参 ~二~
緑豊かな山中にて――
「――青畝ちゃんが好きな虫って、例えば、ちょ、蝶とか?」
莉々は恐る恐る鳴雪に訊ねた。虫なんて本当は探したくもない。
なら、せめて綺麗な翅をした蝶くらいであってほしい。それなら顔や腹を凝視しなければまだ許せる。
けれど、鳴雪は首をかしげた。そうして、何かを思い出したのか眉根を寄せた。
「蝶も嫌いではないはずだが、もしかすると蛾の方が喜ぶやもしれぬな。幼虫の背に面白い紋様が浮いていたりすると、一日中でも眺めていた……」
思わず想像してしまい、莉々はグッ、と呻いた。涙を浮かべていると、天が嘆息する。
「お前に捕まえろとは言わないから」
「お、お兄ちゃん、わたし――っ」
軽く頭に手を乗せて妹を宥める天を、鳴雪は羨ましそうに見ていた。
「莉々殿は虫が苦手か。それはすまなかった」
ただ、しおらしく謝ったかと思うと、飛び込んでこいとばかりにサッと手を広げる。
「まあ、莉々殿のことは私が護るので安心してほしい」
「ありがとう、鳴雪さん」
言葉とは裏腹に、莉々は天の腕にしがみつくのだった。寂しそうにされても、そこは仕方がない。あの辻では護ってもらったけれど、長い抱擁がついてくるかと思うと、簡単に頼れない。
天は呆れた目を鳴雪に向ける。
「で、どうする? とりあえず片っ端から木を見て回るか?」
「う、うむ。そうするか」
手始めに、近くの丈夫そうな幹をした木を天は軽く揺すってみた。パラパラと細かなごみが降ってきて、天は頭を振った。
「ちょっと揺すったくらいじゃ駄目だな。でも、一本ずつ登るのもな……」
そこで鳴雪は得意げに胸を張る。
「私が登ればすぐだ」
そう言ったかと思うと、すぐさまポンという音を立てて煙と共に狸の姿になった。フサフサの毛、つぶらな眼。中身があれだとわかっていても、莉々はこうなると弱かった。
「やっぱり可愛い!」
思わず抱き締めてしまう。毛並みが良く手触りも滑らかだ。鳴雪も何故狸になったのかをすっかり忘れて莉々に擦り寄っていた。
天だけは冷静で、鳴雪の首根っこをつかむと木の上に放り投げたのだが。
鋭い爪で木にしがみつく鳴雪に、
「早く探せ」
と、天はドスの利いた声で短く言い放った。鳴雪はトホホと嘆きつつ木の上の方まで登った。
その動きは素早く、登ったと思ったら瞬く間に地面に降りてきた。体に葉っぱを数枚つけている姿がまた可愛い。この姿の時は喋れない様子で、鳴雪は首を振って目当ての虫がいなかったことを知らせた。
「そんなにすぐ見つからないか。よし、次だ」
こんな地道な探し方になるとは思わなかった。砕花や林火にはそれぞれ百匹の妖狸がついている。
その総帥であるはずの鳴雪にいないというのも思えば変な話だ。砕花と林火は妖狸たちを駆使し、あっさりと変わった虫を捕まえているのかもしれない。
鳴雪の地道な努力は果たして報われるのかと、莉々は苦笑した。
けれど、可愛いからいいかと密かに思った。
木に登っている狸型の鳴雪と、その根元の草むらをかき分けて虫を探す天。莉々は申し訳ないけれど協力できなかった。
こんなことをしなくても、鳴雪がひと声呼んだら出てきてくれればいいのにと思いたくなる。青畝に限らず、百匹頭の狸たちはそれぞれに個性的なようだ。
莉々はやや下がった位置から二人を応援することにした。さらに少しずつ距離を取ってしまうのは、虫が捕まった時に備えてである。二人は真剣に虫を探していた。
思えば天は、小学生の頃は男の子らしく、色んな虫を捕まえていた。莉々が嫌がるので持ち帰ることはしなかったが、捕まえて友達にあげた、などという話を家でしていた。
この成り行きを、案外楽しんでいるのかもしれない。何が楽しいのか、女子には理解できないけれど。
莉々が手持ち無沙汰に眺めていると、ふと気づけば近くに綺麗な女性がいた。絣の着物に黒い帯、艶やかな黒髪を結い上げ、簪で飾っている。婀娜っぽく抜いた襟が白いうなじを魅力的に見せていた。
その女性は麗しく微笑んだ。
「何か探しものかしら?」
「えっと、そうなんです。虫を捕まえに……」
少し照れつつ、莉々は答えた。案の定、女性は不思議そうだった。
「虫? まあ、人それぞれ事情があるんだろうけれど」
上手く説明できない莉々は笑ってごまかした。
「お姉さんは旅の途中ですか? 女の人が一人で山を抜けるのは大変ですよね?」
こんなに綺麗な女性の一人旅は危険ではないだろうか。莉々は出会って間もない彼女のことを心配した。
そんな莉々の気持ちが伝わったのか、女性は嬉しそうに見えた。
「心配してくれてありがとう。あなた、優しい娘さんね。あたしはぬい、あなたはなんていうの?」
「莉々です」
名乗ると、ぬいはうなずいた。
「莉々ちゃんね。可愛いお名前。あそこにいる人はあなたのいい人? なかなか素敵だけれど」
鳴雪は狸の姿なので、天のことを言っているのだろう。ただ、『いい人』という表現が莉々にはよくわからず、首を傾げてしまった。
「いい人ってなんですか?」
正直に訊ねると、ぬいは口元に手を添えてコロコロと笑った。
「あらやだ本当に可愛い娘さんだこと。いい人っていうのはねぇ、恋仲かってことよ」
恋仲。恋人同士かと訊ねられたようだ。
莉々は思わず笑ってしまった。
「あはは、あれはお兄ちゃんです」
「あら、そうなの? そう言われてみれば、似ていなくもないね」
ぬいは何度も二人を見比べた。天は虫探しに没頭してぬいの存在にはまったく気づいていないようだ。鳴雪もである。
ぬいは莉々の顔をじっと見つめると、艶っぽい微笑を浮かべた。
「莉々ちゃんは、まだ惚れた腫れたには興味がないのかしら?」
「え、あ、そうかもしれません」
返答に困ってしまった。けれど、鳴雪の態度に困惑している自分は、やはりまだ誰が好きかなんて考えられていないのだ。鳴雪が狸だからとか、そういう理由ばかりではない。
すると、ぬいは言った。
「恋はねぇ、愉しくも嬉しくも、悲しくも恨めしくもあるんだよ」
美人のぬいは恋多き女なのかもしれない。その中には悲しい恋もあったのではないだろうか。莉々にはそんなふうに感じられた。その横顔に見とれていると、ぬいは微笑んだ。
「なぁに? 聞きたいの?」
興味がないかと言われれば、ないわけではない。聞いてみたい。それが素直な気持ちだった。
「はい、お聞きしたいです」
ぬいは再びコロコロと笑った。
「いいよ、話してあげる。少ぅし長い話になるかもしれないけれどね――」
❖
天と鳴雪はせっせと珍しい虫を探し続けた。
なんでこんなことをしなければならないのかと思わなくはない。
ごく普通の蝉やらカマキリやらに用はなかったが、天が見たところ、変わった虫などいるようには思えなかった。砕花と林火はすでに何か捕まえただろうか。あの二匹に頼りきるのも悪い。何かは捕まえたいところだ。
天がカサカサと音のする方を見上げると、鳴雪がまるでモモンガのように木から木へと飛び移る。その時、狸になっている鳴雪がキュゥッと鳴いた。あの姿では言葉を喋れない。何か言いたいことがあるのだろうけれど、伝わらない。
天は渋々、鳴雪の登った木に近づいた。
ぽぅっと昼の明るい最中でも光っているのがわかる。光を放ちながらその木に群がっているのは、草鞋ほどの大きさの、不気味としか言いようのない虫だった。後ろ手で縛られて膝をつく人間のような姿をした虫。
天がその気持ちの悪さに若干引いたところ、鳴雪が木の上から飛び降りて地面に着地する。それと同時に、ポンという音を立てて人型になった。
「あれは常元虫といって、罪を犯して断罪された魂が転生した姿であるとされる。これならば青畝も飛びつくだろう」
わらわらと沸く、そのおぞましさが業の深さを物語る。
なんとも嫌な虫だ。こんなものに飛びつく青畝の神経が、天には到底理解できない。
鳴雪は満足げにうなずくと、神通力で虫かごを出した。そこへ一匹の常元虫を放り込む。素手で触るのは鳴雪も嫌そうだったが。
青畝の趣味は鳴雪にもまったく受け入れられないようである。
一匹しか捕えなかったのは、二匹入れて共食いされても困るからかもしれない。
格子になっている虫かごの中に薄気味悪い虫がいる。鳴雪はそれをぶら下げたまま莉々のところへ戻ろうとした。
「おい、そんなの見たら、莉々が卒倒する。何かで包むかして隠せ」
「卒倒したら介抱する用意はあるが――まあ、それは酷だな。よし、わかった」
ポンと音を立て、紫紺の風呂敷を出した。それで虫かごを包む。
風呂敷で覆ってしまえば、ほんのりと光が見えるくらいだ。これならば大丈夫だろう。
「さて、もうここに用はないな。砕花と林火と合流するとしよう」
「ああ」
天も大きくうなずいた。けれど、そこでふと辺りを見回した。
「ん? 莉々は?」
それほど離れたつもりもないのに、姿が見えない。
「虫探しに没頭するあまり私たちが移動してしまったのか……」
「それも多少はあるが、莉々も嫌がって距離を保ってたんだろう」
「そうか。莉々殿を早く安心させてやるとしよう」
嬉々として鳴雪は言うけれど、虫を持っていたらいつも以上に莉々は寄りつかないだろう。そこがわかっていないようで、その抜けたところが少し可笑しかった。
莉々のことが絡まなければ、鳴雪もそう悪いやつではないと思うけれど、絡むのだから仕方がない。
二人は来た道をもう少しだけ戻ってみた。
けれど。
来た道を戻っても、そこに莉々の姿はなかったのである。
誰もいない。
黄緑色をした草葉が風に揺れているだけである。蝉の声が虚しく響いた。
「莉々?」
天は呆然と莉々の姿を捜した。しかし、やはり見当たらない。
「もしかして、先に山を下りたのか?」
このまま一人で登るとは考え難かった。麓には林火がいる。二人の姿が見えなくなり、不安に感じてそちらに向かったのかもしれない。けれど、その瞬間に、鳴雪は表情を強張らせた。
「っ……」
言葉を失くし、毛を逆立てるようにしていきり立つ。突然のことに、天は戸惑いつつも呼びかけた。
「鳴雪?」
それに答えることなく、せっかく探し出した常元虫の虫かごを放り出し、鳴雪は駆け出した。その背に天が再び呼ばわっても、鳴雪の意識はすでに天には向いていなかった。