漢字変換の罠
ーーケイコ「あんたのバイト、倉庫の仕分け作業だっけ?」
ーーケイコ「紹介してよ」
ーーケイコ「私もそこで働くから」
マリアは、『ケイコ』と表示されたチャットアプリの画面を見てげんなりしていた。
マリアはケイコが苦手だった。どことなく人を査定しているような雰囲気があるからだ。しかしこのまま無視をしても、更に面倒になるだけだ。マリアは仕方なく返信した。
* * * *
かくしてケイコは倉庫で働くことになり、早速上司から仕事を教わった。その後しばらく1人で作業をしていると、今度は別の男が近付いて来た。
「どうも!俺ツヨシっていうんだけど、名前何?」
ケイコは早速男を値踏みした。ケイコの目には軽薄そうで、なんとなく生理的に受け付けない人物に見えたので、できれば関わりたくなかったが、あまりにしつこいので根負けした。
「ケイコ」
「へえ!どういう漢字を書くの?因みに俺は‥」
ケイコは切り上げたかったのに、ツヨシは某有名人の名前を何人か挙げて自分の名前の漢字まで語りだした。興味がないのでケイコは聞かなかったが。それでケイコは面倒臭そうに答えた。「土二つ」
「そうなんだ!んで、学校はどこ?」
もううんざりだ。けれど、これ以上この男に粘着されたくなかったのて、ケイコは渋々といった感じで
「A大学よ」と言うと、ツヨシは途端に目を輝かせた。
「へえ!じゃあマリアちゃんと一緒だ!」
ツヨシは興奮して続ける。
「俺、マリアちゃん好みなんだよねー。ねえ、マリアちゃんって彼氏いるの?好きなタイプとか知ってる?」
「そこまでは‥」
「そうなんだー。あそうだ。君ももし良ければ俺とデートしてみない?俺、実家結構金持ってるから贅沢させられるよ」
呆れた。軽薄そうというのは第一印象ではなく、本当に軽薄だったのだ。
* * * *
次の日、衝撃的なニュースがケイコの耳に入った。マリアがバイト先の倉庫で頭を打って死んだのだ。
警察がバイト先に訪れ、従業員達に次々と事情聴取している。当然ケイコも対象だ。警察がマリアの携帯電話を調べ、ケイコと親しくてバイト先を紹介したことを掴んだからだ。
事情聴取はすぐ終わると思っていたが、全く意外なことを聞かれてケイコは度肝を抜かれた。
「『圭子』という人物に心当たりはありませんか?」
* * * *
ケイコは、ツヨシから大金を得て幸福の絶頂にいた。
あのとき、事情聴取ではこのようなやり取りがあった。
「『圭子』という人物にお心当たりありませんか?実はバイト先の上司さん宛てに、マリアさんからチャットを送っていたんです。」
その内容とは、『今から圭子と話します』というものだったそうだ。
「いいえ、心当たりありません。」
警察はそれで納得した。それもそうだろう。ケイコの本名は『鯨子』なのだから‥。
ケイコは本名を言うたび、とても興味を持たれてしばらくその話題が続く。自分が好きな人ならそれは好都合なのだが、裏を返すと、嫌いな相手だと拷問なのだ。
なので今まで、嫌いな相手に対してはいくつかの漢字のバリエーションで試してみた。『景子』と言えば「某人気女優と同じ」と言われやはり話題が長引き、『慶子』と言えば「テストで名前書くのに時間かかりそうで不利だね」なんてデリカシーのないことを言われるのだ。
なので虱潰しの方式で、ツヨシに名前を聞かれたときは、たまたま頭に思い浮かんだ『圭子』を使用してみただけなのだ。まああまり知性を感じられない相手だったので、気の利いた返しができなかったのだろう。
携帯電話で名前を書くときも、大抵変換に出ないので、友人は皆鯨子を「ケイコ」と登録していると聞く。もちろんマリアもだ。
つまり、鯨子を『圭子』と認識してるのは、世界中でツヨシだけなのだーー。
その為、件のチャットの話を警察から聞いた鯨子は、ツヨシにすぐ連絡をとった。ツヨシは事件の経緯を、以下のように鯨子に話した。
彼は突発的にマリアを呼び止めた。そこで愛の告白をしようとしたのだが、マリアは携帯電話を弄ったままツヨシの方を見ようともしなかったらしい。
それに腹を立てたツヨシがマリアの顔を無理矢理自分に向けさせようとしたところで、マリアの身体がもつれて運悪く頭を強く打ってしまったのだ。
自分が殺人犯になってしまった‥そう思ったツヨシは、咄嗟にマリアの携帯電話で偽造工作しようとした。
幸い直前までマリアが携帯電話を操作していたので、ロックは掛かっていなかった。そこでツヨシは、つい先程まで鯨子がシフトに入っていたのを思い出し、鯨子がマリアを突き飛ばしたのではという疑いが掛かるようにしたのだ。
チャットアプリで偶然一番上にあがっていたのが上司だったので、急いで現場を離れるべく、ツヨシはすぐにチャットを送った。
名前が違った為、鯨子に疑いの目を向ける作戦は失敗に終わった。それどころか、ツヨシは自分が関与したことを、鯨子にだけ分かるように伝えてしまったのだ。
ツヨシは「警察には黙っていて欲しい」と鯨子に懇願した。別に構わない、と鯨子は返した。その代わり‥
ツヨシの実家が金持ちだということを、鯨子は忘れていなかった。思いがけない幸運に恵まれたものだ。
さて。「圭子」にもケチがついてしまった。次に自己紹介するときは「恵子」とでも名乗ろうかな。