悪魔の令嬢
川間は目の前の黒姫の残っているはずのビルの一角が激しい爆炎に包まれているのを呆然と眺めていた。
いくら彼女が理外者であるとはいえ、あのボロボロの身体に追い討ちのようにビルの一階層を吹き飛ばすような爆破を受ければタダでは済まないだろう。
彼は最悪の事態を想定するが、そんな心配もすぐに杞憂に終わる。
爆発で粉々にガラスが吹き飛んでしまっていた窓から一つの黒い影が飛び出したのだ。
川間の頭上を軽々と飛び越え、道路のアスファルトの上に着地したのは服の所々を焦がした黒姫だった。
「黒姫!良かった、無事だった…」
「来ないでください!」
黒姫の姿を確認したことで安堵の息を漏らし、駆け寄ろうとする川間を彼女は叫ぶようにしてその場に留まらせた。
それとほぼ同時に足元が地震のように大きく揺れる。
その原因は、彼女の目の前にアスファルトを砕きながら巨大な何かが着地したからである。
爆炎によって巨大な何かの全貌が照らし出される。
赤銅色をした筋骨隆々の肌に身体の3分の2はありそうな巨木のような腕、トカゲのような長く鱗に覆われた尾、肌と同じ色をしたコウモリに似た巨大な翼、そして頭部には捻じ曲がった2本のツノを生やした4メートルはあろうかという巨体を持つ異形の者だった。
「アレは…もしかして悪魔か!」
川間がそう叫んだ瞬間、黒姫が巨大な悪魔に肉薄して刀を振るう。
しかし、巨大な悪魔も丸太のような腕でその一閃を受け止める。
それだけの動作で生じた衝撃波が、問答無用で周囲の建物の窓ガラスやタイルの壁は粉々に、駐車してあった車はサイコロのようにゴロゴロと横転を繰り返させ、ほんの数秒の間に尋常ではない破壊をもたらした。
幸いにも、店に入る前に川間が署の方へ連絡を入れていたため人払いは済んでおり、それ以上の被害は出ずにいた。
川間自身も瞬間的に危険を察知、衝撃波を防ごうと簡単な防御魔法を張って身を守ろうとしたが、簡単でありながらそれなりに強力であるはずの防御障壁が衝撃波だけで呆気なく砕け散ったことに川間は動揺と苦笑を隠しきれなかった。
それでも威力だけは何とか殺せたのか、運良く川間たちは吹き飛ばされずに済んでいた。
「ククク…面白いなお前、この俺様の風の鎧を一撃で破壊するなんてな」
そう言って巨大な悪魔は自身の腕を見やる、すると僅かに黒姫の刃が届いたのか、ドス黒い血が少し裂けた腕の皮膚からツーっと流れていた。
川間が見ても分かる、今の一撃は今日彼女が放ったどんな斬撃よりも強力だった事を。
黒姫の限界がどれほどなのか、付き合いの浅い彼には知る由も無いが、それを難無く受け止め、小さなかすり傷一つで済ませる悪魔に絶句した。
「堅い…ですね…さすがの私でも今のは腕が痺れるくらいです」
「褒めてやるよ小娘、俺に傷を付けたのはお前で2人目だ。一流悪魔でもこうはいかねぇ」
悪魔は腕の血をその紫色の舌で舐め取ると不気味に笑う。
その笑みに忌々しそうな表情を浮かべる黒姫は刀を構え直し、よほど不愉快なのか苛立ちの混じる怒気を含んだ声でその笑みに答える。
「悪魔と同列にされるのは非常に不快ですが、一応その褒め言葉は受け取っておきましょう」
悪魔はそのギザギザとした鋭い歯を剥き出しにして巨腕を使い黒姫を押し潰そうと振り下ろす。
「そろそろ消えろ!」
「黒椿、閃光煉斬」
黒姫も大人しく潰されるはずもなく、最小限の体捌きで腕を避ける。
そのままガラ空きの懐へと潜り込み刀身に紅蓮の炎を纏わせると悪魔に目にも留まらぬ剣閃をいくつも叩き込むが、再び彼女の剣技は弾かれてしまう。
すぐに懐から抜け出し距離を取るが、相手の異常なまでの堅さに珍しく黒姫がイライラした様子を露わにしながら目の前の悪魔を睨む。
「いくらなんでも堅過ぎるでしょう。これじゃ埒が明きません」
「ケケケ、小娘如きの攻撃が俺に通ると思ったら大間違いなんだよ!」
悪魔が吠えた次の瞬間には、黒姫がアスファルトを削りながら後退していた。
何が起こったのかと川間が悪魔の方を見ると、シュウゥゥゥと煙を上げている右拳がある。
どうやら、川間の反応速度を遥かに上回るスピードで拳を繰り出したようだった。
それをマトモに受けてしまった黒姫はというと間一髪のところで刀を盾代わりに使って防げたのか目立った外傷はないように見えるが。
「ガフッ…」
突然、黒姫は吐血して膝をついてしまう。
その様子を眺めていた悪魔はニタァと不気味な笑みを浮かべて拳を振る。
「残念だったな、俺の拳の前じゃどんなガードも無意味だ。お前はもう立てない」
重そうな足音を響かせながら黒姫へと近づいてゆく悪魔、黒姫はというと連戦で血を流し過ぎたのか、ただでさえ白い肌を蒼白にして息も絶え絶えに、しかしそんな状態でも悪魔を睨むその翡翠色の瞳だけは変わらずギラギラと闘志を燃やして煌めいていた。
そして悪魔の手が黒姫の長い黒髪を掴み、その匂いを嗅ぎだした。
「触るなっ…なんて屈辱…悪魔にいいように触られるなど…」
自分より一回りも年下の少女が奮闘しているにも関わらず、何も出来ない不甲斐なさを感じていたが、少女が一方的に蹂躙され命の危機に瀕しているのに何もしないほど川間は落ちぶれていなかった。
気付いた時には、手にしていた銃型の魔導器で火の攻撃魔法を発動させる。
その魔法を黒姫を掴む腕に当て注意をこちらに向けると、真正面から悪魔と対峙した。
「我ながらバカげてるな」と苦笑と共に独り言ち、表情を真剣なそれに入れ替える。
「何だお前、今度はお前が俺の相手してくれんのか?」
当然、彼には悪魔に対抗できるような装備や技術も無い。
悪魔が虫を手で払うように腕を横に凪ぐだけでいとも容易く川間の命は潰えるだろう。
それでもこの場を退く気にはならなかった。
後ろの少女を己の命に替えてでも守らなければならない。
もはや脅迫のようなその感情に囚われながら彼は叫ぶ。
「あぁそうだ!お前の相手は俺がしてやる!掛かって来いや!」
「だけどお前…チョー弱えじゃねぇか、退けよ」
藤沢と向かい合った時より遥かに強い恐怖による震えを必死に抑え込みながら威勢良く吠える。
しかし、次の瞬間には彼の身体は勢いよく吹き飛んでいた。
ミシミシッという自分の肋の軋む音を聞きながら、川間はアスファルトに打ち付けられ、そこから更に10メートルほど横滑りしてようやく止まった。
息も絶え絶えな川間が受けたのは悪魔の軽いデコピン、しかし、相手の巨大さのせいで腹に受けただけで内臓がメチャメチャにされていることがすぐに感じられた。
呼吸一つで肺が裂けそうなほど痛む。
「川間さんっ…」
吹き飛ばされた川間を見て意を決したようにキッと目つきを鋭くすると宙吊りの状態から器用に身体を捻り自身の頭上に刀を振るう。
「無駄だって言ってるだろ…お?」
要領を得ない黒姫の行動に呆れ始めていた悪魔も次の瞬間には目を丸くした。
黒姫の一閃は目標をバッサリと斬り捨て、それによって自由になった黒姫は何とかボロボロの身体に鞭打って着地する。
その様子を見ていた川間も絶句していた。
「黒姫…お前髪を…」
「悪魔に触れられるくらいなら必要ありませんから…」
そう、先ほど彼女が刀で一閃したのは彼女自身の黒くて美しかった長い髪、それが今では半分ほどに短くなっていた。
悪魔の手の中には彼女の斬った髪がまだ残っている。
「あーもう飽きたぜ、そろそろ全員まとめて吹き飛びな」
面倒臭そうに持っていた黒姫の髪の毛を捨て、後頭部をボリボリと掻くと悪魔は大きく息を吸い込んだ。
同時に悪魔の目の前に幾重もの魔法陣が展開される。
その魔法陣から発せられる殺気は「放たれればここにいる全員どころかこの街自体もヤバい」と感じさせるほど凶悪な魔力を宿していた。
誰も巨体の悪魔を止める術を持たないどころか、動くこともできない。
川間が死を覚悟したその時、目の前の悪魔や黒姫の者とは明らかに違う第三者の気配に全員が固まる。
「やっと見つけましたわ」
そのたった一言がその場にいた全員に心臓を握られるようなそんな錯覚に陥らされる。
その圧倒的な威圧感を持つ何かは空に輝く満月を背にして空に浮かんでいた。
いつからそこに居たのか、黒姫も目を見開いている事からして誰もその存在を認知していなかったようだ。
それはゆっくりと音もなく巨大な悪魔の前に降り立つと、差していたパラソルを閉じる。
その者の顔を見た悪魔の表情が一瞬にして青ざめる。
悪魔の目の前に立っていたのは浅黒い肌に透き通るような白髪を持つ少女だった。
見た目は14,5歳と言ったところだろうか、そんな小柄な少女が、この状況とは全くの場違いである豪奢なドレスをゆったりと揺らめかせながら黒いフリル付きのパラソルをそっと目の前で震えている悪魔に突き付ける。
「契約が破棄されたにも関わらず、なかなか帰ってこない思えばこちらで大暴れとは…ワタクシの記憶が正しければアナタにそんな事を許可した覚えはなくってよ、アード」
アードと呼ばれた巨大な悪魔はその言葉に歯をガチガチと打ち鳴らしながら焦って弁解を始める。
ほんの数十秒前まであれほど恐ろしい存在であった巨体が少女の前では見る影も無く小さく見えた。
「だっ…だけどよ、こんな匂いを嗅いじまったらいてもたってもいられねーだろ?」
「アナタはもう少し理性的だと思っていたのですがね…また幽閉されたいのでしたら、喜んでその願いを聞き届けますわよ?それに、ワタクシは言い訳する輩が大嫌いですのよ?さっさと屋敷にお帰りなさい、話はそれからですわ」
少女の一言一言は静かなものである、しかしそれは鋭い刃のように対象をズタズタに切り刻む事も厭わない明確な殺意が含まれ、聴く者の心を酷く怯えさせる。
巨体の悪魔は少女の言葉に震え上がり、無言のまま空間を捻じ曲げるとそこに出来た亀裂へ一目散に飛び込み一瞬で姿を眩ましてしまった。
アードが去った後、少女はゆったりとした動作で振り向き、白雪のように美しい白髪を風になびかせながらその隙間から覗く髪とは対象的な紅い双眸が2人を捉える。
それは悪魔憑きのような淀んだ赤ではなく混じり気の無い真紅、悪魔そのものが持っている本来の瞳の輝きだった。
ゾッとするような紅の輝きに無意識のうちに川間は引き込まれかけ、フラフラと彼女の方へと足を運んでいたが、いつ間にか彼のそばに来ていた黒姫に腕を掴まれハッと我に帰る。
「アンタ…何者だ…」
不気味な美しさに翻弄されないように気をしっかり持ちながら、少女から放たれる無言の圧力に押し潰されそうになりつつ、息をする度に痛む胸を手で掴むと川間が何とか口から出てきた言葉を紡ぐ。
その質問に彼らの眼前に立つ少女は見た目に釣り合わない妖艶な笑みを浮かべながら律儀に答えてくる。
「そういえば自己紹介がまだでしたわね、ワタクシはフィトレウス・グリモワルド。どうぞフィトラとお呼びになって。先ほどの悪魔はワタクシの愚弟、アードルフ・グリモワルド、悪魔と鬼のハーフですの。以後お見知りを」
フィトラと名乗った少女はそう答えるとドレスを少し摘み上げ、貴族の令嬢がするような挨拶をこちらにしてくる。
「先ほどは我が家の愚弟が多大なご迷惑を…」と言ったところで、何かに気付いたかのように鼻をスンスンと動かし、匂いを探るような動作をする。
「あら、あらあらあら。アードが言っていたのはこの事ですの?」
その匂いが先ほどの巨体の悪魔が喚いていたことと繋がり、フィトラはクスクスと口を押さえながら笑い出す。
そして、2人の目の前からその姿が掻き消えたかと思うと、彼女は数刻前まで腰の辺りまで伸びていた今では肩より少し上にまで短くなってしまった黒姫の髪を慈しむように触り、その匂いを確かめるように大きく息を吸い込む。
「くっ…触るな…!」
先ほどから悪魔に触られることを極端に嫌がっている様子の黒姫は激昂してフィトラに向けて刀を振るう。
しかしその一閃は空を斬り、彼女は元の位置に立っていた。
恐らく彼女は高度な技術と計算、高い集中力を必要とする空間転移術を自分の手足のように自在に、そして瞬時に発動できるのだろう。
そんな異常なまでの才覚の片鱗を見せる少女は涼しげな顔で指を立てると黒姫に言い放つ。
「ナンセンス、アナタ自身気付いているでしょう?今のアナタではワタクシを傷付けることなんて不可能。それにアナタ、そのままではワタクシどころかアードにも絶対に勝つことは叶わぬ夢ですのよ」
「今の私…一体どういう意味…」
「さーてワタクシの用事も終わりましたし、帰るとしましょうかね」
「待ちなさい…クッ」
何かを意図するフィトラの言葉に黒姫は聞き返すが、その質問を遮って埃を魔力で払うと、空中をなぞるように手に持っていたパラソルを動かす。
するとパラソルの先端でなぞられた空間が裂けて狭間の入口が開く。
2人に背を向けこの場を去ろうとする悪魔の少女、それを阻もうと立ち上がる黒姫だが、もう既に力が残っていないのかすぐに倒れてしまう。
「アナタの内にある魔を受け入れる事ですわ…それがアナタの血となり肉となる。そしていつの日にかアナタがワタクシに近づけた時、直々に相手をして差し上げますわ。短い人の生…今よりずっと強くなることを願って、ご機嫌よう」
「魔を…受け入れる…」
そう黒姫に言い残して、フィトラは次元の狭間に入り姿を消した。
フィトラの言葉を呪詛のように何度も繰り返す黒姫。
何とも言えない敗北感が2人を襲い、川間も口を閉ざして静かな時間が流れる。
それから少しして黒姫がボソッと呟く。
それは彼女らしくない震える声での呟きだった。
「負け…ちゃいました…ね」
その呟きに川間が黒姫の方へと視線を向けるとそこにあった思わぬ光景に目を疑った。
そこには無言のままポロポロと涙を零す黒姫の姿があった。
「黒姫…大丈夫か…?」
「アハハ…涙はもう流さないって…あの時決めたんだけどな…。久しぶりだったんだ…負けたの…」
「…」
「ごめんね川間さん…ワタシ…任務に失敗したの初めてで…どうしたらいいのか分かんなくて」
そう言って泣きじゃくる黒姫には、いつもの敬語や口調、クールな雰囲気などは一切なく、ただ心の底から敗北を悔しがる15歳の少女がそこにはいた。
何か声をかけようと彼女のそばに行こうとする川間だったが、緊張の糸が切れた彼の頭は遅れてやってきた体の激痛で意識がプツリと途絶える。
耳が音を遮断する寸前、「もっと強くならなきゃ…でなかったらワタシは…」という少女の独白を聞いた気がしたが、思考を停止した脳はそれを留める事もしなかった。
次に彼が目覚めたとき最初に目に映ったのは清潔感溢れる真っ白な天井だった。
身体を起こそうとするとまだ治りきっていないのか胸に痛みが走り、やむを得ず枕に頭を預ける。
医療魔術が発達した世の中とはいえ、最終的に怪我や病を完治させるのは当人の治癒力とされ、そのためボルトなどのような補助に過ぎにない魔術だけでは痛みが残っているのも当然の事だった。
大きな理由として、命の重みを忘れない為というものがある。
怪我を魔術で完治させるのは現代の発展からは容易な事であるが、もしも戦争が起こった際には兵士が怪我を恐れずに特攻などをする事を恐れなくなるという可能性を懸念した結果、人々が命の重みを忘れないように医療魔術が介入できるのは治療の補助までと取り決めたそうだ。
そして、今現在軽く痛みに悶絶している彼のすぐ横から何度か聞いた声が彼に話しかけてくる。
「おー、ようやくお目覚めか寝坊助ヤロー。まったく、呑気なもんだぜ」
「千里眼…どうしてここに…?」
彼の寝ているベッド脇のパイプ椅子に腰かけていたのは金髪蒼眼の美女。
全てを見ることのできる瞳を持つ理外者、千里眼が誰かが川間の見舞い品として持ってきたのだろう、フルーツの入った籠から勝手にリンゴを頂戴して齧っていた。
シャクッという小気味良い音を病室に響かせながら彼の質問に答える。
「んー、プリンセスの見舞いに来たんだけど、アンタも情けなく担ぎ込まれたって聞いたから茶化しにきてやった」
「あぁそうかい、そいつはどーも。つか人の見舞い品勝手に食ってんじゃねぇ」
「ケチくせーことゆーなよ、どうせ食い切れないで腐らすのがオチだろ。そうなんないよーに協力してやってんだ、むしろ感謝して欲しいくらいだぜ」
彼女らしい見舞い理由と言い分に思わず苦笑する川間、そこでもっと重要なことを思い出す。
なぜ今まで忘れていたかと思うほど彼の中で強烈な存在になっていた漆黒の少女のことである。
「そういえば、黒姫はあの後どうなったんだ?」
「アタシが悪魔の消失を確認して、アンタら2人が倒れてるってのを冴木のじっちゃんに伝えて回収班を向かわせたってだけだよ。んで、プリンセスならここにいるぜ」
そう言って自分の座っていた位置から逆側にあった仕切り用のカーテンをシャッと勢いよく開くと、川間と同じようにベッドに横たわり彼以上に全身を包帯で巻かれた黒姫が安堵した様子でそこにはいた。
「良かった、目が覚められたんですね。3日も意識の戻らないままだったので心配しましたよ」
「そっか、3日も寝てたのか。確かにここしばらく事件に追われてまともに寝てなかったからな、その反動が来たんだろ」
「んだよ。人様心配させておいて、寝てた理由が睡眠不足とかカッコわりー」
「うるせ、なんでもお見通しのお前と違って凡人は地道に調べたりしなくちゃなんねーの」
そこでやっと川間は気付いた。
彼女が先の戦いの最中、切り落として短くなった髪が少し整えられている事に。
「髪…ゴメンな俺がもっと役に立ててたらお前が髪を切らずに済んだのに」
「ホントだっつーの、この子の長い髪が無くなったのを見たときは発狂して呑気に寝てるアンタの点滴に毒でも混ぜてやろうかと思ったくらいだ」
「思っただけで止まってくれて良かったよ」
横槍を入れてきた千里眼を苦笑しながら軽くあしらい、黒姫には頭を下げる。
それを見て黒姫は首を振ると翡翠色の瞳を細め、フッと微笑みながら否定する。
「良いんです…私が未熟だったせいで貴方を悪魔と対峙させるなどという危険な目に遭わせてしまったのですから。それにそろそろ髪を切ろうと思ってたところだったので一石二鳥です」
「ま、アンタのお陰で黒姫の髪を整えるなんて大義名分の下、好きなだけ触れたからそこだけは評価してやるよ」
「本当お前は上から目線だな」
「今度から別の人に頼んだ方が良いですかね?」
「そうしとけ、手遅れになる前に」
「そんな!そりゃないぜ、プリンセス!あとアンタは余計なこと言うんじゃねぇ!」
そんなやり取りの後、3人で顔を見合わせると吹き出して笑い出す。
「そういえば、黒姫がこうやって笑うのを見るのは初めてかもしれない」と、川間がいつものクールさを微塵も感じさせない花咲くような彼女の笑顔に引き込まれかけていると唐突に千里眼が話題を振ってくる。
「んで、どーよ。ショートのプリンセスも可愛いだろ?」
「えっ⁉︎あ、あぁ似合ってるぞ!」
思わぬフリに顔を真っ赤にして答える川間だが、急に恥ずかしくなり視線を黒姫から外す。
正直な話、ロングの髪型も似合っていたのだが、ショートになってその可憐さがより一層表に出るようになったと川間は見惚れていたのだ。
そんな無類のショートヘア好きである彼のことはさて置き、明らかに挙動不審な川間の姿を好機と見たのか、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる千里眼が更に追い討ちをかけてくる。
「アンタそこは可愛いって言ってやれよ!あー空気読めねーヤローだな!何だよ、惚れたのかー、惚れちまったのかー?」
「バッ…違ぇよ!」
ただでさえ真っ赤だった顔を更に赤くして千里眼の言葉を否定する。
どう見ても照れ隠しにしか見えない事は周りの目から見ても明らかだった。
一頻り笑い続けた後、黒姫は少し疲れたから眠ると聞いてすぐに小さな寝息を立て始めた黒姫のベッドを隔てるカーテンを閉めると再び川間と千里眼の2人きりになってしまった。
後日、川間が謝礼を渡すために千里眼の元を訪れた際、彼女があの時の黒姫についての話をコッソリ聞かせてくれたのだが、彼女自身は運び込まれてすぐに目を覚ましたそうで、それから川間が起きるまでの3日間、ほとんど眠る事なく彼の目覚めを待っていたそうだ。
そんな事は露ほども知らない当時の川間はぐっすりと眠る黒姫を起こさないように会話できる程度の小声で千里眼に話しかける。
「お前は一体どこまでお見通しなんだよ…」
千里眼が片眉を吊り上げ、鼻でその質問を笑うと当然と言わんばかりに目を指差しながら自信を持って答える。
「そりゃ、全部さね。言ったろ、アタシに見えないものはないって、それが人の心の中でもな」
読み取られる事を承知で、コイツに隠し事は一生できないなと思いつつ、川間も不意に襲ってきた睡魔に身を任せゆっくりと瞼を閉じるのだった。