弐 ~三~*
天は、自分の指先さえも見えない闇の中でとっさに体をずらした。
何故そうしたのかは、祖父に鍛えられた勘としか言えない。
その途端に、着物の袂を何かがかする。
「っ……」
恐怖心が胸に湧く。ただの高校生である天にとって、それは当たり前のことだ。
けれど今、それに負けたら死ぬかもしれない。
ここで死ぬわけには行かない。
天はつぶやいた。
「オン・マカシリ・エイ・ソワカ」
天の手元から放たれた光輪が次第に大きく広がり、その場を照らす。その時、天は目の当たりにしたものに愕然とした。
それは、蜘蛛のような手足を持つ妖怪であった。短い毛に覆われた黒い胴と顔は牛のようで、頭にも二本の角を生やしている。
赤く爛々と輝く眼と、鋭い牙。唾液を滴らせながら舌が覗く。
巨躯でありながらも、動きは俊敏であった。鋭い爪を持つ六本の足を捌き、咆哮を上げて天に襲いかかる。
躊躇っては殺される。天にわかるのはそれだけだった。
「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ」
次に天が作り出したのは、鋭い刃を持つ抜き身の太刀であった。以前の空間を斬った刀とはまた違う。もっとズシリと重く、それでいて手に馴染む。透かしの鍔の形や柄巻きの鮫肌の蒼さは、祖父、弦の部屋に飾られていた刀に似ている気がした。天はうっすらと光をまとう刀を構える。
しかし、牛のような蜘蛛のような妖怪の咆哮に脚がすくんだ。
こんなものはきっと幻で、あの怪異が見せた父と同じだ。幻なら怯まずに立ち向かって消すことだけを考えたらいい。天は自分にそう言い聞かせると、再び妖怪に向けて刀を構え直した。
妖怪が走るたび、地面に鋭い爪先が刺さる。突進してくる妖怪を見据え、天はその脚の一本を狙って斬りつけた。
象ほどもある巨体なのだ。脚の一本といえど、太く硬い。切断するほどの力は込められなかった。ただ、斬りつけた。
それでも硬い皮膚がすっぱりと裂け、どす黒い血が噴き出す。妖怪は、耳を劈く鳴き声を上げた。それは痛みに対する苦悶であり、傷つけた天への怒りである。
血が、肉が、痛みが、幻ではなくそこにある。
普通の生活を送ってきただけの天に、怪物と戦う心構えなどあるはずもない。護べき存在がそばにいたのなら、それでも必死で弱い心を隠して戦えたかもしれない。
けれど、ここには一人。ただ一人のひ弱な自分がいるだけ。
「あ、あ……」
喉の奥から、かれた声が漏れた。
心が黒く塗り潰される。恐れに負けた途端に、霊力の刀は霧散した。天の力は精神に左右されるのだと、この時になってはっきりとわかった。
辛うじて残っていた光輪が、妖怪の頭上から切れかけの電球のように辺りを照らしている。
あれが消えてしまったなら、天が生き残ることはできないだろう。
心を強く――そうは思うけれど、それは容易いことではなかった。
迫りくる妖怪に背を向け、天は駆け出した。落ち着けと自分に言い聞かせる。
毎日毎日、祖父について学んだ。どんな時も焦ってはいけないと言い聞かされたはずだ。
防具をつけることを許さなかった祖父の考えは、やはり正しい。実戦ではそんなもの、用意されていないのだから。
鬼のような形相をした牛の顔が近づく。巨体は鈍重そうに見えて素早い。走るたび、ドシドシドシ、と地響きを天に与える。
天は丸腰のままで走った。光輪はまだ頭上にある。
戦えなければ死ぬ。莉々をこのわけのわからない場所に残して、天は死ぬことになる。
鳴雪が命懸けで護るかもしれないけれど、それは莉々を家に帰してくれるためではない。自分の伴侶とするためにだ。
だから、莉々のことに関しては頼りたくない。
こうして走り続けても、体力は磨り減るばかりだった。妖怪にとって、天のつけた刀傷などかすり傷に過ぎないのか、動きが鈍ることもない。
一度、覚悟を決めるべきだろうか。
自分には戦う力がある。そう信じる。天にはそれしかないのだ。
天の足元を妖怪の爪がかする。それに足を取られそうになりながらも、天は叫んだ。
「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ!」
右手に意識を集中する。体内の血が逆流するような感覚だった。
そうして、光と共に再び太刀が具現した。今度は躊躇ってはいけない。倒すつもりで向かわなければ。
次のチャンスはもうないと覚悟をして、天は足を止めた。
振り返った天の頭上に妖怪の鋭利な爪が迫る。そのドリルのような爪の先端を、天は刀を振るって弾き飛ばした。
霊力のこもる刀は天自身も驚くほどに強固だった。
目覚めたての力は、未だに扱いあぐねている。それでも、今できなければならないのだ。現実が、未熟な自分に合わせてくれることはない。
歯を食いしばり、地面を蹴って天は妖怪の体重を支えている中足に斬りつけた。今度は切断するつもりで、単純な膂力ではなく霊力を込めるイメージを太刀に乗せた。
ズブリ――
天の刀は、鈍い音を立てて妖怪の中足を切断する。
けれど、垣間見た足の断面の骨の白さと、次の瞬間に溢れ出た暗い血の色に吐き気が込み上げた。天は必死で堪え、涙を浮かべながら次の攻撃に繋ごうとする。
降り注ぐ血と臭気、その中で天は自分を保つことを強く意識していた。
足元が血でぬかるむ。足を取られないように一度下がると、天は妖怪の後ろ足をも同じように切断した。
すぐさま後ろへ飛び退く。重たい体を支え切れなくなった妖怪は、傾いて崩れ落ちた。
その時、天の中には妖怪の動きを封じたことへの油断があった。
ほっとひと息ついたのも束の間、妖怪は自らの作り出した血溜まりの上でのたうちながら体を回転させ、天に一矢報いた。
鋭く太い爪先が、背中から天の脇腹を突き刺す。
「っあぁ……」
気が遠くなるような激痛が奔った。妖怪と天の血が、地面で混ざり合う。
けれど、天は力を振り絞って、天を捕食しようと迫った妖怪の口内から上顎に刀を突き立てた。
ありったけの霊力を込め、その刀の切っ先を深く差し込む。断末魔を上げることもなく、その妖怪は果てた。
妖怪が完全に倒れ込み、天の背中から爪先が抜けた瞬間に、天も同じように倒れ込んでいた。
ゴホゴホ、と咳き込んでむせびながら血を吐いた。内臓が傷ついているのだろう。
鳴雪や砕花がそばにいたなら、少しくらいは救いもあった。けれど、もう間に合わない。
この傷だけではなく、体全体を蝕むような感覚がある。自分なりに助からないと感じてしまうほどの苦痛だった。
「……ごめん、な、莉々」
口から血と共に零れたのは、謝罪の言葉だった。
家族を残して死んだ父は、今の天よりももっと無念だったんだろうかと、そう思えた。
意識が遠退いた時、天が最後に聞いたのは女性の声だった。落ち着いた大人の声だ。
「――おや、牛鬼を倒すなんて、大したおヒトだね」
そばにやってきた女性は、天の傍らにしゃがみ込むと、ほっそりとした指先で天の顔に触れた。
「大したものだけど、どうやら牛鬼の毒を食らっちまったみたいだ。これはなかなかに危うい状態だねぇ」
そこで一人、うぅんと悩んでいる。
「このまま放っておいたら死んじまうね。見捨てるのも忍びないし、助けてやりたいのは山々なんだけどね、どうしようか……」
瀕死の重傷の人間がそばにいるというのに、女性は随分とのん気だった。けれど、今の天には抗議することもできなかった。
女性はそこで、自分なりに納得の行く答えを導き出したようだ。ぽん、と手を打った。
「よし、助けよう」
そうして、何やらその場でごそごそと用意を始めた。
「この伝膏は貴重な秘薬。本来なら我らの総帥のお許しがなけりゃ使っちゃいけないんだけどね、仕方がないから、今回ばかりはあたしが叱られることにしてあげるよ」
その指先が天の懐に伸び、血を吸った着物の襟を開かせた。そうして、天の傷口にひやりと冷たい湿り気を持った指が触れる。指は傷口を何度も何度も撫でた。
薬が間に合うとは思えないような広く深い傷が、嘘のように塞がっていく。それを天は感じたけれど、同時にひどい激痛を伴った。それは染みるというレベルの話ではない。どちらかと言うなら、成長痛の極端なものだ。
「いっ――!」
「そりゃあ、これだけの傷を急速に塞ぐんだから痛いよ。でも、生きられるんだ。我慢おし」
身をよじった天の肩を細腕が押さえつける。ぬりぬり、と女性は傷口で指を動かし続けた。
声には少しの焦りもない。この牛鬼と呼ばれた妖怪の死骸にもまるで怖がる様子を見せない。
彼女は、少し――わりと、変わっているのかもしれない。
天がひたすらその痛みに堪えていると、ほどなくして痛みは嘘のように引いた。ハッとして目を開いた時、天はようやくその命の恩人の顔を見た。
二十代前半くらいの美女だった。紐で引っかけた丸眼鏡をかけ、長い髪をしっとりとゆるく結い、簪で止めている。落ち着いた珊瑚色の着物に臙脂の道行を着ている姿には大人の女性の色香がある。
その女性は、艶やかな唇をゆっくりと弓なりに形作った。
「もう大丈夫だね。よかった」
「あ、ありがとう。どんなに礼を言っても足りないな……」
血だらけでみすぼらしい状態の天は、それでも彼女に頭を下げた。その女性はクスリと笑う。
「ん、まあ助かってよかったよ。それにしても、辻神もひどいことをするね。牛鬼なんてあたしでも苦戦するよ」
辻神というのがあの男だとして、その後の言葉の方が少し引っかかった。一見か弱いように見える彼女も何かの怪異であるのだろうか。
傷を塞いだ不思議な薬からして、そうなのかもしれない。
そんなことを考えていると、目の前がパッと明るく照らされた。そうして、闇は晴れる。
急激な変化に天が顔の前で手をかざすと、青く広がった空とまっすぐに伸びた田園風景の道が現れた。
そこに、あのしなやかな柳のような空気を持つ男が立っていた。
「取っておきを用意したのだが、見事だな。この歪な世界に大きく関わる君だ。私も試さずにはいられないのだよ」
クスクスと癪に障る声で笑う。
辻神はこの混合世界の異変に気づいているのだろう。そうして、それが天たちによるものだとも。
だからこそだと言うけれど、危うく死ぬところだった身としてはすんなりとその言葉を受け入れられない。
「あんた、俺が死ねばいいと思ってたんじゃないか?」
思わずそう言うと、辻神はうなずいた。
「それもこの世が決めること。君はまだ死ねぬようだ」
何かはぐらかされたような気持ちになったけれど、今この神の機嫌を損ねてまた何かを仕掛けられても、乗り越える気力はない。
天は大人しく訊ねる。
「なあ、俺の連れにも同じようなことを仕掛けたのか?」
莉々に戦うことはできない。それが一番不安だった。
辻神は不敵に笑う。
「一本の道だけは何もないただの道。それ以外には用意したけれど、あまり意味はなかったようだ」
「莉々は……」
「娘がいた道の妖怪は、彼が排除してしまった」
彼というのは鳴雪か砕花か。どちらにしても莉々は無事だと知り、天はほっとした。
「連れに会わせてくれ」
そう言うと、辻神は穏やかに微笑んだ。
「この道の先にいる。では、君の行く末に幸多からんことを――」
辻神が手を振り上げると、パラパラと金の粒のような光が降った。その光に触れた場所から、天の着物が修復された。こうなると、何か悪い夢でも見ていたような気分だった。
その中で、傍らの女性は光を眺めながら天につぶやく。
「あたしがお前さんのいる道に迷い込んだのも、辻神の悪戯なのかねぇ。あたしはただ、愛しいお方のにおいがした気がして――」
そこで、とても目を開けていられないような光の渦に巻かれた。次にまぶたを開いた時、そこには莉々がいるのではないかと思えた。