参 ~三~
莉々はぬいと歩きながら話した。
虫探しを続ける天と鳴雪に断りなく移動してしまった。急にいなくなったら心配すると、普段ならばわかるはずのことが、この時の莉々には大した問題ではないように思われた。
そんなことよりも、ぬいの話を聞かなくてはと、そればかりを気にした。
二人は山を上へ登るのではなく、脇道へ逸れる。
ぬいは他愛のない話をしながらようやく本題へ入るのだった。
「……あの人との出会いはね、桜が見事に咲いた頃だったの」
あの人とは、ぬいの恋人だろう。莉々はドキドキと高鳴る胸を押えながらその先を待った。
ぬいのうなじに落ちる後れ毛さえも、得も言われぬ色香をまとっている。
「姿がよくて、見るからに良家の若様。しがない三味線弾きのあたしには縁のない人だと思ったのに、すれ違いざまに目が合ったの。射抜くような視線で、あたしが怖くなって目をそらしたら、涼やかな声で呼び止められたわ」
そして、とぬいは目を伏せた。
「名前を訊ねられて、それから、またそこで逢う約束をしてしまったの」
どうしてと訊ねるのも野暮なくらい、莉々にもわかる。その時、すでにぬいはその『若様』に心惹かれていたのだと。逢いたかったのはぬいも同じなのだ。
「深い仲になるのに時はかからなかったよ。あたしはあの人に多くは望まなかった。夫婦になりたいなんて言ったことはないし、逢えない日の恨み言も言わなかった。どんなに寂しくてもね……」
ぬいの長い睫毛に悲哀の色が見えた。好きで好きで、それでも上手くいかないことがあるのだと、莉々はひどく悲しくなった。祈るような気持ちでぬいの話に聞き入る。
「逢える日をただ、一途に待ち続けたの。待っている時でさえ、あたしには大事な時だった。そのはずなのに――」
声が震えて言葉が途切れた。その先を聞いてはいけないと、頭のどこかで警鐘が鳴る。
それなのに、莉々の口は心とは裏腹に言葉を発した。どういうわけだか、熱に浮かされたようにぼうっとしてしまう。
「それで、どうしたんですか?」
その問いかけに、ぬいは薄暗い眼を莉々に向けた。そうして、無理に笑った。
「長く来ない日が続いて、ようやく来てくれた時は嬉しかった。でもね、待ちわびていたあたしに、あの人は情事の後に嘲るように言ったの。……お前は本当に都合のいい女だなって」
「え?」
「少し甘い言葉を口にしただけで簡単に真に受けて、貞淑な女房気取りで俺を待ち続けて、莫迦なやつだって。逢いに来なかったのは、忙しかったからじゃない。お前を思い出さなかったからだって」
彼にはぬいのような女性がたくさんいたのだろう。そのうちの一人に過ぎなかったぬいを顧みなかった。そうした人間だと見抜けずに、上辺だけを信じて心を預けてしまった。その心は、無残に砕かれた。
最後に彼はぬいが傷つく様子を見て、自分への恋慕が本物であったことを確かめ、そうして愉悦に浸っていたのかもしれない。
ただ純粋に好きだという気持ちが踏みにじられたことを思うと、莉々は自分のことのように苦しくなった。どうしてぬいはこんなにひどい仕打ちを受けなければならなかったのだろう。
息が詰まって止め処なく熱い涙が溢れた。莉々が嗚咽を手で押さえ込むと、ぬいは儚く微笑んだ。
「それでね、あたしはそのまま帯紐を木に下げて首をくくったの。……ほらね」
さきほどまではなかったはずの赤黒い痣が、ぬいの首に浮かび上がっている。それを白い指がなぞる。痣の目立つ肌の白さは、透き通るほどだった。
気づけば陽が落ちかけている。こうした時間のことを逢魔が時というのではなかっただろうか。
莉々は逃げ出すことができなかった。足が縫いつけられたように動かない。
そんな莉々の背後に回り、ぬいは莉々の両肩に手を伸ばす。そして、耳元でささやいた。
「ねえ、優しい莉々ちゃん」
微かに触れた指先が氷のようだった。吐息にも熱がない。
「あたしを憐れんでくれるでしょう?」
ぬいを可哀想だと思う気持ちは莉々の中に強くあった。
けれど、その気持ちは莉々自身のものなのか、ぬいによって引き起こされているものなのかが判断できない。
ぬいはうっとりと一本の木を指さした。そこには青い帯紐が輪になって吊るされている。
「あの世ってのはね、融通が利かないんだよ。あたしが生まれ変わるためには、あたしの代わりに誰かが死ななくちゃならないの。あの世の死者の数は保たれなくちゃいけないんだって。――で、待ってるだけじゃあ駄目。自分で代替を探さなくちゃ。それも、あたしと同じ死に方をしてもらわなくちゃ条件がそろわないの」
莉々は頭が痺れるような感覚に陥っていた。ぬいの言葉だけが頭の中を支配する。
「ねえ、あたしはもう十分に苦しんだんだよ。莉々ちゃんなら代わってくれるよね?」
苦しげな声がした。
もし、ここで莉々が代わってあげなかったなら、ぬいはまだ苦しみ続けるのだろうか。
可哀想だと莉々の心が痛む。けれど、莉々が死ねば、天たち家族や鳴雪は悲しむだろう。
それは当たり前のことで、簡単に答えられる問題ではない。そのはずなのに、莉々は無性にぬいが可哀想で代わってやりたい気持ちになってしまう。
「ああ、どうしてあたしばかり――」
その嘆きの声に背中を押され、莉々は一歩前に出た。また一歩、また一歩と帯紐のかかった木へと近づく。その様子をぬいが眺めている。
もう、上手く考えることができなかった。莉々が死ねばぬいが救われる。それしか考えられなくなった。
「あと少し……あと少しで……っ」
喜びに満ちたぬいの声が遠くでした。莉々は帯紐に手をかける。その瞬間に、何故かぬいは、ぐぇっと呻いた。
莉々はハッとして帯紐から手を離すと、その場にへたり込んだ。今、何をしようとしたのか、それを思い出すだけで震えが止まらない。
その場から見えたのは、ぬいの首を片手で締め上げる鳴雪の姿だった。
「莉々殿におのれ風情が取り憑いて、許されると思うな」
その声は低く押し殺した響きがあり、身を焦がすほどの憤怒を感じる。整った横顔は冷徹に、怯えるぬいを睨み据えている。鳴雪の出す青白い狸火がぬいの言葉も何もかもを覆い尽くし、魂ごと消滅させてしまった。
後には何も残らない。ぬいは幻のようにしていなくなった。
独り佇む鳴雪の姿にはいつもの陽気さなど欠片もなく、それは妖怪としての顔であった。不幸な境遇のぬいに対する慈悲も憐れみも、そこにはない。
呆然とする莉々に、鳴雪が歩み寄る。いつものように笑いかけられても、今の莉々には笑い返すことなどできそうもなかった。
それは鳴雪も同じであったらしい。にこりともせず、ひどく厳しい顔を莉々に向けた。
そうして袴が汚れるのも厭わず膝を突くと、とっさに体を引いた莉々の顔を両手で包み込んで自分に向けさせた。その手がいつもよりも乱暴だったのは、鳴雪が莉々に対しても怒っていたからだと、すぐに気づけなかった。
「あれは縊鬼だ。ああして自分の代わりに死なせる人間に暗示をかけて首をくくらせる」
暗示――
そう言われてみれば、どこからが自分の意思だったのかがわからない。今になって余計に恐ろしさが増して震えがきた。けれど、莉々が怯えていても、鳴雪は厳しい面持ちのままだった。
「……暗示とはいえ、心を強く持てば払い除けることはできたはずだ。莉々殿はあの縊鬼を憐れんで、心のどこかで代わってやれたらなんてことを僅かにでも思うから、そこにつけ込まれたのだ」
鳴雪の言う通りだ。しっかりと自分を持って、ぬいの感情に引きずられなければ、こんなことにはならなかった。それができない弱い莉々だから、鳴雪は怒るのだ。
呆然としていた莉々を見つめていた鳴雪は、不意に表情を歪める。何か、泣き出しそうに見えた。
「莉々殿のそうした優しさに私も惹かれた。けれど、今回はそのせいで命を落とすところだった。莉々殿が死ねば、私や天殿はひどく悲しむよ。悲しむ者がいる以上、心を強く持ってくれなければ困るのだ」
「ごめん……なさい……」
切れ切れに莉々はつぶやく。鳴雪はそんな莉々を抱き締めた。息苦しいくらいに力が込められる。
「鳴雪さん、苦し……」
呻いても鳴雪は力をゆるめなかった。それどころか、さらに腕を巻きつけるようにして莉々を腕の中に閉じ込める。
「駄目だ。今放したら、また縊鬼に連れていかれるやもしれぬ」
莉々の体の震えが完全に止まるまで、鳴雪はそうしていた。互いの体温が汗ばむほどに感じられる。
気が遠くなりかけた頃、遠くで莉々を呼ぶ天の声がした。
その声に、鳴雪はようやく莉々を解放した。莉々が恐る恐る見上げると、鳴雪はそっと微笑んだ。
「そういえば、慌てていたので説明もなしに天殿のことを放ってきてしまったな」
莉々はその表情に少しだけ胸がざわめいた。心配をかけて苦しい思いをさせたのだと、今さらながらに思う。そして――
鳴雪が自分に向ける気持ちの強さを感じずにはいられなかった。
それはまっすぐで、ひた向きな想いだった。
もう一度、天の声がした。鳴雪は戸惑う莉々の手を引く。
「さあ、行こうか」
どこかに触れていなければ不安になる。そんな鳴雪の気持ちが伝わった。
だから、莉々にはその手を振り払うことができなかった。
鳴雪の気持ちにどう向き合えばいいのか、莉々は未だにわからない。こんなにも想われているくせにと、恋に破れたぬいに怒られてしまいそうだけれど。
「莉々!」
無事な莉々の姿を確認すると、天はほっとしたした様子で表情をゆるめた。
「お兄ちゃん」
莉々もまた、天の顔を見た瞬間に安堵から力が抜けた。
ただ、天は繋いだ二人の手を見ると、それを無言のままに手刀で切り離した。それも、わざと鳴雪の手に当てる。霊力でも込めていたのか、鳴雪がぎゃんと声を上げたけれど、天は冷ややかな目をしていた。
そうして鳴雪を放って莉々に顔を向ける。
「勝手にうろうろするなよ。心配するだろ」
「うん、ごめんね、お兄ちゃん」
ぬいのことは天には言えなかった。さっきの鳴雪と同じように怒るとわかっている。
流される自分ではなくて、もっと強くならなければと思うけれど、今はただ戸惑いが強い。
「まあ、無事でよかったな」
そう声を上げたのは、砕花だった。いつからそこにいたのか、懐手で佇んでいる。どうやら二人が横道に逸れている間に下りてきていたようだ。
「あ、砕花」
鳴雪が嬉しそうに彼の方を向くと、砕花は何か珍しく鳴雪にニコニコと笑った。ただし、笑顔の方が何故か威圧感がある。
あの笑顔が、『気を利かしてしばらく天の足止めをしてやったんだ。ありがたく思え』と物語ってるように感じられた。莉々の気のせいだろうか――
鳴雪も何かを感じ取ったのか、少し焦りながら言った。
「さ、砕花は何を捕まえたのだ?」
そんな鳴雪を砕花は鼻で笑う。
「麓で出してやる」
「う、うむ。では戻ろう。林火も待ちくたびれているやもしれぬな」
陽が暮れて、薄闇が山を包む。それでも、鳴雪や砕花が狸火を出してくれたので、山を下りるのに不自由はなかった。天は嫌そうに風呂敷で包まれた箱のようなものを持っていて、それがうっすらと幻想的に光っていた。あの中には蛍が入っているのかと莉々は思った。
青畝は蛍が好きなのかもしれない。蛍くらいなら莉々もまじまじと見つめなければ風物詩として眺めることができる。グロテスクな珍虫ではなかったことに心底安堵し、莉々は微笑んだ。
そうして、山の麓で待つ林火と合流することができた。
そこで莉々はふと気づく。あの麓にある社は、山に潜む魔を払い、無事に山を越えるために旅人が神仏に祈るためのものだ。
次は気休めだろうと祈ってから行こうと思う。
死者が生者の死をただ待っているだけではなく、積極的に自殺や事故死を幇助することで自分の代替を求めることを「鬼求代」という。
Wikipedia(沢田瑞穂 『鬼趣談義 中国幽鬼の世界』 平河出版社、1990年、131-139頁。ISBN 978-4-89203-181-6。)より。