零 ~一~
「――様」
ししおどしの音が月夜に鳴る。
整えられた庭園の縁側で月を見上げる青年は、涼やかな少女の声に首を向けた。青年は良家の若君といった端整な風貌である。
彼を呼んだ少女もまた、目元に色香を漂わせる美しい少女であった。赤い振袖と短い髪に飾った椿の髪飾りがよく似合っている。
少女に向け、青年はにこりと微笑んだ。
「月を見ていたのだ」
「月を、ですか?」
少女が青年の後ろに座すと、青年は少女ではなく丸い月を見上げたままで言った。
「平和なものだなと思うてな」
この地は平和である。
けれどそれは、皮肉なもの。彼が口にすれば尚のこと。
「このままでよいような気になる」
ぼんやりとそんなことを口にする青年に、少女は戸惑いつつも答える。
「そうかもしれません」
少女の声は硬く、年頃の娘らしい無邪気さはなかった。その声から生真面目な気質が窺える。
「ま、先のことなど誰にもわからぬな」
月明かりに照らされ、青年は不安よりも希望を感じさせる力強い声で言った。
それは、何がしかの予感であったかもしれない。
❖
どこの家も慌しい朝の時間。
そこは畳に障子という和風な作りながらに、小物の数々は女の子らしい部屋であった。
少女はひとつ伸びをして布団から抜けた。ベビーピンクのパジャマ姿で、洗面所の鏡に起き抜けの自分を映す。背中まであるストレートの黒髪には癖がつきにくく、手入れが楽なのが自慢だった。黒目が大きく、愛玩動物っぽい印象だとよく言われる。
そんな西原莉々は高校二年生の少女である。
莉々は歯を磨き、顔を洗うと部屋に戻って制服に着替えた。赤いリボンとブレザーの制服だ。
それから、莉々は母の待つ台所へ向かった。朝食の支度と弁当作りの手伝いである。それが莉々の日課だった。
「おはよう、お母さん」
「おはよう、莉々」
手を止め、にこりと笑って振り返った和服美人が莉々の母、由美である。
母は今時珍しく和服で過ごすことの多い人だ。美人で、割烹着さえとてもよく似合う。
「何をしたらいい?」
手を洗いながら訊ねると、由美はうぅんと考えてから言った。
「じゃあ、お味噌汁作って。豆腐とワカメね」
「はーい」
言われるがままに煮干で出汁を取り、具を入れ、味噌を溶き、味見をする。それから、弁当箱ふたつに用意されていたおかずを配置に悩みながら詰める。ふたつ――ひとつは莉々のもの。そうしてもうひとつは、莉々の年子である兄、天のものである。
莉々が弁当を詰め終ると、由美は一人前の食事を盆に載せていた。それは父の影膳である。
「莉々、もう少しだからおじいちゃんと天を呼んできてくれる?」
「うん」
この家に、父はいない。莉々が小さな時に亡くなった。警察官だった父は殉職してしまったのだ。
それ以来、母は毎朝父の霊前に朝食を届ける。その語らいの間に、莉々は祖父と兄を呼ぶのだった。
莉々は廊下を小走りに進む。その先に二人はいる。
寝ているわけではない。むしろ、二人は莉々以上に早起きである。
その空間だけは世俗とは無縁の、静寂で神聖な場所だった。莉々は呼吸を止めながら、小窓よりその中を覗き込む。
姿が映るほど磨き込まれた道場の板敷の上、剣道着の天と作務衣姿の祖父が向かい合い、座していた。
兄の天は艶のある黒髪に切れ長の目をしている。姿勢がよく、それ故に手足も長く見える。秀麗な顔つきの横顔に、妹の莉々でさえ惚れ惚れとする。莉々にとって、天は自慢の兄だった。
天はこうして毎朝、師である祖父に剣術の指南を受けている。顔をつき合わせ、技と心を試される。武術は心技一体だと、集中が散漫な時は稽古すらつけてもらえないらしい。
天なりに、祖父が自分に向ける厳しさを理不尽だと言っていた幼い時期もあったけれど、今ではそうしたことはない。
無言で立ち上がった祖父が竹刀を握る。これが合図だった。
「ご指南、お願い致します」
天が深々と三つ指を突いて低頭する。
スクリと立ち上がった天は、引き締まった面持ちであった。姿勢のよい立ち姿は、十八という年齢よりも格段に落ち着いて見える。今時の高校生らしくないとよく言われるのは、褒め言葉だろう。
こうした時、面などの防具はない。祖父は、剣術はあくまで実戦に通用するべきだと言う。防具をつけた試合ならば勝たずともよい。けれど、身ひとつ剣一本の実戦ならば負ければ死ぬ。必ず勝つべきなのだと。
パァン、と竹刀の合わさる音が早朝の道場にこだまする。年齢を重ねても祖父の腕は衰えを知らない。天が勝機と思って打ち込めば、その慢心を読まれて脇腹にカウンターを食らう。
「ぐ……っ」
天が息を詰まらせて体をよじると、うなじに竹刀が下りた。
「これが真剣ならばお前は死んでいるぞ、天」
撫でつけた髪が白髪ばかりでなければ、もっと若く見える。皺の少ない祖父の皮肉な顔に天は唸った。
「申し訳ありません」
「申し訳ないと思うのならもっと精進しろ。それでは護れんぞ」
二人のやり取りが終わったと確信して、莉々は声をかけた。
「おじいちゃん、お兄ちゃん、朝ごはんできたよ?」
神聖であった道場の空気に莉々が隙間を作る。顔を覗かせた莉々に、祖父、弦は厳しかった顔を別人のように綻ばせた。
「おはよう、莉々。そうか、では頂こう」
「うん!」
弦は天を振り返ると鋭く睨む。
「いつまでへばっている? せっかくの朝食が冷めてしまうぞ」
「はい……」
この祖父、孫息子には鬼のように厳しく、孫娘にはとことん甘い。
例えば、莉々が自分も剣術を習うと言って竹刀を持ち出せば、怪我をするから駄目だと言って取り上げる。莉々を守るのは兄である天の役目だそうだ。
要するに、古風なのだ。男は強く、女はしとやかにと。
❖
そうして、西原家の四人は居間に集合する。
厳しい祖父と、ほんわかとした気質の母が血の繋がった親子であると気づく人は少ない。大抵は息子の嫁だと思われる。
西原家はこのように祖父が道場を開いているため、住まいにも洋室はなく、日本的な佇まいであった。高校生の莉々としては洋室に憧れるけれど。
ムツの照り焼き、出汁巻き卵、豆腐とワカメの味噌汁、牛肉の時雨煮、ほうれん草の胡麻和え、昆布としいたけの佃煮、ナスのぬか漬け。
基本、朝食はほぼ和食である。
「天、おかわりしてね」
「はい、ありがとうございます」
母は天の生真面目な返答に苦笑する。母親に対しても敬語なのだ。
これは厳しい祖父の手前、いつの間にかそうなってしまったようだ。
母の由美はおっとりとした動作で炊き立ての飯を茶碗に盛り、それから席に着いた。莉々も茶を注ぎ終えると腰を据える。
「いただきます」
皆がそろえて口に出す。けれど、母はいつも祖父が箸をつけるのを確認してから食べ始める。父親や夫よりも先に食べることをしない。
母もまた古風な人なのだ。この祖父の娘なのだから、そうなるのは当然かもしれないけれど。
あたたかな湯気の上る食卓。脂の乗ったムツは柔らかくて美味しかった。莉々は肉よりも魚が好きなのだ。
最後にポリポリとぬか漬けをかじっていると、そろそろ家を出なければいけない時間になっていた。先に食べ終えて道着から制服に着替えていた天が背後から現れる。
「莉々、そろそろ行くぞ」
莉々は慌ててぬか漬けを茶で流し込む。そんな莉々とは正反対に落ち着いた天は、祖父と母に軽く頭を下げた。
「いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
弁当を手渡し、母は嬉しそうに微笑む。天は日増しに亡くなった父に似てきたので、惚れ惚れするらしい。気持ちは莉々にもよくわかる。
莉々も自分の弁当をカバンに詰めてから二人に笑顔を向けた。
「おじいちゃん、お母さん、いってきます!」
「ああ、気をつけてな」
爪楊枝をくわえた弦がニコニコと見送ってくれる。
兄妹はそろって家を出た。
――この時は、ここへ戻ることが困難な道のりになるとは思いもしなかった。
天は学ラン、莉々は赤いリボンのついたブレザー。二人の高校は別である。
天は男子校であり、莉々はごく普通の共学高校である。同じ高校に入れればよかったのだが、そこは仕方がない。
莉々にとって天が自慢の兄であるように、文武両道、眉目秀麗と来れば、学校でも目立つ存在のようだ。ファンクラブらしきものがあると噂に聞いたけれど、男子校なのであまり深く考えないことにした。
友達からも、天とお近づきになりたいから家に遊びに行っていいかとよく言われたのだが、実際に来てみると、天と顔を合わせる前にあの祖父の威圧感に驚いて皆帰ってしまうのだった。
莉々には優しい祖父なのだが、礼儀や慎みにうるさいところがある。莉々ちゃんの家はひと昔前の時代だね、と言われた。
「莉々、天、おはよ!」
ちょこちょこと駆けてきたのは、二人にとって幼なじみの少年、藤和紫緑である。
「あ、シロちゃん、おはよっ」
紫と緑の名を冠する少年を、『シロ』と皮肉なあだ名で呼ぶ莉々であった。幼稚園の頃からのつき合いであるため、今さらなのだが。
彼は莉々と同学年、同じ高校である。ついでに言うならクラスも同じであるし、身長も大差ない。やや高めの莉々と、やや低めの紫緑だった。髪もうっすらと茶色がかっていて線も細い。外見に関しては本人が気にしているので、莉々もあまり指摘はしない。
「紫緑、今日も莉々のことをよろしく頼む」
天はいつも莉々を紫禄に託し、二人がバスに乗るのを見送ってから学校に向かうのだ。天の通う学校は坂を上った先にあり、このバスが過ぎ去ってから坂を上り始める。
バスの後部座席で手を振りながら、莉々は見送る天を眺めていた。
「お兄ちゃんは過保護だよね」
紫緑にそう言いつつも、実のところ莉々はそれが嬉しい。紫緑はんー、と唸って天井を仰いだ。目が泳いだと言うべきか。
「まあ、わからなくもないんだけど」
「え?」
「なんでもない」
天は莉々のことをとても大切にしてくれている。
友達たちは、兄がいても仲が悪かったりする。それが莉々には信じられない。できればいつまでも一緒にいたいと思う。
「ねえ、シロちゃん」
「ん?」
「今日の帰り、少しだけつき合ってくれないかな?」
「ど、どこへ?」
紫緑は瞬きを何度も繰り返した。食い入るように莉々を見る。
莉々はにこりと微笑んだ。
「ほら、今日からテスト習慣だし早く帰れるから、お兄ちゃんの学校に寄ってから帰りたいの。でも、男子校にわたし一人で行くのはちょっと気が引けるし」
「……何しに行くんだ?」
紫緑の声が心なし低くなった。けれど、理由がわからないので気のせいかもしれないと莉々は片づけた。
「うん、お兄ちゃん三年生だし後一年で卒業だもん。それまでには一度お兄ちゃんがいる学校を見てみたいなって」
「ああ、そう……」
冷たい返答のようでいて、紫緑はいつもつき合ってくれるのだった。そんな紫緑に、莉々は感謝している。
そうして、放課後。
再びバスに揺られて二人は最寄のバス停まで戻る。いつも一緒に通学する二人がつき合っていると噂にならないのは、やはり天のせいである。あの兄がいる莉々に、男子生徒はあまり近づかない。
ほんのりと肌寒さを感じさせる秋。
長い髪を巻き込むようにして莉々はタータンチェックのマフラーを巻く。バスの排気ガスを含んだ風が莉々の髪とスカートをなびかせた。
「じゃあ、シロちゃん行こ?」
紫緑はうなずいた。
高台の途中にある、天の通う男子校『八津守高校』。その坂道を上っていくと、徐々に建物が見えた。
進学校らしい、厳しく飾りけのない門構え。チャコールグレーの校舎は完全完備だと聞く。
遠く離れた、ブラインドの垂れた窓からは様子を覗くこともできない。
「まだ授業中みたいだ」
「少し待ってみようよ」
莉々はそう言ったけれど、紫緑はあまり乗り気ではない様子だった。
「ほら、俺たち二年の大事な時期だろ。テスト勉強しないと」
正論だった。勉強もしなければいけない。
莉々はうん、と小さくうなずくけれど、気持ちは目の前の学校に向かっていた。
その時、莉々はハッとして顔を上げた。
大きく目を見開いて周囲を見渡す。紫緑には莉々のそんな反応の理由がわからなかったようだ。
「莉々?」
莉々は不安げに、そして真剣に言った。
「シロちゃん、今、何か聞こえなかった?」
その直後、紫緑の耳に届いたのは授業の終了を告げるチャイムの音だけであったという。