肆 ~二~*
日が暮れゆく中、莉々と天は潜入のために支度をするのだった。
場慣れしない二人が遊里で浮かないための装いである。
天がいくら着物を着崩したところで、育ちの良い雰囲気は拭えない。無理を感じてそのままにされた。真面目そうな若者でも、たまにははめを外すこともあるので、男であれば遊里にいても問題はないかと。
一方莉々は、ごく普通の町娘のままではいけない。一番遊里にいるはずがない人種だ。
林火があれやこれやと工夫してくれるとのことで、男三人は部屋の外に出された。
莉々はすべて林火に任せただけである。
ひと仕事終えた林火は襖を開いた。
「はい、お待たせ」
ニコニコと林火は上機嫌に笑っている。仕上がりは上々ということだろうか。
「莉々ちゃん、頑張ってね」
「う、うん!」
莉々は大きくうなずき、こけてしまわないように裾に気をつけながら前に出た。
黒髪を結い上げ、花を象った華やかな簪で飾り立てている。赤い紅と目元にほんのりと施した朱の化粧。前結びの帯。足元に広がる、大柄の赤い着物。大きく抜いた襟によって、首から鎖骨にかけてのラインが強調されている。
あまり笑わず、落ち着いた表情を保つようにと林火に言われたので、莉々はさっそくそれを実践していた。
「り、莉々殿?」
戸惑う鳴雪に、莉々は目だけで合図する。あまり喋らない方がいいとも言われた。
見慣れない莉々の姿を不安に思ったのは、鳴雪ばかりではなく天も同じであったのだろう。妹が急に大人びて見えて困惑しているようだ。
砕花が小さく嘆息した。
「天、少しいいか?」
「え?」
天は小首をかしげた。その袖を砕花が引く。
「話がある。すぐに済む」
と、天を伴って去った。去り際に砕花はちらりと鳴雪を見た気がした。林火も笑って砕花に続く。
鳴雪と莉々はその場に取り残された。
まだ喋ってもいいかと思い直し、莉々は言う。
「どうしたのかな、砕花さん?」
鳴雪は答えず、莉々の手を取り、握り締めた。正直、痛い。
しかし、鳴雪がしょんぼりして見えて言えなかった。
「そのような格好の莉々殿を他の男に見せたくはないのだが……」
「水巴さんのこと、助けなきゃ駄目でしょ」
「それはもちろんだが……」
つぶやいて、鳴雪はもう片方の手を莉々の首筋にそえた。鳴雪の手のあたたかさと突然の行動に莉々は体を強張らせる。
鳴雪はそんな莉々にぎこちない作り笑いを浮かべていた。
「莉々殿、水巴を安心させるために私のにおいをつけていくといい。それが何よりの説得力になるだろう」
「え?」
次の瞬間には莉々を強く抱き締め、鳴雪は唇を重ねようとした。ただ、莉々は限界まで顔を後ろに向けてそれをかわした。
「口紅取れちゃうよ! そこまでしないし!」
「口紅とは……なんと厄介な」
むむむ、と唸っている鳴雪を突き飛ばし、莉々は腕から逃れた。
「じゃあね、行ってきます!」
強めの口調で言って、莉々は鳴雪の方に顔を向けずに去った。
多分、顔は赤くなっていただろう。それを見せたくなかった。
❖
天と二匹の狸は旅籠の庭に生えている松の下にいた。
自分の顔が赤いのはここまで走って来たせいだと、莉々は己をごまかしながら駆け足で皆のところへ向かう。
「お兄ちゃん、行こう!」
声をかけると天は何かギクリと肩を跳ね上げた。
「ん、ああ……」
天の様子が少しおかしい。顔が赤い。
砕花と林火は二匹そろってクスクスと笑っていた。何やらその笑みが黒い。どんな話をしていたのだろう。
「じゃあね、あそこでの心得は授けたから、十分気をつけるんだよ」
「水巴をよろしくな」
二匹はそう言って手を振った。
旅籠を出て二人は歩く。遊里まではすぐそこ。またあの坂を登ればいい。それだけだ。
兄妹二人だけならあの結界はなんの妨げにもならない。
薄暗くなった中、町の提灯がほのかに灯る。宵闇に柔らかな光が優しかった。
明るく照らされた道は深い闇を拒絶し、光に彩られてさらに華やぐ。夜こそがこの町の真の姿であるかのように。
眠らない町。眠る時を惜しんで遊び狂う町。それがこの遊里であるのだ。
派手な羽織の門番は莉々を連れた天といくつかの言葉を交わす。天は砕花たちに仕込まれていたのか、淀みなく答えていた。莉々はただ無言で天の腕に自らの腕を絡ませて待った。
坂の上の門が二人のために開く。その先は、坂の下とは比べるべくもない鮮やかさであった。
時刻などにまるで頓着しない、賑やかな笛や太鼓の音。ほんのりとした灯篭の灯り。
艶やかな客引きの遊女たちとそれを値踏みする男たち。男女の楽しげな哄笑。
どちらかといえば品行方正な高校生の二人には馴染みのない世界である。気後れしないわけもない。
「……案外広いな」
天がボソリと言った。
軒並みは長く続いている。この中のどこに水巴が連れていかれたのか、見当もつかない。
それでも二人はとりあえず歩く。途中、天に遊女たちが声をかけてきた。
天はそちらにろくに顔も向けずにサラリと躱す。この辺りも砕花たちに仕込まれたのだろうか。
「莉々、あんまり顔を上げるな。少しうつむいて歩け」
天がそう言うのは、莉々に見せたくないものが多いせいか、莉々を他に見せたくないせいなのか。多分、両方だろう。
ここへ来て、天は何の説明もしない方が危ないと思ったのか、ここは江戸時代でいう『吉原』のような場所だと言った。遊里という言葉にピンと来なかった莉々も、それでここがどういった場所なのかをようやく理解した。
理解したからこそ、見てはいけない世界に思われた。莉々は言われるがままにうつむき、天に寄り添って歩く。
どれくらい歩いた頃だろうか。往来の突き当たりに、ひと際大きな楼閣があった。それは唐風な造りに見えた。金と朱でけばけばしく飾り立てた楼閣は五重になっている。他はせいぜいが二階までなので、特に目立っていた。
天と莉々は、そこであの人力車を見つけた。水巴が乗っていた、黒塗りの車だ。
思わず顔を見合わせた二人のそばで会話をする男女がいた。
「お、今日は雲行御坊が来られているんだな」
「ええ、ひと月に一度は結界の様子を見にきてくださるのよ」
「ありがたいなぁ。あの結界のおかげであやかしはここに近寄れない。俺たち人間はあれがあるから安心して楽しめるってもんだ」
「本当にありがたいこと」
じゃれ合いながら楼閣の中に入った遊女と客の男を見送り、天は険しい顔をした。
「……どうせ接待されて大金もらってるんだろうな。ナマグサ坊主だ」
莉々はアハハ、と乾いた笑いを上げた。
「その雲行さんてお坊さんが水巴さんを捕らえたのかな?」
「多分そうだろう」
そう吐き捨て、天は周囲を見回した。人は多いけれど皆がそれぞれ自分のことに忙しく、天や莉々のような男女二人組に注意を払うことはない。こそこそとささめき合う男女で溢れているのだ、ここは。
「さすがに正面から入ったら客じゃないってバレるよな。裏手から入ろう」
「うん」
そろりそろりと門構えの中に入り、立派な庭園を眺めながら語り合うふうを装い、二人は裏へと回り込む。
「こういう時って、やっぱり最上階だったりするのかな?」
「そうじゃないことを祈りたいけどな」
「どうする、お兄ちゃん? 酔っ払いの真似でもしてみる? 部屋を間違えましたって」
莉々が真剣に言うと、天は苦虫を噛み潰したような顔で項垂れた。
「お前、どこでそんな変な知識仕入れたんだ?」
そんなやり取りをしている場合ではないのだが、二人は庭先でああでもないこうでもないと慎重になっていた。けれど、それでは埒が明かない。結局二人はこっそりと楼閣へ踏み込むのだった。
建物の中はひと際明るく賑やかで、やはり二人は場違いであった。
ただし、こうした場所では顔を隠すように動いても不審ではないことだけが救いだ。
二人はとにかく階段を目指して進んだ。磨かれた朱色の手すりが備えつけられた急勾配の階段を上がる。この楼閣は老舗であるのか、規模が大きい。楼閣の働き手も客も多く、紛れるには丁度よかった。
ただ、酒気を帯びた輩が多く、突飛な行動に出ることもある。途中で二人の前に立ち塞がり、莉々の顔を覗き込んだ男がいた。莉々を庇うと、天は鳴雪に向けるほどに鋭い眼力で相手を黙らせた。男は酔いが冷めた様子ですごすごと下がった。
そのまま四階までは続けて上がることができた。けれど、五階への階段は見えるところにはなかった。
「――五階はVIPルームってところか? 簡単には通してくれなさそうだ」
四階の回廊は下に比べると極端に人が少ない。上客のみが通されるところなのだろう。
「ここからはさらに慎重に行かなきゃね」
莉々はそう言って気を引き締め直す。が、そんな二人の決意も虚しく、急に開いた襖の奥から、この楼閣の主らしき男が出てきた。
風格のある、還暦を過ぎた頃合いの男だ。白髪の髪を後ろで束ねている。たるんだ頬と濁った眼が二人に向いた。そして、眉が片方だけ跳ね上がる。
「おや、お前のような妓がうちにいたかねぇ?」
二人はギクリと体を強張らせた。後ろへ下がることもできない二人に、主が近づく。
「今から花魁に育て上げるのは無理だが、器量はなかなかだ。それなりの上妓になら仕込めるかな」
莉々は内心パニックになっていたけれど、天が落ち着かせようと莉々の手を取った。
どうにもならない状況で、天は勝負に出ることにしたらしい。堂々とした口調で主に向かって言う。
「この店からは邪な気配が感じられた。俺はそれを探るためにここへ来たんだ。……結界の内側だっていうのに、この気配は妖怪だ。心当たりはないか?」
すると、主は一瞬僅かに怯んだ。
「妖怪、と」
天は答えずに主を見据える。はったりをかました以上、ここで揺らいではいけない。
そうしていると、襖の奥から低く重たい声がした。
「ほぅ、それを感じたというのか。面白い小僧だ」
シュルリ、と衣擦れの音がした。そうして回廊に姿を見せたのは、綺羅綺羅しい袈裟を身につけた僧侶だった。さっき聞いた雲行その人だろう。
主よりはいくつか若く感じられたけれど、坊主らしい禿頭だった。眉も剃り落としているのか見当たらない。
雲行からはピリピリと痛いような気を感じるけれど、それが神聖なものかどうかはよくわからない。
「あなたは何を思って妖怪を結界の中に連れ込んだんですか?」
もしかすると、なんらかの思惑があって、鳴雪の力を取り戻させないように妨害しているのだろうか。
莉々はそう考えたけれど、雲行から返った言葉は呆れたものだった。
「いや、あの娘、化生にしては見目が麗しかったのでな。捕まえて飼うことにしたのだ」
つまり、ペットにするために捕まえたというのだ。鳴雪たちが聞いたなら激怒するだろう。
二人が唖然としていると、雲行は気味悪くニヤリと笑った。
「興味があるようなら、おぬしたちにも見せてやろう」
すでに自らの所有物であるかのように扱う。二人は憤りを覚えつつも水巴のもとに近づけるチャンスとして静かにうなずくのだった。