聖騎士の心臓 ―小鹿と蝙蝠―
◆◇◆
今日もブランシェールでは、忌鳥灯の濃い赤が燃えていた。
秋のブランス広場は、いつもであれば甘い香りに満ちている。あちこちで蜜藷という甘い芋を濾して茶と煮出した、藷温茶が売られるからだ。
だが、今年は『渡り鳥病』が流行ったためか、町中では忌鳥灯が焚かれて黒くて鼻を突く臭いを含んだ煙が上がっている。神殿や聖騎士がそうしろと言ったわけではない。ブランシェールの住民たちが自主的に焚いているのだ。
口覆は、病の感染だけでなくこの煙を吸わないようにするためにもなった。息苦しいが、その方が都合がいい――イヴァンはそう考えながら、人波を縫ってブランス広場の噴水に近づいていく。
見つめる先には、赤茶の髪を編み、花を飾った少女がいた。露店の間に挟まるようにして、自作なのか不格好な口覆や布製品を売っている。
「……君」
「あ、いらっしゃいませ!」
イヴァンが声をかけると、少女は若草色の瞳を細めた。
ただ微笑みかけられた――それだけで、イヴァンの胸の内で小石が転がる。心臓の中を跳ね回るように転がっては、鼓動を速くさせるのだ。
彼女と出会ったのは、去年の冬。鳩翔祭で使う帯紐を、馬車の前に飛び出してきた彼女から買った時だ。結局、あの美しい刺繍が入った帯紐は花飾りには使わなかった。綺麗すぎて、自分の手の中に留めておきたい――級友たちには渡したくないと思ってしまったのだ。
イヴァンは口の中で言葉を噛みながら、少女の持つ籠を指差した。
「それ、もらえるかな」
「あ、はい。口覆ですか、手巾ですか?」
「……全部。その籠の中、あるだけ全部ほしい」
イヴァンの要求に、少女は目をまん丸にして「えっ」と驚いた。無理もない反応だ。何せ、イヴァンは三日前にも同じことを少女に言ったのだから。
口覆など、洗い替えも含めて五枚あれば十分だ。しかし、イヴァンはこれまで数十枚は買っている。そして今日もまた十枚買うというのだから、少女が不審に思っても仕方がない。
イヴァンは己の髪をさっと撫でつけた。
「君も知っているだろうが、僕は貴族だ。このご時世、家で働く者だけじゃなく、商会や工場で働く者にも口覆の着用を徹底しなければならない。だから数が必要なのさ」
「そうなんですね。でも、子供のわたしが作った不格好な物で、本当にいいんですか?」
「使えれば何でもいい」
思わず突き放すような言い方になってしまい、イヴァンは内心でわずかに焦りながら視線だけを少女に向けた。彼女はしっかりと受け止めてしまったらしい。少しだけ俯いてしまった。
自分の言葉が少女を傷つけてしまったという事実に、何故かどうしようもなく焦る。体中からチクチクと針を刺されているような感覚までしてきて、イヴァンはひとつ咳払いをした。
「き、君の作るものは、大人にも劣らないということだ。その年齢でこれほどのものを作れるのなら、小さな仕立て屋よりも工場で働いた方が稼げると思うんだが。ここから北東に、エリフェという街がある。アルシエール地方で一番大きな縫製工場があって、安定した給金ももらえるはずさ。もし君にその気があるなら、僕から話を通してもいいんだけど」
「……ありがたいお言葉ですが、わたしは街を離れるわけにはいきません。母が病気で寝たきりなので、長距離を引っ越すこともできないんです」
申し訳ありません、と少女が頭を下げる。
いつもなら断られたことに怒りを覚えていただろうが、身内に病気の者がいるということが、イヴァンに親近感を抱かせた。
「そうか……なら、仕方がないな」
「本当に、申し訳ありません。お貴族様からのお慈悲を、わたしのような者が断るなんて、失礼なことだとは思うのですが……」
「いや、いいんだ。事情があるのだからね。ご病気なのは、お母上だけかい? お父上は?」
「父は六年ほど前に出稼ぎに出たきり、帰ってこないんです」
「出稼ぎ……どこへ?」
「確か、手紙には『レイアール鉱山に行く』と。もう四年くらい連絡がないので、今はどこにいるのか……」
少女が口にした山の名前に、イヴァンは聞き覚えがなく首を傾げた。
貧民の出稼ぎ先は、大体は鉱山か海と決まっている。過酷な肉体労働な上に就労期間は短く、賃金はかなり少ない。家族へ仕送りをすれば自分が帰る金がなくなるため、次から次へと仕事を渡り歩くのだ。
恐らく、少女の父親もその手合いだろう。出稼ぎ用の求人は商会が出しているから、帳簿を取り寄せ、名前を辿れば今どこで働いているのか分かるはずだ。
「君のお父上の名前は? 僕の家は……まぁ、少しは顔が利くからね。探すだけ探してあげるよ」
「えぇっ!? ど、どうして……お忙しいお貴族様に、そのようなことをして頂くわけには……」
「理由が必要かい? 富める者が貧する者に施すのは当然のことだろう」
貴族としての模範解答を口にしたが、本心は別にあることはイヴァンも自覚していた。だが、その本心がどこにあるのか、どんな形をしているのかは、輪郭すら分からない。
少女は戸惑いを顔に浮かべながら考えていたが、小さく口を開いた。
「パトリックといいます。わたしの父は、パトリック・シュティールです」
「パトリック・シュティール……分かった、僕のできる限りで探しておくよ」
「……ありがとう、ございます」
少女の表情が、安心したように綻ぶ。目元しか見えていないが、きっと可憐な笑顔なのだろう。
庶民にただ微笑まれただけ――だというのに、イヴァンの胸に藷温茶でも飲んだような、温かなものが広がる。不快には感じないのに、今すぐこの場から立ち去りたくなった。
イヴァンは押し付けるように硬貨を渡し、口覆や手巾を受け取っる。漆黒の外套を翻し、足早にブランス広場を出た。
衆目につかぬよう路地の影に待たせていた馬車に乗り込み、馭者に「出せ」と短く命じる。馬車に揺られながら、使用人に差し出された茶を飲む。
職業体験期間の間、毎日のようにイヴァンがブランス広場へ行き、大量の布製品を買ってくることに、使用人たちは何も言わない。口出しをして、処罰されることを恐れているからだ。そのようなことをする意思などイヴァンにはないが、煩わしいことを言われないから好都合ではある。
「おい」
イヴァンが声をかけると、使用人は大袈裟に肩を震わせた。
「は、はい……」
「お父様はいかがお過ごしだ」
「だ、旦那様は、奥様の看病をなさっております」
――つまり、地下室に籠ったままということだ。
イヴァンは小さく息を吐いて、そうか、とだけ返した。
どうやら、使用人たちはエヴグラーフにイヴァンの行動は知らせていないようだ。もし父に知られたら、貴族として庶民に慈悲を施していたとか、使用人のために口覆を補充していたと言い訳しようと思っていた。実際、買った口覆も手巾もカディルヴァーレ家で消費しているのだから、嘘は言っていない。
使用人がイヴァンの顔を伺うように、あの、と声をかけてきた。
「本日も、夜会の招待状が届いておりますが……」
「どこからだ」
「エンリケス家、コリベール家、ルールフィンク家です」
「全て断れ。理由は急病でも多忙でも、適当でいい」
「し、しかしイヴァン様……」
「なんだ」
イヴァンが横目でじろりと睨むと、狐の獣人の使用人が三角の耳をぺたりと伏せて口を噤んだ。
彼が何を言いたいのかは分かる。
イヴァンは士官学校を卒業したら商会を継ぐことになっている。本来ならばこの職業体験期間中に許嫁を探すのだが、エヴグラーフが母の看病にかかりきりになっているため、イヴァンが自分で全てを行わねばならない。
仕立て屋を呼んで夜会服を準備し、綺羅びやかなだけの夜会に参加し、着飾った姦しい女のご機嫌をとる。それが家を繁栄させるために不可欠なのだとしても、考えただけでげんなりとしてしまう。
妻にするならばもっと素朴な、常に自分より半歩後ろで支えてくれるような女がいい。それこそ、己のためだけに咲いてくれる花のような女。父と母のように、互いの愛を疑わない夫婦になりたいのだ。
やがて馬車はカディルヴァーレ家の屋敷に着いた。老齢の鷲鼻の男――家令のドミニクが恭しく一礼して出迎えた。
「お帰りなさいませ、イヴァン坊ちゃま」
あぁ、と短く返事をして、イヴァンは買った口覆などをドミニクに渡した。
彼は片眉をわずかに跳ね上げたが、何も言わずに受け取った。カディルヴァーレ家の使用人の中で最長勤務歴があるドミニクは、唯一エヴグラーフに意見をしても許される存在だ。しかし、偏執を止めることまではしない。彼は良くも悪くも、主人と使用人という境界を超えることはしないのだ。
イヴァンは外套を脱ぎ、女の使用人に渡す。噎せそうになるほど香辛料を含んだ、忌鳥灯の煙の臭いが周囲に舞った。
ドミニクが鼻の頭にくしゃりと皺を寄せ、口元を手で覆った。
「酷い臭いでございますな……。外に洗濯物が干せないと、使用人らも嘆いておりました」
「仕方がない、使っていない客間にでも干しておけ。香を焚き込め、乾燥用の魔導具を使うことも忘れるなよ」
「かしこまりました」
「使用人には口覆の着用も徹底させろ。煩わしいが、屋敷の中で病をばらまかれては困る。万が一、父上や母上に伝染りでもしたら大ごとだ」
「ほほ……我がカディルヴァーレ家は心配ありませんよ」
「ドミニク、なぜそう言い切れる?」
イヴァンがドミニクを仰ぎ見ると、彼は口の端を弧月のように吊り上げて笑った。
「これは我らが神からの試練なのですよ、坊ちゃま。神が救うべき正しき信仰心を持つ者を、選定するための試練なのです。宵闇の神に忠誠を誓っていれば、この病に罹ることはありません」
「な、にを、言って……。ドミニク、そのようなこと、誰から聞いた?」
「旦那様です」
ドミニクの一切の温度のない声に、イヴァンは寒気を覚えた。生まれた時から共にいるこの家令が、まったくの別人のように見えて恐ろしさすら感じる。
ドミニクが服の中から引き出したのは、歪な花弁の黒い花――宵影花が象られた首飾りだ。同じ物はイヴァンも、そしてカディルヴァーレで働く使用人たちも持っている。宵闇の邪神、ウェルクルスを信仰するガンヴァルタル救世教団の団員である証だ。
イヴァンは服越しに己の胸元に下げられた首飾りを握る。
最初にエヴグラーフからこれを渡された時、誇らしかった。認められた者にしか渡さないものだ、カディルヴァーレ家の『奇跡の子』に相応しいと言われ、舞い上がる心地だった。
だが、今は疑念を抱いている。去年の秋、山中生存試験で魔人に襲われた時、イヴァンは教団の首飾りを魔人に示した。 ガンヴァルタル救世教団は、宵闇の邪神ウェルクルスがもたらす滅びの先で、より神に近い新たな存在として転生することが約束されている。宵闇の魔人とも協力関係を結んでおり、教団の証を持っていれば魔物にも魔人にも襲われることはないと聞いていた。
だというのに、ザルイードという魔人はイヴァンを殺そうとした。教団内で大司祭の地位にいるエヴグラーフの息子であるイヴァンに、迷いなく凶器の腕を振り下ろしてきたのだ。
あの時、ヨスガが自分を助けていなければ、己はこの場にいない。敵であるはずの『黄昏の器』に命を助けられ、味方であるはずの魔人には殺されかけた。
――父を信じたい。だが、本当に信じて良いのか、分からない。
イヴァンの胸の奥に落とされた疑念の種は、芽吹き、徐々に育っていく。それから目を背けるように、イヴァンは熱に浮かされたような表情のドミニクを呼んだ。
「少し、調べてほしいことがある。レイアール鉱山を知っているか」
「レイアール鉱山……えぇ、もちろん。セルザヴァン地方の北東にある、小さな炭鉱です」
「どこの商会が所有しているかも分かるか」
「当然でございます。カディルヴァーレ商会の傘下にある、レストン商会が所有しておりましたから。採掘された魔鉱石などは、商会でも取り扱っておりました」
「そうか……! なら、雇われていた炭鉱夫たちの名簿も取寄せられるか?」
イヴァンは声を弾ませて尋ねた。日雇い労働者を調べるのは骨が折れると思っていたが、カディルヴァーレ家と縁があるのならば早く済みそうだ。
反対に、ドミニクは怪訝な表情で首をかしげた。
「坊ちゃま、何故あのような山のことをお聞きに?」
「そ、れは……ええと……」
イヴァンは口をまごつかせる。正直に貧民の少女の父親を探したいと言うのは、何にも代えがたいくらい恥ずかしかった。だからといって別の理由を用意していたわけでもなかったから、急いで頭を巡らせる。
イヴァンが嘘の理由を用立てる前に、ドミニクが朗らかに笑った。
「坊ちゃま、あの山についてお調べしても、あまり意味はないと思いますよ。もう廃坑となっておりますから」
「廃坑……? もう閉じた山なのか?」
「えぇ。四年ほど前のことでしょうか……大規模な落盤事故があり、閉じざるを得なかったのです」
「事故だと? なら、そこで働いていた者たちはどうなった!?」
イヴァンの問いに、ドミニクは小さく唸って顎髭を撫でた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「恐らくは……『中』かと」
「は……?」
「事故で多数の労働者が生き埋めとなりましたが、レストン商会はすぐに鉱山を閉鎖したのです」
レイアール鉱山は、小さいながらも魔力を潤沢に内包した魔鉱石が採掘される山として有名だった。落盤事故の原因は、採掘用の工具についていた魔鉱石が反発して起きたことらしい。レストン商会は多くの出稼ぎ労働者や日雇い労働者を使って作業をしていたが、大半が落盤に巻き込まれたようだ。
救出を試みようとしたが、採掘された魔鉱石などが更に反発し、被害が拡大する可能性もあったことから、レストン商会は早々に救出を打ち切った。従事していた労働者たちには天涯孤独の者や身分を詐称している者も多くいたため、己の死を誰にも知られないまま山の中に放置されているのだ。
ドミニクが淡々と語った内容を、イヴァンは置物のように聞くしかなかった。
少女は父からの便りが四年前に途切れたと言っていた。そして、レイアール鉱山の事故も四年前――イヴァンの頭の中で、嫌な予感が繋がっていく。
「い、いくら危険があるとしても、人命救助はしなければいけないだろう! レストン商会の者たちは、誰の指示でそのような判断を……」
「旦那様です」
ドミニクの言葉が、廊下に冷たく響いた。
「レストン商会は、カディルヴァーレ家の傘下にあります。レイアール鉱山の閉山と救出作業の停止は、エヴグラーフ様が命じたことです」
「う、嘘だ……お優しいお父様が、そのようなことを言うはずが……」
「旦那様はイヴァン様のお父上である前に、カディルヴァーレ商会の会長でもあります。どれだけ豪華に織られた布も、ひとつの綻びで大きく価値が下がるもの。事故が起きた鉱山など、カディルヴァーレ商会にとっては負債でしかありません」
イヴァンは全身の髄まで凍りついたような心地だった。目の前の男が恐ろしい。見た目は物心ついた時から面倒を見てくれた家令なのに、中身はまったくの別人に見える。
彼も変わってしまったというのだろうか。救世教団に入り、宵影花の首飾りを受け取ったから。
「坊ちゃん、いかがいたしましょうか」
「あ……な、何がだ……」
「レイアール鉱山の帳簿や労働者名簿です。事故の後にレストン商会から引き揚げたものが、カディルヴァーレ商会の書庫にあります。ご希望でしたら、取寄せますが」
ドミニクの語調には、どこか呆れが滲んでいた。子供の我儘に、仕方なく付き合うような色だ。
イヴァンは震えるように首を横に振った。
「……不要だ。僕は部屋で休む。夕食まで勉強をするから、誰も部屋に近寄らせるな」
「かしこまりました」
イヴァンはドミニクから逃げるように、自室へ飛び込んだ。
知らず、呼吸が荒くなる。寝台の上に寝転がり、顔を手で覆った。
名簿を確認しなければ真偽など分からないことは分かっている。しかし、イヴァンの心は事実の重さに挫けてしまった。
もし、労働者名簿に『パトリック・シュティール』の名前があり、就労期間満了の言葉がなかったとしたら――少女の父親を、イヴァンの父が見殺しにしたことが決定してしまう。
罪悪感とは、氷でできた蛇に心臓を噛まれているようだ。
暖炉には火が入れられて暖かいはずなのに、イヴァンの体はずっと、小さな震えが止まらなかった。




