聖騎士の心臓 ―侵食―
◆◇◆
謁見の間の高い天井に、説明を、というライラの声が響いた。
はい、と返事をしたのは、月虹騎士団団長のアーヴィンだ。パチリと指を鳴らすと、巻物状の紙が現れた。留めていた紐がひとりでに解かれ、アーヴィンの眼前に開かれた。
「大陸中に蔓延した『渡り鳥病』についてでございます。この病の症例は、クレイスト大陸の創世より存在しなかった新種の病であると結論づけてよいでしょう」
ゆったりとした、しかし明瞭なアーヴィンの説明を聞いたレオンハルトは、口覆の下で唇を噛んだ。
今年の春から流行り始めたこの病によって、世界の暮らしが大きく変わった。人々は口覆が手放せなくなり、病気を運ぶのが鳥だと分かると棒を持って追い立てるようになった。ブランシェールでは忌鳥灯が焚かれるようになり、白亜の街は灰色に煤けた。
神殿としても、この病の収束に尽力している。だが、感染の速さに医療の手が回っていないのが現状だ。レオンハルトはアーヴィンの隣で跪く、白夜騎士団団長のマルグリット・エルヴェシウスに目を向けた。
「エルヴェシウス卿、重症の患者は今、神殿の病床にどれくらいいる?」
「はい……現在は四百五十人を超しております。神殿の治療室にある寝台だけでは足りぬため、療養院の方にも協力して頂き、病床を増やして対応しておりますが……それもじきに限界がくるかと。ブランシェールだけでも、患者は千人を超しておりますから」
伏せられたマルグリットの瞳から、雫がひと筋こぼれ落ちる。彼女は医療騎士をであり、治療室で患者を癒やしながら『渡り鳥病』の研究も行っている。進まない研究と増え続ける患者に、彼女も心を痛めているのだ。
レオンハルトはマルグリットの名を呼びながら、肩に優しく手を乗せた。
「貴卿は本当によくやってくれていると思う。死者も出していないし、慈みと施しに救われた者も多いはずさ」
「勿体ないお言葉ですわ、総帥……」
「ほほ……しかし、我らも遂に手掛かりを掴みましたぞ」
アーヴィンが懐から取り出したのは、一枚の紙片だ。二日ほど前、薄明騎士団の玻声雲雀が運んできたもののようで、閃融石による黒い走り書きがあった。団長のヴィンセントから送られてきた手紙だと、アーヴィンは言った。
「どうやら、此度の病は『予言の子』が生きていた世界に存在する病と、酷似しておるようでございます。名を『インフルエンザ』……ほほ、なかなか厳つい名をしておるのぅ」
『ヨスガ様がいた世界の病、ですか?』
「然らば、巫女様にお願い奉りまする。黄昏の女神様の境界を渡りたる御力にて、彼の病についての情報を集めたく思いまする」
『えぇ、もちろんです。愛する黄昏の民のためならば、女神様もお応えくださるでしょう』
ライラの持つ鏡が、強い黄昏色の光を放つ。彼女の周囲で魔力が渦巻き、鏡に収束していく。
レオンハルトがこの総毛立つような魔力の奔流を見るのは三度目だ。一度目は、まだ総帥になっていなかった若騎士の頃、生まれたばかりのヨスガを異世界へ送るために。二度目はその異世界からヨスガを呼び戻した時だ。
かなり精神と体力を消耗するが、女神の力を行使することは巫女にしか許されておらず、アーヴィンですら手助けすることはできない。
レオンハルトは光が収まり、数冊の本が床に落ちるまで、息を詰めて見守っていた。
アーヴィンが一冊を魔法で浮かせ、眼前で様々な角度に傾ける。
「ほぅ、これは見たことのない文字と素材ですな。紙質は柔らかであるのに強靭で、とても白い」
『ヨスガ様がいた世界……「チキュウ」と呼ばれる場所より、女神様が取寄せました。文字に関しては、既に調律魔法を施しております。文字は魔力で翻訳いたしましたから、エルヴェシウス卿も指を翳せば読めると思いますよ』
「あぁ、感謝いたしますわ、女神様、巫女様。お慈悲に報いるため、必ずや苦しむ民を救いましょう」
マルグリットがはらはらと涙を流しながら、本を抱き締める。
レオンハルトもまた、分厚い一冊を手に取った。整然と並んだ短い直線や曲線で構成された『あちらの文字』の上に、クラル文字が滲むように浮き上がった。学術書のような小難しい言葉が紙にびっしりと並んだ様子に、レオンハルトはクラクラと眩暈がした。読めるけれど、読めない。理解をレオンハルトの頭が拒んでいるのだ。二枚すら紙を捲ることができず、早々に本を閉じた。
「こ、これは俺の役目ではなさそうだ。無理! 読みたくない!」
「ほほほ! 読む限り、かなり進歩した医学書のようですからな。総帥は総帥の出来ることをやりなされ」
「――しかし、何故、異なる世界の病がクレイスト大陸にあるのでしょうか」
頬の雫を拭いながら、マルグリットが呟く。
レオンハルトは口覆の裾を摘まみながら、視線を天井に向けて考えた。
「考えたくはないけど、ヨスガくんを呼び寄せた時に持ち込まれてしまったとか? けれど、あれから二年は経っているからなぁ……」
「可能性としては捨てきれん。病とは、長い時間をかけて変容するものもあるからな。ヒトから鳥に伝染り、形を変えてまたヒトに戻ってきたのやもしれぬ」
『……もしくは、もたらされたのかもしれません』
ライラの声が静かに響いた。
『この病、恐らく宵闇の魔人らによって異世界からもたらされたのでしょう。すぐに殺せる毒ではなく、病を持ち込んだ理由は分かりかねますが……』
「病で殺す気はあったのやもしれませぬな。毒によって一度に大量の人々が死ねば、いくら学のない子供でもおかしいと気づき警戒するじゃろう。病で少しずつ殺していけば、対策も遅らせることができる。これらの本には、インフルエンザなる病で夥しい人間が死亡したことも書かれておりまする。こちらの世界で比較的軽症で済んでおる理由は……儂の予想となりますが、体の構成や魔力の有無と考えまする」
「そういえば、ヨスガくんがいた世界では魔法がないと聞いたな。人々の体には魔力が巡っていないと。俺たちはそのお陰で死ぬまではしなかったのか」
「とはいえ、我らを病身にし、力を削ぐことに成功はしたでしょうな。民衆は混乱し、分断も起きたことで、神殿に不信感を持つ者は確実に増えたことでしょう」
重く、沈痛な吐息がライラから聞こえ、レオンハルトは乱雑に頭を掻いた。
民衆の雰囲気は、レオンハルトも肌で感じていた。まだ病に名前がつけられていなかった頃、『小粋な風漢レオンベール』としてブランシェールに出たが、街はひどく不安定だった。人々の心は平静を装いながらも、ほんの少しの刺激で罅割れて砕け散る、薄氷で覆われているような気がした。それは日を追うごとに薄くなり、やがて真偽不明の噂が飛び交い、諍いが多くなっていった。
宵闇の勢力が何を考えて病を流行らせたかは知らないが、平和で協調性のあった人々の心は、一年足らずで不安と猜疑に歪められてしまったのだ。ここまで民の心を乱れさせてしまったのは、対応が後手に回りがちだった神殿と聖騎士の不手際に他ならない。
『宵闇の者共は、ヨスガ様を襲うために世界の境界を越えました。邪神も創世神ですから、その力があることは分かります。しかし、本来ならば神との仲介役である巫女がおらねば、力を行使することはできません。……見つけたのかもしれません。黄昏の巫女と対を成す、宵闇の巫女を……』
「……初耳ですわ、巫女様。宵闇の巫女など、神話にも記述はなかったはず……」
「エルヴェシウス卿よ、なにも不思議なことはないぞ」
考え込むマルグリットに、アーヴィンが顎髭を梳きながら答えた。
「黄昏と宵闇は表裏一体。光と闇を司りし、双生の神の力を受けるは、巫女と器。黄昏に巫女がおるならば、宵闇に巫女がおったとしても、何ら不思議はない」
「なるほど……シュトラウス卿の言葉は一理あるな」
『いずれにせよ、今は我らができることをいたしましょう。シュトラウス卿、エルヴェシウス卿、この病を鎮静化し、民の不安を取り除いてください』
凛としたライラの言葉に、ふたりは異世界の本を抱え、跪いて了承した。
その時、鳴り響いた『星灯の鐘』と共に、謁見の間の重厚な扉が開かれた。大きな台車を押しながら現れたのは、ヴィンセントだった。
「失礼いたします。薄明騎士団団長、ヴィンセント・セルヴァ・アスクィス、参りました」
『お待ちしていました、アスクィス卿。さすが、時間通りですね。アーディア村の魔物討伐でお疲れのところ、申し訳ありません』
「巫女様の召喚に応じぬ聖騎士などおりませぬ」
「教官、そちらの台車は、一体……?」
レオンハルトは、ヴィンセントが押してきた台車を指さす。両手で抱えられるほどの四角い物体に、麻布が被せられている。ひんやりとした冷気が足首にまとわりついてきたから、氷の塊だろうと察せられるが、何故ヴィンセントがそれを謁見の間に持ち込んできたのかが分からなかった。
ヴィンセントは余裕のある微笑みを浮かべたまま、麻布を取り払う。布の下にあったのは想像通り氷塊であったが、レオンハルトが驚いたのはその中身だ。
黒銀色の毛を持ち、白く濁った眼を見開いた熊の頭が、氷に閉じ込められていた。所々の毛や表皮が剥がれ、赤黒い肉が覗いている。顔の左側には歪な形の黒い花が咲いていた。
「巫女様とシュトラウス卿より指示がありまして、アーディア村から搬送してきました。宵闇の魔物となった錬塊熊です」
「ほぅ、西におる錬塊熊が、アルシエールの川沿いの村に出たのか。ここ四百年ほどなかった現象じゃのう」
「あぁ、悍ましい……酷く淀んだ魔力を感じます……」
忌避感からか、数歩の距離を取るマルグリットとは対照的に、アーヴィンは氷塊の中の熊をまじまじと見ていた。
幻獣が宵闇の魔物に変わることは、レオンハルトも報告で聞いていたから知っているが、実物を見るのは初めてだ。熊の頭は死骸だとひと目で分かるのに、花は枯れることなく生き生きと咲いており、不均衡な不気味さに胸の内がざわめいた。
氷塊の間近で検分していたアーヴィンが、ふむ、と唸った。
「この花は見たことがないのう。黄昏花に似ておるが、花弁の形や枚数が違っておる」
「そうですか……シュトラウス卿もご存じないとなると、困りました。実は、このようなものもありまして」
ヴィンセントが懐から何かを取り出して差し出す。手の上に乗っていたのは、熊に咲いているものと同じ花が象られた、黒い首飾りだ。
「教官、これは?」
「昨年の鳩翔祭で、長期療養室にいた患者が宵闇の魔物になったことがあったでしょう。その者の自宅から見つかったものです」
ヴィンセントの説明によると、神殿に提供してきたのは魔物になった男の妻だという。
男は生まれつき肺に持病があったが、魔導具の工房で真面目に働き、夫婦ふたりで慎ましやかに暮らしていた。だが、男の肺病が悪化したことで仕事もできなくなり、塞ぎこむようになったらしい。
そんな彼が心の拠り所としたのが、ガンヴァルタル救世教団である。男が何を言われたのかは分からないが、人が変わったように前向きになり、仕事も再開できるまで回復した。妻も夫や教団から入信を勧められたが、異様な雰囲気を感じ取り断ったらしい。
「奥方の話では、男は熱心にこの首飾りに祈っていたようです。病が悪化し、神殿の療養室に入ることが決まった時は、ひどく拒絶し暴れたとか。この首飾りは仕事机の引き出しにしまわれていたのを奥方が見つけ、妙に気持ち悪いからと神殿に持ってきたのです」
「ガンヴァルタル救世教団……今、空明騎士団に調査をさせている組織だ」
レオンハルトは、空明騎士団から上がってきた報告書の内容を思い出す。
その教団には、ヴィンセントがルーベンから情報をもらってから二年間ほど調査していた。だが、内偵を得意とする空明騎士団をもってしても、教団については微々たることしか分からなかった。
どんな規模の団体であれ、必ずどこかに集まる機会がある。教団にもそういった場がブランシェールの中にあるはずなのだが、警戒心が強いのかすぐには信用されず、未だに集会所の場所も分かっていない。
「教官は今回の病と魔物化した幻獣の件、ガンヴァルタル救世教団が関与してるとお考えですか?」
「えぇ、恐らく。勘でしかありませんがね」
「神聖なる女神の庭で、邪神を崇めるなど……嘆かわしさに体が震えます。そのような不敬者は全て捕縛し、巫女様の前で改心させてさしあげなくては」
『ほ、ほどほどになさってくださいね、エルヴェシウス卿……』
普段の慈愛に満ちたものではなく、固い毅然とした声で言うマルグリットは、女神に仕える神官として当然の反応であるとレオンハルトも思う。彼女は常々から「女神様に救われている」と言うほど篤い信仰心を持っている。だが、わずかでも女神をないがしろにしようものなら、例え相手が子供であってもこんこんと説教をするのだ。
『信仰というものは、己を律する芯のようなものです。正しき行いをするのならば、祈る対象は黄昏の女神様でなくともいいと、私は思います。――ですが、死すらも弄び、世界を混沌に陥れるつもりであれば、話は別です。レオンハルト総帥、騎士団の皆様、どうか我が憂いを取り除いてください』
「はっ。巫女様の御心の侭に」
レオンハルトが跪くと、アーヴィン、マルグリット、ヴィンセントもそれに倣って膝をついた。
黄昏の巫女は、女神の慈悲と無垢性の象徴だ。だから、聖騎士団に直接「誰かを害せ」という指示はできない。巫女の心中を察し、汲み取って指示を出すのはレオンハルトの仕事だ。
謁見の間から出ようとした時、ヴィンセントが「巫女様」と口を開いた。
「無礼を承知で質問いたします。ブランシェールは、女神様の加護により宵闇の者共は入ることができない絶対的な安息の地でした。しかし、鳩翔祭では士官学校の中で人間が魔物に変わり、氷に閉じ込めてはいますがこの屍骸も形を保っています。これはどういうことか、ご説明頂けますか」
ヴィンセントの声音は率直で明朗だが、言葉はライラを責めるようだ。レオンハルトは思わず、眉間に皺を寄せてしまった。
「教官、それは――」
『それはきっと、私の力が弱まっているからでしょう』
レオンハルトの言葉を遮ったライラの声は、平坦で、あまりにもいつも通りのものだった。彫像の微笑みを崩さないまま、彼女は続ける。
『本来、巫女は十年ほどで代替わりをしますが、私はもう十五年はここに座り続けています。継承の時期は女神様のみが知るところですが、これは大陸が始まって以来、最長の期間です。黄昏の加護の薄れは、継承が近い兆しなのかもしれません』
「ですが、巫女様……アリス様は、まだ……」
マルグリットが逡巡しながら、遠慮がちに言う。彼女の言いたいことは、この場にいる誰もが分かった。
――アリスにはまだ、『紋』が浮かんでいない。
毎日冷たい真水で禊をし、聖堂で祈りを捧げても、巫女の証である『紋』は彼女の手に宿らず、女神の声も聞こえない。開花したのは神域庭園を自由に移動するだけの中途半端な力のみ――誰の目から見ても、アリスはまだ巫女を継承するには未熟だ。
もし、アリスが神託も聞こえず未熟なまま、ライラという柱が崩れてしまったら。考えられる限りの最悪な未来を想像していたレオンハルトの思考を途切れさせたのは、アーヴィンの朗らかな笑い声だった。
「そう難しい顔をするものではない。儂はこれまで、多くの巫女様の継承を見届けてきた。どの娘たちもみな、継承までには素晴らしい巫女にお育ちになられておった。アリス様も時期がくれば『紋』が浮かび、継承が行われるじゃろうて」
『……だと、いいのですが』
「ともかく、魔物の屍骸が残っておるのは貴重じゃ。アスクィス卿、この氷塊は図書館へ運んでくれぬか。色々と調べたいからのう」
「分かりました。巫女様、無礼な振舞いをお許しください」
『構いません、アスクィス卿。これまでなかったことが次々と起こったのですから、貴卿の不審も当然です。アーディアの村では、ヨスガ様は大変素晴らしいご活躍をなさったと聞いております。どうかこのまま、光の溢れる方へ導いてください』
「はい、必ず。我が親羽で守り、薄明に羽ばたかせましょう」
女神様のご加護がありますように、と、穏やかなライラの言葉に見送られ、レオンハルトたちは謁見の間を後にした。
病人を収容している西棟へ向かうマルグリットとは、石扉の前で別れた。熊の頭を乗せた台車を押すヴィンセントと、並んで歩くアーヴィンの後ろを、レオンハルトはただついていく。
不意に、ヴィンセントが足を止めた。レオンハルトはそれに気づくのが一拍遅れ、危うく彼の背中にぶつかりそうになった。
「……教官? どうかなさいましたか」
「揺らいでいますね、総帥」
ずくりと心臓が跳ねる。何ら具体的なことを言われたわけでもないのに、レオンハルトは生唾を呑み込んだ。
上下が貼り付いた唇を剥がし、口角を震わせながら上げた。
「揺らいでいるなど……宵闇の勢力が着実に迫ってきていることは、俺も前々から知って――」
「巫女様――いえ、貴方の妹君のことです。力が弱まっていること、継承が近づいていることを聞いた瞬間、その心は揺らぎましたね、レオンハルト・ノイエンドルフ」
振り向いたヴィンセントの眼光は、氷でできた槍の鋒のように鋭かった。レオンハルトの無意識の奥底に沈んだ本心を、的確に一突きして引きずり出すほどに。
レオンハルトが何かいう前に、ヴィンセントが一歩進み出た。
「十三年前……君が総帥になると言った時、自分で宣言したはずですよ。何事にも揺らがず、運命を受け入れ、兄妹で世界を守ると。それが君たち三人の約束だと」
レオンハルトは無言で手を握りしめる。脳裏によぎるのは、黄昏色の髪を揺らす巫女になる前のライラの微笑みと、冬の澄んだ夜空色の髪を持つ、青年の精悍な面差し。
――ライラが巫女になったら、俺たちは聖騎士になろう。俺たちで大陸と妹を守るんだ。考えただけでも、すごく楽しそうだと思わないか、レオンハルト。
ヴィンセントの言葉にも、頭の奥で思い出された言葉にも、レオンハルトはひとつ頷いた。
「……分かっています。俺は、聖騎士団の総帥です。巫女様を守り、民を守るのが、女神様から課せられた役目。それだけは、決して忘れません」
「ならばよろしいのですが……」
「ほほ、そう若者を虐めるでない、アスクィス。巫女と総帥である前に、唯一の家族であることも変わらぬ事実じゃ。本分さえ忘れなければ、それでいいだけのこと」
アーヴィンに背中を叩かれ、ヴィンセントの眼差しが緩まる。失礼しました、と律儀に頭を下げられ、レオンハルトは首を横に振った。
「いいんです。俺も教官に言われて、改めて気が引き締まりました。ご心配をおかけしてしまい、すみません」
ヴィンセントの視線には、まだ細かい氷の礫が含まれているようだったが、低い『深更の鐘』が鳴り響き、レオンハルトはヴィンセントの横を擦り抜けて台車に手をかけた。
「ほらほら、教官もシュトラウス卿も、コイツを早く運んじゃいましょう。布を被せていますが、誰かに見つかったら大騒ぎされますから」
「――えぇ、そうですね」
「ほほ、やはり若者の力強さは頼りになるのう! ついでに書庫の整理も頼もうかの」
「そ、それはご自分の魔法でできるでしょう!」
アーヴィンの鷹揚な笑い声と、ヴィンセントの刺すような視線を背中に感じながら、レオンハルトは台車を押して廊下を駆けた。
もう隠し通せなくなっているかもしれない――レオンハルトは口覆の下で、唇を強く噛み締める。ほんの少し、鉄の匂いが滲んだ。
泥のように粘つく感情が芽生えたのは、いつのことかはもう覚えていない。少なくとも、兄――前聖騎士団総帥、ランベール・ノイエンドルフが死んだ時には、もう持っていたと思う。その感情の輪郭をはっきりと自覚したのが、葬儀の最中だったから。
――このまま、アリスの巫女としての力が目覚めなければ。
気を抜くと、そんな恐ろしい考えに支配されそうになる。
捨て去らねばならない。こんな賤劣で、醜悪で、穢らわしい心など。レオンハルトは聖騎士団総帥として、妹を守る兄として、相応しくない存在に身を堕とすわけにはいかないのだ。
台車の木製の車輪が石床を転がる音が、月の見えない昏い夜に溶けていく。
例え分厚い雲の向こうに、大きな煌幻月が赫耀と輝いていたとしても、地上にいるレオンハルトたちが気づくことはなかった。




