで生き埋めになったら逃げられない、と莉々は怖いことを考えてしまった。
そうして、ついに最深部に辿り着く。けれどそこは――ただの行き止まりであった。紫緑の姿はない。
ただ。
その丸い深部の中央にいたのは、一匹の狸。ただそれだけ――
ひどく弱り果てた大きな狸が横たわっているだけであった。
毛並みはよく、狸にしては艶やかである。病気で弱っているというふうではなかった。
莉々は天の腕をすり抜けると、その狸に駆け寄った。
「莉々! 無闇に近づくな!」
病気には見えなくても、病気かもしれない。人間にも影響する菌を保菌している可能性もある。噛まれでもしたら大変だ。
それでも、莉々はためらいなくその狸を抱き上げた。放っておけなかった。柔らかな毛が手によく馴染む。
狸はまるで意識がなく、くたりとしていて、されるがままであった。莉々はその狸を胸に抱くと、そっと頭を撫でた。
「獣医さんに連れていってあげるね。頑張って」
紫緑を探しに来たはずが、何故か狸を拾ってしまった。
けれど、弱っているところを見つけてしまった以上、莉々はこの狸を助けたいと思う。
「お兄ちゃん……」
莉々がすがるように目を向けると、天は呆れたのか嘆息した。
「紫緑もいなかったし、とりあえず外へ出よう」
「うん」
いたのはこの弱った狸だけだ。
結局、あの注連縄の意味はわからなかった。
二人が来た道を戻ると、外はさっきと同じ、月が明るく照らす夜であった。けれどふと、天は険しい顔をして言った。
「……何かおかしい」
「え?」
莉々が狸を抱えたままで声を漏らすと、天は草の茂る中を指さした。
「道がなくなってる」
「!!」
言われて初めて莉々がそちらを見ると、ここへ来た時にはっきりとあった道が草木に埋もれていた。
莉々もようやく違和感に気づく。
「ね、季節的にこんなに草が青々してるのもおかしくない? それに、夜なのにあったかい……。もう秋なのに夏みたい」
三人で山道へ向かった時はそうしたものを感じなかった。気のせいと言ってしまえばそうかもしれないと思う程度の差異。
それなのに、ひどく引っかかりを覚えてしまう。
「さっき通った道がないと言っても、他にも道があるかも。紫緑を探しながらそれも一緒に探そう」
天は落ち着いて提案する。
紫緑には申し訳ないけれど、莉々ははぐれたのが自分ではなくてよかったと思えた。天がそばにいてくれることが、どんな時でも莉々には何より心強い。
肌寒さはなく、むしろ不気味なほどの生あたたかさが頬を撫でる。莉々はマフラーを外してそれで狸を包むと再び腕に抱えた。
「重くないか?」
天がそんなことを言う。猫よりも少しだけ重いけれど、負担というほどではない。天はこうした時、置いていけと言って従う妹ではないとわかってくれている。どうやら諦めて連れていってくれるつもりのようだ。莉々は笑ってうなずいた。
「うん、大丈夫」
この子のことは自分が責任を持とう、莉々はそう思った。
二人の足は自然と、草に覆われていない歩きやすい方へと進んでいく。それが正しい道なのかはわからないけれど、紫緑であったとしてもそちらを選ぶと思われた。
乾いた土に足跡は見受けられず、依然として紫緑の行方は知れない。
莉々は先ほどまでよりも一段と恐ろしくなった。ここは一体どこなのかと。
そばにあったはずの、天の通う高校が見えない。そこから続いていた道は、こんなにも奥深くはなかった。
何故、こんな場所に自分たちが迷い込んでしまったのか、それがまるでわからない。
その思いは天も同じであったのだろう。険しい顔をして前を見据えている。
ただ、天はしきりに右の手首をさすっていた。それに気づいた莉々が問う。
「お兄ちゃん、手、どうしたの?」
すると天はバツが悪そうに苦笑した。
「ん、ちょっと捻ったのかもな」
あの嵐の時に手をついて倒れ込んだのかもしれない。心配そうな莉々に、天は微笑む。
「大丈夫、少し違和感があるだけだ」
「でも、痛かったら無理しないで言ってね」
天は苦笑するだけだった。天の辛抱強さを知っているからこそ、不安にもなる。
二人で木の根の這う道を行くと、ようやく狸が目を覚ました。つぶらな茶色の瞳を見開き、莉々の腕の中から莉々を見上げている。
「あ、気がついたね」
きょとん、という言葉がぴったりとはまるような表情だった。
野生の狸なのだと思うけれど、大人しい。莉々はそっと狸に笑いかける。
「お医者さんのところに連れていってあげるから、心配しないでね」
その言葉の意味がわかったわけではないだろうけれど、狸は再び莉々の胸に鼻面を押し当てて眠った。
これは具合が悪いというよりも眠っていただけなのだろうか。
そんな姿も可愛く思う。
「名前つけてあげたいなぁ」
「情が湧くと離れられなくなるから止めておけ」
と、冷静に天に突っ込まれて断念した。
それから随分歩いた。それでも道は開けなかった。
くたくたになった莉々は少しだけ休みたいと天に頼んだ。月は相変わらず空高く輝き、時間の経過はよくわからなかった。
「そうだな、少し休もう」
木のそばに腰を据えた二人と一匹。莉々はずっと狸を抱えたままだった。うつらうつらと莉々は天の肩に寄りかかる。
そうしてすぐにハッとまぶたを開いた。天はその頭を撫でた。
「寝てもいいぞ。少ししたら起こしてやるから」
「うん、ありがと。お兄ちゃんが一緒でよかった……」
そう言い終えるか終わらないかのうちに莉々は天に寄りかかって眠っていた。
その時、天と狸の目が合う。それから狸は莉々の寝顔をじっと見つめていた。気遣うように見えたのは気のせいではなかったのかもしれない。
この不可解な現状はなんなのか。何故、歩いても歩いてもこの道を抜けられないのか。紫緑はどこへ行ったのか。
天もまた不安に思わないわけではない。けれど、莉々がいる。
妹がいる以上、まずは莉々を護ることが最優先だ。それだけは間違いのないことだと天は思う。
そんな時、背後でカサリと音がした。それが皮切りであった――