第9節『コイル巻きの先に』
侯爵に『ハッカーの密造酒』を作ってもらった直後に夏の海辺に放り出された3人の少女たちを晩夏の星空が包んでいた。時刻はまもなく真夜中に差し掛かろうとしている。
シーファとアイラは、目的のものをようやく手にしてカレンまであと少しというところまで来たリアンが、その晩のうちにダイアニンストの森に向かうと言って聞かないのではないかと案じていたが、あにはからんやリアンの青く美しい瞳は天空に散りばめられた夏の星座を映しながら、遠い羨望の中にただ囚われていた。
その夜はアイラの案内で、デイ・コンパリソン通り沿いに深夜まで宿泊客を受け付けてくれる宿を探し、そこで朝まで過ごすことにした。こぢんまりとした部屋ではあったが、慌ただしい一日を過ごした少女たちの多大な疲労を、そこは優しく癒してくれる。シーファ、アイラ、リアンの順にあたたかいシャワーを浴びた。浴室の中は湯気に満たされ、身体を包む温湯がまとわりつく汗と不快な潮風の名残を洗い流してくれる。人工的なシャボンの香りがなんとも心地よい。
リアンが最後に浴室から出てきた時には、シーファとアイラは既に夢の世界に沈んでいた。リアンは寝巻に着替えて窓際に置かれた小さな古い椅子に腰かけると、『ハッカーの密造酒』の瓶を大事そうに抱えながら、窓の外に視線を送りやった。
突如姿を消したカレンをひとりで探しに行くのだと、全く当てもないままに駄々を言ったあの日から、もうずいぶんと時間が経つような思いがする。愛しい人の面影が、酒瓶の中で揺れる神秘の液体の中で待っているかのような不思議な感覚にとらえられながら、手元を見つめるとも、窓を見つめるともつかない視線を巡らせていくうちに、彼女の精神は静かに晩夏の宵闇の中に沈んでいった。
翌朝、窓から瞼の上に差し込むまぶしい朝日を受けてリアンはその小さな椅子の上で目を覚ました。シーファとアイラはまだ夢を追いかけている。酒瓶は出窓の桟の所に置かれていた。
「うっかり、こんなところで眠ってしまったですよ。」
そう独り言をこぼすと、リアンは二人を起こさないように静かに立ち上がって、シャワー室の中に姿を消した。不自然な格好で眠った身体の疲労を湯がそっと癒してくれる。美しい銀髪のこうべを垂れ、後頭部から首筋へと落ちていく温かい流れに身を任せながら、今日どのようにして『アーカム』への道順が明らかになるのか、その神秘の扉はどのようにして愛しい人との再会を演出してくれるのか、その期待と不安に小さな胸をいっぱいにしていた。
そのとき、浴室の戸をノックする音が聞こえた。
「リアン、中にいますか?」
その声はアイラのものだった。
「はい。目を覚まさそうと思ってシャワーを浴びていたですよ。」
「それはよかった。姿が見えないので、少し心配しましたよ。カレンさんに会えるまであと少しです。焦らずに、確実に進みましょう。」
安堵の音色を載せながら、諭すように言うアイラ。
「わかってるのですよ。ありがとう。」
湯浴みの音にところどころかき消されるようにしながら、リアンのか細い声が中から漏れ聞こえてきた。
朝日は静かに天頂に向かい始め、東雲は桃色の彩雲から白く輝く姿へとゆっくり移り変わっている。新しい一日がこれから始まるのだ。
リアンがシャワーからあがるとシーファも起き出していて、すでに着替えを終えている。その横で、アイラが出かける準備を行っていた。
「おはよう、リアン。あなたも、着替えて早速出かけましょう。今日も忙しくなるわよ。」
そう言って、シーファが声をかけてくれる。リアンはその声に頷きつつ、少し気恥しそうに、
「ありがとう。」
とそうこぼした。
「とにかく、今日一日乗り切るためにも朝はしっかりと腹ごしらえをしないといけません。メニューは私に任せてもらっていいですか?」
寝床の横に備え付けられた通信用の魔術装置に手を駆けながら訊ねるアイラ。
「ええ、あなたに任せるわ。」
「お願いするですよ。」
二人の同意を得て、アイラが通信装置越しに注文を行った。その背中を窓からさす光が朗らかに照らしている。
* * *
20分ほどしたであろうか、扉をノックする音が聞こえた。
「おはようございます。朝食をお持ちしました。」
「どうぞ、開いています。」
その声にアイラが応えると、静かに入り口が開いて二人組の女給があたたかい湯気の立ち上る朝食を部屋の中に運び入れてくれた。それはベーコンとレタス、トマトにチーズを挟んだホットサンドウィッチに、コーヒー、それにコーンポタージュのスープを添えたもので、昨晩夕食を抜いた少女たちの空っぽの胃の腑を大いに刺激する魅力的な香りをたたえていた。料理を載せたプレートが、三人の前にそれぞれ配膳されると、鼻を抜ける香りに食欲が呼応するかのようだ。
*アイラが注文してくれた朝食。
「さあ、いただきましょう。とにかく元気をつけないと。」
アイラの勧めに従って、それぞれに匙を繰り出した。すっかり空っぽの身体をあたたかい食材が豊かに満たしてくれる。特に、流れるように入って来るスープとコーヒーが心地よい。
食事を堪能してから、再度荷を改めた後、三人は受付で清算をすませてから、神秘の魔法使いユーティー・ディーマーの待つ、おなじみ『ダイアニンストの森』へと歩みを進めていった。
まだ時刻は8時に至っていない。この調子なら昼までにはユーティーの隠れ家に着くことができるであろう。そこで『アーカム』へ至る方法を知るのにどのくらいの時間がかかるのかは分からなかったが、それでもその日の夕にはタマンに戻ることができるだろう。そうすれば、その翌日の朝には再びカレンに会えるのだ。その膨らむ期待がリアンの小さな足をどんどんと森の方へ繰り出していった。
やがて舗装は途絶え、獣道のようになった街道の周囲を鬱蒼とした広葉樹の森が覆い始める。以前訪ねた時に道順をきちんと記録しておいたので、夏の暑さと木漏れ日の恩恵もあり、枝葉を茂らせた木々が一面を覆う深い森の中でも居場所と目的地を見失うことはなかった。ざくざくと土道を踏みしめながら、その青い瞳は一心に森のあばら家を目指して行く。しばらくして、ひと気のないその森の中に俄かに生活の気配がもたらされた。木々の間を縫うように、その森のあばら家は確かに以前と同じ間所にあったのだ。
時刻は静かに真昼に差し掛かろうとしている。
* * *
リアンは駆け足で戸口に向かうと、おもむろに扉をノックした。
「ユーティーさん。『ハッカーの密造酒』を持って来たですよ。」
その声は、息切れと待ちきれない思いとが相まってすっかり上気している。その背中に、シーファとアイラの二人が静かに近づいて来た。
やがて、扉が内側から開く。
「まぁ、いらっしゃい。無事に手に入ったようね。よかったわ。ここではなんですから、中にお入りなさいな。」
戸口から姿を現したユーティーは、そう言って少女たちをあばら家の中に案内してくれた。中には神秘的なかおりが立ち込めており、小さくも整頓された空間を彩っている。ユーティーは三人に、テーブルにつくように促した。
めいめいに席に着く三人。その向かいにユーティーは席をとった。
「これです。どうぞなのですよ。」
はやる気持ちをどうにか噛み殺し、冷静を装うようにしてリアンが酒瓶をテーブルの上に差し出すと、ユーティーが意外なことを言う。
「それは、あなた方が持っていなければいけません。それ自体が答えなのですから。」
思いがけないその言葉に、少女たちは首をかしげた。
「以前、『アーカム』に至る方法を口伝することはできないと、それは大切な約束だから、と言ったのを憶えていますか?」
ユーティーのその言葉に頷いて答える三人。
「その言葉は本当で、事ここに至っても、やはり『アーカム』に至るための秘密を口伝することはできません。」
その言葉に、リアンの眉が動いた。
「しかし答えはすでにあなた方の手にあります。いいですか?これから大切なことをお伝えします。口伝できないという性質上一度しか言いませんから、しっかり覚えてください。あなたたちの手の中にあるその答えが、あなたたちを神秘の地へときっと導いてくれるでしょう。」
その言葉に、少女たちは固唾を飲んでユーティーが次に口を開くのを待つ。
「まず、酒瓶を逆さにして光に透かします。その状態で瓶の正面のラベルを見てください。」
彼女が言う通りにすると、逆さ向きに光に透かされたその瓶のラベルに光の線が走るようにしてある図形が描かれていく。
「大切なのはここからです。」
念を押してからユーティーは続けた。
「第一に、ラベルの中央やや上のハッカー侯爵の印章の場所に『アカデミー』があります。」
彼女の言葉は、詩を吟じるようだ。
「第二に、マーチン通りから始めること。第三に、方向は左巻き。コイルがふたたび交わるところに神秘の印は現れる。」
*ユーティーが歌うようにして教えてくれた秘密。
彼女のその歌声に合わせるようにして、一層強い光が図形の上をすべるように移動してラベルの左下にひとつの光点を示した。
「これ以上は何も言えません。しかし、ここまでたどり着いたみなさんなら、もうきっとわかるでしょう?」
その語りは優しかった。その響きに揺れるようにして青い瞳から発せられる視線は、一直線にその光点の上に注がれている。そこに、焦がれに焦がれたカレンその人がいるというのだ。リアンのその小さな胸は今まさに張り裂けんばかりになっていたが、同時にその表情には一抹の曇りが浮かんでいた。それを認めたシーファとアイラは不思議に思ったが、その場では敢えて何も言わないでいた。
「それにしても、これを手に入れるのに命を賭けるようなことはしなかったでしょうね?」
ユーティーがふとそんなことを言った。少女たちが、よくわからないと言うふうにしていると、
「まさかとは思うけれど、材料集めをしたわけではないのでしょう?」
彼女はそう続ける。それを聞いて少女たちは首を横に振った。
「そんな!本当にそんな危険なことをしたの?」
彼女たちの反応を見て、ユーティーは驚いた声を上げる。
「無事に戻って来られたからよかったけれど…。この材料集めは尋常なことではないのよ。帝もこんな小さな子どもたちを試みるなんて、ずいぶんなことをなさるものだわ。」
何か不思議なことをユーティーは語った。帝…、その言葉をどこか別の場所でも聞いたような気がする。何のことなのだろうか?
「いずれにしてもあなたたちは運命に愛されているのね。とにかく無事でよかったわ。きっとその宿命がこのお酒を通してあなたたちを待ち人のところに案内してくれるでしょう。」
そう言うとユーティーは立ち上がった。
「お茶でも飲む?」
その声かけに静かに首を横に振ると、リアンが席を立った。
「ありがとうございます、ユーティーさん。あなたに助けてもらうのはこれで三度目なのですよ。感謝の言葉もないのです。とにかく今頂いたヒントをたどって『アーカム』を目指しますですよ。」
リアンのその声には確固たる決意のようなものが乗っていた。彼女の焦燥を察したシーファとアイラも席を立ち、めいめいに礼を伝えた後で早々にあばら家を後にする。急かし突き動かす若さゆえの衝動を、神秘の瞳が優しく見守っていた。
陽は静かに天頂から西に傾き始めている。
* * *
三人が『ダイアニンストの森』を北に抜けた時、すでに陽は大きく西に傾いて時刻は15時をゆるやかに過ぎようとしていた。案の定リアンは、その足で一気に中央市街区まで北上し、その日のうちに『アーカム』を目指すのだと言って譲らなかったが、ユーティーが与えてくれたヒントは、酒瓶のラベルと合わせてほぼ答えを示すものではあったものの、いまだ断片的な要素が残されていたこと、これから北上したのでは、中央市街区に入るのが夜半になってしまうことから、シーファとアイラはどうにかこうにか逸るリアンをなだめすかして、昨日と同じ宿で一夜を過ごすことに漕ぎつけた。リアン自身にも何か思うところはあるようで、最初こそ湧き上がる焦燥を抑えきれないでいたが、二人の言葉を受けて得心いってからは素直にその言に従うことにしたようである。
地平に太陽が沈みかけ、タマンの石畳とレンガが赤く染め上げられていたころ三人は宿に到着した。部屋に荷を下ろし、湯あみして着替えてから食事を済ませるとすぐにテーブルを取り囲んでアイラの持つ地図と酒瓶のラベルを見比べ始めた。『アーカム』の隠し場所を調べるのだ。ランプの下で魔法光がラベル上に描く光の図形を、それぞれ食い入るように見つめている。
「ハッカー侯爵の印章の位置にアカデミーがあるわけですから…。」
そう言ってアイラが地図上の該当箇所を指さす。
「マーチン通りから左向きに進路をとるということは、こう進むわけね。」
シーファは地図上の通りをなぞっていった。
「そのまま進み続けると、次はアカデミー前、そしてリック通り、それからクリーパー橋の高架下を経て南大通りにつながるですよ。」
リアンも一心不乱に地図を追っていく。
「コイル巻き、すなわちこのくるりと巻くような道筋が再び交わるところと言えば、…、ここですね!」
アイラが言った!
「ここは…。」
「キュリオス骨董堂があるところですよ!」
「そうね!間違いないわ。きっとキュリオス骨董堂が『アーカム』なのよ!」
その場所は、確かに酒瓶のラベルに浮かぶ光点の示すところと一致していた。得心したように顔を見合わせる三人。ようやく目的地が具体的に見えてきた。
「キュリオス骨董堂の開店時間は朝9時からですから、少し早いですがここを明朝5時に発てば、開店時間すぐに辿り着くことができます。」
手元の端末で『神秘の雲』の情報を検索しながらアイラが言った。
「この子は一刻も早くカレンに会いたいだろうから、朝ごはんは抜きにしてすぐに中央市街区に向かいましょう。」
シーファがそれに応じる。
「ふたりとも、ありがとうなのですよ。」
青い瞳の上で光に揺らしながら、リアンはそう答えた。
窓の外で星々が美しい軌跡を描いている。月は雲に見え隠れしながら穏やかな白光を室内にもたらしていた。
「そうと決まれば善は急げ。寝坊しないためにも早く休みましょう。」
シーファの促しに二人は大きく頷いて応え、早速床に就いた。部屋の明かりをアイラが消してくれる。刹那、室内を照らすのは月明かりと星の瞬きだけとなり、ほのかに白く光る宵闇が静かに少女たちの精神を夢の中へと導いていった。カレンへの恋慕を募らせるリアンの焦燥もまた、宵闇の中に溶けていく。
時間を動かす歯車だけが、ただゆっくりゆっくりと明日の朝に向けて回り続けていた。遠くにオオカミの遠吠えとフクロウのリズミカルなら声がこだまし、静寂を一層際立たせている。
* * *
翌朝、約束の時間に三人は出発した。晩夏とはいえまだ8月、太陽はあたりを照らすに十分な光量をすっかり伴なって、盛んに世界を熱している。少女たちはアイラが供してくれた、『ハルトマン・メイト』と呼ばれる栄養価の高い乾パンを各々くわえて、宿を後にした。
*アイラが朝食に供してくれた乾パン。栄養価が高いことで知られている。
陽を背中に受けるようにして、タマンストリートから南大通りを北上していく。これがアカデミー前の大通りと交わる交差点の南西に『キュリオス骨董堂』はある。昨晩の、宿での解析が正しければそこにカレン達はいるはずなのだ。もうすぐカレンに会える、その期待がリアンの背中をどんどんと北に向けて押していった。9月を間近に臨むと言っても、この時期の晴天の陽は熱い。うなじにのぞく白銀の美しい生え際を、玉のような汗が滴っている。ローブの裾で額の汗をぬぐいながら澄んだ青い瞳は一直線にその目的地を見据えていた。
やがて、その場所が視界に捉えられ始める。時刻はまもなく9時。計画通り開店と同時に店に至ることができそうだ。
* * *
まもなく、その店構えが彼女たちを出迎えてくれた。今、三人は『キュリオス骨董堂』の前にいる。
*キュリオス骨董堂入り口。
そこは、魔法社会でも名うての魔法具店であり、店主のキューラリオン・エバンデスその人の名を冠する法石、『エバンデスの涙』でとりわけ有名な店であった。『ハルトマン・マギックス』や『グランデ・トワイライト』が現代風の佇まいであるのに比較すると、その外観は『骨董』の名が示す通りアンティークなもので、独特の神秘性をたたえている。今はなき天使なる未知の存在を隠しておく場所として、さもありなんといった様相にも思えた。リアンは震える手で、扉に手をかける。ノブを引くとゆっくりと扉が開いた。
その先では、一風変わった店員が入り口付近の掃除に勤しんでいる。その人物はブロンドのウェービーなショートヘアで、まるで顔を隠すかのように大きなサングラスをかけている。彼女は、三人を見とがめると声をかけてきた。
*店の入り口付近を掃除していた珍妙な店員。
「いらっしゃい、ませですわ。」
なんとも珍妙な物言いだ。シーファとリアンの脳裏にはどこかで見覚えがあるような、そんな不思議な感覚があった。
「あの、カレンに会いたいですよ。カレンはどこですか?」
リアンはいよいよ抑えがきかなくなっているようだ。シーファが慌てて落ち着かせようとするが、焦燥の方が勝ってしまっている。
「カレン?そんな店員はうちにはいない、ですわよ。」
そっけなく答える店員。
「そんなことはないのですよ!カレンは絶対ここにいるのです。早く出すですよ。さもないと…。」
まるで、相手に飛びかからんとする闘犬のような勢いでくってかかるリアン。シーファはなんとかなだめようと懸命だ。
「すみません。私たちが知るところでは、ここにカレンさんという方がいらっしゃるはずなのです。店員さんではないとして、どなたか逗留されている方にでもそのような名前の方はいらっしゃいませんか?」
そうアイラが問う。その問いに少し眉をひそめるようにして、
「こまったな、ですわ。そう言われても、いないものはいないとしか言えない、んですのよ。とにかく、ここにはいない、のですわ。もう一度、でなおしてこい、なのです。」
そう言うと、店員は手にした箒で三人を追い払うようにして、店の戸をぴしゃりと閉めた。
どういうことだろう?ユーティーのヒントと『ハッカーの密造酒』が指し示す情報では、場所はここで間違いないはずなのに…。店員が嘘をついている可能性も皆無ではないが、しかしその理由が見当たらない。晩夏の朝日の中で、三人は頭を抱えた。その陽射しに件の酒瓶をすかし掲げながら、リアンは瞳を潤ませている。
* * *
「この光の線は、道順暗号なのかもしれませんね。」
リアンの肩口から、まばゆい光を放つ酒瓶のラベルを覗き込むようにして、アイラが言った。
「だとすると、何か特定の道順をたどってここに来なければいけないということ?」
シーファのその言葉に、リアンの瞳が輝きを取り戻す。
「そうなのです!」
声にも力が漲った。
「この線が示す各通りを順番に歩いてみるですよ!」
「出発はマーチン通りでしたね。」
リアンの声にアイラが応じる。
「そうと決まれば、善は急げね。とにかく、サンフレッチェ大橋の南端まで移動して、そこから左回りに示された通りを踏破してみましょう!」
そのシーファの言葉に大きく頷いて、三人はひとまずサンフレッチェ大橋の南端まで移動した。思いついたことが正しければ、『アーカム』へと至る道順暗号がそこから始まるはずなのだ。道順暗号の必要な行き慣れた場所と言えば、リリーの経営する『スターリー・フラワー』がある。そこに至るまでに正しい道順をたどると、あたりが霧と靄に覆われることは経験済みだ。だから今回も、正解をたどればどうなるかは三人には朧気にわかっていた。
「行くですよ!」
リアンの掛け声に従って三人はマーチン(Martin Street)通りを南下して行く。
「次はアカデミー前(Academy Avenue)を東に、ですね!」
次をアイラが確認して、ずんずんと進路を東向きにとっていった。続くリック通り(Rick Street)とクリーパー橋高架下(under the Creeper Bridge)は一方通行だ。確かに、ユーティーのヒントの通り、ここまでは指定された道順を左巻きに進んでいる。それはまるで電磁コイルを左に巻くような経路だった。やがて、三人は最後の南大通り(South Avenue)に入った。
「ここまで通ってきた道筋の頭文字をとると、M.A.R.C.S.ね。どういう意味かは分からないけれど確かに有意な単語にはなるわ。」
1時間余りのこれまでの足取りを振り返るようにしてシーファが言った。
「M.A.R.C.S.といえばおとぎ話に出て来る『魔法のお印』ですね。」
アイラがそれに答える。今、三人は南大通りを南下しかかったところであるが、晴天であったはずの周囲は俄かにかすみ始め、靄と霧が辺りを覆う。先ほどまでリアンのうなじに汗を浮かべていた晩夏の陽はいつの間にか厚い霧の背に隠れ、白い輪郭をだらしなく揺らしていた。湿度は一層増し、直射日光によるのとはまた違う類の汗を少女たちにかかせる格好となっている。
「どうやら当たりのようですね!」
歩みを速めながらそう言ったのはリアンだ。その言葉を裏付けるかのように、あたりは数メートル先も見えないほどの濃い靄と霧に真っ白に包まれている。湿度は相変わらずだが、気温は幾分下がり、汗をさらう風が俄かに冷たく感じられるようになった。神秘的なその空間がそうさせるのだろうか、小さな体を小刻みに震わせている。やがて、未知を探し求める旅人たちの前に、目的の場所が姿を現した。
*探し求めたアーカムの入り口が、今彼女たちの目の前にある。
それは、古びたレンガ造りの小さな法具屋で、見知っている筈の場所にいつもとは異なる神秘的な佇まいを白く深い靄と霧の中にひっそりと浮かべていた。三人は思わず息を飲んだ。
「ここね。」
そう言うシーファの声に緊張が乗る。
「ついに、見つけました。」
アイラも同様だ。
「行くですよ!」
そう言って、リアンは見たこともない古い錬金金属製の縦長のノブに手をかけた。その冷んやりした手触りが緊張感を一層高める。静かにそれを引くとドアがゆっくりと開いた。刹那、黴と埃にまみれたのどを刺す嫌な臭いが立ち込めてくる。少女たちはその不快を退けるようにしてローブの裾で口元を覆った。
戸口をくぐると奥に向けて1本の細い通路が奥へと続いており、その両脇には埃をかぶった実に様々の古い魔法具が無造作に高く積み上げられている。その間を縫うように身体をくねらせながら三人は奥へと足を繰り出していった。
その細い通路の中ほどまで来た時、奥にカウンターのようなものが見えてきた。そこには小さな人影が薄明かりの中でぼんやり佇んでいるようだ。
額を汗が伝い、それは顎から首筋へと流れ落ちて、胸元へ背中へと伝っていく。神秘と畏怖が混在するような独特の緊張感の中を奥に向けてなお進んで行くと、突如場違いな声が聞こえてきた。
「いらっしゃい。」
それは、この威厳すら感じさせる不思議の空間にはおよそ似つかわしくない幼い少女の声だった。膝が不安と恐怖に震えるのを感じながら、しかしその躊躇いを押し殺してリアンを先頭に彼女たちはなおその声の元へ近づいていった。再び同じ声が聞こえてくる。
「いらっしゃい。」
それが耳に届いたかと思うや、今までぼんやりとしか照らされていなかったカウンターの周りが明るい魔法光にぱっと照らされた。その中に、その声の主と思しき人物が姿を現す。
「私の名は、アッキーナ。アッキーナ・スプリンクル。この店の店主です。今日はどのような御用ですか?」
エメラルド色に輝く二つの瞳がそう語り掛けてきた。リアンは、全身を震わせながらもそのカウンターに一層接近して絞るような声で言う。
「カ、カレンに、カレンに会いに来たですよ。お願いです。カレンに合わせてください。」
か細いその声は複雑な思いにからめとられて震えながらも、しかし目の前の存在に向けてこぼれていった。
* * *
「ここは、約束を交わした者だけが集うことのできる神秘の魔法具屋です。誰彼とここの住人に合わせる訳にはいきません。あなた方はここに至るための正当な印を何かを持っていますか?」
エメラルドの瞳がそう問う。リアンはおそるおそる、両手に愛おしく抱いていた『ハッカーの密造酒』を差し出した。
「これが証になるかどうかはわからないですが、私たちはこれに導かれてここに来たですよ。カレンに会わせてくださいなのです。」
その声にはもはや涙の色が乗っていたが、それでもその表情は確固たる決意をたたえたままである。
少女は差し出された酒瓶をもみじのような小さな両手で受け取ると、重そうにしながらそれを眺めまわし始めた。エメラルドの瞳にラベルに浮かぶ光の奇跡が映りこむ。
しばらくそれを吟味した後、少女は酒瓶を静かにカウンターに置いてから言った。
「確かにあなた方は運命に導かれてここにいらしたようです。ご用件はそれだけですか?」
その問いにリアンは深く頷いて答えた。
「わかりました。ちょっと待っていてください。」
そう言うとアッキーナは椅子から降りてよちよちと店の奥に消えていった。
その背を見守る三人は、ほんのわずかだけ緊張の糸がほぐれるように感じながらも、しかし次の瞬間に起こることを、固唾を飲んで見守っている。店の奥はどこまでも続くかのように暗く、入り口で感じられたのどを刺す黴と埃の匂いがいつまでもその場に立ち込めていた。咳でむせかえりそうになるのを懸命にこらえつつ、少女たちは時が進むのを待っている。
やがて、奥から聞き覚えのある声が漏れてくるような気がした。
「本当ですか!?本当にリアンが!?」
その声もまた、その突然の来訪者の到来をずっと待ちわびていたかのような、そんな音色に彩られている。ぱたぱたと階段を下る音の後、奥の扉が開いて、その影が姿を現した!
「リアン!!」
それは紛れもなく、今日まで恋焦がれ探し求めてきた、カレンその人のものであった。
* * *
カレンはその小さな身をよじるようにして急いでカウンターからこちらに乗り出してくると、リアンを迎えようと両の手を広げた。そこにいる誰もがこのまま二人は再会の喜びをあふれさせるようにして固い抱擁におぼれるだろうとそう思っていた。しかし、現実は俄かに違う様相を見せる。
リアンの手は、カレンの誘いに応えようと一瞬動いたものの、その青い瞳は美しい涙を滔々(とうとう)と流しながら、その身はただ茫然と泣き崩れるようにして立ち尽くしたのだ。美しい泣き声と嗚咽だけが、黴と埃の香りにまみれた神秘の空間に音を提供している。
「どうしたのリアン?なぜそんなふうに…。」
カレンの濃紫の瞳にもまた、みるみるうちに涙が溢れる。
「ごめんなさい、カレン。私には、私にはもうカレンに会う資格はないのですよ。」
そう言って、ただただ泣くリアン。
「あの日からずっと、カレンに会いたくて、ただカレンに会いたくて、ずっとずっと…。そのために、その私のわがままのためにシーファとアイラを巻き込んで、二人を傷つけて…。」
涙がとめどない。
「それに、それに…。カレンはとても生命を愛しむ人なのに、私は、カレンに会いたいばっかりに、全く無辜の生命を二つもこの手にかけたですよ。私にはもう、カレンに会う資格はないのです。わああああぁぁぁぁぁぁ…。」
その小さな心は、今まさにはちきれたように、堰を切って泣き声を大きくした。ずっと恋い慕ってきた、待ちわびた相手を目の前にして、両ひざをついてただただ泣き崩れている。シーファとアイラがその両肩にそっと手を置いてその背をさすってやる。
「そんなことを気にしていたのですか?そんなの全く構わないのに…。」
もう一つの涙声は、愛しそうにそう言った。
「そうまでして、そんな思いまでして私を訪ねてくれたあなたを、拒むわけがないでしょう。リアン、私だってずっとあなたに会いたかったんです。本当によく来てくれました。ありがとう。」
「カレン!」
リアンとカレンはようやくにして、探し求めたお互いを愛おしく抱き留めた。涙に彩られた可憐な4つの瞳がお互いを離さないようにまっすぐに視線を送りあっている。
*再会の抱擁を固く交わすリアンとカレン。その涙は実に美しい。
「リアン。」
「カレン。」
ふたりは、柔らかい頬を互いに寄せて、いつまでもその存在が確かであることをその身で確認していた。シーファとアイラがその姿を暖かく見守っている。
神秘の空間をただよう黴と埃の匂いはいつの間にか芳醇な香りに置き換えられていた。天井から照らされる穏やかな魔法光の中で、二人の抱擁はいつまでもその固さを増すばかりである。
* * *
不思議な色と香りに包まれた未知の空間の中で、4つの魂の間に信頼という名のゆるぎない愛が、そして2つの魂の間に特別な絆が紡がれていった。今日もまた白い靄と霧の外ではいつもと変わらぬ日常が、ひとつずつ時とともに刻まれている。
Echoes after the Episode
今回もお読みいただき、誠にありがとうございました。今回のエピソードを通して、
・お目にとまったキャラクター、
・ご興味を引いた場面、
・そのほか今後へのご要望やご感想、
などなど、コメントでお寄せいただけましたら大変うれしく思います。これからも、愛で紡ぐ現代架空魔術目録シリーズをよろしくお願い申し上げます。




