姉と妹
出発の前日、城内のとある場所。
「お風呂なんて久し振りだからテンション上がってきたわよー!」
もわもわと湯気の立ち込める大浴場。
長い黒髪を結い上げてタオルも巻かずに入り口で仁王立ちしている赤眼の女性。
彼女はある日突然この世界に召喚されてしまった一家の次女、魔殺 狩葉である。
「こちらの世界に来てからは専ら水浴びでしたからね」
次に浴場に現れたのは狩葉と同じく一糸纏わぬ姿をした、彼女によく似た顔立ちの女性。
違うのは、彼女と同じ黒く艶のある髪を肩よりも上でバッサリとカットしたショートヘアにしている事と、透き通るような白い肌に身体に刻まれた無数の傷痕と怪しく光る翡翠色の双眸、魔殺家の長女である斬葉だ。
「斬葉さん、狩葉さん本当に父からの謝礼を受け取られなくて良いんですか??」
最後に入ってきたのは前の2人とは違い、巻いているタオルから控え目な谷間が顔を覗かせている茶髪のケモミミっ娘、この大浴場のある城の主人、ネールス合衆国皇帝ライゾット・ギル・レオリオンの娘、リフィナス皇女である。
彼女はとある出来事がキッカケで狩葉たち魔殺家の面々に同行していたのだが3日ほど前に故郷であるこのネールス合衆国に帰ってきていた。
「いいのよフィーナちゃん、アタシたちそこまでしてもらうような事してないし。そもそも、この世界で暮らしてこうって腹づもりじゃない以上必要最低限の財産があれば十分よ」
「でも、命を…国を救ってもらったのにそれじゃワタシたちの気が収まりませんよ」
「そうですね、頂けるというなら報酬は例に倣い貰うべきですね。依頼内容はフィーナさんの救出及び内乱の鎮圧…200万ガリドといったところですかね」
「200万ガリドって…あっちじゃ2億相当の金額じゃない、何考えてるのお姉ちゃん⁉︎」
「国を救ったとあれば、それに対する報酬としては安いものだと思いますが?本来ならば国家予算の4分の1でもお得なくらいです」
「それは…そうかもしれないけど…」
「ち…父と相談させてください…」
斬葉の提示した桁外れの報酬金額に猛反論する狩葉だが、姉の正論に言い返せなくなりフィーナも予測の範疇を超える金額に目を白黒させていた。
「冗談です。今回はあの零葉が勝手に詮索して、勝手に巻き込まれて、勝手に介入しただけですからフィーナさんがそれを気にする必要はありませんよ、不可抗力です。もちろん報酬など払う必要もありません、私たちが手を貸したのも面白そうだったという理由とただの気紛れです」
動揺するフィーナの頭を優しく撫でて斬葉が微笑んだ。
そんな中、フィーナの背後に不安な影が忍び寄る。
「フィーナちゃーん、ウチのお姉ちゃんが困らせてごめんねぇ?」
「ぴゃあぁぁぁぁ⁉︎」
もにゅんとフィーナの胸を後ろから鷲掴みにしたのはニマニマと不気味な笑みを浮かべた狩葉だった。
彼女はそのまま慎ましやかに存在を主張しているフィーナの胸を揉む。
「それにしても、フィーナちゃんって触ってみると意外とあるわよね。正直、この手のひらから若干はみ出るくらいが1番可愛いと思うんだけどどうかしら?」
「ちょっ…狩葉さっ…誰に聞いてるんですっ…やめっ…」
「止めなさい、ド変態妹」
「むべっ⁉︎」
変態さながらグヘヘと笑う狩葉の後頭部に斬葉の強烈な手刀が振り下ろされる。
斬葉が本気ならば脳天から真っ二つにされてしまうだろうが、そこは妹のおふざけへの制裁か、ガスッという鈍い音だけで済んでいた。
当然頭上への衝撃で変な断末魔を上げた狩葉は頭から煙を上げて倒れ伏した。
お察しの通り、腕力や思考が明らかに常人からかけ離れている斬葉と狩葉。
2人は今いる世界とは別の世界からこちらに召喚された人間で、元いた世界では理外者と呼ばれている異能使いなのである。
そんな2人のやり取りを見ていて浮かんだ疑問をフィーナが口にする。
「お二人はいつから危険な仕事を始めたんですか…?零葉さんもそうですが、皆さんもっと普通に生活することもできたんじゃないですか?」
思ってもいなかった質問に姉妹は顔を見合わせる。
彼女たちにとってそれはあまりにも当たり前なことであった為、あの世界に飛び込んだ理由など殆ど忘れていたのである。
改めて理由を思い出そうとしているのか少し考え込んでいた2人、すると何か思い出したのか斬葉がポンッと手を打つ。
「そういえば少し前まで、"アンタなんて大嫌い"なんて言ってましたよね?」
「うっ…また覚えててほしくない事を真っ先に思い出したのね…」
ビシッと狩葉を指差した斬葉のジト目にたじろぎ気味の狩葉、それは今から5年ほど前の出来事である。
-5年前-
「只今帰りました」
「斬ちゃんおかえりー。2年間のアメリカ留学お疲れ様」
「まぁ、留学といっても殆ど墜魔導士の討伐でしたけどね。流石はアメリカです、魔導警察の整備然り、一人一人の技術も目を見張るものがありましたよ。日本はどうしてそういうところを見倣わないのでしょう。オマケに帰国早々厄介ごとに巻き込まれてしまいましたし…」
大きなキャリーバッグを肘掛けにしながら自宅の玄関で話す斬葉、母である百葉は久しぶりの娘の元気そうな姿に笑みが溢れる。
「あー、源ちゃんのお願い事かぁ。当然の如く墜魔導士絡みなのね?」
「えぇ、ある程度の調査は終わっているそうなのでさっさと千里眼の所に行くつもりです」
「ただいまー」
ため息混じりに肩を揉む斬葉の背後で玄関が開けられる。
帰宅の挨拶を告げながら入ってきたのは地味な黒縁の丸メガネに三つ編みおさげの、これまた地味な雰囲気の少女だった。
少女は斬葉の顔を見るや否や時が止まったかのように固まり、彼女の脇を素通りするとそのまま階段を駆け上がっていってしまった。
「今のは…もしかしなくても狩葉ですか?」
「そうよー、ちょっと雰囲気は変わっちゃったけど狩ちゃんよ」
「2年でどうしてあのようになるんです?」
「うーん、入学したての頃はあんな感じじゃなかったんだけど…どうしてかしら」
あまりにも妹の変貌が衝撃的だったのか目を丸くしながら百葉に事情を尋ねるものの、彼女もよくは知らないのか返ってくるのは曖昧な返事だけだった。
翌朝、外出のため早起きした斬葉はリビングで朝食を食べている狩葉と鉢合わせする。
「おはようございます」
「……はよ…」
学生服に着替えている辺り寝ぼけているわけではなさそうなのだが、妹から返ってきたのは聞き逃してしまいそうなほど小さな挨拶。
「ごちそうさま、いってきます」
そそくさと食べ終えた狩葉は昨晩同様に斬葉と目を合わせる事なく学校に行ってしまった。
「私、あの子に何かしましたっけ?」
飲む事が日課の牛乳に口を付けながら妹の様子に怪訝そうな表情を浮かべる斬葉。
真相は彼女のみぞ知るところである。
「というか、まだ7時半なんですが…学校開いてるんでしょうか?」
学校への道のりを歩きながら狩葉は大きく溜息をつく。
理由は当然時間の事である。
登校時間より遥かに早い現在の時刻に財布を開いて中を覗く。
「マズったなぁ…時間早すぎるよぉ…一時間もどこで時間潰そう…マッ○でコーヒーでも飲もうかな…って無理か…」
そうは言ったものの明らかに金額の足りない小銭入れに己が学生の身分であることを呪った。
「あら、魔殺さん?こんな朝早くにどうしたの、制服まで着て」
「先生、おはようございます。ちょっと家に居辛くって…」
その途中、彼女の担任とバッタリ出くわし、時間が時間なのでどうしたのかと聞かれるが姉が帰ってきたからと素直に言うことも出来ず言葉尻が弱くなる。
「ほほう、さては親御さんとケンカしたわね?」
「いやぁ…そういうわけじゃないんですけど…」
「ま、いいか。根掘り葉掘り聞くのは失礼だし、言いたくない事なら尚更ね。それより、弓道部の調子はどうなの?」
そう言って目配せしてくる担任の些細な気遣いに感謝しながら世間話をして学校に向かうと思いの外、丁度いい具合に時間を潰すことができた狩葉なのであった。
「ふっ…!」
放課後、他の部員は帰り静まり返った弓道場にて独り練習していた狩葉。
的の中心を幾度となく正確に射抜く集中力を見せながらも、彼女の頭の中は別の事で溢れ返っていた。
「アタシは…お姉ちゃんみたいにはならないっ…!」
何か別のものを射殺すように鋭く放たれた最後の矢は的を大きく外れて土壁に深く突き刺さった。
「……帰ろ…」
この日1番の大きな溜息を吐いた狩葉はポツリと呟くと帰り支度を始めるのだった。
翌朝、家には斬葉の姿は無かった、百葉曰く任務中に怪我を負ったらしく3日4日程帰って来られないとのこと。
ようやく張り詰めていた緊張の糸を解いた狩葉は百葉の「お見舞い行かない?」という提案をやんわりと断り学校へと向かった。
出発前、テレビではアメリカの刑務所から魔導犯罪者が数人脱獄したというニュースで番組は持ちきりになっていたが、関係も無いので聞き流していた。
「狩にゃん、なんか元気ないぞー?」
「にゃんこから見ても…そう見えるってことは割と重症かしら…」
「うむ、どことなく精神が疲弊しているように見受けられる」
何事もなく登校した狩葉。
昼食時、両隣から机をくっつけた2人の少女が心配そうに彼女の顔を覗き込んできた。
猫のような雰囲気の少女の名前は乙無 音夢子、狩葉からはにゃんこと呼ばれている。
もう一方の、ところどころ堅苦しい喋り方の目立つ少女は武士家 雅子、こちらはみーこと呼ばれている。
「みーこ、しばらくアンタの家泊めてくれない?」
「部屋なら有り余っている故、それは一向に構わぬが我が家では狩葉殿の気が休まらぬのではないか?」
雅子の家は古くからの地主の家系で、住んでいる家も大きな日本家屋なのだが、俗に言う曰く付きの屋敷らしくその広さも相まってかなりの数のこの世のものでは無い存在たちの巣窟となっているのだが、家主たちは当たり前になり過ぎて気にならないのだと言う。
確かに狩葉が以前、興味本位で一泊させてもらった際には、一晩中金縛りに悩まされるといったこともあった。
「にゃんこの家は猫だらけで寝る場所ないし…」
「どうして急にそんな事言い出したのだー?」
「何でもないわ、ちょっと気分転換しようかなーなんて考えてただけ」
そう言いながらも大きな溜息をつく狩葉に2人の友人も追及する事はせず揃って彼女の頭を撫でるだけだった。
「でさー、弦引っ張ったらブチンッて切れちゃったから仕方なく引き上げてきたわけ」
「それは実に不運であったな。最近の狩葉殿は何か良くないものに憑かれているのではないか?」
「本気でそう疑いたくなるレベルよね」
「おぉ、あんなところに美少女発見なのだー。見たところ誰か待ってるみたいなのだ」
「うげ…」
更に次の日の放課後、部活での居残り練習を中断せざるを得なくなってしまい、途中で偶然鉢合わせたみーこ、にゃんこと共に校門までやってきた狩葉の視界に包帯を巻いているが見慣れた姿が映る。
「迎えに来ました。貴女が嫌でなければ一緒に帰ろうかと…どうでしょうか?」
「どうぞご自由に、アタシは友達と帰るからそのあとをついてくるなり何なり勝手にすれば」
声を掛けてきた斬葉に狩葉が冷たく言い放った一言、それを聞いて一瞬悲しそうな表情になったような気がしたが、すぐに「そうさせてもらいます」と苦笑混じりに答えたため先ほどの表情は狩葉の目に入らなかった。
「ねぇ、狩にゃんさっきの人ずっと黙ったままだけど良いの?」
「気にしないで」
「見たところ狩葉殿に良く似ているようだが、ご家族かなにかなのでは?」
「似てない‼︎」
「「⁉︎」」
しばらくして後ろを付いてくるだけの斬葉を気の毒に思ったのか、にゃんことみーこが狩葉に話し掛けるが突然声を荒げた彼女に2人は目を見開いて驚く。
2人の知る限り彼女がこんな風に声を荒げることなど無かったからである。
「ゴメン…本当に気にしなくて良いから…」
「うむ、狩葉殿がそういうならこれ以上は聞かぬよ、ではまた明日」
「バイバイ狩にゃん、悩んだりしてたらすぐ相談するのだー」
「ありがと、じゃあね」
そう言って2人と別れた狩葉だが、斬葉は相変わらず近付き過ぎず離れ過ぎずの距離を保ったまま後をついてきていた。
家も近くなった頃、変わらぬ距離のまま斬葉が口を開く。
「私、貴女に嫌われるような事しましたか?それとも悩み事ですか?」
その一言に胸がざわつく狩葉。
それは彼女の勘違いだ、斬葉は妹である狩葉の嫌がる事など一切しないが、今の狩葉にはそれが物凄く鬱陶しく感じていた。
見本のような完璧なまでに出来過ぎる姉。
しかし狩葉の目はそんな姉の姿を見る度、昔の幼い頃見た光景が繰り返し再生されていた。
「何でそう思うわけ?」
「いえ、貴女の態度がそんな感じなので…あくまでも推測に過ぎませんが」
「別に…アタシの事何でも分かってるような口ぶり止めてくれない?」
「確かに私は推測でしか貴女の心境を考えることが出来ませんね」
「だったら口出ししないでくれないかな。アタシの気持ちも悩みも知らないでしょ。ちょっと出来が良いからって…アタシはアンタが大嫌いなのよ…ずっと地下牢にいればよかったのに」
「!」
狩葉がつい漏らしてしまった最後の一言、それを耳にした斬葉の表情が凍り付く。
カタカタと肩を震わせる斬葉は恐怖を抑えつけようとしているのか自身を強く抱き締めて蹲ってしまった。
「ごめ…んなさい…地下牢は…やだ…」
「あ…アンタが悪いのよ…!」
そんな姉の姿を見て激しく動揺してしまった狩葉は姉を置き去りに走り去ってしまった。
妹の小さくなる後ろ姿に手を伸ばそうとするがバランスを崩して倒れ込んでしまった。
幸か不幸か夕暮れの住宅街の路地には人通りは無く、騒ぎになる事は避けられたが、押し寄せる目眩と吐き気に苦しむ斬葉を助ける者は誰もいない。
「はぁっ…はぁっ…はぁ…」
あの後、ただいまも言わずに自分の部屋に駆け込んだ狩葉は自分の犯した過ちにドアに背を預けて塞ぎ込んでしまう。
姉が忘れようとしていた過去を、忘れかけていた傷を彼女は無遠慮に抉ってしまった。
薄暗い部屋の中、彼女の頭を過ぎったのは幼い頃の記憶。
「おじいちゃまー!」
「よしよし、狩葉は元気の良い子じゃな」
当時5歳だった狩葉を優しく抱き上げたのは和服を着て白髪に白髭を蓄えた老人、今は亡き彼女の祖父にあたる人である。
彼は狩葉と同じ赤眼の双眸を細めて孫の姿を愛でていた。
そして狩葉を抱き上げたまま縁側に備えておいた草履を引っ掛けて歩き出す。
祖父は名士の家系に育ち、広い日本庭園のある古い屋敷に住んでいた。
その頃の狩葉たちは祖父の家に住んでおり、祖父に連れられて庭を散歩するのが幼い狩葉の日課になっていた。
しばらくして見えた土壁造りの平屋の建物を狩葉は指をさす。
「おじいちゃま、あのくらにはなにがあるんですか?」
「あの中には使わぬガラクタやご先祖様が残したものが沢山あるんじゃ」
今でこそ蔵と祖父が言っていた建物の違和感に気付く狩葉だが、当時の彼女にはその入り口に異常な数の錠前が掛けられていた事に何の疑問も持たなかった。
「〜♪」
ある日、幼稚園で習った歌を口ずさみながら1人庭先でボール遊びをしていた狩葉はふと少し遠くに見える蔵を見て思い立ち、その傍まで行ってみる事にした。
祖父といる時はいつも遠目で眺めるだけだったので近くで見てみたいという衝動に駆られたのだ。
「あいてる…」
近くに辿り着いた狩葉はいつもと違う蔵の様子に気付く、あれほど雁字搦めに鎖が巻かれいくつもの錠前の掛けられていた扉が少し開いているのだ。
それに興味をそそられた狩葉はこっそり中に入ってみる事にした。
「なんかいっぱいあるー」
入ってみると、中は壁際に並ぶ大きな棚とそこに置かれた木箱や巻物など幼い狩葉には一体それが何なのか理解出来ないようなものが大量に置かれていた。
明かりは裸電球が一つぶら下がっているだけで奥の方は暗くてよく分からないが階段があるようだった。
何故かその先に呼び寄せられるように狩葉は地下に続く階段を降りていった。
「まっくら…こわい…」
降りた先は奥にゆらゆらと揺れる蝋燭が灯されているのみでそこまで続く通路は闇そのものだった。
闇から視線を感じたような気がした狩葉はブルっと身震いを一つすると蝋燭のある場所まで駆けて行った。
「うぅ…ここどこぉ……ヒッ⁉︎」
闇と静寂の空間に心細くなる狩葉、不意に目の前からジャラッという重々しい金属音が響き、地下空間に谺する。
その音に肩をビクッと揺らして恐る恐る音の鳴った方へ燭台を掲げる。
闇の中に浮かぶ2つの翡翠色の光、それが人の目であることに彼女が気付いたのは闇に目が慣れてきた頃だった。
「あなた…だれ?」
床に影を落としたかのように広がる長い黒髪の間から覗く光を宿さない淀んだ翡翠色の双眸は、鉄格子の向こうに居る狩葉の問い掛けにも応えず無言のまま彼女を見つめ続けていた。
年は狩葉と変わらないくらいの少女は手足のみならず首にまで枷を付けられ、そこから伸びる鎖は壁に繋がれていた。
「狩葉、そこにおるのか!」
少女が何か口にしようとした時、階段がある方から祖父の怒気が篭った声が聞こえてきた。
そこからの記憶は狩葉もあやふやだった。
とにかく祖父からこれまで無かったほどにしこたま叱られ、わんわんと泣いた記憶しかなかった。
彼女は忌み子と呼ばれていた。
良くないものを運ぶと言われながら忌み嫌われていた。
そんな存在がいることを外部に漏らさない為に蔵の地下にある座敷牢に閉じ込めていたのだという。
しかし何故かある日を境に、囚われの少女は狩葉の世界に今度は姉として彼女の前に現れた。
少女との出会いから数年経っていたものの、あの淀んだ翠の瞳はそう簡単に忘れられるものではなかった。
それまで自分が1番だと幼い頃から教えられてきた妹はその教えの通り優秀に育ったが、周囲も認める完璧さを誇る姉の姿の前にその優秀さは霞んでしまっていた。
「おじいちゃん、今回のテストも良い点取ったよ!」
「そうか、斬葉はまた100点か。これからも継続するように」
「はい、お祖父様」
「あ…」
妹がテストで必ず90点以上を叩き出せば姉は必ず100点満点の答案を持ち帰り、市内の体育祭で行われる個人種目で上位に入ればその上の順位には必ず姉がいた。
そんな姉妹の姿を見ていた祖父も、いつからか狩葉ではなく忌み子と呼び接しようともしなかったはずの姉を優遇するようになっていた。
祖父の家を出て家族だけで過ごすようになってからも姉は妹を置き去るように先へ先へと進んでいった。
思春期を迎え、姉との間に出来てしまった大き過ぎる差がとてつもなく不快に感じる様になっていた。
その矛先を躊躇無く斬葉の心に突き立ててしまった狩葉は自己嫌悪に陥っていた。
人の心には踏み越えてはならないラインがある。
今回彼女はそれを越えてしまったのだ。
「アタシは悪くない…アタシは悪くない…悪いのはアイツなのよ…いつでも涼しい顔して私の上に立って…」
そんな考えを振り払うかのように責任逃れの独り言を呟く狩葉。
他人からすれば、なんて身勝手なと言われるだろう。
しかし、当の本人からすれば常に姉妹で比べられ周りよりも優秀であるはずなのに完璧な方にばかり評価が傾く、そんな状況でもう一方に恨みや妬みが生まれないと言えるだろうか?
それから数日間、狩葉が姉の姿を見る事はなかった。
母の取った電話をコッソリ盗み聞きしたところ、どうやら知り合いの家に泊まっているようだった。
「今日も疲れたなぁ…」
それから三日後、学校から帰路に着いていた狩葉。
いつものように居残り練習を終えていたので辺りはもう暗くなっていた。
「日が沈むのが早いなぁ…そろそろ居残りするのも早めに切り上げないといけないかな」
そう言って弓を引き絞る動作をするが、もちろん道端で弓は出せないのでイメージだ。
矢を番えようとした時、背後から突然目隠しをされる。
「な…っ⁉︎」
咄嗟に叫ぼうとするが今度は猿轡を咬まされてしまう。
両手を背中で押さえつけられたまま犯人であろう男が彼女の耳元で囁く。
「おっと、暴れようとすんなよ?大事な人質に怪我させたくない、大人しくしてな」
狩葉の首筋にヒンヤリと冷たいモノが当てられる。
すぐにそれが刃物であることに気付いた彼女は男の言う通りにするしかなくゆっくりと首を縦に振った。
直後、彼女の身体を浮くような感覚が襲った。
どうやら肩に担がれているようで、ものの数秒でどこかに放り込まれる。
全身に伝わる細かい振動と聞こえてくるエンジン音、車の中にいるようだ。
聴覚だけは無事な為、状況を探ろうと耳を澄ませると最初の彼女を攫った男以外に何人かで行われている会話が聞こえてくる。
「-大丈夫なのか?-」
「-何がだよ-」
「-プリンセスの事だ-」
「-こんな**1人でアイツが来るのか?-」
「-この嬢ちゃんが居ればあの***なプリンセスでも***すっ飛んで来るさ-」
そんな会話が英語で聞こえてくる。
中学生でもギリギリ訳せる程度の英語だったので、狩葉は自分が金銭目的に誘拐されたのではないという事を理解するのには難しくなかった。
しかし解せない事がある、彼らの会話に頻繁に登場するプリンセスの存在である。
-プリンセス…お姫様…?アタシそんな家族も知り合いも居ないんだけど…-
そこまで考えて狩葉の中に一つの仮説が生まれた。
-…プリンセス=アイツ?それならアタシが狙われた理由にも合点がいく…そういえばこの前の電話、相手がプリンセスがなんとかって…-
狩葉が攫われたその日の深夜、着替えを取りに帰った斬葉はリビングに明かりが灯っている事に気付き顔を出した。
「お母様…こんな時間までどうしたんですか?」
リビングに居たのは百葉で彼女は目の前に用意しておいた夕食を眺めながら床に届いていない足をブラつかせており、斬葉を見ると微笑みを浮かべる。
「おかえり斬ちゃん、着替えならそこのリュックに入れてあるわ」
「質問の答えになっていませんが?」
「んー、狩ちゃんが帰ってこないのよー」
「…もう11時前ですが」
「うん、こんな事初めてだからちょっと心配なのよねー」
ちょっとという百葉だが、指先が忙しなく動いて落ち着きが無いことは明白だった。
そんな時、玄関のチャイムが鳴らされる。
百葉に代わり斬葉が対応すると、ドアの前に立っていたのは警官服の上に2人組、彼らは斬葉に警察手帳を見せると口を開く。
「魔殺 狩葉さんのお宅ですね、我々池袋署の者なのですが少しよろしいでしょうか?」
「何でしょうか?」
深夜に警察が家を訪ねる、そのシチュエーションに斬葉は直感で良くない知らせを聞かされると気付く。
案の定、警官が口にしたのは彼女の考える事と合致していた。
「お宅の狩葉さんが誘拐された可能性があります。先ほど警察に手紙が届きまして、その内容がコレです」
警官の1人が懐から紙を取り出し広げると、筆跡を判別されないためか、雑で歪な文章が記されていた。
現物は署にあるのだろう代わりにコピーの文字が印刷されていた。
そこにある文章にはこうある。
-魔殺の姫さんへ、大事な家族は預かった。返して欲しければ0時までに芝浦埠頭に1人で来い-
その文を読んで斬葉は悪態を吐く。
「いつの間にか監視されていましたか…あの中であればインビジブル・ライルの仕業でしょうね」
そう言い終えるや否や、玄関に立て掛けておいた黒椿の入った包みを掴み飛び出そうとする斬葉。
咄嗟にその両脇を警官が腕を絡めて抑えてくる。
「お嬢ちゃん、まさか一人で行くつもりじゃないだろうね⁉︎」
「そうですが、何ですこの腕。離していただきたいのですが?」
「そうは言ってもこっちも仕事なんだ、そもそも子供一人に何ができるんだ!」
その言葉に斬葉が片眉を吊り上げた。
「はぁ…魔導課でもない警官を寄越すなんて…。とは言えここで道草食ってる時間は残念ながら無いので…」
瞬間、地面を蹴って脱皮するように羽織っていた上着を脱ぎ捨てると、それを掴んでいた警官たちは急に行き場の無くなった力に体勢が崩れる。
その隙を逃す事なく門の前に着地した斬葉の後ろから百葉が声を掛ける。
「斬ちゃんコレ持ってって、狩ちゃんのことお願いね!」
彼女から投げ渡されたのは細長い包み。
斬葉の黒椿の入った包みより一回り大きいそれを斬葉は受け取ると母からの言葉に頷くと、改めて家を飛び出した。
「待てっ…⁉︎」
「は?何がどうなって⁉︎」
すぐに斬葉を追いかけようとする警官たちだったが、その足がもつれて倒れてしまった。
何事かと2人が足元を見ると先ほど斬葉の脱ぎ捨てた上着が枷の様に両名の足を結んでいた。
「んーと、源ちゃんの部下さんじゃないからどこまでお話すれば良いのかなー?とりあえず大人しくしてもらえたら嬉しいかなー?何よりもまずー、なに人の娘に気安く触れちゃってくれてやがるのかしら、あぁん?」
そんな警官の目の前にしゃがみ込んだ百葉は笑顔のまま首を傾げるが何処と無く寒気の感じるその笑顔に警官たちは思わず悲鳴を上げてしまうのだった。
「とりあえず、直接関係は無いですが、冴木の小父様に菓子折り持って明日謝りに行きますか」
深夜の街を疾走する斬葉の目の前に一台のパトカーが止まる。
先の警官たちの増援かと身構える斬葉だが運転席の窓から顔を出した人物に安堵して構えを解いた。
「黒姫、急いでんだろ乗れ!」
こちらに帰ってきて新しく相棒になった魔導課の刑事、川間が助手席のシートを叩きながら彼女に声を掛けたのだ。
バッと飛び乗った斬葉がシートベルトを閉めるのを確認すると川間は回転灯を点けてアクセルを踏み込んだ。
「芝浦埠頭だったよな。つか、まーたお前は厄介な事に巻き込まれたのか?」
「今回はどちらかと言うと巻き込んだ側ですけどね…」
ハンドルを巧みに切って何台もの車を追い越していく川間は前を見たまま斬葉に尋ねる。
川間の質問に斬葉は妹の顔を思い浮かべながら自嘲気味に答えた。
「深くは聞かねーよ、でも1人で大丈夫なのか、相手は脱獄囚なんだろ?」
「その辺のご心配は結構です、今は0時までに目的地へ着くことだけに集中してください」
「言われなくてもそのつもりだよ!」
法定速度ギリギリでかっ飛ばす川間の運転に揺られながら斬葉は妹を誘拐した犯人たちへの憎悪を抑え込むように目を細めた。