魔殺さんちの日常
時を同じくして、日本。
「さーて、お楽しみのHunting timeだ。久しぶりに自由に暴れられるから少しばかりやり過ぎちまうかもな」
そのとある住宅街の路地裏に怪しく光る赤い瞳、その視線の先には人通りの少ない道と、そこをコツコツコツとヒールの音を響かせながら歩く女性の後ろ姿が映る。
時は間もなく時計の長短両の針が頂点を指す頃、住宅街であるため喧騒も遠くに聞こえるだけで女性のヒールの音が嫌に大きく響く。
「こんな時間に人気のないトコを一人で歩くなんてこの国の女は不用心だねえ」
そう言って路地裏から姿を現した人物、膝下まである黒いロングコートを羽織り、黒いハットを目深に被っている。
いかにもな不審者の出で立ちをした男は前を歩く女性以外周囲に人影がないことを確認するとスススッと滑るように移動、音もなく女性の後ろに忍び寄る。
そして、バッと両腕を振りかぶると怪しげな光が指先に集まり、それをそのまま物凄い勢いで女性に向けて振り下ろした。
「Good nightお嬢さん」
男は狂っていた。
若い女性が前触れもなく訪れた死の間際に見せる理解の追いついていない恐怖に殺される表情をたまらなく好いていたのだ。
そして今目の前に居る女性も男の一言に振り向きいつの間にか背後に立っていた男に対して恐怖に満ちた表情を浮かべ、次の瞬間にはその顔が真っ赤に染め上げられる。
…はずが、今夜ばかりは違っていた。
男の振り下ろした腕が髪に掠るほどのギリギリのタイミングでその場にしゃがみ込んだ女性。
数秒前まで男の脳内には鮮血に塗れ倒れ伏す女性のビジョンが見えていたにも関わらず、それが実際に起こらなかった予期せぬ展開に目を見開く。
男の腕を紙一重で避けた女性はその状態から器用に身体を捻ると避けられたことに驚く男の僅かな隙を逃すことなくその顎に目掛けて下から掌底を叩き込む。
普通の人間ではあり得ない反応、まるで男の襲撃を予測していたかのような鮮やかな反撃。
「ガッ…!?」
男は一瞬何が起きたのか理解が追い付かず、カウンター気味に受けた一撃が脳震盪を引き起こす。
その影響で足取りも覚束ないままヨロヨロと身体をふらつかせながら後退する。
対して男に強烈な拳を浴びせた女性はというと、然程気にした様子もなく右拳を軽く左手で払うと今度は男に向かって歩き出して英語でポツリと呟いた。
「思いのほか簡単に釣れてしまいましたね、少し拍子抜けです」
「何なんだテメエ!」
先ほどまでは隠していたのだろう、明らかに常人とは違う異様な雰囲気を纏った女性に僅かに恐怖を覚える男。
ようやく足のふらつきと揺れる視界が治まってきた男は人間とは思えぬ跳躍で、すぐ傍に建っていた家の屋根に慌てて跳び移ると逃げるように走り出した。
走りながら男は口角に泡を溜めて悪態を吐く。
「一体何者だアイツ!この国の魔導警察は俺がこの国に入ったことはまだ知らないんじゃなかったのか!」
事前情報に間違いはなかったはず、とはいえこの国への入国の手引きをした者が告げ口をするとは思えない。
そう考えながらも男の足は次の一歩を踏み出していた。
決して明るくはない月明かりの下、一つの影が夜の街を駆け抜ける。
男は並外れたスピードと跳躍力で住宅街に点在する家々の屋根を次々と伝って移動してゆく。
「おい、俺はお前にこの国に来ればバレたとしても暴れられるって聞いたからここに来たっていうのにどうなってやがる!」
突然、男は誰かに向けて荒々しく怒鳴り散らす。
しかし男の手や耳などには通信機器の類があるわけでもなく、近くに共犯者と思しき人影があるわけでもない。
それでも男は自身の見つめる先にいる何者かに何らかの返答を受けたのか更に泡を食って喚き散らし始める。
「冗談じゃねぇ、俺はもうテメェの指図なんか受けるか!クソ悪魔が、テメェの言う事を聞いてなけりゃこんな事にはならなかったんだよ!」
男が悪魔と呼んだ見えざる者に一頻り怒鳴った後、眼前に新たな影が現れたのを見て足を止める。
その影は男の向かい側に立っており、ゆっくりと男の方に向かって歩を進めてきた。
「御機嫌よう…国際A級魔導犯罪者、識別名称 血塗れ男爵。本名 アルバート・S・ジョーダン、貴方を国際魔導師法第2条違反…悪魔との直接契約の疑いで同行を求めます」
流暢な英語で男の名を呼んだのは女性の凛と澄んだ声。
先ほどまで月を覆い隠していた雲の合間から漏れ出した光に照らされて、その声の主の姿が闇夜にボンヤリと浮かび上がる。
周囲の闇に紛れるような黒いビジネススーツを身に纏い、その容姿はスーツと同じような黒い髪、それとは対照的に闇で輝く宝石のような翡翠色の瞳、顔立ちは人形のように端整で、年齢は10代後半から20代前半ほどの若い女性である。
「は…ハハッ…もう追手が来たのかと一瞬ビビったが誰かと思えばさっきの嬢ちゃんか。それにしても女でも前線の人間になれるとは…ジャップの魔導警察もよっぽど人手不足みたいだな‼︎」
その言葉に若い女性は眉一つ動かすことなく冷ややかに彼を見つめ続ける。
その余裕にすら見える女性の様子に、他国の女性の間では恐怖の象徴として恐れられていたジョーダンは軽く舌打ちして指先に怪しい光を収束させ始める。
男の得意とするのは硬化魔法と切断魔法を組み合わせて手先のみに集中させる特殊な魔法。
10本の鋭利なナイフと化した指で標的を一瞬で切り裂き、その返り血に塗れる様子が目撃され付けられた異名が血塗れ男爵。
過去何十人もの女性の命を奪った冷酷な殺人鬼である。
彼は捕まらない術として、ある程度満足すると潜伏先の国を変えていた。
そんな殺人鬼の今回のターゲットとして選んだのが日本だったのだ。
暫くは息を潜めて潜伏先がバレぬように隠れていたジョーダンだったが、抑え込んでいた殺人衝動が限界を迎え、路地裏の闇に身を潜めて夜道を一人で歩く恰好のターゲットである彼女に襲いかかったのである。
しかし、先程のように見事なまでの鮮やかな身のこなしで迎撃され、思わぬ対応の良さに動揺しながらも逃走を図ったのだが、その矢先に被害者自身が自分を捕まえようと再び目の前に現れるとは夢にも思っていなかった。
女性の無謀にも思える行動に驚愕を通り越して呆れすら覚え、薄ら笑いを浮かべるジョーダン。
目の前で笑みを浮かべる彼の余裕を知ってか知らずか女性が口を開く。
「ええ、確かに昨今の日本の警察は魔導犯罪への対策を立てることに今もなお非常に消極的。ようやく設立されたのも魔導警察という独立組織ではなく、警察内部の魔導課という始末…抜け穴の多いせいで貴方のような犯罪者がのうのうとこの国で犯罪を働こうとする。貴方が日本に来たという情報も警察とは関係の無いこちらの持つ独自のルートで手に入れたものですから」
「そんなこったどうでも良いんだよ、俺は暴れられるならどこでもな。さて、楽しいおしゃべりの時間はここまでだぜ。嬢ちゃん、俺の恐ろしさを知っていて追ってくる事なんてしなけりゃいれば死ぬこともなかったのにな…アバヨ!」
現在の日本の魔導犯罪に対する在り方に首を振り嘆息しながら苦言を呈する女性。
そうしている間にもジョーダンの魔法陣が発光しながら目の前の女性を切り刻める瞬間を今か今かと待ちわびていた。
そして、彼女が話し終えたタイミングでジョーダンは両手に強化魔法を掛けて一気に間合いを詰める様に飛びかかった。
「しかしながら…」
次の瞬間、ガキンッという金属音と共にジョーダンの指先が何かに受け止められる。
自身の全てを切り裂く指が全く彼女に届かないという思わぬ事態に彼の額に冷や汗が一気に噴き出す。
「何だその剣は…俺の魔法で斬れないモノなんて…まさかお前ッ⁉︎」
「国家A級犯罪者ともあろう者がご存知ありませんでしたか。この国は私たちの縄張、そんな場所で貴方たち魔導犯罪者の好き勝手にさせるはずがないでしょう?……今度は此方から行かせていただきます。黒椿…六閃」
いつの間にか彼女の手には一本の刀が握られていた。
漆黒の刀身を持つ日本刀、それがジョーダンの全てを切り裂く手刀を一切通す事なく受け止める。
次の瞬間、目にも留まらぬ速さで身を翻した女性は何事もなかったようにスッと刀を鞘に納めた。
「フザけんな!俺が女に負けるなんてあり得…ゴハッ⁉︎」
己の背後で得物を納めた女性を見てジョーダンのプライドはヒビが入ったのか、激昂の雄叫びを上げながら再び女性の背中に向け腕を振り下ろす…が、ズパンッという音と共に彼の身体から大量の血が噴き出す。
「バ…カな…」
先の一瞬で彼女がジョーダンに叩き込んだ六つの斬撃は彼の身体の至る所を深々と抉り、彼は苦悶に満ちた一言を残すとそのまま意識を失った。
凶悪な殺人鬼を相手に一方的な展開で戦闘不能にした女性はハンカチで自分にも飛び散ってきたジョーダンの血を拭いながら、ふぁ…と欠伸を一つ漏らす。
それを待っていたかのように地上からサイレンの音が響いてきた。
「任務完了…」
女性は静かに呟き、その夜の闇のような黒髪を夜風に靡かせている。
女性は耳元に嵌めていたインカムを人差し指で小突きながら任務完了をインカムの向こうにいるオペレーターに告げる。
しかし、ここには彼女の個人的にやらねばならない事が1つだけ残っていた。
視線を移し、屋根の端のある一点を注視する。
そこに何かの気配を感じている女性は敵対心を露わにしながらも刀に手を掛けない代わりに刃のような鋭い視線を送っていた。
「フィトラ…また貴方ですか、悪魔による魔導士との直接契約は違法であると何度も注意をしてきたつもりでしたが、いい加減お灸を据えられなければ分かりませんか?」
周囲から見れば独り言にしか見えないようなこの光景だが、彼女には確かに何かが見えているようでそこに苛立ち混じりの視線を送りながら声を掛けた。
すると、突然彼女の目の前の空間が歪む。
そこから現れたのは豪華な黒いドレスにフリルのついた黒い傘を持った浅黒い肌に長い白髪、その隙間から覗くルビーのような紅い瞳をした少女である。
「プリンセス、ワタクシをこの世界のルールで縛ろうなんて愚かにもほどがありましてよ?」
フィトラと呼ばれた悪魔は、目の前の女性をプリンセスと呼んで、その言葉に特に悪びれた様子も無く大手を振って答える。
プリンセスは彼女の答えに呆れるそぶりも見せず、ただ敵対心のみを向け続けながら話を続ける。
「それならばそれで言わせていただきたいのですが、貴女は次期悪魔王の呼び声の高い存在…せめて契約者は選ばれる事をお勧めします。あの程度の技量の魔導士では貴女の力を充分に引き出す事はおろか、逆立ちしても私に勝つ事など不可能ですから」
女性の言葉にフィトラはニヤッと笑い人間離れした長く鋭く尖った犬歯を剥き出しにする。
同時に彼女の容姿が変貌する。
こめかみの辺りから牛のような角、肩甲骨の辺りからは背中を突き破ってコウモリのような翼、ドレスの裾からは細長く先端が矢尻のように尖った尻尾が生えてきた。
その姿は正しく悪魔といった異形に変身したフィトラは、人差し指を立てて横に振るとチッチッチッと舌を鳴らし、それは違うと言って答える。
「プリンセス、貴女は何やら大きな勘違いをなされているようですわね。ワタクシは悪魔、人間のくだらない欲望や願いをそれに見合った代償と引き換えに叶える存在。その欲望に大きいも小さいも関係ありませんのよ?必要なのはワタクシたち悪魔がその人間の欲望に興味を持つか持たないか。それが今回はたまたま犯罪者になっただけですわ。それに貰い受けた代償はワタクシたちが生きていく糧として必要不可欠なものですわ」
「今回はたまたま…ですか。そのセリフを貴女の口から聞くのはもう何度目でしょうか…悪魔を召喚した時点で国家からの許可が無いものは国際魔導師法違反である事もお伝えしたハズですが?」
先ほどからの会話で分かる通り、2人は初対面ではない。
国際的に指名手配される魔導犯罪者には近かれ遠かれフィトラが絡んでいた。
最初はフィトラの先ほどのような言葉を鵜呑みにしていたプリンセスだったが、数度似たような事が起こるとそれは疑問へと変わり、今では確信めいたものになっていた。
しかし、フィトラの返答を聞く前に彼女の背後の空間が再び歪み、空間が裂けて別の空間が口を開く。
それに気付いたフィトラは背後に目を向けると短く嘆息して視線を戻し告げる。
「さぁ、そうだったかしら?……あらあら、時間切れですわ。そろそろ頃合い…そのうち本気で戦いたいものですわね。それでは近い内にまたいずれ、ご機嫌ようプリンセス」
フィトラは言いたい事だけ言うと、傘を折り畳んで空中を傘の先端でなぞる。
するとすでに生まれていた別の空間に繋がる裂け目が広がった。
そして彼女はさっさと空間の裂け目に飛び込むと姿を消してしまい、残ったのは張り詰めていた緊張の糸を解いてため息を吐くプリンセスと、血塗れで横たわるジョーダンだけだった。
世界は魔法と科学が発達し、人々はその恩恵に預かりなに不自由無い生活を送っていた。
それは魔導技術者や科学者などの裏方による魔法の開発、魔法を応用した機器の製造、改良に尽力する人々によって成り立っていた。
しかし、それら魔法技術や科学技術の発展に伴ってそれを犯罪などに悪用する魔導師、通称 墜魔導師と呼ばれる者たちが現れた。
本来、魔導師は魔法を使うために、杖や本の形を模した魔導器と呼ばれる道具を使用することによって、空気中に漂う微量の精霊をコントロールして魔法を発動させる。
それが魔導師の基本であり魔法を使用する上での絶対的な条件といえる。
それに対して墜魔導師は魔導師として禁忌である悪魔、またその眷属を魔界から現界へと召喚し、直接彼らと契約を結ぶことによって媒体を必要とせずに普通の魔導師を数倍上回る程の強力な力を手に入れることができる。
そして、そんな彼らによる強盗、殺人、テロ、あらゆる犯罪が増加してしまった。
なぜ、悪魔との直接的な契約が禁じられているのかと言うと悪魔は文字通り悪意の塊であり、彼らの力を使うと同時に使用者の善意や理性をも奪い去る。
そこで、こんな逸話を紹介しよう。
数百年前、とある賢者がその当時には成功例の無かった悪魔の召喚に成功し、悪魔の持つ強大な魔力を応用し魔法として人の役に立てようと考えた。
それは確かに現在の魔法体系を確立させ、全人類に多大なる貢献を果たすことになるのだが、そんな善意の塊であった賢者は悪魔にとってみれば恰好の餌であり、賢者の考えに沿うような様子を見せながら彼の心に付け入る隙を絶えず伺っていた。
そんなある日、賢者は初めて他人に殺意を覚えるような出来事に遭遇してしまう。
彼は地方の村で生まれ、そこで結婚をして優しい妻と可愛い子供と3人で暮らしていたのだが、ある日彼が研究の為に首都へ向かい村を離れている間に村は盗賊に襲われ、村人が皆殺しにされてしまったのだ。
もちろん、村に残っていた彼の妻と子供も。
都から帰り、そのことを知り盗賊たちに対して怒りと殺意が込み上げる賢者は「ヤツらを殺せる力が欲しいか?」という悪魔の囁きに容易く乗せられてしまった。
孤独に絶望した賢者は力の代償として己の魂を差し出したのである。
その後、賢者の身体を手に入れた悪魔は盗賊だけでなく、その国の全ての人間を滅ぼしたという。
それ以来、悪魔との直接契約は禁忌とされ、厳しく取り締まられてきたのである。
そして、そんな禁忌を犯した重罪人である墜魔導師たちに魔法犯罪の取り締まりを専門としていない警察も、警察内に少なからず勤務している普通の魔導師たちで魔法犯罪に対する部署として魔導課を設立する。
が、当然の如く普通の魔術師たちを凌駕するほどの強大な力を持つ彼らに太刀打ち出来ない。
そして、ようやく現状を深刻な問題として捉え始めた国家が手を打った。
悪魔の力を借りている墜魔導師に対抗すべく、彼ら墜魔導師の力の源とは正反対、つまり天使などの天界の住人との直接契約を結んだ者や、生まれながらに特異体質を持つ者たちに協力を求めた。
彼らは世界の理の外に存在する者、彼らの持つそのデタラメな力に皮肉と畏怖の念を込めて"理外者"と呼ばれるようになった。
「ふぁぁ…ムゥ…」
ベッドで黒髪に銀のメッシュの入った髪の少年が赤い目を擦りながら欠伸混じりに起き上がる。
彼の名前は魔殺 零葉、18歳の高校3年生身長はそれなりに高く180cm後半ほどあり、立ちあがって伸びをするだけで拳が天井につくのである。
彼の自室であろう部屋には高校生らしいお気に入りのバンドやアイドル歌手のポスターやグッズなどはなく、机とベッドにクローゼットと必要最低限の生活用品だけ置かれ非常に殺風景なものとなっていた。
「零くーん、朝ご飯できたわよ~。あと、降りてくるついでに狩ちゃんのこと起こしてきてねー」
「はーいよ…ったく、姉さんまだ寝てんのかよ…今日からテストだからって一夜漬けでもしてたのか…?」
零葉が起きたことをどうやってか察知し、下の階から家族であろう幼い少女の声が彼の姉を起こしてくるように頼んできた。
零葉はその頼みを断る理由も特になく、渋々ながらも返事をしてベッドから降りると、部屋着からクローゼットに掛けてあった学生服に着替え、シャッと軽い音を立てながらカーテンを開けると眩しい朝日が部屋の中を照らす。
春が始まったとはいえ、流石に朝は冷えるので朝日が徐々に部屋を暖める感覚を、零葉は軽く伸びをしながら味わって窓の外を眺める。
彼の部屋の窓から見えるのは、いつもと同じ住宅街の風景、遠くには都市部のビル群が立ち並んでいるいつものように変わることのない景色だった。
「姉さーん、起きてるかー?入るぞー」
身支度を整えてから部屋を出て、向かい側にあるドアに数回ノックして声を掛ける。
返事はなかったが、この時期にはいつものことなので返事を待つことなく部屋に入る。
彼の姉の部屋は朝日の差さない西側、シャッターとカーテンを完全に閉め切った暗い部屋、そんな部屋の片隅に置かれた勉強用の机、卓上スタンドのライトを付けたまま机に突っ伏して零葉の姉は静かな寝息を立てていた。
彼の予想通り、寝る直前まで勉強していたのか手にペンを握ったまま寝てしまったために開かれたノートの最後の文末がミミズの這った跡のようにうねっていた。
そんな姉の姿に零葉は苦笑いを浮かべながら肩を掴み、少し雑に揺り動かす。
「姉さーん、起きろー朝飯だってよー…」
「あうあうあう…もう少し寝かせて…あと5分でいいから…おやすみなさい」
「さすがにこれ以上は不味いんじゃねーの?今日からテストなんだろ、だったら今の内に起きておいた方がいいぞ」
ガクガクと揺らされながらも子供のように駄々をこねて身じろぎし、昨日の晩に母が掛けたのであろう毛布を手繰り寄せているのが、魔殺家の次女である狩葉、19歳の大学生2年生、艶のある長い黒髪と零葉よりも鮮やかな特徴的な紅い瞳を持つ。
「そんな堕落してっから見た目はいい癖に彼氏イナイ歴=年齢なんだよ」と零葉が心の中で呟くと、狩葉はそれを見透かしたかのように瞼をゆっくりと開いて、寝起きで少し虚ろな紅い双眸をを弟に向けて一言言い放つ。
「零葉…アンタ、今失礼なこと考えたでしょ…ふぁぁ…」
そう言って、狩葉は欠伸混じりに身体を起こし、長い黒髪をクシャクシャと掻き上げる。
鏡を顔の真ん中に置いたのでは無いかと思うほどの完璧な左右対称の端正な顔立ちも、そこから本来感じられるであろう魅力も、少し前まで寝ていたことを主張している寝ぼけ眼をファッションセンスのカケラもないダボダボの地味な色合いをしたセーターの袖で擦るダラケきった姿で半減していた。
夢の世界に気持ち良く入り浸っていたのを無理やり引き戻されたことがお気に召さなかったのか弟へと恨めしそうな視線を向ける。
そんな自身の姉に、「寝起きで弟の心読むとか、アンタはエスパーか…」と心の中でツッコミを入れつつ零葉はため息をつく。
「早よ連れてってちょ…おんぶで…」
そう言ってまだ半分寝ぼけながらおんぶを求めてきた狩葉に零葉は、「アンタもうすぐ20歳だろーが…」などと狩葉の子供じみた発言に舌打ちしないように歯を必死に食いしばりながら内心でツッコミを入れて、再び夢の中に足を踏み入れかけてウトウトしている姉を呆れ顔で見下ろすのだった。
「とか言いながらおんぶしてくれる辺り、零葉って優男だねぇ…」
リビングまでの短い距離を姉を背負いながら向かう零葉。
零葉達の自室は2階、リビングは1階、当然の如く途中には階段もあったが、零葉が狩葉をおぶって降りることは常日頃からあることだったので、零葉の目線の高さと同じぐらいの身長を持つ、女子としては背の高い狩葉を運びながら難なくクリアしていた。
そんな彼の背に擦り寄るようにウトウトとしながら首筋に顔をうずめる狩葉は、先程までの零葉の心を再び見透かしたように、またまた夢の世界に入り込む寸前の様子でふにゃっと表情を崩して微笑みながら褒め言葉を掛ける。
「はぁ…そいつはどーも。どっかの誰かさんがいつまで経っても弟離れしてくれないお陰ですよ、ええ」
「おはよー、狩ちゃん、零君」
零葉がため息をつきながら皮肉たっぷりに返事して、狩葉を背負ったままリビングに入ると料理の並べられたテーブル、リビングへの入り口から見て一番奥の椅子にちょこんと座り、14,5歳くらいの少女が見た目相応の笑顔を2人に向けて待っていた。
「母さん、おはよー」
目の前に座る少女に挨拶する零葉。
そう、目の前の少女は彼らの母親でありこの魔殺家を今現在纏めている存在、名前を百葉という。
一見するとどこからどう見ても10代前半の少女である彼女だが、中身は立派な成人した女性である。
その実年齢は不詳で彼女の子供である零葉たちですらその年齢を知らない。
ちなみに身長は零葉の胸の位置より低く小柄、面立ちは狩葉を少し幼くした感じで、瞳はこれまた狩葉と似た紅い瞳、肩にかかるほどの長さのグレーよりの黒髪、その毛先を少しハネさせ、獣耳のように上に向かってとんがった髪の毛が頭に2つというなんとも不思議な髪型をしている。
「早くご飯食べなさい、遅刻するわよ。狩ちゃんもいい加減降りなさいな、今日からテストなんでしょ?人間の頭は身体が起きてから暫くしないと起きないんだから」
「はーい…」
百葉の言葉に渋々ながら零葉の背中から降りて席に着く狩葉、それから零葉も座った。
そして、2人が席に着くのを見ながら百葉がパンッと手を合わせ、それと共に獣耳のような髪も踊るようにピョコピョコと跳ねる。
「それでは、集まったところで…いただきます」
「「いただきまーす」」
百葉の一声でいつもと変わらない魔殺家の朝食の時間が始まったのだった。
この時、そのいつもと変わらない日常が少しずつ変わり始めている事に彼らが気付くまでもう少し。