第4話-見送る手、進む足
――索敵用の水魔結界の波紋がさらに大きく揺れた。
左手を地面につけたまま、俺は短剣の柄に指を掛け直した。
子どもが一人増えたところで、状況はよくならない。
よくなるなら――そもそも、波紋は揺れていない。
ノアは、俺の足元――血で濡れた草と、倒れたエルフの母を一瞬だけ見て、目を見開いた。
驚きは、ほんの一呼吸。
すぐに視線が滑る。
母の肩、脇腹。
矢の刺さり方。背中側から射られている。
そこから、俺へ。
背中。腰。手元。
弓があるか。矢筒があるか。矢があるか。
……ない。
ノアの肩が、わずかに落ちた。
安心した、じゃない。警戒が“半段階”だけ剥がれた動き。
(※子どものくせに、状況判断が早い)
俺は周囲を見た。木々。土道。
草の向き。風はない。なのに、水膜に細い震えが走る。
来ている。
「……来てる?」
ノアの声は小さい。断定じゃない。確認だ。
しかも、追手の存在に気付いている。
俺は頷きの代わりに、必要なことだけ聞く。
「名前は」
「ノア」
「道を知ってるか」
「うん」
「案内できるか」
「……うん」
短い。いい。説明は要らない。
水膜の波紋が、ひとつ、ふたつ、と重なる。輪が広がる方向が一つじゃない。
嫌な重なり方だ。やはり複数だ。
「近い」
言葉にした瞬間、空気が硬くなる。
ノアが赤子へ視線を落とした。母の胸元に固定された、小さな塊。
泣いていない。息はある。口が、かすかに動く。
ノアの手が迷いなく入る。
首の後ろに指、背中に掌。
布を引いて、赤子の体を揺らさない角度で持ち上げる。
慣れているというより、“やり方を知っている”手だ。
その瞬間、首元で小さな音がした。
ちりん、と。金属が擦れる音。
幼児の動きには不釣り合いな、重さのある音。
ノアは音に反応して、赤子の布を折った。鎖と布が触れないように挟む。
音が少しだけ減る。
俺は母へ目を戻す。
運ぶ対象は二人。運べるのは一人半。
選ぶしかない。
母は大人だ。
重い。
血で滑る。
呼吸が浅い。
矢を抜いていないから、今は“止血栓”になっている。
だが運べば揺れる。揺れれば出る。
それでも、ここに置いたら終わる。
俺は母の体を抱え上げ、肩に担いだ。背中の布が血で張り付く。
腰が沈む。歯を食いしばる。
(※こういう時だけ、現実の重量が容赦ない)
「赤ん坊の方を、頼む」
「うん」
それだけでいい。
ノアが先に走る。
足が軽い。地形を読んでいる足だ。
土道から外れ、草地へ。草が濡れている。足音が吸われる。
岩陰へ。浅い窪地へ。木の根の影へ。
死角を繋いでいく。
俺は水魔結界で、帯のように道筋をなぞる。
俺たちが来た方向へ。できるだけ遠く。薄く。
波紋が走る。
ひとつの輪が、二つに割れる。
二つが、また重なる。
止まれない。
母の呼吸が乱れた。肩越しに喉が鳴る音がする。息が擦れる。
だが止まったら、追いつかれる。
波紋が増える。
近い。
重い。
地面を打つような圧がある。
獣じゃない。
人だ。装備だ。複数。
―――
森が切れた。
光が開ける。
木々の向こうに、柵と門が見えた。
石と木で組まれた簡素な構え。
そこに列。人の列。荷車。袋。籠。
そして、兵。
兵は苛立っている。
声が荒い。棒の先で荷物を突く。
並ぶ人々は俯いている。
背を丸め、視線を上げない。
誰かが文句を言うと、列が止まる。
止まると、後ろが詰まる。詰まると、怒号が増える。
検問。入る前に、まず削られる場所だ。
ノアが赤子の顔へ布を寄せた。半分だけ隠す。目元が影に入る。
理由は言わない。だが、その動きは“守る”というより、“見せない”だ。
水膜の波紋は、まだ走っている。
門前で詰んだら、終わる。
母が、俺の肩で一度だけ大きく息を吐いた。
体の重みが、少しだけ変わる。支え方が変わる――悪い方へ。
「……」
俺は歯を食いしばって門へ近づきかけ、やめた。
門の手前。柵から少し外れた草地で、母を下ろした。
門前で倒れたら、列が騒ぐ。騒げば兵が寄る。寄れば――波紋の主も寄る。
母の瞳が虚ろに泳いで――一瞬だけ焦点を結んだ。
俺を見たのか、赤子を見たのか、門を見たのかは分からない。
ただ、口が動いた。
「……それを……外さないで……」
それだけ。
息が、落ちた。
―――
情緒に浸る暇はない。
波紋が走る。しかも太い。近い。
俺は水で土を締めた。表面を湿らせて、崩れないようにする。
指先で掘る。スコップなんてない。だが水で柔らかくし、固め、また掘る。
短い。浅い。弔いとしては最低だ。けど、時間がない。
土をかぶせる。草を戻す。
目印は残さない。石を積まない。枝を折らない。
誰かが来ても、すぐには見つからない程度に“普通”にする。
その間も、水膜は帯になって地面をなぞり続ける。
波紋が増える。重なる。門の方へも、横へも。
追う側は、こちらを“探している”というより、“寄せてきている”。
ノアが俺を見た。目だけで急かす。
赤子が小さく身じろぎした。布の中で、鎖がまた微かに鳴った。
ちり、と短い音。
留め具は見える。厚い。
外すには工具が要る。少なくとも、指では無理だ。
母の言葉が残る。
外さないで。
俺は赤子を一度だけ見て、抱え直したノアへ視線を戻した。
「行くよ」
言うまでもないのに、言う。自分に命令するみたいに。
門前へ戻る。
列の端に紛れる前に、ノアが小さく言った。
「……喋らないで」
釘。短い。的確。
俺は頷いた。
列の端の男が鼻を鳴らし、俺の肩の赤い染みを指で指した。
その指が、すぐに引っ込む。見なかったことにするみたいに。
別の女が赤子の布の影を一瞬見て、視線を逸らした。
満員電車のように人が多い。足音が混ざる。
荷車が軋む。
獣の匂いも、汗も、泥も、全部が混ざっている。
さっきまで地面にくっきり出ていた“圧”が、ここでは散る。
追う側にとっては、見分ける手間が跳ね上がるはずだ。
俺は左手を、地面に近づけた。
薄い水膜を、ほんの一瞬だけ――逆方向へ走らせる。
列の外側へ。門とは反対へ。帯を伸ばす。
波紋が揺らぐ。
重なっていた輪が、一度だけ乱れた。追う足が迷った時の揺れ方。
それでも、消えない。完全には消えない。
“まだ近い”のまま、形を変えただけだ。
(※撒けた、じゃない。遅らせただけ)
列が進まない。兵が怒鳴る。
俺の服は血の匂いを引きずっている。
誰も助けてくれない顔をしている。
ここでは門の外にも中にも、居場所がない。
通れなきゃ終わる。
ノアが赤子を抱き直した。布の影で、鎖がもう一度だけ鳴った。




