表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/25

第1節『新しい日々』

 魔法社会を根底から震撼させた『三医人の反乱』から早くも2か月が過ぎようとしていた。時節はもう8月である。戦禍に傷んだ街々は、少しずつ、しかし着実に復興への槌音を響かせていた。あの夜ユイアが行使した破滅的な禁忌術式のために瓦礫の山と化したフィールド・インにも人が戻り始め、新しい胎動を始めている。その辻々には、若者の街らしい溌剌はつらつとした活気が戻りつつあった。


挿絵(By みてみん)

*復興が進むフィールド・イン市街地。人流が街に戻りつつある。


 今、事程左様に魔法社会の全体が戦火の傷跡を乗り越えて新しい日常を刻み始めている。しかし、かの事件解決に多大な貢献をした者達、そう、神秘の力によって天使となり、その後忽然と姿を消した5人の魔法使いたちの行方は、あれから2か月を経てもなお、ようとして知れなかったのである。街々の復興あげる復興の産声が折り重なるたびに、彼女たちの存在は人々の記憶から少しずつ、少しずつ消え始めていた。

 破壊と再生、創造と維持、それは悲痛の日々を超克して新たな時を刻んでなお生きようとする人の強さとたくましさの象徴でもあるかのようだ。


 しかし、今を経て過去から未来へと繋がり行く日常の、止まらぬ書き換えの営みの中でなお、遠き追憶に囚われた純粋がここにある。


* * *


 ちょうどアカデミーでは前期試験が終わって夏期補習へと至る、そんな時節であった。今、純潔魔導士科中等部寮棟の1室を訪れる者がいる。


「リアンさん、いらっしゃいますか?」

 声の主はアイラであった。かつて、各々戦場に出向いたシーファ、リアン、アイラであったが、幸いにして皆無事に帰還を果たし、突如奪われた生活を少しずつ取り戻していた。

「リアンさん!」

 ドアをノックし声をかけるが返事はない。ノブに手をかけると、鍵は開いているようだ。

「アイラです。入りますよ。」

 そう言ってアイラは静かにその扉を開けた。部屋の奥には何やらせわしなく動き回る人の気配がある。リアンがいるのは間違いないようだ。アイラはゆっくりとその奥へ足を進める。やがて、部屋の隅で一心不乱に荷造りをするリアンの姿が目に入った。

「やっぱりいらしたじゃないですか?ここ数日錬金術の講義で全然お見掛けしないので、どうしたのかと心配でやってきました。ひとまずお元気そうでよかったですが、そんな大きな荷物、どうなさるのですか?」

 その声を聞いて、リアンは背後のアイラを一瞥するが返事もせずに黙々と手を動かし続けていた。登山用の大きなリュックサックに、魔法薬やら食料やら衣服やら、夜逃げでもするかのように、あらゆる荷物を詰め込んでいく。

「リアンさん、どこかへ行かれるのですか?」

 彼女の鬼気迫る様子がいよいよ心配になって、アイラはリアンの顔を覗き込むようにして声をかけた。その美しい青い瞳は大粒の涙をこぼしながら、それでもなお手を休めることはなかった。

「リアンさん、泣いておられるのですか?」

 その声に、リアンはようやく返事をした。

「なんでもないのですよ。心配はいらないのです。」

「そうは言われましても、講義にもお出にならずに、その大荷物。どこかへお出かけになるのですか?」

 リアンは、アイラを横目で見ながら言った。しかし、なおもその手が止まることはない。

「カレンを探しに行くのです。」

 涙に震えるその声は、それでも確固たる決意をにじませていた。

「そう言われましても、どうするおつもりなのです。」

 アイラはますます心配そうだ。

「どうもこうもないのです。カレンを探しに行く、それだけのことです。」

 リアンは語気を強めた。

「そんな、おひとりでは無茶です。そもそもカレンさんがどこにいらっしゃるのかわからないのですし…。」

 アイラの言葉はその通りだった。『三医人の反乱』の後、姿を消した5人の行方はまったく分からなくなってしまっていた。手がかりもなく、事件の後に彼女たちの姿を見たという者もいなかった。そんなカレンを、リアンは探しに行くと言っているのだ。彼女の大きなリュックサックは、荷物でどんどんと膨らんでいく。

「とにかく、リアンさん。ちょっと待ってください。今、シーファさんを呼びますから。」

 そう言って通信機能付携帯式魔術記録装置を取り出すアイラ。それには目もくれずに、リュックサックはますます膨らんでいった。


* * *


 しばらくして、シーファが通信に出る。

「私よ。どうしたのアイラ?」

「シーファさん、実は今リアンさんのお部屋にいるのですが、カレンさんを探しに行くと仰っていて…。」

「なんですって!リアンがそんなことを言っているの?」

「はい。リアンさんとは錬金術の講義でご一緒しているのですが、もうここ1週間近くお姿を見かけないので心配になって見に来たんです。そうしたら、お出かけになられると言われて、今荷造りをされているんです。」

 困ったという様子でアイラは現状をシーファに伝えた。

「わかったわ。ちょっと待ってて、私もすぐに行くから。」

 そう言うとシーファは通信を切った。その間もリアンの様子は変わらない。

「リアンさん、シーファさんも来てくれるそうです。だから、少しだけ待ってもらえませんか?」

 アイラの声は聞こえている筈だが、リアンは涙をしゃくりながらも動きを止めることをしなかった。


 5分ほどしただろうか、呼び鈴が鳴るのが聞こえた。

「リアン、上がるわよ。」

 そう言って、シーファが部屋に入ってくる。相当急いで駆けてきたのだろう、大きく息が上がっていた。

「リアン、どうしたの?カレンを探しに行くってどういうことなの?」

 絶え絶えに声を絞るシーファ。その顔を横目で見やってリアンが言った。

「そのままなのですよ。カレンが返ってこなくなってもう2か月にもなります。あの時、ルート35で別れたきり、もう2か月も…。」

 そこまで言ってリアンの声は大きく震えた。

「きっと、何かあったのです。助けを求めているのかもしれません。だから、探しに行くのです!」

 涙で言葉にならない言葉をたどたどしくリアンは綴った。

「探しに行くって、あてはあるの?どうするのよ?」

 シーファのその言葉を聞いてリアンの手が初めて止まる。彼女はおえつを懸命にこらえているが、その美しい頬には大粒の涙があふれていた。


挿絵(By みてみん)

*リアンの美しい頬を涙が伝う。


 何か言おうにも、その言葉は涙と嗚咽にかき消されていくばかりである。

「とにかく落ち着いて。ね、話をしましょう。」

 シーファはリアンの後ろにしゃがみこみ、その小さな肩に両手をそっと置いた。それは小刻みに震えている。何か言おうと唇は動くが言葉にならないようだ。

「カレンに会いたいのね?」

 シーファの言葉に、リアンは小さく頷いて答えた。初等部の頃から何かと時間を一緒に過ごしてきたシーファ、リアン、カレンの三人には特別な絆があった。思えば、2か月も誰かがそばにいないなどということは、幼少の頃からこれまで一度もなかったかもしれない。特に、『シメン&シアノウェル病院』での一件以降、リアンとカレンのふたりには傍目にも特別のよすががあるように思えた。リアンはうつむいたまま、涙が頬を伝うがままにしている。


「やれやれ、困った子ね。それじゃあまるで失恋した乙女じゃないの。」

 ため息交じりに言うシーファ。

「そんなんじゃないのです…。」

 涙声を絞るような小さな声でリアンは応えた。


 真夏の、昼下がりの陽が窓から部屋の中を照らしている。汗ばむ熱気があたりに満ちているが、それはリアンの心細さを温めるには足りないようだ。遠くから聞こえるセミの声がその場の静けさを一層際立たせていた。風と共に、部屋の中に落ちる立ち木の影が優しく揺れている。


* * *


「リアンさん、台所をお借りしますね。」

 少し奥から、アイラの声がした。リアンはその声に頷く。しばらくして、奥から冷たいお茶を持ってアイラが姿を現した。

「とにかく、まずは落ち着きましょう。台所、勝手してごめんなさい。」 

 そう言うと、アイラはグラスに入ったお茶をめいめいに差し出した。グラスのふちを色のない水滴が伝う。

「ありがとう、アイラ。」

 消えるような小さな声とともにリアンはグラスを手に取って、その冷たい中身をのどに送った。かつて、病院で『真紅の雄牛』を立て続けに何本も開けていたときとは別人のようである。

 一口飲んでうつむくリアン。それとは対照的に、急いで走ってきたのであろうシーファは、一気にグラスを開けてふぅと大きく息をついた。その二人の姿を、グラスを片手にアイラが見つめている。

「カレンを探しに行くって、どうするつもりだったの?」

 ひと心地ついたシーファが語り掛けた。リアンも今度はゆっくりと向きを変えて話す。

「とにかく、探しに行こうと思ったです。カレンがいなくなってから、私は、私は…、ずっと、ずっと待っていたのに…。」

 そう言って声を震わせるリアン。

「そうね、私たちがこんなに長く離れているなんていままでなかったもんね。私もカレンに会いたいわ。」

 シーファはそう言うと、リアンの小さな肩をそっと抱き寄せた。


挿絵(By みてみん)

*リアンの肩をやさしく抱き寄せるシーファ。


「あてもないのに、いったいどこに行こうとしてたのよ。純血魔導師のあなたじゃ、何かあった時の回復や治癒にだって困ったでしょうに。」

 その声は優しい。

「その時はその時でいいと思ってたですよ…。ただ、カレンに、カレンに会いたくて。」

 こぼすように声を絞るリアン。

「まぁ、私たちにとってはあなただって大切な友達なのよ。あなたは、私たちに今のあなたと同じ思いをさせるつもりだったの?」

 その言葉に、リアンはハッとしたようにして顔を上げ、シーファの瞳を見つめた。その場に優しい時間が流れる。

「シーファ、ごめんなさい…。私は…。」

「いいのよ。」

 そう言うとシーファはリアンをそっと抱きとめた。リアンは小さな体を震わせながら彼女の胸の中で泣きじゃくっていた。


* * *


「幸いもうすぐ夏期休暇です。」

 静寂を破ったのはアイラだった。

「リアンさんの心配はよくわかります。確かに、ルート35での一件の後でカレンさんに何かがあった可能性は否定できません。ですから、私たち3人でカレンさんを探しに出かけると言うのはどうですか?」

 アイラは思いがけない提案をした。その言葉を聞いて、リアンの青い瞳に生命の輝きが戻る。

「それはいいわね!私もカレンに会いたいもの。」

 そう言って、シーファはリアンの身体をゆっくりと起こしてやった。リアンの顔は涙でくしゃくしゃだ。両手で、涙をぬぐいながら、リアンが言った。

「一緒に行ってもらえるですか?」

「ええ、もちろんよ。」

「一緒に行きましょう!」

「ぐす…、ありがとうなのです。」

 ようやくリアンらしい音色がその声に戻って来る。


「ただ、探すと言っても、全然手掛かりなしだと困るわよね。」

 確かに、シーファの言う通りだ。

「何か、カレンさんや、一緒にいなくなられた先生方を繋ぐ接点はないものでしょうか?」

 そのアイラの問いに、シーファはふと思い当たることがあった。

「そういえば…。」

「どうしたですか?」

「リアン、覚えていない?」

「何をです?」

「私たち3人が初めて『ダイアニンストの森』へ行った時のことよ。」

「それは、覚えているですけど…。」

 不思議そうな面持ちでシーファの顔を見やるリアン。

「あの時、そう、初めてユーティさんに会った時、荷物を預かったでしょう?」

「そう言えばそうでした!」

 リアンのにわかに顔に色が差した。

「あの時、預かったのは『天使の鎧』というような意匠の特別のローブだったわ。そしてユーティさんは言ったわよね。それを『アーカム』に届けて欲しいと。」

「そうなのです。そして次に会った時には、いつかよすがに導かれてみんなで『アーカム』で会えたらいいと、そう言ってたです!」

 リアンの声にいよいよ力が戻ってくる。

「そう!だからきっと、彼女が言っていた『アーカム』に何かの手がかりがあると思うのよ。」

 シーファは、じっとリアンの瞳を見つめて言った。涙で潤むその青い瞳は美しく揺らいでいる。


「『アーカム』と言えば、行きたくても行けないと言われる神秘の法具店ですよね?」

 そう言うアイラが言った。そう、『アーカム』は誰もが知っていたが、しかしそこに至るための特別の方法を知る者はもはやいないのだ。

「問題はどうやって、『アーカム』を探すかですね…。」

 アイラは一口、お茶をのどに送った。


 窓から差し込む真夏の陽は、一層明るさと熱量を増している。渇きつつあるリアンの涙と反対に、コップのふちには大量の水滴が流れ落ちていた。ついさきほどまで冷えていたそのお茶は、もう少しばかりぬるんでいる。


* * *


「夏休みに入ったら、『ダイアニンストの森』に行きましょう!」

 そう言ったのはシーファだった。

「ユーティさんを探しに行くのですね!」

「そうよ。彼女ならきっと『アーカム』の場所、あるいは、そこに行くための方法を知っているはずよ。だからまずは彼女を訪ねましょう!」

「はい、なのです!」

 そうれはようやくいつものリアンの声である。


「そうと決まれば、計画を練らねばなりませんね。すでに何度か足を運んだ場所ですから、困るという事もありませんが。」

 そう言うと、アイラは持っていた学徒カバンの中から、地図を取り出してリアンの部屋の背の低いテーブルにそれを広げた。


挿絵(By みてみん)

*テーブルに置かれた地図を囲む3人。


「ここが、今いる中央市街区。そしてこちらがお馴染みのタマン地区ですね。」

 アイラが指で地図上を指し示していく。

「そして、タマンを抜けると『ダイアニンストの森』ね。」

 シーファの言葉にリアンは頷いて答えた。

「ここまでの日程は1泊二日。今回もタマンで宿を取って、翌朝『ダイアニンストの森』に行きましょう。」

「そうですね。あそこは、夜は危険ですから、できるだけ日中にユーティさんを訪ねることにしましょう。」

 一緒に地図を覗き込むアイラ。

「そうすると、必要になるのはとりあえず1泊分の着替えと荷物ね。慣れているとはいえ危険な森ではあるから、十分な用意は必要になるわ。まぁ、あんなにはいらないけれど。」

 そう言って、シーファは先ほどまでせっせとリアンが膨らませていた大入りのリュックサックを見やって言った。

「そうなのですよ。1泊分で十分なのです。」

 リアンは照れくさそうだ。

「夏期休暇に入るのは明後日の午後からですから、補講がはけたらそのまま出発しましょう。」

 そうアイラが提案する。

「そうね、それがいいと思うわ。昼過ぎに出発すれば夕方にはタマンに入れるから、そこで一泊して次の日に森に入りましょう。」

 シーファの声を聞きながら、リアンは目で必死に地図を追っていた。


「前回タマンを訪れた時は猪肉料理でしたが、今回はどうしますか?」

 ふとアイラがそんなことを聞く。

「そうね。タマンは野鳥料理もおいしいから、悩ましいところよね。」

 シーファもいくぶんと神経が食指の方に傾いたようだ。

「それはタマンに着いてから考えればいいことなのですよ!」

 リアンは、八方ふさがりだった状況に俄かに光が差してきたことに興奮を抑えきれないでいる。少女たち3人の溌剌はつらつとした声が、部屋の中を行き来した。ひとまず、2日後の午後、午前の補講と前期修業の儀式が終わった後、その足で出かけようということで話はまとまったようである。


 真夏の陽が、ゆっくりゆっくりと西にその顔を傾けていく。影は少し伸びるが、それでも屋外の明るさはまだまだ十分なものがある。3人はまとわりつく湿気も暑さも忘れて、2日後の冒険の計画に没頭していった。


* * *


 それから瞬く間に陽は天球を2周して、約束の日が到来した。リアンは、修業の儀式が終わるや否や寮に引き返して、いつものごとく大荷物をしょってアカデミー前に立っている。1泊分の荷物でいいと計画して間もないはずであったのに、やる気持ちがいつの間にか毎度の様子に彼女を駆り立てていた。

「早いわね。」

 いつものように身軽に整頓された格好で現れるシーファ。それに続いてアイラも合流した。こちらも宿泊を伴う異動には慣れているようで、リアンとは対照的に軽装だった。

「お待たせしてすみません、シーファさん、リアンさん。さあ、行きましょう。」

「もう、アイラったら、シーファでいいわよ。私たち、もう友達でしょ?ね、リアン?」

「はいなのです。遠慮なくリアンと呼んでください。」

 思わぬ申し出に少し照れながらも、

「わかりました、それでは行きましょう。シーファ、リアン!」

 アイラは元気よく答えた。


 真夏の真昼は暑い。晴天の日はなおさらだ。太陽はほぼ天頂に位置して、足元の舗装用タイルをじりじりと焼いている。

 3人はそれぞれの荷物を背負って、『南大通り』を下って行った。つい先日ここを通った時は、生きて再び北上できる保証はどこにもないという、そんな極限の緊張の中にあったが、今はもうそうした重苦しさはない。タマン地区に向けてどんどんと歩みを進めていった。

 デイ・コンパリソン通りとの交差地点を東に進路を取って、ルート35へと入る。そこは、リアンにとってはカレンとの別れの場所でもあった。ある場所でふとリアンは足を止めた。幹線道路を抜け、やがて市街区に入って行る。お馴染みタマン市街区は、南西部に海、南東部に山をそなえる観光地で、レンガ造りの美しい街並みを展開していた。


画像

*タマン地区市街区。こちらは南西部の海に面した街並みである。


 その街並みを、ルート35沿いに山側に進む。「今日はイノシシガールはいない」、というかのウィザードの言葉を不意に思い出したリアンはシーファの顔を見て思わず噴き出した。

「まぁ、人の顔見て突然笑うなんて、なぁに?」

「なんでもないのですよ。」

 そんなことを言いながらもどんどんと南の町は近づいてくる。今日は、南東端の市街地で宿を取ることになっていた。二人の後ろを少しあけて、アイラも一緒に進んでいた。やがて、宿場街に至る。


「この時期で急なことでしたから予約は取れませんでしたが、ここからもう少し行った先に、うちのお店が贔屓にしている宿があります。とりあえずそこを訪ねてみましょう。」

 そう言うと、アイラはさっと二人の前に出て道案内を始めた。その宿は、さすが魔法社会で1、2を争う大企業『ハルトマン・マギックス』社が社用で用いるだけのことはあり、美しい山際に設置された大きな宿であった。

「ねぇ、アイラ。こんなに高級そうなところ、大丈夫なの?」

 シーファは懐具合が心配なようだ。一方、貴族令嬢のリアンは平然としている。

「大丈夫ですよ。実は、出かける前にカリーナ様から許可をいただいていまして、ここに泊まることができるならお代はお店の方でもってくださるとのことだったのです。空きがあるといいのですが…。」

 そう言って、アイラは先導してその宿屋に入って行った。宿屋は瀟洒しょうしゃな様子で、入り口は開放的に広く、少し東洋風の異国情緒のする佇まいであった。二人を広間に残して先に受付に向かうアイラ。泊まれるかどうかを交渉しているようだ。しばらくして、彼女が二人の所に戻ってきた。


「ちょうど三人部屋が開いているそうです。残念ながら、奥側の部屋であまり景色はよくないのですが、とりあえずということで。」

「全然かまわないわ。それより、本当にあなたのお店に甘えてしまって大丈夫なの?」

 心配そうにシーファは訊ねるが、アイラは大きく頷いて、二人を奥へと案内し始めた。彼女はここに泊まるのにずいぶん慣れているようだ。


「ここは山際の宿ですが、タマン地区名産の魚介を楽しめるんですよ。夕飯はそれにしませんか?」

 そう提案するアイラ。

「いいわね。そうしましょう。」

 シーファの応答に、リアンもこくこくと頷いて調子を合わせている。アイラが取ってくれた部屋は3階の山際の隅の部屋だった。間口が広く、くつろげそうな大部屋で、3人用ということだったが、実に部屋数が3部屋もあり、ずいぶん贅沢な構えであった。部屋に入ると、めいめい荷を下ろし。ローブと靴下を脱いだ。大きく伸びをするシーファ。リアンは早速眠くなったのだろうか、あくびをかみ殺している。その横で、アイラがお茶を淹れてくれていた。


「まぁ、アイラ。いいのよ。あなたもくつろいで。」

「ありがとうございます。でも折角ですからどうぞ。」

 そう言って、人数分のお茶を差し出してくれた。熱いお茶であったが、半日近く歩き詰めた身体をほっと癒してくれる。窓から山際を見ると、まだ沈むという感じではないが、それでも陽はゆっくりとその山影に隠れようとしていた。

「夕飯は、私のおすすめでもいいですか?」

 アイラが二人に訊ねる。

「ええ、おまかせするわ。リアンもそれでいいでしょ?」

「はいなのです。」

 二人の返事を聞いて、アイラは部屋に備え付けの魔術通信装置で受付に連絡を始めた。道すがら、ここではタマン名産の魚介を楽しめるとアイラは言っていた。果たしてどのような料理が運ばれてくるのか。


 30分もしたであろうか、窓から差し込む日が橙から赤に変わり始めた頃だった。

「ごめんくださいまし。お食事をお持ちいたしました。」

 給仕の声が戸の外から聞こえる。

「どうぞ、開いています。」

 応じるアイラ。

「いらっしゃいませ。今日は当宿にようこそおいでくださいました。『ハルトマン・マギックス』社の皆様には、いつもありがとうございます。」

 給仕はそう言って丁寧に挨拶をすると、手招きして食事を携えた女給を部屋の中へ導き入れた。その手が持つ皿の上には、それはそれは見事な料理が盛られている。シーファとリアンは目をすっかり丸くしていた。


* * *


 それは、タマン地区を代表する魚『メバラ』を中心とする魚介の活け造りで、その他の魚の刺身とともに、大皿にこれでもかと美しく盛られている。東洋風の小粒の柑橘類が薬味として添えられており、二つ切りにされたそれは切り口からさわやかな香りを漂わせていた。


挿絵(By みてみん)

*豪勢な魚介の活け造り料理。


 『メバラ』は小さな魚であるが、上品な白身で味わいは絶品であり、刺身で味わうのはタマンならではであった。他にも、『ライス・レント』という青身魚の酢漬けも盛られている。それはかつてインディゴ・モースの貴族がこの街を訪れた際、そのあまりの美味さに、隣の家におかわりのライスを借りに行ったという逸話から、飯を借りるの意で『ライス・レント』と名付けられたのだそうで、この地方屈指の名産であった。他にも、旬の魚介の新鮮な切り身が所狭しと皿の上を彩っている。


「さぁ、いただきましょう。」

 そういって、アイラが取り皿に調味料を入れ、それに薬味を溶いてくれた。『ホース・フェイス』という魚の切り身は、肝を溶いた調味料に切り身をつけて食べるそうなのだが、アイラの勧めに従って試してみたところ、実に素晴らしい美味であった。ただ、手元に視線を落として匙をくり出すリアンの動作だけは緩慢である。シーファとアイラの二人は、敢えて何も言わずにその様子を優しく見守りながら、眼前の麗しく旨い魚介に舌鼓をうっていた。『メバラ』の白身は、添えられた柑橘類の汁を絞りかけて、粗塩だけで食べると、実に滋味深く、彼女たちの胃の腑を存分に満足させた。


 大皿は瞬く間に空になり、3人は食後に熱いお茶をすすっている。歩いてここまで来た疲れが溶けるように去っていった。しばらく談笑したのち、リアン、アイラ、シーファの順でシャワーを浴びた。3人が着替えを済ませた頃、女給が一番奥の部屋に床を用意してくれている。そこに身体を横たえると、実に心地よい感じに全身が覆われた。


「アイラ、今日は本当にありがとうなのですよ。それから、シーファも。」

 申し訳なさそうにリアンが言った。

「どういたしまして。私はご案内しただけで、全てカリーナ様の御取り計らいですから。お二人に喜んでもらえてよかったです。」

「本当にごちそうさま。すっかり甘えてしまったわ。義理姉様にくれぐれもよろしくお伝えくださいね。」

 そのシーファの言葉に、少し照れたように、アイラは「はい」と頷いて答えた。


 のんびりの夏の陽もようやく山の端にその姿を隠したようで、あたりの空は、わずかに明るさを残した濃紺に彩られている。その懐で星がちらちらと瞬いている。


 明日は、神秘の地『アーカム』の所在を求めて、またもや『ダイアニンストの森』に足を踏み込むことになる。神出鬼没の裏口の魔法使い、ユーティー・ディーマーにちゃんと会えるのだろうか。一抹の不安がよぎるまぶたの裏に美しい銀の砂が舞っていく。やがて、三人は誰からということなく夏夜の闇にその意識をとらわれていった。


 天球を彩る色とりどりの夏の星座の間を、か細くかけた月がゆっくりと縫っていく。夜明けまではまだずいぶんと時間が残されていた。

Echoes after the Episode

 今回もお読みいただき、誠にありがとうございました。今回のエピソードを通して、

・お目にとまったキャラクター、

・ご興味を引いた場面、

・そのほか今後へのご要望やご感想、

などなど、コメントでお寄せいただけましたら大変うれしく思います。これからも、愛で紡ぐ現代架空魔術目録シリーズをよろしくお願い申し上げます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ