第6節『ルビーの瞳の奥へ』
森の隠者『オグ』との命がけの問答に臨み、カレンを想うリアンのひたむきによってかろうじて『オグの糖蜜』を手に入れた三人は、転移の魔法陣が放つ光の渦の中に消えた後、その翳りとともに本来の姿を取り戻していった。
陽が落ちたのはもうずいぶん前で、今では夏の星座が濃紺の虚空を色彩豊かに飾っている。先ほどまで立ち込めていた鼻をもがんばかりの異臭はもうそこにはなく、瀟洒な夜の都会があたりを形作っていた。インディゴ・モースに帰ってきたのだ!大規模の『転移:Magic Transport』の術式を用いて、その身を含む3人を長距離移動させたリアンは、すっかりくたくたになっている。
「お店はすぐそこです。これ以上遅くなる前に行きましょう。」
そう促すアイラについて行くシーファとリアン。時刻は既に22時に差し掛かろうとしていた。しかし、名うての大都会はそれを感じさせない大人の夜景を巧みに演出しており、お洒落な飲食店やバーからは落ち着いた色の魔法光が静かにもれている。
大通りを東に向けて歩いていくと、数分のうちに『ハルトマン・マギックス』社の本店が三人を出迎えてくれた。すでに店の営業時間は終わっているが、従業員は少なからず残っているようで、1階から3階までところどころに明かりが灯っていた。
店先で不要物を整理していた店員がアイラの姿に気づいて声をかけてくれる。
「アイラお嬢様、おかえりなさいませ。こんなに遅くまで、さぞお疲れでしたでしょう。すぐにお部屋にお茶を用意させますから。」
そう言うと店員は先に店に入り、別の従業員に何事かを伝えた。三人もその後から店に入っていく。朝方にはメドゥーサと格闘し、夕べには隠者オグの謎掛けに翻弄された三人は疲労困憊で、早く落ち着いて人心地つきたいと、皆そればかりを考えていた。
3階の自室に向かうアイラの後についていくシーファとリアン。安らぎへと続くその扉が少女たちを歓迎してくれている。
「お疲れさまでした。とにかく休みましょう。もしご希望なら客間を用意させますが、どうしますか?」
そう聞くアイラに、
「みんな一緒でいいのですよ。」
「そうね。ただシャワーだけお借りしたいわ。」
リアンとシーファが口々にそう答えた。
「もちろん大丈夫ですよ。バスルームは部屋に備え付けですから、自由に使ってください。」
その言葉にシーファの瞳が生気を取り戻す。
「さあ、どうぞ。」
扉を開いてアイラが二人を自室に招き入れた。そこは先日宿泊したときと同じ、さすがは大富豪令嬢の私室という佇まいのままである。
「もうだめなのです。」
そう言うが早いかリアンは天蓋付きの、キングサイズの大きなベッドに身体を横たえた。今日一日彼女の身に起こったことを考えれば、それは無理からぬことである。
「こら、だめでしょう。ここはアイラのベッドなのよ。」
そう言ってリアンを引きずり起こそうとするシーファ。その姿を優しい眼差しで見守りながらアイラが言った。
「お気になさらず。お二人がお嫌でなければ今夜も三人で一緒に休みましょう。ただ、リアン。そのままというのはいけません。シャワーを浴びて着替えないと、疲れが取れませんよ。」
その言葉に促され、リアンはゆっくりと身体を起こすとベッドを降りて近くの椅子に腰掛けた。
「わかったのですよ。じゃあシャワーはシーファから。私はとにかく少し休みたいのです。」
そう言って、天を仰ぐようにした。
「じゃあ、先にシャワーをお借りするわね。」
「ええ、どうぞ。」
シーファがバスルームに入ると、程なくして湯浴みの音が聞こえてくる。湯気とシャボンの香りが、室内にも伝わってきた。続いて、リアン、アイラの順でバスルームを使い、めいめい寝間着に着替えてようやく人心地である。ベッドの上に腰掛けて一時の団らんを楽しんでいた。
*シャワーを終え、寝間着に着替えてようやく一段落の少女たち。
眼の前では、女給が用意してくれた『ハルトマン・ビスケット』と紅茶が、甘く心地よい香りを漂わせている。そのあたたかい一連が、彼女たちの疲れをゆっくりと癒やしていった。
間もなく日付が変わろうかという、そんな時間帯である。
* * *
突然、部屋をノックする音が聞こえた。
「アイラお嬢様、お休みのところ申し訳ございません。CEO(最高経営責任者)がお呼びでございます。どうぞご準備なさって、カリーナ様のお部屋をお訪ねください。」
こんな時間に何事だろう?互いに顔を見合わせるシーファとリアンをよそに、アイラはすぐにベッドを降りるや、着替えを始めた。
「どうしたの、アイラ?そのままでいいんじゃないの?もう遅いんだし。」
そう言うシーファに、着替えを急ぐアイラが言う。
「いえ、そういうわけにはいきません。カリーナ様のお呼びですから。とにかく行ってきます。お二人は先に休んでいてください。」
そう言うと、アイラは急いで部屋を後にした。
「あんなに慌てることもないのにね。家族に会うのにわざわざ着替えるなんて…。」
不思議そうに言うシーファに、
「きっとアイラにはアイラの立場があるのです。金持ちはめんどくさいのですよ。」
何事か感じることがあるかのようにして貴族令嬢のリアンはそう言った。お茶の心地よい香りが、二人を甘い眠りへと誘っていく。
* * *
カリーナの私室は同じ3階にある。といってもずいぶん広いこの屋敷の中では、彼女を待たせないためにアイラは急ぐ必要があった。
扉の前で大きく息を整えると、アイラは静かにノックする。中からは誰かと話すカリーナの声が聞こえてきた。その声が一瞬止まって、
「どうぞ」
と聞こえる。アイラはゆっくり扉を開けた。中を見ると、カリーナは椅子に腰掛けて魔術式通信装置を片手に通話をしている。先程の話し声はこれだったのだ。アイラが近づこうとすると、カリーナは空いている方の手で少し待つように合図を送った。それを受けてアイラは静かに扉を閉めると、その脇に立って姿勢を正す。
漏れ聞こえてくるところでは、どうやら店でトラブルがあったようだ。厳しい調子でカリーナが話している。
「まったくどういうことなの?それは最初からわかっていたことでしょう。ディオス社の担当者はなんと言っているのですか?こんなに予定を遅延されたのではたまったものではありません。いつまでも工程が後ろにずれるではありませんか!」
なにやら困った事態になっているらしい。
「とにかく担当者はあなたなのですから、努めを果たしなさい。もちろんそれは承知していますが、それはこちらの責任ではないでしょう?いいですね。これ以上の遅延はありえないと先方に厳命なさい。譲歩はしません。」
そう言ってカリーナは少々乱暴に魔術式通信装置を置いた。
「まったく、コズマ・システムもずいぶんなことをしてくれたものです。無責任にライセンスだけ売り渡すなんて…。これでは量産計画は遅れるばかりだわ。」
こぼすような独り言の後で、カリーナはアイラの方を見た。部屋が暗いせいもあるのだろうが、その表情はずいぶんと疲れているように見える。美しいルビーの瞳がはつらつとした輝きをすっかり失ってしまっていた。アイラはそれが気にかかって仕方がない。
「こんな時間にすまないわね。実はあなたに謝らないといけないことがあって。とにかく、こちらへいらっしゃい。」
その言葉に従ってアイラはカリーナが腰掛けているそばまで移動すると、やはり直立不動の姿勢を取った。
「あなたに頼まれていた『マンドラゴラの根』なのですが。実は、仕入れのための決済書類を担当に渡すのを失念していて、約束の日に間に合いそうにないの。来週入荷の予定でしたが、更に5日ほど待ってもらえるかしら?」
少し重い声でカリーナが言う。
「お心遣いに感謝します、カリーナ様。全く問題ございません。どうぞ、お気になさいませんよう。」
緊張を乗せた声でアイラが答えた。
「そう言ってもらえると助かるわ。」
カリーナは大きなため息をつくと、テーブルに肘をついて手の上に頭を乗せる。どうにもよほどの面倒を抱えているようだ。離れて見ていたときよりも彼女の疲労の色はずっと濃いように思えた。
「カリーナ様、ずいぶんお疲れでいらっしゃるようですが、私めに何かお手伝いできることはございませんか?」
アイラはそう語りかける。
「大丈夫です、アイラ。あなたが心配することではありません。もうお下がりなさい。」
そう言ってアイラの方を振り向こうとした時、カリーナは上体のバランスを崩して、ついていた肘を机の縁からすべらせ、そのはずみで手元においてあったコーヒーのカップを床に落としてしまった。それは絨毯をこげ茶に染めていく。
「大丈夫ですか、カリーナ様。」
その足元にかしずき、落ちたカップとソーサーを拾い上げると、それらを脇においてからアイラは自分の衣服の裾でコーヒーの染みを拭い始めた。
「結構よ、アイラ。誰かを呼びますから。」
「いえ、染みになるといけませんから。すぐに終わりますので。」
そう言って手を動かし続けるアイラ。その姿を見つめながら、カリーナは重い溜息をついた。
「カリーナ様、本当にお困りごとはございませんか?私めで良ければお話だけでも…。」
アイラのその言葉を遮るようにして、
「大丈夫よ。よろしいから、済んだらお下がりなさい。」
「でも…。」
なおもアイラはカリーナを気遣ったが、カリーナはそれをこころよく受け取らなかったようだ。
「くどいですよ、アイラ。私が大丈夫といえば大丈夫なのです。分をわきまえなさい。」
その声の下で賢明にコーヒー染みを拭うアイラを、カリーナは容赦なく叱責した。アイラが瞳のふちをわずかに潤ませる。
「申し訳ございません…。」
そう言って立ち上がると、アイラは目礼してその場を去ろうと脚を繰った。真夏の夜とは思えない冷ややかさがあたりを支配している。カリーナはその背を追おうともせず、なお机に肘をついてため息を漏らしていた。
*よほどのことがあるのか、ひとり悩むカリーナ。疲れの蓄積をにじませている。
部屋の中ほどまで来て、アイラはカリーナの方を振り返りもう一度だけ口を開く。
「カリーナ様…。」
しかしカリーナは苛立つばかりだ。
「まだなにかあるのですか!早くお下がりなさい!」
声を厳しくして振り向くと、その視線の先でアイラは肩を小刻みに震わせながら目に涙を浮かべていた。さすがのカリーナもバツが悪そうだ。ようやく自分の方を振り返ってくれた美しいルビーの瞳を、にじむ目で見つめながらアイラが涙に揺れる言葉を紡いだ。
* * *
「あの…、不敬は重々承知ですが…。しかし、カリーナ様。そのお疲れのご様子を見て、今回ばかりはお譲りできません。」
アイラの、その思いがけない言葉に、ルビーの瞳に驚きの色が乗った。
「カリーナ様、私は…。」
震える唇をどうにか動かしてアイラは言う。
「カリーナ様にとって、私はそんなにも取るに足らぬ存在なのですか?小さい頃から、ずっとお仕えしてまいりました。初めてお屋敷にお迎えいただいたときから、私にとってカリーナ様は、唯一無二の大切なお方なのです。そのカリーナ様がお疲れでお心を乱していらっしゃるときに、仮初であるとはいえ義理の妹の私は、そんなにもお邪魔でしかないのでしょうか…。それでは、私は、私は…。」
アイラにはまだ伝えたい思いがあったが、涙と嗚咽でそれ以上は言葉にならなかった。立ったまま泣き崩れるアイラ。こんな時でも、カリーナの前でアイラは決して直立姿勢を崩すことをしなかった。自分のことを一心に気にかけてくれるその健気な姿を見て、ルビーの瞳はこれまでと違う色彩に染まっていった。
カリーナはゆっくり席を立つと、棒立ちで涙にくれるアイラに近づき、その震える肩を両手でそっと抱いた。
「ごめんなさい、アイラ。あなたの言う通りよ。あなたは、取るに足りない存在などではないわ。」
「カリーナ様…。」
「小さいときから、あなたほど私に忠実に尽くしてくれた者はいません。ある意味で、リセーナよりもあなたの方が身近に感じられることさえありました。本当はあなたのその心遣いに感謝しなければいけないのに…。」
そう言って、カリーナはアイラを胸に抱きとめる。その柔らかいぬくもりの中で、アイラはただただ涙に暮れていた。
「カリーナ様…。」
「それはもうおよしなさい。あなたの言う通り私達は義姉妹なのですから。本当にありがとう。アイラ、あなたの存在を嬉しく思います。」
「お義理姉さま。」
そう言って、アイラはカリーナにしがみつく。
「これからは、そう呼んでくださいね。」
あたりの空気に夏のあたたかさが戻ってきた。部屋の真ん中で優しい抱擁をかわす二人を、真夏の月光が穏やかに包んでいる。
* * *
「それでは、話を聞いてくれるかしら?」
そう言って、カリーナはアイラにソファに掛けるように促した。
「いいのよ。おかけなさい。」
なお逡巡しながらも、アイラは静かに腰を掛けた。カリーナはその斜向かいに座る。
「実はね…。」
カリーナは静かに話し始めた。真剣な面持ちでそれに耳を傾けるアイラ。
「ここのところ、あらゆることがうまくいかなくなってしまって、苛立ちが先に立って仕方ないのです。『人為のルビー』を用いた『炎鋼』の量産のことはあなたも知っているわね?」
うなずくアイラ。
「せっかく私がいい技術者のいる取引先を見つけたのに、その社の杜撰な人材管理のせいで、量産化が大きく後ろ倒しになってしまっているの。しかも、多くの優秀な人材を失って、品質も落ちるばかり。挙句の果てには製造権を他社にライセンスごと売り渡してしまって、我が社としては大損失なのよ。」
「そのことは存じております。」
「また、それだけではなくてね。最近、どうにも体調が優れず、集中力を欠いてミスをすることが増えてしまったのよ。ちょうどあなたに頼まれた『マンドレイクの根』の手配の詰めを忘れたように。こんなことはなかったのにと思えば思うほどに、余計に腹立たしくなるのです。」
カリーナは、人知れず抱えていた悩みの種をアイラに打ち明けた。若くして成功を収めた誇り高い経営者であるカリーナが自分の弱み、とりわけ体調の不良や自身のミスを他人に明かすなど、まずありえないことだった。
「それは、きっとお疲れが溜まっていらっしゃるからです。確かに、コズマ・システムの杜撰とディオス社の対応の悪さは目に余ります。しかしそれは我が社の、ましてお義姉さまの責ではないのですから、どうぞお気に病まれませんよう。なんとなれば、私が直接ディオスの担当者と交渉いたしますので。」
「あなたは本当に優しいわね。その上に仕事もできる…。心強いことだわ。でも、私が案じているのは、もしやこれが何かの呪いではないかということなのです。それくらいに、様々なことがうまくいかず、何もかもが余りにも不自然なのです。なにより、リセーナを失いました。あんなに突然に…。ここまでくるととても尋常な運命とは思えなくなってしまったのです。」
カリーナは意外なことを口にした。アイラもそれには驚きを隠せない。
* * *
カリーナはアイラの手を取って続けた。
「あなたにだけ話しましょう。他言は無用ですよ。」
「もちろんです、お義姉さま。」
「以前、私が直接製造販売に携わった魔術式自動人形『マギックス・オートマタ』がアカデミーの禁に触れて営業停止の行政処分を受けたことは知っているわね?」
「はい。」
「その時、私の不手際でラニアお祖母様が創業された『ハルトマン魔法万販売所』は、ブランドイメージ一新のためにその伝統ある名前を変える必要に迫られたわ。」
「そうでした。それで今の『ハルトマン・マギックス』に改称したものと承知しております。」
「その通りです。しかし、お祖母様はお祖父様ととともに創立なさった『ハルトマン魔法万販売所』をとても大切にしておられました。もちろんそのブランドも含めて。ですから、その大切なものを失態によって歪めてしまった私を、お祖母様が恨み祟っておいでではないのかと、近頃どうにもそう感じられてならないのです。」
「それで、呪いについてご案じになられていたということなのですね?」
「そのとおりです。」
「しかし、私も存じ上げておりますが、ラニアお祖母様はお義姉さまを呪うような方とは思いにくいところがございます。まして、お祖母様ご自身があれほどまでに愛しておられたリセーナお義姉様をお取り上げになるとは、さすがにあり得ないのではないでしょうか?」
「そうね。そう思いたいのは私も同じです。しかし、家族、仕事、健康、そのすべてが一度におかしくなりました。私がハルトマン家に泥したことといえば、お店の改称しかありません。そう考えると、お祖母様の影が浮かぶのです。」
そう語るカリーナの声はすっかり憔悴していた。アイラはその手をあたたかく、しかし、しっかりと握っている。
* * *
「お義姉さま。」
「何かしら?」
「このことを、シーファとリアンにだけ、話す許可をいただけませんか?」
それを聞いてカリーナは少し驚いた表情を浮かべながら、
「ええ、秘密を守ってくれるなら、それはもちろん構いませんが…。でもまたどうして?」
と、そう返した。
「はい、実はリアンは純血魔導師でありながら相当にガブリエルに通じています。なので、お義姉さまのご不調の背後に、本当に何者かの影があるのだとするならば、それを突き止めることができるかもしれないのです。」
その言葉に、カリーナの表情が幾ばくか緩んだ。
「ちょうど偶然にして夏休み中ですから、少しばかり時間に自由がききます。そこで、この機を活かして、私は彼女たちと共にラニアお祖母様のお墓を訪ねて参ろうと思います。きっとお義姉さまのご心配とご心痛を晴らしてご覧に入れますから、お義姉さまはどうかお身体を第一に、ご無理のない執務を行ってください。約束です。」
そう言うと、アイラは小指を差し出した。すこし面映いようにしながら、カリーナはそこに自分の小指を重ねる。
「わかりました。心強いことです。あなた達を信じて待ちましょう。」
月明かりの下で、二人はしっかりと約束を交わした。
「さあ、もう遅いわ。あなたはお部屋にお戻りなさい。私も今夜は休むことにします。」
そう言うとカリーナは席を立つようにアイラに促した。
「はい。お義姉さまもご無理なさらずにお過ごしください。」
「ありがとう。では、おやすみなさい。」
「はい。おやすみなさいませ、お義姉さま。」
就寝の挨拶を交わした後で、アイラはカリーナの部屋を後にする。ルビーの瞳は、今度は扉が閉まってしまうまで、その背中を愛おしそうに見送っていた。
* * *
時刻は既に午前3時に差し掛かっている。宿直の者の他は従業員もみな帰宅しており、大きなその屋敷全体が穏やかな月明かりの下で眠りについていた。そっと自室の扉を開けると、シーファとリアンはもうすっかり夢の中のようだ。彼女たちに気取られないように慎重に寝間着に着替えると、アイラは普段よりほんの少しだけ狭くなったそのベッドに体をうずめた。幾ばくもしない内に、その意識は銀の砂の彼方に沈んでいく。東雲が、朝日に色づき始めるまで、もういくばくも時間は残されていない。
あくる朝、一番に目覚めたのはアイラだった。順にシーファ、リアンが目を覚ます。
朝の挨拶を交わした後で、めいめいにその日の準備に取り掛かった。といっても、残りの荷が入荷するのを待つ以外にこれといってすることがないものと思い込んでいるシーファとリアンはずいぶんとのんびりしている。シーファは熱いシャワーで目を覚まし、その間にリアンは着替えを済ませた。二人の準備が一段落するのを、アイラは静かに待っている。
「さて、今日からどうするかよね?」
「折角の夏休みですし、1週間ばかりありますから、どこかに出かけるのもいいかもなのですよ。」
二人がそんな話をしているところにアイラが声をかけた。
「あの、実は折り入ってお二人にお願いがあるのですが…。」
そういうアイラの方を見て、
「なによ、また他人行儀に。遠慮なんてしないで、何でも言ってちょうだい。」
シーファはいつもの調子でそう答え、リアンも頷いている。
「実は…。」
アイラは二人に昨晩のカリーナとの話をつぶさに伝えた。新しい冒険に瞳を輝かせるシーファとは対象的に、その話を聞きながらリアンは何事かを思案している。
「ちょっと待っててくださいですよ。」
そう言うと、彼女は自分の荷物から魔法学の教科書を取り出し、ガブリエルの章を開いて何事かを探すように慎重にページを繰っていった。何やら心当たりがあるようだ。アイラとシーファが期待を寄せる。
「これかもしれないのです。」
そう言うリアンが指し示したページには『ネクタリンスの悪霊』という見出しがついていた。そのページの記述をめいめい目で追っていく。
*『ネクタリンスの悪霊』に付いて記述する魔法学の教科書のページ。
その説明によると、『ネクタリンスの悪霊』というのは非常に変わった性質をもつ悪霊で、普通の霊が生身の人間を祟ったり呪ったりするのに対し、それは、同じ存在であるはずの霊魂に取り憑くのだというのである。つまり、亡くなった人の霊魂に取り憑き、それを介してその血筋に連なる人々に災いをもたらすという、なんとも珍妙な存在なのである。それは生前に強い縁を結んだ人、例えば熱烈な片思いの相手といったような特別の存在を狙ってその霊魂に取り憑き、生前に果たせなかった思念や願望を実現し、あるいは恨みをはらそうと目論むのだという。多くの場合、憑りついた相手が大切に想う人物や家族に害をなすらしい。
「確かに、これはお姉様のお話と一致する点がありますね。」
そう言って更に教科書を覗き込むアイラ。
「そうなのですよ。カリーナさんのお祖母様が仮にこの『ネクタリンスの悪霊』に憑りつかれているのだとしたら、それを除霊することで今問題になっている説明のつかない不幸やめぐり合わせの悪さを解決できるかもしれないですね。」
リアンはそう言った。
「でも、『ネクタリンスの悪霊』を呼び出してそれと接触するためには、『霊媒』ができなければいけないとあるわよ。カレンがいればいいけど、私達だけでは荷が重いんじゃない?」
ページの隅に小さく記述された注釈の記述を見つけてシーファが言う。
「えへへ。」
すると、なにやらリアンが不思議な笑みを浮かべた。
「どうしたの?」
訊ねるシーファ。アイラも興味を傾けている。
「その点は心配ないのですよ。カレンほどのことはできませんが、私も『霊媒術』を身に着けたのです。」
「まぁ!」
思わず、シーファが声を上げた。
「最近のあなたには驚かされるばかりだわ。やっぱりそれも愛の力というやつなのかしら?」
「そんなものなのですよ。シーファにもいつかわかる時が来るのです。」
「まぁ、ずいぶん生意気言っちゃって。片想いのくせに。」
「むぅ。」
二人がそんなやり取りをしていると、アイラが言った。
「リアン、ありがとうございます。あなたのおかげで重要な手がかりがつかめました。ぜひ力を貸してもらえませんか?シーファも、どうか。」
「もう、だから他人行儀なことは無しよ。そんなの決まってるじゃない。ね?」
そう言ってリアンに同意を求めると、彼女はなにやら不思議な表情をして、おかしなことを口走った。
「それは、汝の答え次第なのですよ。朕は汝に問うです。『朕の欲するものは何であるか』答えるですよ。」
どうやら、昨日のオグのモノマネをしているようだ。シーファは、まったくやれやれという顔をしているが、アイラはその答えに思いたる節があるようで、
「わかりました。ちょっと待っていてください。でも間違えたからといって縛り上げるのだけはなしですよ。」
そう言うが早いか部屋を小走りに出ていった。シーファがリアンの顔を見ると、彼女は気恥ずかしそうに右手の人差し指でこめかみをぽりぽりとかいている。
しばらくして部屋のドアが空いた。両手に何かたくさん抱えたアイラが入ってくる。
「これでは正解になりませんか?」
そう言ってアイラがリアンの前に差し出したのは、彼女の好物のうちでも特に極上と言われる、『ミダスの皇帝液』という名のたいそう高価な栄養剤だった。銅貨1枚で買い求めることができないどころか、店によっては1本あたり銅貨2枚とでも釣り合うという飛び切りの品である。アイラは実に、それを2ダースも差し出したのだ。
*最高級栄養剤『ミダスの皇帝液』。瓶は手のひらサイズの小瓶で極めて割高である。
リアンの瞳がみるみるうちに輝きを強める。そこには、昨日洞穴において見せたのとはまたまったく様相の異なるある種の狂気が渦巻いていた。
「大正解なのです!これはこわいこわいなので全部没収するですよ!」
そう言って、リアンは小さなかわいい舌をほんの少しのぞかせてみせた。
彩雲が広がる東の空は徐々に明るさを増し、新しい日の訪れを雄弁に物語っていた。その足跡をなぞるようにして気温と湿度が上昇し、夏の開放感と冒険心を刺激していく。
思いやりと信頼、気遣いと寛容、人間同士が織りなす複雑な感情の綾織が、少しずつ、少しずつその美しい文様を浮かび上がらせていた。幸いにして、ハルトマン家代々の墓はインディゴ・モースからほど近い、片道2日ばかり行った先にある『ミレーネ地区』の美しい湖畔に面する場所に位置していた。多く見積もっても5日もあれば行って帰ってこられるだろう。
結局、その日はミレーに向かうための準備に費やすこととし、翌朝早くに西に進路を取ることで話が決まった。ミレーネといえば、シーファ、リアン、カレンの三人が、ちょっとした冒険に挑んだ懐かしの場所でもある。リアンはその目的の地に、今は追憶の中だけに住まう愛しいひとの姿を投影していた。
綾織物がゆっくりと、しかし着実に織り上がっていく。
Echoes after the Episode
今回もお読みいただき、誠にありがとうございました。今回のエピソードを通して、
・お目にとまったキャラクター、
・ご興味を引いた場面、
・そのほか今後へのご要望やご感想、
などなど、コメントでお寄せいただけましたら大変うれしく思います。これからも、愛で紡ぐ現代架空魔術目録シリーズをよろしくお願い申し上げます。




