星の海の帰り道~曽根米穀店、お困りごと万事承ります~
微ホラーです。苦手な方はご注意ください。
「はい。伝えます。……いえ。こちらこそ、ありがとうございます。今後ともごひいきに」
サッシを開けた瞬間、飛び込んできたのは電話に応対している相棒のよそいき声だった。しめしめとばかり、こっそり裏に入ろうとした僕に、電話口での声とはうって変わって不機嫌丸出しの塩辛声が飛んでくる。
「おい、三丁目の二軒の配達に二時間たぁ、どういう了見だ」
電話はちょうど切るところだったらしい。黒ぶち眼鏡越しの相棒の鋭い視線に、僕は思わず首をすくめた。
「もうそんなに経ってた?」
何でもないふりをして、台車を元の位置に戻す。
「しかも、眼鏡も壊れて代品がねえってのにスマホも忘れやがって、連絡もつきゃしねえ。道に迷ってたんなら、さっさとスマホ取りに戻って来いよ」
帳場の向こうに座った相棒――曽根はじろりと僕をにらんだ。短く刈ってジェルで軽く立てた髪に、屋外で荷物の積み下ろしをよくやる仕事柄、日焼け気味、筋肉がっしりの身体つき。無愛想で険のある物言いと合わせれば、彼をよく知らない人はすくみ上がる。対照的に僕は、どう頑張っても筋肉がつかず、日焼けしても赤くなって表面がむけてくるだけで、地黒にならない体質のせいで、ひょろっと細身で色白なままだ。髪も切るのが億劫でつい伸ばしがちになってしまうためか、よほど頼りなく見えるらしい。彼と一緒に歩いていると、カツアゲされていると勘違いされることも多かった。
「ああ、迷っていたわけじゃないんだ。大丈夫」
「なら何してたんだよ。なおのこと大丈夫じゃねえだろう」
「まず、一軒目でちょっと時間がかかってね」
僕はレジを操作して、本日一軒目の配達先、佐藤さんから預かった米の代金をしまった。昔ながらの、ちーんと音がするタイプだ。前のバイトで扱っていたPOSレジとは全然違う。
「ほら、佐藤さんのおじさん、先週腰をいためただろ。それで、今回お米も急遽配達になったわけだけど」
おじさんと言うが、もう、定年退職後の七十代である。
「ああ、そんで?」
なんとなくその先を予期したのだろう。相棒の眉間のしわが深くなる。
うう、言うんじゃなかった、かもしれない。
「行ったら、おじさんの通院に奥さんが付き添って行っちゃったところでね、家には留守番のおばあちゃんだけだったんだけど、トイレの電球が切れちゃったって言って困ってて――」
相棒は聞こえよがしに盛大なため息をついた。
「困んねえだろ、真っ昼間なんだから。ああいう一軒家のトイレなら明り取りの窓ぐらいあるだろ」
「でも、おじさんが帰ってきたって、腰を痛めてたら、天井の電球は替えらんないだろ。奥さんだって小柄だし、去年膝を痛めてたし」
僕のささやかな反論はあっさり一蹴される。
「大抵どっかしら何かあるんだよ、あーいう世代だし。それでも皆どうにかしてんの」
「おばあちゃんは若夫婦を心配してたんだ」
「息子夫婦な。ちっとも若かねえ、ど真ん中の年寄り夫婦だろ」
「いくつになっても、親心だよねえ」
「”ちょっといい話”風に締めんじゃねえよ、終わってねえだろ説明」
「いや、だから、電球くらい五分もかからず替えられるからいいですよって」
「引き受けたわけだ」
相棒の眉間のしわはさらに深くなっている。
「だからといって、二時間かかった説明にはなってねえだろ」
「うん。電球の替えが見つからないっておばあちゃんが探し回るもんだから、しばらく待っててみたんだけど」
「あっちのおばあちゃんも、しっかりしてて受け答えも明確だったけど、どうにも置き忘れは増えたって奥さんが言ってたしなあ」
「うん、そんな感じだった。見つからないって困ってるから、他の配達を済ませてからまた寄りますよって声を掛けて、先に鈴木さんちの配達に行ってこようと思って」
「最低限、その程度の機転は利いたわけだ」
「うん!」
「誉めてねえぞ。マイナスには変わりねえ」
「で、鈴木さんちに行ったんだ。タバコ屋の裏手のアパートの一階だよね」
「ああ、合ってる」
タバコ屋の親父さんが経営している古い賃貸物件だ。
「チャイム鳴らしたら、ドア越しに、『おいといてくれ』って言われてさ。鈴木さんちはいつも月末掛け取りだから、玄関前に置いてそのまま帰ろうと思ったんだけど――」
「また、何かあったんだな」
「うん」
相棒の背中の辺りからどす黒い苛立ちのオーラが見える。僕は肩をすくめつつ、帳場の裏のパソコンを操作して配達記録を入力しながら続けた。
「帰ろうとしたらさ、チェーンを掛けたままのドアが細く開いて、中から浴衣姿の女の子が顔を出してね。見たことない子だったけど、お孫さんかな。お盆だったから遊びに来てたのかなあ」
「まあ、そういうこともあるだろうが」
「じいちゃん具合が良くないみたい、って、真っ青な顔で心配そうに言うんだよ。こんな見知らぬおっさんに、そういう子が声かけるのってよほどだろ」
「おっさんじゃねえだろ。大学生なんだから。いかにも人畜無害そうだし」
口の端をゆがめた相棒に、僕は笑って見せた。
「うん、お前よりは子ども受けする顔してるかも。お前の顔じゃいかにも泣かれそうだし」
「俺のことはいんだよ。んで」
「でもまあ、幼稚園児くらいの子から見れば、大学生なんてほとんどおっさんでしょ。僕も曽根も大差ないよ。なのに、わざわざ顔を出すって、ただ事じゃないなって思って、もう一度、奥に声をかけたんだ。月末掛け取りでいいですか、他に御用があったら今伺います、って注文取りしようとしたら」
僕は思い出して唇を一度ぐっと引き結んだ。むっとする部屋の空気とともに、ドアの隙間からこぼれだしてきた、んああ、という返事は、まともな言語の形をしていなかった。耳にこびりつくようなあの声はしばらく忘れられそうにない。
「明らかにおかしいんだ。ろれつが回ってない感じ。思い返せば、『おいてってくれ』っていう一言も、ちょっと怪しかったなと思って。それで、慌ててドアの隙間に顔を近づけたら、サウナみたいに暑い。こりゃまずいと思って、救急車を呼んで、タバコ屋の大家さんにも声を掛けてチェーン切るやつと合い鍵を持ってすぐに来てもらって。ドアを強引に開けて入ろうとしてるうちに、救急車もすぐ来てくれて、中で倒れてた鈴木さんを見つけたんだ」
「熱中症か」
僕はうなずいた。
「もう少し遅かったらヤバかったって、隊員さんも言ってた。市民病院に運ばれていったよ。後のことは大家さんに頼んできた。大家さん、慌ててたよ。エアコンが壊れたって昨日言われて、新しいエアコンの手配をしてたんだけど、どの工事店もものすごく順番待ちなんだってさ。身体に気をつけてよって言ったばっかりだったのにって、責任感じてるみたいだった」
「鈴木さん、のんべえだからな。酒で暑さの感覚、おかしくなってたのかな」
曽根も顔をしかめた。
「それで、念のため電球を買って佐藤さんの家に寄ってから来たから、すっかり遅くなっちゃって」
「結局行ったのかよ」
「だって、約束だから。見たら、未だに白熱電球使っててさ。LED電球に付け替えて、これでこの先十年くらい、付け替えなくていいからって言ったら、エラく感謝されたよ」
「ああ、だろうな」
「技術の進歩はすごいねえ、うまくすればアタシのお迎えがくるまで、替えなくていいんじゃないかねって言うから、まだまだお元気でいてくださいよーって言って帰ってきたんだ。ほら、お駄賃にって、水羊羹ももらった。商店街の入り口の、田中菓子舗のやつ」
「おお、あそこの、うまいんだよなあ。賞味期限大丈夫か」
「あ、やっぱ気にする? 帰り道にじっくり見たら、三日くらい切れてる」
「平気だろ、んなもん」
「だよな。で、タバコ屋の前をまた通ったから、大家さんに声かけてみたんだ。そしたら、幸い鈴木さん、そんなに深刻なことにはならずに済んで、すぐ退院できるだろうってさ。その時、あの小さい子、どうしたかな、親が迎えに来たかな、と思って聞いてみたんだ。でも大家さんはそんな子見てないし、もしいたら、救急隊の人と一緒に入った時に気が付かないわけがないけどって、ぎょっとして。まだポケットに鍵を入れたままだったから、って、そのまま中を確かめてくれたけど誰もいなかった」
「ああ」
「そもそも鈴木さんのアパートは小さい子を上げられるほど広くもないし片付いてもいないから、見間違いだろうって」
「で」
「まあ、僕も眼鏡壊れてるし、そういうこともあるかもって言ってきた」
相棒は、給湯スペースの隅においた冷蔵庫からペットボトルの緑茶を二本出すと、一本を僕に放った。
ずしっと重い瓶を慌てて受け止めた僕に、不機嫌全開のままの顔を向ける。
「あのな。今の電話、佐藤さんの奥さんからだ。帰ってきたら置手紙があったって、電話くれたんだ」
「置手紙? 僕、そんなもの書いてないけど」
「奥さんもそうは言ってない。おばあちゃんの筆跡で、『米屋の配達のお兄さんにトイレの電球を替えてもらって、仏壇の物入れのすみっこに隠してあったへそくりで代金を支払ってるから、お礼の電話を入れてくれ』って。あと、水羊羹を渡したって書いてあるけど、それ、お供えを下げるのを忘れちゃってたものだから賞味期限切れてるでしょうって、慌てて」
「おばあちゃんが? 何でわざわざ手紙を?」
「家族に顔を見せるのが恥ずかしかったんだろうとよ。初盆で、初めて帰ってくるもんだから」
「どういうこと? 施設からの一時帰宅とか? 誰の初盆なの?」
首を傾げた僕に、曽根は大きなため息をついた。
「本人だよ。佐藤さんのおばあちゃん、春先に亡くなったんだ。滞在先の施設で」
「えー?!」
「だから、お前、眼鏡無しでふらふらほっつき歩くんじゃない、用件だけ済ませて帰ってこいって言ってるんだよ。霊視えるやつが返事したら、御霊様だって色々物を頼みたくなるだろーが! 色々ややこしいんだよ」
「え、待って待って。じゃあ、おばあちゃんはもう、彼岸の人ってこと? 僕は、現世的な認識で言えば、勝手に家に押し入って、仏壇を漁って、お金と賞味期限切れの水羊羹を取ったってことになってる?」
顔面蒼白になった僕に、相棒はスプーンを投げつけた。危うく顔面すれすれでキャッチした僕に、苦々しげに言う。
「なってねえよ。ばあちゃんがしっかり、置手紙書いてくれたからな。あっちのばあちゃんは書道の師範までつとめた達筆の主で、それが、晩年に脳梗塞をやったから独特の震えがあるんだ。素人がちょっと真似しようったって、簡単にできるもんじゃねえ。そのオンリーワンの筆跡で、事情を書き残してくれた上に、LED電球のレシートと、一万円でそれを買ったお釣りがぴったり、ポリ袋に入って手紙の横に置いてあった」
心当たりあるか、と問われて、僕はうなずいた。
「あー、うん。お釣りとかになるとややこしいなーと思って。駅前の電器店で買うとき、親父さんに、大きいお金で悪いけどって謝りながら自分の財布の一万円で買って、お釣りもそっくりそのまま持って行ったんだよね。案の定、おばあちゃんが渡してくれたのが一万円札で、お釣りはいいよーなんて言うからさ、そんなわけにはいきませんからって、電器屋さんのお釣り丸ごと、レシートと一緒に、ポリ袋に入れたまま押し付けてきたんだ」
「仏壇の隠し場所から無くなったお金はきっかり一万円。トイレの電球は新品に替わってて、お釣りは耳を揃えて置いてある。で、お供えしてあった水羊羹は消え失せてる。そこに、例の手紙ってわけだ。奥さん、もう感動して、おばあちゃんが帰ってきてくれたのね、私たちのこと気に掛けてくれていたんだわって、涙声だった」
やれやれ、という表情で、曽根は天井を見上げる。
「お前、佐藤さんちのおばあちゃんがしっかりしてて、マジで命拾いしたんだぞ。お前自身が心配した通り、時と場合によっちゃ、窃盗容疑で危うく事情聴取されるところだったんだからな」
「霊の手紙のおかげだね。うわあ、おばあちゃんありがとうー」
僕が思わず手を合わせると、相棒は舌打ちした。
「そもそも、そのおばあちゃんの聞く義理もねえ頼みごとを聞いてるから、そういう厄介に巻き込まれるんだからな。あっちの人に『元気で長生きしてくださいよ』なんてトンチンカンなこと言ってる奴、お前ぐらいだろ」
真顔のツッコミに、僕は吹き出してしまった。
「うわ、ホントだ。アタシのお迎えが来るまで、って、おばあちゃんが若夫婦を迎えに来るまでって意味だったのかなあ」
「いや、それはマジで笑えねえ。佐藤さんご夫妻にはLED電球よりはよほど長生きしてもらわねえと、町内会長のなり手が減る」
相棒はペットボトルの緑茶を一息に半分くらい飲み干すと、水羊羹のフィルムをぺりぺりとめくった。
「冷蔵庫に入れてたわけでもないのによく冷えてんな。さすが、あっちの人」
「冷気を操るのはお手の物だね」
僕も、古びて少しきしむ事務椅子に座ると、パソコンデスクに置いていた水羊羹を開けた。奇跡的に落とさず受け取ったスプーンですくって口に入れると、ひんやりした甘い塊がするりとのどを滑り落ちていく。追いかけるように流し込む緑茶もまたうまい。
「お前、そんなところでペットボトル開けて、こぼすなよ。パソコン壊したら弁償だからな」
「わかってるって」
「見えなくする眼鏡だって、安くないんだからな。ここのバイト代がないと払えないんだろ」
「仕事もらえて、本当に助かってるよ」
「そう思ってるなら、もう少し要領よく働いてくれ」
「今回のは不可抗力でしょ。鈴木さんなんて、本当に間一髪だったんだから」
「人命救助はいいんだよ。だけど、お前の最大の問題は、見分けがついてないところだ」
相棒は口をへの字にした。
「鈴木さん、いくつだと思う」
「ええと、佐藤さんご夫婦よりはちょっと上だよね」
「ああ。佐藤さんとこで言うと、むしろおばあちゃんに近い。九十二で亡くなったおばあちゃんの、少し年の離れた弟と同級生だって聞いた。その、孫だぞ。いくつだと思う」
「……え」
「鈴木さん、酔っぱらうとよく言ってるんだ。孫は八人いて、どの子もかわいいけど、遠くに住んでた子のうちで一人、交通事故で小学校に上がる前に亡くなった子がいて、かわいそうなことをしたって、何べんも何べんも」
思えば、浴衣の柄はずいぶん、レトロだった。今時のフリルやレースでデコレーションしたものではない、紺色に白で染め抜いたホタルの模様に、真っ赤な絞りの兵児帯。
「生きてりゃ、俺より五、六学年上だったって言ってたかな。お前も車にはよくよく気をつけなきゃなんねえぞって、しょっちゅう頭ぐりぐりされたんで覚えてるんだよ。おかっぱ頭がよく似合う、無口だけど優しい子だったって」
「ああー」
何とも言えない気持ちになって、僕はため息をついた。
「あの子、年上だったのかあ。道理で、こっちをこわがんないわけだ」
「そこじゃねえだろ」
相棒はがりがりと短髪をひっかきまわす。
「とにかく、お前は眼鏡なしでほっつき歩くんじゃねえ。次の配達は俺が出るから、お前は店番しとけ。とにかく、おとなしくしてろ」
「でもさ」
僕は眉をひそめた。
「お店に来たお客さんだって、僕は今、多分見分けがつかないよ。ちょっとした頼みごとをされて、むげに断るわけにもいかないでしょ。ほら、この狭い商店街のなかでやっていくこの米屋の評判にも関わるし。曽根だって、僕が愛想悪い店員だって言われてバイトできなくなったら、バンド組む相手がいないだろ」
僕と彼は、二人でジャズバンドを組んでいる間柄だ。バイトの雇用関係で言えば彼は上司なのだが、つい「相棒」と呼んでしまうのはそのせいである。
僕がピアノかシンセサイザー。彼がベース。学生でつましい一人暮らしをしている身分には不相応なくらい、音楽は何かと金がかかる。なのに僕は、それに加えて「眼鏡代」が掛かるのだ。
そこらの量販店で買った眼鏡では「まともに日常生活が送れていない」のだと相棒によく責められる。確かに、彼に「騙されたと思ってやってみろ」と説得され、しかるべき筋でお祓いをしてもらった眼鏡をかけてみて初めて、しょっちゅう出していた微熱の頻度が減って、肩こりも改善したのを実感した。
胡散臭い健康器具の宣伝文句のようだが、本当だ。道を歩いていて見知らぬ人に声を掛けられたり、些細な頼まれごとをしたりすることも劇的に減った。だが、その人々が「あちら側」の人だった、彼らに声を掛けられて頼みごとに巻き込まれるたび、ささやかな体調不良を繰り返していた、というのも、彼に言われて本当にごく最近気が付いた話なのである。
「お前なあ……マジで、バカだろ」
相棒は再度、天を仰いだ。
「そういう僕をバイトに雇おうって言うお前も大概の馬鹿だろ」
「じゃあ、しょうがねえか。毒食らわば皿までだな。いいかお前、バイトの身分なんだから、勝手に仕事を受けるな」
彼は、店のショーウインドーに貼る手書きのPOPを作るための書道セットと半紙を取り出した。
『困りごと、よろず承り候 お代は応相談 小さいことからお気軽に 曽根米穀店』
さらさらと達筆で書いていく。この店のPOPはすべて彼の手書きなのである。
「おお、相変わらず上手いねえ」
「佐藤さんのおばあちゃん、俺の小学生時代の師匠なんだよ。まったくフクエ先生も、電球替えるくらい俺に言ってくれりゃいいのに」
後半は、僕に聞かせるつもりはなかったらしい、早口で小声の独り言だった。ばっちり聞こえてしまった僕は、内心、吹き出してしまった。もちろん彼に言うつもりはない。ここで機嫌を損ねたら、さらに話が長くなる。
「なんか頼まれたら、勝手に仕事を受けるな、店主を通せって言われたって説明しろ」
「今すぐにって言われたら?」
「店番だから勝手に空けられないってちゃんと言え」
「まるで小学生のお留守番だね」
「そのくらい手がかかるんだよお前は。俺よりよっぽど視力がいいんだから。巻き込まれてねえで、ちゃんと契約して限界を決めていかないと、際限なくエネルギーを持っていかれるんだよ」
肘で小突かれた。
この日、この瞬間から、僕のバイトは、米屋の店員と、その副業の万事屋の作業員ということになったのである。
「あのさ」
僕は硯と筆を片付ける曽根の手元を見つめた。
「佐藤さんちのおばあちゃんも、鈴木さんのお孫さんも、お盆にちょっと戻って来てただけなんだよね」
「ああ、そうだろうな」
「またちゃんと向こうへの帰り道わかるよね」
「そりゃそうだろ。後顧の憂いはお前が絶ってきたわけだし、きちんと迎え火、送り火焚いてもらってる御霊様だろうからな。言っとくけど、今回の件は、だからこそその程度で済んでるんだぞ」
「なら、いいんだけど」
僕はまだ半分ほど冷たい緑茶が残ったペットボトルを目の上に当てた。知らないまま、あちら側の人と関わった日は、いつも夜になると微熱が出る。今日ももうその兆候が出始めていた。
ペットボトルの水滴がひんやりとまぶたを濡らす。
僕はそのまぶたの裏に、星がいっぱいに散らばった、宇宙の道を思い浮かべた。家の人が用意した送り火のもとでナスでできた牛に乗り込んだら、そのゆったりした歩みにのんびりと揺られながら、こちらでのお土産話をたくさん持って、佐藤さんのおばあちゃんも、あの小さな女の子も、星の海の向こうへ帰るのだろう。
その帰り道が、心穏やかなものであればいい。
「この後、大沼の白鷺農園さんから玄米が届くから、倉庫に積み込んでくれ。伝票入力の時、冷蔵温度の管理記録もちゃんとつけろよ」
米穀店モードに切り替わった曽根に、わかった、と返事をして、僕は腰を上げ、二人分のおやつのごみを片付けた。
水羊羹の容器も、ほんのり結露していた。
二つくれた、冷えた水羊羹。僕にこれを渡したとき、フクエ先生は、きっと、曽根のことも想っていたのだろう。
きっと、いくつになっても、こんなごつい見た目のいい大人になっても、やはり小学生のころから面倒を見た弟子はかわいいのじゃないか。
せめてもの心づくしに、冷やしてくれたのだろうか。
曽根にそう言おうかと思ったけれど、少し考えて僕は口をつぐんだ。彼はきっと、そんなこと、とっくにわかっているだろうから。
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