弐 ~二~
鳴雪が出した蛇の目傘は、縁と中央が紅である。それに対し、砕花が出したものは深緑だった。四人は傘を差し、辻を行く。
けれど雨脚は強まるばかりだった。莉々は傘を深く構えて雨を凌ぐ。
そんなゲリラ豪雨に、一行は歩くこともままならなくなった。
傘がひどく重たく感じる。皆の姿も確かめられないほど、辺りは白く濁って見えた。
莉々は立ち止まり、雨が過ぎ去るのを少しだけ待ってみた。
そうしていると、雨は次第に弱まり、先ほどの勢いが嘘のようにピタリとやんだ。莉々は恐る恐る傘を下ろして空を見上げる。雲間に青空が見え、ほっとして振り返ると、そこには誰もいなかった。
「え……」
あまりのことに呆然としてしまい、それから再び周囲を見回すと、背後に見知らぬ男が立っていた。さっきまでは確かにいなかった。莉々は驚いてその男から距離を取った。
長くまっすぐな薄鼠色の髪が肩にかかっている。年齢は二十代後半くらいだろうか。不気味なほどの落ち着きを見せている。旅装ではなくゆったりとした着流しで、人のことは言えないけれど場違いに感じられた。
「どうした? 仲間の姿が見えぬので不安か?」
クスクス、と男は笑う。
「あ、あなたは誰ですか?」
莉々は思いきって男に訊ねた。すると、男は面白そうに口の端をつり上げた。
「誰、か。そんなことは問題ではない。君はこの辻を抜けることができるかな? 楽しみにしているよ」
ドクリ、と胸が鳴った。
この男はきっと、人間ではない。そう感じてしまった。
だから、男の姿が次第に薄れて消えても、莉々はそう驚かなかった。
男を呼び止めたところで、何を訊ねていいのかもわからない。
今のこの状況はなんなのだろうか。莉々は独りで途方に暮れた。
けれど、ここで立ち止まっていても時間が過ぎるだけだ。早く皆と合流しなければ。
莉々は傘を手に歩き出す。
「お兄ちゃん!」
とりあえず声を出したのは、やはり不安だからだ。空が鈍色に変わる。曇天の辻を独りで歩く。
「鳴雪さん!」
「砕花さん!」
返事はなく、どこまでも続く辻の先からこだまが返るようであった。永遠にここを歩き続ける、そんな気がして恐ろしくなった。
震える脚で、それでも前に進む。
心細くて寂しくて、涙が滲んでしまった。ここで迷子になることは、現実世界とはわけが違う。
――そうして、どれくらい歩いていた頃だろうか、突如辻の風景の一角にひびが入った。ガラスに亀裂が走ったような具合で、風景がパラリと崩れる。その綻びを広げようとする何者かがいた。
そこからうっすらと光が漏れ、最後の爆発音に莉々は驚いて尻餅をついてしまった。あの豪雨は幻だったのか、地面がすでに乾いていたことだけが救いだ。
「!!」
その場でひっくり返っていると、その綻びから飛び出してきたのは鳴雪だった。無事な莉々の姿を確認すると、鳴雪はパッと顔を輝かせた。
「莉々殿!」
「め、鳴雪さん?」
なんとか立ち上がった莉々を、鳴雪は勢いよく抱擁する。どうやら本物の鳴雪だ。
「よかった! 無事だな」
「う、うん」
さっきまでがあまりに心細かったせいか、抱き締められても怒る気になれなかった。それどころか、ほっとしている自分を感じた。けれど、力が強く、息苦しいのでやっぱりもがいた。
「鳴雪さん、お兄ちゃんと砕花さんは?」
解放されて早々に莉々が訊ねると、鳴雪は苦笑した。
「多分、二人は別の道だ」
「え?」
「ここは辻神のおる地のようだ。迂闊だった」
「つじ……がみ?」
鳴雪はこくりとうなずく。
「辻を行き交う人々に悪さをするやつだ。私たちは丁度四人。十字の分かれ道をバラバラに飛ばされたのだろう」
もしかすると、あの男がその辻神だったのかもしれない。今さら恐ろしさが込み上げる。
「砕花と天殿はまだいいのだが、莉々殿には戦う術もない。なんとかして合流せねばと道を突き破ってきたのだ」
「あ、ありがとう鳴雪さん」
素直に感謝した。すると、鳴雪は嬉しそうにうなずいた。
「よいのだ。私が莉々殿を護るのは当然のこと」
「え、あ、うん」
戸惑う莉々の手にあった傘を、鳴雪はポンと消した。
「さて、行こう。砕花と天殿と合流せねばな」
鳴雪は莉々の手を取り、それを引いて歩き出す。莉々は振り払うことをせず、手を繋いで歩いた。
「ねえ、鳴雪さん」
声をかけると、鳴雪は莉々に目を向けた。
こうしていると、本当に人間にしか見えない。背の高い、秀麗な青年だ。
「うん、何か?」
微笑む様子も優しい。莉々は複雑な心境でつぶやく。
「鳴雪さんのお嫁さんは、わたしみたいな人間じゃなくて、同じ狸さんの方がいいんじゃないの?」
こんなことを言って気分を害してしまっただろうか、と莉々は後になって思った。
けれど、一度口に出してしまった言葉は取り消せない。恐る恐るその答えを待つと、鳴雪は何故か笑っていた。
「私も以前はそう思っていたので完全に否定はできぬな。ただ、それは莉々殿に出会う前のことだ。莉々殿に出会って、そうした考えはどこかに吹き飛んでしまったよ」
「そ、そうなんだ……」
自分で振った話だというのに返答に困ってしまった。こうもストレートな言葉を言われ慣れていないので、どうしても戸惑う。
照れてうつむくと、それでも嬉しそうな鳴雪の声がした。
「とても不謹慎なのだが」
「え?」
「辻神には感謝してもよいな」
莉々が再び見上げると、人懐っこい鳴雪の笑顔があった。そうして、莉々の手を握る力が僅かに強まる。
「こうして莉々殿と手を繋いで二人で歩けるのだから」
今は天の横やりも入らない。いつもならすかさずなので、莉々は特に答えもしないで済んでいた。こうした時、何を言えばいいのかまるでわからない。
困り果て、ずるいかもしれないけれど、なんとなく話題を変えてしまった。
「えっと、お兄ちゃんと砕花さん、先に着いて待ってるかもしれないね。急がないと怒られちゃうかも」
鳴雪が隣で苦笑した。
「そうだなぁ」
手は繋いだまま、二人は歩いた。道の途中、鹿のシルエットが描かれた道路標識がポツリと立っている。どう考えても不自然なのに、そこにある。
けれどこれを不自然と思えない人間が大半なのだろう。何故という疑問がまず湧かず、これはこうしたもの、と認識してしまう。これが混在世界ということ。
しかし、あまりにも害のないその混在に、莉々は少し可笑しくなった。
❖
天は強い雨の中、砕花に借りた傘を頼りに歩いた。夕立という時間ではないものの、ひどい雨だった。
けれど、こう強い降り方は長くは続かないはずだ。しばらく辛抱すればいいだろうと高をくくっていた。
一寸先さえも見えない雨脚だけれど、進んだ道に分岐点はない。まっすぐに行くだけだ。
そうしていると、ようやく雨が上がった。
ほっとして天は傘の下から手を出して、雨がすっかり止んだことを確認すると傘を閉じた。そして、そこで愕然とした。
誰もいないのだ。
莉々も、鳴雪も、砕花も。
ただ青田の見える風景の中、正面に延びる道があるだけ。
光はまだ見えない薄暗い空を見上げ、そうして天は叫んだ。
「莉々!!」
鳴雪や砕花はいい。けれど、こんな物騒な場所で莉々を一人にできない。
はぐれたのが自分だけなのか、それとも皆がバラバラになってしまったのか、天には判断ができなかった。
「……くそっ」
毒づいて駆け出す。少し走り出したところで天はピタリと足を止めた。
やはり、何かがおかしい。
あれだけの雨だったというのに、辻には水溜りひとつなかった。それに、濡れていて当然の天の草履も袴の裾も、染みすらなく乾いている。
あの雨は、怪異の仕業ではないだろうか。
狐狸妖怪の類に化かされている。天はそう感じたのだ。
「誰だ? こんなことをして喜んでいるのはっ!」
そう鋭く声を上げると、天の背後で涼しげな声がした。
「おや、早々に気づいたとは勘のよい少年だ」
勢いよく髪を乱して振り返ると、そこにいたのは一人の青年だった。
長くまっすぐな薄鼠色の髪。二十代後半くらいで、どこか相手の心をざわつかせる雰囲気を持っている。着流しの軽装で立っていた。
「お前、人間じゃないな?」
睨みつける天に、青年はクスリと笑った。
「そうさね、けれどそんなことはどうでもよいのではないかな。君はこの辻を抜けなければならぬのだろう? 連れを探すのならば尚さらだ」
連れ。
そのひと言に天の顔つきが変わる。それを彼は楽しげに眺めた。
「君はなかなかに見所がある。楽しませておくれ」
それだけを言うと、その青年は姿を消した。やはり、怪異だ。
彼を見つけ出し、斬りつければここから抜け出せたのだろうか。
けれど、無闇に手を出せる気がしなかった。
この状況を抜け出さなければならないことだけは確かで、そのためにどうすべきなのかはわからない。ただひたすら歩くだけでは駄目な気がした。
それでも、天はとりあえず歩くしかなかった。
その薄暗くなった道の先には、映画館のスクリーンのように懐かしい顔が投影された。今よりも若い母と祖父と、幼い莉々の姿だった。皆、一様に黒を身につけていた。喪服の母は、やつれて見えた。
ああ、これは父の葬儀だと、天は思い出す。母の負担にならないよう、泣きじゃくる莉々の手を引いて慰め、自分は泣かないように堪えた。
しっかりした子だと皆が褒めてくれたけれど、本当は素直に泣ける莉々が羨ましかった。
優しくて強くて、同僚の人たちからもよく慕われていた父。
警察官は危険な仕事だったのだと、この時になって初めて気づいた。
それまではただ、テレビの中のヒーローのように悪人を懲らしめる正義の味方だと憧れていた。
それが呆気なく死んでしまった。犯罪組織の追尾中に、車に衝突されたのだという。隣に乗っていた同僚が一命を取り留めたのは、父がとっさにハンドルを切ってそちら側を庇ったからだとか。
立派な人だった。それは間違いない。
だからこそ、ポカリと胸に穴が開いた。
子供の天には、あの代わりはできない。自分よりも小さな莉々の手を包むことしかできなかった。
大好きだった父だけれど、許せない気持ちもあった。自分たちを置いて逝ってしまったことを。
仕方のないこと――そう思えないほどには、天も子供だった。
それなのに、高校に入って将来のことをそろそろ考えなければならないという岐路に立った時、天の口からは驚くような言葉が出た。
「警察官になろうかと思います」
担任の教師は驚きもしなかった。そうか、と目を細めて言った。
天は、いつまでも父親の影を追っている。自覚したのはその時だった。
振り向かない大きな背中。落ちる影を追う子供のままだ。
本当にこれでいいのか。逝った父と同じ道を辿るように、生き急いでいるのではないだろうか。
また、莉々や母たちを悲しませるだけの結果になるのではないだろうか。
迷いや不安は尽きることがない。
それでも、もう語り合うことができない父が歩んだ道を行くことで、より父を理解したかったのかもしれない。
映像が変わり、そこに父の姿が浮き上がる。父もあの祖父に小さな頃から鍛え上げられてきたのだ。弱々しさは微塵もない、快活な笑顔だった。けれど、不意にその笑顔が歪む。
『なあ、天』
映像の中の父が語りかける。天は思わず足を止めていた。
「父、さん?」
こんなものはまやかしだ。あの怪異が見せているだけの。
父を騙る偽者だと――そうわかっているはずが、出た言葉はそれだった。
映像の父は満足げにうなずく。
『お前は強くなりたいのか?』
「はい」
そうだ、強くなりたい。父のように強く。
それが天の、何よりの望みだ。
すると、父はおもむろに言った。
『そうか。では、今のままではいけない。お前には試練が必要だな』
「え?」
『見事、掻い潜ってみせろ。それができぬのならば――』
立ち尽くす天に、父は吐き捨てるように短く言葉を切った。
『ここで朽ちるだけだ』
テレビのように途切れた映像。天がいる場所は暗闇に閉ざされた。
空と大地が逆転してもそれとわからないような闇だった。
そうして――
さわり、さわり、と何かが蠢く音がする。