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腐った水のはるかな過去

作者: 糸井槌
掲載日:2026/04/10

子供の時分から言い聞かされた呪いのせいだろうか、ずっと自分は奪う側なのだと思って生きてきた。思い込もうとしていたというのが正しいだろうか。それでも目を開くたび、大切にしたかったものから失くしてきたものまでが見えないどこかへ奪われていくという恐怖に甘んじて逃げ込みたかった。奪ってきたなにもかもに面と向かって愛してると伝えるには酸素が足りなすぎた。いつまでも音を立てて存在を示すくせにそれだけでなにもしてくれない雨のようで苦しかった。

女が心中相手に選んだのは何度か女も交えて一緒に飲んだだけの、今度また休職でまたうつ病だとよと編集の一人ががなじっていたナイーブなところがある病気がちの会社の後輩だった。

確かな理由なんてなにも解らなかったが、傷を舐め合うことにすら疲れ弱りきった顔見知りが夜に、それもタイミングよく立ち直れない痛みを同じように抱えたふたりが自死を選ぶのは、そのままここに帰ってくるより納得がいくように思えた。

最後に俺は奪われる側に立った。するとどうだ、こんなになにひとつ思えやしないものなのか。手洗いで顔を洗って、鏡を見た。 死んだ目の男が、そんなに奪う立場が怖いなら俺に奪われてみろと言うようだった。戻らなければ、そう思うほど脚が固まり、啜り泣きすら聞こえる沈黙の中、俺は青白い顔で呆然と立ち尽くしていた。


付き合っていた女の死体がその地元の富山で、生まれ育った町の隣の港に男と二人で流れ着いたのは東京でもそれなりの雪が降る季節のことだった。喧嘩別れともいえない最後の温度のないやり取りから事務的な会話しか交わさなかった数日後、地元に帰ると言っていた背中を見送ることもしなかったあの夜が、いつまでも落ちないぬめりとなって、綻びは縫い合わせることも叶わず膿んで、あの頃は見ることも出来なかったが、今になって思えばそれはもう取り返しがつかないほど爛れてしまっていたのかもしれない。


告別式のために向かった小さな町、そこのほんとうにひとのいない無人駅には俺の知らない静けさがそこここでうるさかった。顔をあげると日焼けして褪せた看板が目に入り、それがなにを訴えるものなのか解ってしまう前に視線を外した。

男の体内からは大量の向精神薬と睡眠薬、女の身体からは睡眠薬とそして大量の鎮痛剤が出てきたらしい。女が、紗世がどんな痛みから抜け出したかったのか考えてもそれはぐるぐると渦を巻くだけだった。


男は女を奪うものだ。生まれてからの遠い昔を思う。狭い村だった。大人は子供に、こと男には口酸っぱく言った。奪うのは罪で、奪われるのは罪ではない。結婚は罪だ。どんなに奪う罪を説いても、それでも若い男女は惹かれあってしまう。そしてそれは教育が悪いとまた別の鞭がふるわれる。子どもの罪を親が償う。親が罪深いからだ。村人は……少なくとも俺が抜け出るまでは、罪を金で洗うか、その罪をほかの誰かになすりつけるほかになかった。右があれば左があり、男がいれば女がいる。結婚が一対の男女でなされるのであれば、村人はみな奪う者であり、みな奪われる者となった。天国があるから地獄があり、村には地獄もなければ天国もなくて、だから村にはなにもなくなり形骸化したしきたりだけが残る。思えば、それもまた消えていくに違いなかった。だから独りで抜け出した。誰の手を引くことも引かれることもなく。


どうと強い音がして下がりつつある気圧に目を閉じていれば、今自分の立っているところさえ解らなくなるような雨が、より強くなる気配がした。ここに喫煙所なんて気の利いたものはなく、だからようやく空になった缶コーヒーを手にこんな不愉快な場所でぽつりと立っているしかない。煙を吐き切った喉から、あぁ、と声が落ちる。さっきまで見ていた姿は思ったより綺麗だった。思ったより、というほど人の死体は見ていないけれど。

パタパタ、と弾ける音がして最初は雨が降ったのかと顔をあげてここが今さっき入ったばかりの室内なことを思い出した。それは俺がこぼしている涙だった。なんの意味も持てない涙だった。

長く列の出来た焼香をすませて逃げるように靴を履いていると紗世の両親が恨めしそうにこちらを見ているのをありありと感じた。気を取られていると、がん、と石つぶてのようなものがこめかみを打った。意識が一瞬だけ宙に浮く。ぼこぼこした節の目立つ拳を汚れを拭うように片手で払っている男は昔に写真で見せてもらった紗世の兄貴だった。似てないな、と場違い感想が浮かんで、すぐに飲み下す。

「一応聞いとくが、名前は」

「山出と申します」

「お前、紗世と付き合ってたんだろ」

「……はい」

「それなら、それならなんでこんなになった!あいつは役者になるって親父もおふくろも止めたのに東京出てって、それ以来連絡ひとつ寄越さねえし、ようやくここまで戻ってきたのに顔も見せねえと思ったら……なんで、なんであいつが死体なんかになって帰ってくるんだ!」

激昂している男を見ているほど、腹の奥からが冷え切っていく。冷静と呼ぶには真面目さに欠けた態度を悟られないよう俯く。下がった目線の上、握り締められすぎて震える拳が映っている。

「てめえ、なんか言うこともねえのかよ!」

力の抜けていた胸ぐらを掴まれ、衝撃を踵で堪える。

「だいたいなんで、なんでてめえじゃねえんだ……死ねば、よかったんだ……」

お前が死ねばよかったんだ!

ねばついた唾液が頬に飛んで、手の力で仮留めだったボタンが落ちた。紗世が、あの女が最後につけてくれたボタン。それが靴の揃えられた土間に落ちて転がるのをよせばいいのに目が追っていた。

「なんで、あの人やったんですか」

相手なら、普通、山出さん……あんたでしょう。この子と付き合っとったって、そんなら山出さん、筋を通すなら相手はあんたじゃないとおかしいでしょうが。

紗世の父親が俺に向き直ることなく横顔だけで静かにこぼした。

まばらに続く戸口の開閉で雨が続くことを悟って、湿気がどれほど高くなれば肺に水が溜まって溺れてしまえるのか、ボタンのひとつを拾えぬまま俺はただ考えていた。



青い顔で掛けていった背中が手洗いに駆け込んで3分、手が空いていた俺をみとめた先輩がお前が行ってこいの合図をした。扉越しにもうゲホゲホと咳き込む音が聞こえている。

「すんませんこっち男子トイレなんですけど」

口元からまだ未消化の米粒を唾液の糸に垂らしたまま振り向いた顔は紙のように白く、その下にあるはずの血管や肉の色がまるで感じられない。揺れる黒目がまたたいて、ごめんなさいと言うとまた噎せた。

「あー終わるまで俺入り口で立っとくんで、早くしてくださいね」

レジを打っていると男の楽しげな小声に押し出されて、人影が落ちた。さっきの女だ。

「さっきはすみません」

「ああそういうの大丈夫なんで」

適当に流そうとしていると、女が紙を渡してきた。ツルツルとした手触りのそれは、フライヤーだった。

「私、役者をやってまして、これ、今度この近くでやるんです、私2番目の役ですけど」

お仕事中すみませんが、どうぞ、と女は去っていった。小さな台風のようだとふと思った。


珍しく昼前に目が覚めた。乾燥して固くなった食パンを噛みながらコーヒーを飲んで、ふと目をやると催促状やレシートの束の下に先日貰ったフライヤーが埋もれながら置かれてあって、そっと引き抜くとそこには今日と同じ日付の公演日が書いてあった。モデルに使えそうな女でもいれば儲けものだな、そう思いながらパンの残りをコーヒーで飲み込んで外に出る準備をした。

歩いてみれば思ったよりずっと近かった会場はかなり狭く、座席も少ない。昔母親についていって見た小劇場のものよりもっと小さい。予定より30分速く席についているとスタッフなのか役者なのか数人が舞台の上で話し合いをしていた。煙草を吸いに喫煙所の扉を開けると、そこには件のゲロ女が立ったまま煙草を吸っていた。緊張しているのか手が震えて細かく灰を落としている女が間を置いて空気を和らげた。

「……どうも」

「来てもらえたんですね、ありがとうございます」

「いえ……ちょうど休みだったんで」

ホッとしたような顔をしている女へ何故か軽い嗜虐心が沸いた。

「まだ始まってもないのに解かんねえっすよ、つまんなかったら俺途中で帰るかもしれないし。しかしあなたも災難ですよね、だって2番手の役で男子トイレでゲロ女の印象ひっくり返さないとなんですよ」

女は苦笑いを浮かべると、おっしゃるとおりかなり難しいですね、と頭を指先で掻きながら答えた。

「こういうのお好きなんですか?」

「どうだろ、でも映画と小説と写真は好きです。写真はもっぱら撮る側ですけど」

「写真、どういうの撮られるのか聞いてもいいですか?」

どう見たって幸薄く見える女の顔をじっと捉えたまま、女だよ、女の裸、と視線を刺した。水を含ませた筆で突いたように目が湿っていく。思っていた拒絶がなかったことにこちらが面食らっていると、じゃあ私のことも撮れますね、と言い放つと、また後で、と喫煙所から出ていった。

これが紗世という女との二度目の出会いだった。



「いやあしかし山出くん、この前の袋とじ連載だけど、テーマの一新ってやってみるもんだねえ。反響がすごいったらないよ。女と木を撮ったほら、あの木、なんだっけか」

「ああ、あれなら松です」

「そう、そう。松。女と松だなんて、普通30半ばじゃ取り合わせようって思いつかないよ。50とか60代の客からの反響がまあすごくて、それだけ山出くんの人生には年齢からは読み取れない深みがあるんだろうねえ。特に暗い中しゃがんで線香花火させてるやつなんざありゃあ、どきっときたよ。見えてほしいとこはだいたい隠れちゃってたけど、俯いた顔から胸に下って手に持ってる花火の灯りが地面の松ぼっくりを照らしてるのは、ほんといい構図だと思ったね」

「ありがとうございます」

そう言い終わると区切りのようにコーヒーを啜るってから、さっきまで揉み手で賞賛していたのから一転して編集長はパソコンの画面を向けた。そこには大学のホームページが映し出されている。

「ここに行けということでしょうか」

「ああ、勿論入学しろと言うわけじゃないよ。僕も世話になったいい先生がいるから、まあ学ばせてきてもらいなさい。手配なら済ませておいたから、必要な書類もきみのところに郵送しておいた」

なるほどね、と気づかれないように唇を舐めた。センスのズレた老いぼれ好みの笑顔で媚びて頭を下げれば、目線の先ではブヨブヨした指が反対の手に嵌った指輪を撫でるように動いていた。


言われるままに潜り込んだ講義はつまらないものだった。偉そうな教授が偉そうに自分の体験を上から押し付けてくるだけで、はじめに名乗られた名前だってもう覚えていない。持っていったノートには講義とはなんの関係もない思いついたアイデアの走り書きがひとつ残っただけだった。

何回目かの講義の終わり、教授が俺を手招いた。

「山出くん、だったな」

「はい」

「話なら聞いてる、君の写真、よかったよ。これから飯にでも行かないか、もちろん連れがいるなら呼んできなさい」

ありがとうございます、と頭を下げると、じゃあ6時に駅前で、と柔らかく笑った。

何店目かの席についた教授は据わった目で冷酒をちびりちびりと呑んだ。

「お遊びのカメラマンとお遊びの役者……ねえ」

だいたいがお前ら生き様すらごっこ遊びじゃねえか、半端どもが、頭のひとつでも下げてみろよ、知り合いの工場の口利きならしてやってもいいんだぞ。

隣に座っていた紗世がきつい酒を頼んで、届けられてすぐにその酒を教授の顔へとぶち撒けると、最低!と叫んだ。音をあげて立ち上がると、こんなのに尻尾振っておべっか使えるあんたもね、と俺を強く睨んでからさっさと店を出ていった。



稽古から帰ってきた女は酒のにおいをさせていて、そこになにも言わずにいると紗世は、ちょっとくらい構いなよ、と座っている俺の腕にしなだれた。酒のにおいがより近くなる。軽く振り払う仕草をしても女は離れなかった。

「お前さ、俺の女って自覚あんの」

「は?なにそれ。もしかして嫉妬?」

「それがいいならそうとでも思ってろ」

「なになに、かわいいとこあんじゃん」

そう言って女は腕をより巻きつけ、酒臭い頬ずりをした。紗世を解くのも面倒で、巻いたまま脱衣所に入ると女はぱっと身体を離して、一緒に入ろうか、と邪気なく笑った。



その日、いつもに増して紗世は引かなかった。だめだというほどに意地っ張りな子供のように潤んだ声を落として俺をなじった。

「なんで私のこと撮ってくれないの」

「……俺の撮ってるもん知ってるだろ、それでもそこに載りたいから俺といるのか」

「そうだよ、それくらいの覚悟、最初からある。じゃなきゃ付き合ってない」

項垂れたまま女のほうを見ずにいると、立ち上がって薄いTシャツを脱ぎ始めた。伸びをすると足首の細さが際立った。

「ほら、見なよ。ここにいるのは撮られるためじゃない、あんたの女だよ。なんだってやってあげられるんだよ」

好きな女にこれだけされても動かない感情が嫌で、煙草片手にベランダに出て狭いそこを眺めていると松の盆栽があった。昔に買って、もうとっくに枯れたと思っていたのに。少し乾いてはいたが苔は瑞々しく、触れれば樹皮も呼吸をしているようだった。その傍らに置かれた霧吹きを見つけて思わず声を上げて女を呼んだ。

「紗世、紗世見ろ、これ」

「なぁにぃ、この盆栽前の人のものかと思ってたら山出さんのだったの?」

「……お前が世話してくれてたのか」

「まあ、ここに来たときだけね」

「……っ!」

しゃくりあげるような激情が喉をせり上がって、思わず裸の女をきつく抱き締めた。素肌から立ち昇る粉のようなうっすらとした甘さと淡い汗のにおいを吸い込んで俺は今きっと情けない顔をしている。

「ありがとう……ありがとう」

「なに、そんな大事だったんなら自分でも世話しなよ。っていうかなんで松なの?」

「なんでだろう、でも幹の手触りはこの木が一番好きだ」

「じゃあこれと撮ってよ」

そう言って松葉に頬を寄せると、チクチクする、と紗世は笑った。



会社から呼び出しがあって顔を出すと、編集長が辞めると辞表を見せているところだった。うちのような小さな会社は編集長が社長を兼任しているので、倒産でもするのかと内心気が気でなかったが引き継ぎも兼ねていると後ろで囁かれているのを聞いて一応ホッとしていると編集長が話しだした。

「僕の代わりにもっともっといい人が来てくれますから、皆さん気を落とさずに、引き締めてまいりましょう」

言葉が切れるとノックもなく扉が開いて頬骨の目立つ細身の男が、ちわぁす、間延びした挨拶を落としながら入ってきた。

「どうもどうも、週明けから私がこちらの編集長を務めさせて頂きます。前田賢仁です。よろしく」

嫌味な気質が全身に張り付いているような、変にギラギラした男だと思った。その男が俺へと目を向けると、ぬるりとした目付きで笑った。

「きみが山出くんだろ?俺知ってるよ。エグい写真撮るんだって。いつか俺も同行させて貰おうかね」

言いながら近づいてきた男は、かなり前に載せた雑誌を持った手でページを指して、これハメ撮り?ハメ撮りだろ?とヘラヘラ笑う。相手をするのも嫌だったが相手は次の社長だと割り切って適当な返事をした。

「まあまあまあ、中野編集長の送別会と私との親睦会ととでもいきましょうや。といってももう予約してあるんですがね」

連れて行かれた飲み屋は半個室で、何故か俺と垣本が編集長と前田社長の部屋に呼ばれた。

「垣本くんは病気がちだって聞いたけどさ、なんていう病気か聞いてもいい?ほら、知っておかないと対処のしようがないっていうかさあ」

「医者からは、うつ病だって言われてます」

「ははあ、そりゃいけないね。うつ病って勃たなくなったりすんでしょ?こういう写真だとさ、どれだけ股間にクるかが大事なわけじゃん?それが反応しねえんならもう、潮時っつうのかなあ、やめるってのも考えたほうがいいんじゃねえか?」

おもちゃに扱われている垣本の寄せられた眉根、目はテーブルの一点を強く捉えていて、そこだけが焼けつきそうだと思った。詰まっていた息を吸う。喧騒が肺に落ちていく。垣本がなにかを言い出したそうに軽く唇を舐めた。

「まあまあそんないじめないであげて、僕は垣本くんの撮る写真がなかなか好きでね、今日なんて山出くんと垣本くん、この二人の並びなんて中々見ないよ。作風も真逆で、見た目だってほら山出くんなんかは見たとおりの色男だし、垣本くんはほら、儚げで病弱な文学青年って感じで」

編集長のどこかズレた必死の世辞にはまるで興味なさげに前田はコップを空ける度に俺達へ注がせていた。


二次会は当然の如くキャバクラだった。だらしなく大股を開いて座ったその間に女を何度も座らせようとする。嫌気がさしてか俺のほうに回ってきた女を、前田は俺ごと軽蔑するように睨んだ。

「しかし山出くんは美形というか、目鼻立ちに嫌味がなくていいねえ」

ありがとうございます、と呟いた。隣にいる嬢が俯いてないで顔上げてよ、と言った。

前田が、聞きたかったことなんだけど、と発した。

「女何人同時にやったことある?いや冗談じゃなくて、これ大マジだから。仕事、仕事の話」

キャバクラで仕事の話をする会社がどこにあるのだろうと思ったが、そういえばこの男が週明けから社長になるのならこういう機会も必然増えるのかと、そこまで考えが至って寒気がした。

「で、複数相手なら一度で何人やったの」

「……3人です」

答えれば前田が大げさに飛び上がると、芝居がかった声でそりゃあすげえな〜とゲラゲラと過剰に笑った。

「聞いたかい中野さん、3人相手だとよ!俺日本3大ソープ街なんて回ったこともあるけどさ、それでもそんな思いしたことねえや」

「いやいや前田さんだってやろうと思えば……」

自分が酒の肴にされていることは解っていたが、それに反吐を吐くことも出来ない自分になにより苛立っていた。タイミングを見て席を立とうとするとそれを見透かしたように前田が、まあ山出くんももっと飲みなってとグラスにビールを注いだ。

「うちな、今書いてる雑誌の別冊出そうと思ってんだ。社長と編集長が変わって新体制ってのを全面に打ち出すんだ。袋とじはふたつ。今までのやつに加えて新企画。どっちもきみが撮れ」

煙草をすぱすぱ吸いながら目を反らしていた男が吊り上がった目でこちらを捉えるとウィンクをした。

「ありがとうございます!やらせて頂きます!」

勢いよく頭を下げるとまあまあと肩を叩かれる。

「新企画のほうはチープさが売りなんだ。被写体はもちろん写す側のカメラもトイカメラとか、チェキ、ポラロイドに……昔のデジカメもいいな。そういうので撮ってもらいたい」

堰を切ったように話す男の目は爛々としていた。どこか焦点のズレたような目が、キャバクラのシャンデリアを受けてギラギラと輝いているそれが俺の目を覗き込むように向けられる。そのまま言われた言葉が耳の骨を伝って、破けたように鼓膜に触れるとガサガサとノイズのように鳴るのが解った。

「俺が見るにはね、山出くんの売りはチープささなんだよ。解るかな。クラスメイトの地味な女の子を雨のバス停とかで無理やりモノにする感じ、どう?伝わった?」

言い切ると男はやはりギラギラと痩せてるくせに脂ぎったような腐った息を満足気に吐いた。

俯いて歩いていると浴びせられた毒が染みてくるようで顔を上げて前を睨んだ。胸がムカムカとしたまま歩いているのも次第に嫌になってきて、月半ば、残金は心許ないが乗り込んだタクシーは1円のコストも惜しいのかこの蒸された夜なのに窓を全開にしているだけで空調は切られていた。

薄汚れた白いタイル張りのマンションに入り、3階へ上がる。308号室のドアの前に立って、古くなって押し込まないと鳴らないインターホンを指先が痛くなるまで押さえた。

ドスドスと進んだリビングの、目の前のガラスを流れてゆく無数の小さな川、ベランダの手摺りの向こう側は白くけぶって、アスファルトに灰色の光に似た飛沫を散らしている。勝手に淹れたコーヒーを、勝手に借りた女のカップへと注ぐ。もう慣れすぎた頭痛に額を押さえてゆっくりと息を吸いこめば、滲みついた渋い薫りと共に、閉め切った眼前から雨の匂いがした。

ぞんざいに押し込めた憂鬱は、風が強くなる日に限って留め金のゆるくなった戸棚から無視できないほどにがたがたと音をあげて溢れ出る。

「なにかあったの?」

そう言われて見た紗世は本気で心配しているとは思えなかった。機嫌を取ろうとするその姿勢がその時の俺には気に入らなかった。寝間着のゆるいシャツを引っ張ると簡単にボタンは外れた。言葉もなく呆然としている紗世を鼻で笑った。抵抗のないのをいいことにすべてショーツ以外は脱がせてしまった。そのうちなにもしない腕が気に触った。

「おまえ撮られてもいいんだろ、こういうことなんだよ俺に撮られるってことは」

掴んだ髪を引っ張ってみても女は頑なに振り返らなかった。

「……だんまりかよ、おい」

せめて自分から動くとかねえの、低く言えば応じるそれにポラロイドを向けてみれば、シャッターの光でこちらを向いた女の身体よりも、レンズ越しに見えた蜜のない目のほうが今の俺には煽情的だった。やめて、と声を荒げて手を伸ばす姿にさえシャッターが下りる。下着を乱暴にずらすと獣欲が腹の底で渦を巻いて、胃を吐きそうな衝動が芯を焼いた。

「汚れんのが嫌とか今まで生きてきといてなに言ってんだ!おまえみたいな奴が俺は嫌いなんだ!」

身体を起こした女が俺を睨みつける。

「お前の身体は俺のもんだろうが!おい、俺がいねえと売りもんにもならねえそんなんはな、俺が売ってる奴らに消費される、それしか、お前の価値はそこにしかねえんだろうがよ!」

前髪を掴んで無理やり顔を合わせると、さっきとはまるで違う怯えた表情が俺より奥を見つめていて、思わず手を緩めるとぶつりと抜けた髪が何本も指に残った。



あれは朝飯を食べていた時のことだった。齧った食パンを飲み込んだあと、女はおもむろに話はじめた。

「私さ、売春してた」

「そうか」

「父さんが浮気したかで、母さんが一時期荒れてて。幸せそうな私がぼーっと家にいるのがやだったんだって。で、母さんが買ったり輸入してた薬の代金稼いでこいって放り出されてた。中2の時かな」

紗世の目線は右斜め上を向いていた。斜め上を見つめながら話すのは、昔を思い出す時の癖だと前に誰かから聞いたことが蘇る。

「それ、もう大丈夫なのか」

「傷は消えないけどね、ここに出てきてから忘れてられる時間は増えたんだよ。演劇の稽古してる時とか山出さんと会ってからはもっと」

そう言って俺に顔を向けるといたずらが成功したみたいに紗世は笑った。

「今でもね、夢には見る。母さんの言い分がおかしいのは子供なりに解ってた。でもそれを跳ね除けられるくらい冷たくなれなかった。私は今の自分は無理でも小さかった頃の私は幸せにしてあげたいと思ってる」

ねえ、山出さんはそういうのないの。

濡れて輝く瞳が俺をとらえる。そこからゆっくりと視線を外しながら俺も答えた。

「……俺はさ東京までの電車が出る駅に行くまで2時間かかる村に18まで住んでた。典型的なムラ社会って感じで嫌な場所だったな、どこどこの家は借金があってどこどこは娘が嫁ぎ先から帰ってきて、とか」

「……なーんてね」

黙って話を聞いていたと思っていた紗世が、場違いな声とポーズを取った。突然のことに言葉も出ない俺の口に付いていたジャムを拭って舐めると、女は楽しげに笑ってみせた。

「全部、お芝居でした。どう?なかなか真に迫ってたでしょ、ふふ、山出さんがあんな声出すなんて」

そう言うと紗世はからからと笑って、あ、ごめん稽古遅れる!と叫んで家を飛び出していった。

それ信じていいんだよな、と聞けなかったことを今でも後悔している。



企画のために渡されたがらくた同然のトイカメラの手入れをベッドに伏せてしていると、女が縁に座った。その重さ分マットレスが凹んでそんなことでやる気を削がれた俺はカメラをごろんと枕の横に転がした。

「最近撮りに行かないじゃん、なんで」

優しく諭すような口ぶりも今の俺には鋭く刺さる杭でしかなかった。

「行きたくない」

「行ってきなよ、仕事の写真いるんでしょ」

仕事のことを持ち出されて燻る怒気が喉の奥に灯る。それでも、お前が俺の仕事に口を出すなとは言えなかった。

「嫌だ、撮れないんだ」

そういうと紗世は、エアコン効かないね、と言って靴下を脱いでみせた。

「……ぜんぶ脱ごうか」

強い目がこちらを見る。射抜く。紗世が望まないとしても、俺は紗世を幸せにすることは出来ない。女を幸せに出来ない男は存在価値がないも同然だ。存在していない、だから、俺はきっと死ぬことも許されない。

「もう、だめだ。俺、カメラマンにはなれないんだ……でも、父親にだったらなれるかもしれない」

「私をその器に使うの」

「そうじゃない、そうじゃないっていうのも変だけど」

「じゃあ別れるの」

はっきりと吐き出される言葉に身体がどんどん胎児のように小さく丸くなっていく。

「……解らない」

「なに、それ。父親になりたいとか言うんならゴムくらいつけてよ」

投げられた言葉の情けなさに目をきつく閉じて、再び開いた時にはもうどうにでもなれというような心境になっていた。枯れた心に水を落としても、乾きすぎたそこは水分を弾いて死んでいくことを選ぼうとする。

「なあ古民家とか借りて喫茶店か古着屋でもやろうよ、初期費用なら全部出すからさ。紗世の地元か、それか知らない場所で」

「今更無理だよ」

俺の虚ろを見透かしてか紗世の遮りは相変わらず固い。

「解らないだろ、もしかしたらなにかの巡りあわせで、変われるかもしれない」

「……私たち変われると思ってここに出てきて、何年経ったと思う?選ばれる側じゃないんだよ、いい加減解ったら」

「選ばれないのは解ってるよ、でも宝くじなら当たるかもしれないだろ?」

言いながら頭をぐしゃぐしゃと掻いていた手を離すと、抜けた髪がいくつか掌に残っていた。そういうば、長いこと髪も切れていないことに気づく。心臓ではない胸が軋むように痛い。

「なんなの、最近変だよ」

「……俺もう駄目んなった。ひとりじゃもう駄目だ、歩けないんだ。俺のことそれでも好いてくれてるなら一緒についてきてよ、ずっと自分は余生を生きてるんだと思ってた。俺にまだ余生があるならもう残りは紗世と生きていきたい」

「なにそれ、あんたの自殺に巻き込まないで」

ここまで言っても憔悴しきった俺の自殺に巻き込むなと言う。ずっとこういう強い女なことが、嬉しくて愛しくて、なにより好きだった。それさえも今はこんなに苦しい。

「ごめん、こんな奴でごめん……なんもしてやれなくてごめん」

「謝らないでよ、謝られたらその分だけ苦しくなるんだよ、解ってよ」

あらゆる景色から背を向けて壁に向かって膝を抱えている俺の背にあたたかい体温が触れる。そしてそのまま、抱き締められることもなく背を合わせられる。逆三角の形をした、薄い背中。ぽこぽこと浮き出る脊椎がところどころで俺のそれと凹凸のように合わさって、もう泣いているのにさらに泣きたくなった。

「誰だって歩くのが嫌になる時はあるよ。ならまた歩きたくなるまで待とう。それがどんなに辛くても、辛いって感情だけじゃ人は死ねないから」

紗世は一語一語言葉を選んで話してくれたのに、俺には、そうだよな、と返すのが精一杯だった。



洗濯物を畳んでいた紗世がさっきまで膝下においていた針山から1本抜くと、バスタブに座り込んでいる俺の頭を数度撫でた。残り湯を抜いたばかりの内側はそこここに水が残っていて、身動きをすればそれが服について嫌に不快だった。

「ワイシャツのボタン、取れてたからつけといた」

「そうか」

「前にあんたさ喫茶店やろうって言ったじゃん、古着屋だっけか」

浴槽に声が反射する。身体を縮めようすれば足の指がきつく閉じる。

「今ならああいう気持ち解るかも。どこかに行ってどうにかなりたい気持ち」

「そうか……」

下を向いたままそう呟けば産まれた時の呪いが波紋のようにどこまでも広がって行く気がした。奪われる女は奪われるためにその手をあっさりと俺へと差し向ける。そのせいで俺はずっと救いを求められない。海へ行けば自重に溺れ、山へ行けば自らの墓穴を掘るしかない。それなのにこの女は俺から受け取った愛を罪だとすら気づかずにどこかへ行ってしまう。なあ行くなよ、ここにいたらいいだろ、そんな勝手が許されていいわけがない。誰かを繋ぎとめられるなんて傲慢を俺が持っていいはずがない。

「どこかへ行くのってやろうと思うとほんとに難しい。だからみんなどこかへ行きたがるんだろうね……どこかへ行って変われる人はもう大丈夫なんだよ。だからかな、あなたがどこへも行くなって言ってくれたら私、ずっとは難しくてもここにいるよ。でも、きっともう無理なんだよね」

紗世の剥き出しの腕が俺の顔に触れる。そこからは乾燥した皮膚と石鹸の奥に薄めた桃のシロップのようなにおいがして、おそらく安らぎというのだろうそれに俺は目を閉じた。抱いた頭を転がすように器用に傾けると、耳たぶに鋭いものが触れる気配がして、そこから熱が広がった。

「こんな穴、3日もすれば塞がる。だから何回も開け直して。私を思い出して。あなたといた私が幸せだったってことを……お願い、忘れないで」

「そんなに守られたい約束ならその針でも飲ませりゃいいのに」

「立場が逆だったら、あなたは出来るの」

例えば紗世と俺が同じ日に産まれてその日から手を繋いでずっと一緒だったのなら、いつ恋というまちがいを犯したのかさえ解らないとあの粘ついた双眸の村人たちからゆるされることはあっただろうか。それでも。

「出来ないさ」

それでも俺は罪を負うのだろう。その負い目さえもを傘にして図々しくも死んだように生き延びていくだろう。

その4日後、劇団員の話で紗世の死を知った。教えてもらった住所をメモし、一着しか持っていない喪服に腕を通した。葬式に使えるようなシャツは前に紗世がボタンを縫い付けてくれたものしかなく、仕方なくそれを着た。玉止めが雑で首を動かすとかすかにくすぐったかった。直そうかと思って手にしたのに、俺は針山から抜いた針を、女の言葉に従って耳の穴に通した。薄皮が弾けて窄まった肉が拡がっていく感覚は罰のそれと似ていた。



紗世が浜に流れ着いた冬から半年目の命日、季節の変わった世界はうだるように暑くそれはひとり向かった富山でも変わらなかった。女の家へ通じる道を過ぎていく黒い服数人の焼香の残り香を指に絡ませるように目を閉じて、海を眺めた。そうしてまたなにもせず帰った。貰っていた休みを5日過ぎた頃にようやく出社したら、他の社員は出払っているのかおらず、しかしそれを意識するより前についた途端に会議室をわざわざ弄くり回して作られた社長室へ通された。

「山出くん、君ね、写真いつ持ってくんの」

社長は組んだ手の指先をせわしなく動かして苛立ちを表現している。

「前から3ヶ月だ。いつまでも待ってられるくらいうちには余裕ないんだよ、垣本はそりゃ休みがちだったけど切らしたことはなかったぞ……そいつももういねえんだ、だからお前が持ってくるしかねえんだよ解かんねえのか!」

「……解っています」

「はあ……」

あからさまにため息をついてから細い足がパイプ椅子を蹴り飛ばした。

「解ってんなら今すぐ通りでナンパして撮らせてくれそうな女捕まえてこいよ、鞄ひっくり返してでも差し出せよ、おら携帯見せろ……お前今まで何人女撮ってきたんだよ!それを自分だけ無理ですなんて通ると思ってんのか!」

「申し訳ございません」

パスワードを解いた携帯を差し出すと、前田はプライドのねえ奴だな、と吐いて、くだらねえと書かれた顔でそれらを雑にスクロールして、あるところで表情を崩して、指を止めた。俺の眼前に液晶が突き付けられる。俺が小屋の喫煙所で撮った、なんでもないもの。

「知ってるぜこの女、なんたらって劇団員の桝見紗世だろ」

「……は?」

すーっと血が冷めながら引いていく感覚に脳が研ぎ澄まされていく。この男の息に、目線に、紗世が晒されていた。その事実が許せなかった。それなのにまだ激情は脳を貫かない。俺はこんなところまで飼い慣らされたのか、と思いながら強く目を開いて近すぎて焦点のぶれる紗世の姿越しに前田の蛇のような眼差しを睨み付けた。

「しかしこんな写真撮れるってこたあ……山出くん、相当いい思い出来たでしょ」

こちらが睨んだままでも、前田は手を止めない。というより俺など眼中にないというように、さっさと指を動かす。そして、写真を見せる時だけ俺を粘ついた双眸でニタニタと眺める。

ぶち殺してやりてえ、と浮かんだところで前田はギャハハと汚く笑った。ヒーヒーと喉を鳴らしながら俺に向けられた画面には下半身は下着1枚で上に着ている薄いTシャツを脱ごうとしているものだった。

「この女、脱がせてみたらエッロいねえ、劇団ではそういうのはやらない方針だったんでしょ、俺それ知って観に行くのやめたもん」

言葉を切った前田は携帯を俺に返すと、今度ハメ撮り撮ってきてよ、と恥もなく言った。

全身が細かく震えている。沸き立つ感情のひと粒ひと粒が怒り狂って1本の大きく長い生き物となって身体を突き動かされていくのを感じた。自分の意思で止められるものではなかったが、それを形作っているものは、これだけは間違いないと言えるほど前田への憤怒だった。

携帯を受け取った手を伸ばしコーヒーをひったくってケタケタと笑う下品なその顔にぶちまけてから豪勢な机を思いきり蹴った。

「てめえ、なにしやがるんだ俺は社長だぞ!」

「だったらなんだよ」

イタリアものの趣味の悪いネクタイを引っ張り寄せてぶつかった額がゴチンと音を立てる。

「っつぁ!」

椅子が後ろの金庫に当たって派手な音をあげる。その椅子を元の位置に直しながら、倒れている男に近づいた。

「竿だけ生かしといてやる、そっちのが惨めだろ?」

スーツの股に足先を軽く乗せて、それだけはやめてくれ、と吐き出すのを無視してつま先に全体重をかければ、ぱにゅんと潰れる感覚が脳に響きそれが消えないうちにまた足の角度を変えて、踏み下ろす。

「つうわけで、ちゃんとクビにしといてくださいね。俺もう来ねえんで」

白目で泡を吹いている社長を尻目にさっさと部屋を後にして、戻ってきた社員の動揺を聞いて糸のような興奮が未だ続いていることを知る。いつの間にか出ていた鼻血を拭うと、頬まで伸びた。

駅には人があふれていてその多さに一瞬身構える。そういえばと時計を見れば帰宅ラッシュとかち合っていた。ここらへんは一応住宅街で夏場の夕方は暑さよりも人いきれで蜃気楼が立つ。スーツ姿のサラリーマンや女連れが、改札の前にいる俺ひとりをを邪魔そうに避けていく。

見えていないように、でもぶつかることなく、俺が背負ったカメラと書類の入ったバックパックには絶対に触らないようにすたすたと歩き去っていく。それは透明人間のようなそしてひどく心を傷つけられる解りやすい無視の仕方をしていて、なんだか笑いそうになった。

冷静さが戻ってきて、辺りを見ると電車を待っているのに人が俺を特に避けているのが解った。俯くと、シャツに血やコーヒーの染みが飛び散っていて、ポタ、と頭から落ちたので手をやると額が切れていた。そのままペタペタと顔を触って塗り広げる。生きてきて、一番今がいい気分だと思った。隣に紗世がいればもっといい気分だろうか、いやそれは違う。きっと口うるさいに違いない。携帯を弄り初期化へと進める。幾度も現れる静止を振り切ってOKのボタンをタップする。アナウンスが聞こえ、少しして電車が通り過ぎようと走ってくる。ゴウ、と風の音が変わるその瞬間、カメラの入った鞄を光が流線を作るそこへ投げこんだ。



自分から職を放り投げ、あげく商売道具すら壊してから一週間が経った。本当にただ経過したと言っていいほど、俺の暮らしは独りではなんの色もにおいもせず、窓を開けて取り入れる風すら肌の上に残らなかった。いなくなった女のことや、その女と死んだ後輩のことを思う。どうしてあいつだったのか、というのは不思議と浮かばなかった。死なれてしまってからは元から死に場所を探していたように見えたし、紗世もあの日俺が引き止めたとして、どこかで二人は絡まってきっと死んでしまうのだろうと思った。悲しいほどに心残りがなかった。初期化した携帯を見ればこみ上げるものもあるだろうと思ったのに、それさえなかった。そうか、俺は、誰かを愛する罪からも見放されていたのか。

そんなことを思いながら麦茶を飲んで、ベランダに出て煙草を吸っていると、紗世の使っていた霧吹きと松の盆栽が目に入った。霧吹きは持ち上げてみると重く、まだ数回しか使われていなかった。ガラス越しに見る水は新鮮そうだった。そこまできてようやく俺は気づいた。そうか、紗世は、あいつは。

喉から押し潰したような音がして、眼窩が熱を持つ前にだらだらと涙は流れていた。鼻の奥がじょじょに痛くなって、呼吸が浅くなる。なんの意味も成さない嗚咽がこぼれて、過呼吸になったかのように喘鳴に近い息をして、思わず盆栽を抱く形でしゃがみ込むと、新鮮な松葉が顔に刺さって痛かった。落ち着こうと深く息を吸うと、針葉樹特有の爽やかな香りがした。

俺はどうすればいいんだろう。心の内をもういない女に問えば女は笑って、そんなの知らないよ、と言う。そして、だって今はもう、山出さんの人生じゃん、とまた笑った。固まった心がほぐれるような笑顔、何度も見た、もう二度と見れないそれ。その笑みのままこちらに歩みよる幻影に手を伸ばすとその先、室外機の奥に端の折れた写真があった。

「あ……」

それはあの日、撮る撮らないの言い争いからたまたま盆栽と霧吹きを見つけて、その世話をしてくれていた紗世を初めてモデルに使った写真だった。とっくになくしたと思っていた写真。

アスファルトに反射して水色の影に囲まれた松葉の向こうに透けて見える背伸びをする裸足に鋭くなった西陽が落ちている。裏返せば日にちと写真のタイトルなのか、はじまり、とだけかすれたマジックで書かれていた。

松葉を1本指に取り、感覚だけで差し込むと意外と通る感覚がしてさっさと抜き取って写真を掴んだ。外にあったせいで色褪せた写真の、光と影で色味を変える踝の丸みを指でなぞりながら、これ以上のはじまりがもうこないことを俺はひとり冷えはじめたベランダで考えていた。

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