聖騎士の心臓 ―夕冷え―
◆◇◆
「碧天騎士団の皆様。ご指導、ありがとうございました」
クローリアは碧天騎士団の魔導具製作室の前で、深々と頭を下げると、目の前の男騎士が狼狽えた。第三師団長で年齢も二回り以上離れているというのに、体験入団の間、ずっと彼は恐縮しきりだった。
教師棟にいるハインケル教師に報告と書類提出を済ませると、テオもほんの少し前に報告に来たらしい。
『親羽根の手紙』に従い、テオは空明騎士団に入った。体験入団の期間中、彼がクローリアの傍についているのは登校までの朝と下校からの夜だけである。空明へ行け、己と離れろと言っておきながら、身勝手にも隣の空白に寂しさを覚えてしまった。
思い返せば、テオとは生まれた頃から主従関係だ。クローリアを中心とするよう周囲から作り上げられた彼の世界を壊すのは、少々酷だったかもしれない。だが、大人になり騎士団に入れば、きっとこの距離も当たり前のものになっていくのだろう。その練習だと思うことにした。
「クローリア!」
昇降口へと向かい、廊下を歩いていると、溌溂とした声に呼び止められた。振り向けば、夕日を受けて濃い朱色に染まった髪を揺らしたシャロンが、跳ねるように駆け寄ってきた。
「お疲れ様! 報告書、出してきた?」
「えぇ、たった今」
「あたしもさっき出してきたトコ! あーあ、ついに終わっちゃったなぁ、体験期間。クローリアは碧天だっけ。どうだった?」
「大変貴重な経験でしたわ。たくさんの魔導具にも触れましたし」
体験入団の間、クローリアは碧天騎士団で魔導具の手入れや倉庫の整理を行っていた。騎士団で使用する魔導具は多種多様で、何に使うか見当もつかないものもあれば、大の男が三人がかりで持つ大盾のようなものもあった。碧天の騎士からは筆頭貴族の令嬢に倉庫の整理はさせられないと言われたが、クローリアは率先して倉庫へと入っていった。ほとんど意地である。初日に己は一介の生徒なのだから、遠慮せずに雑用を何でも頼めと伝えたのに、どこまでも家名がついて回ることが腹立たしかった。
「シャロンさんは烈日でしたわね。魔力の使い方、何か分かりましたの?」
「ぜーんぜん。毎日武器磨きと、筋力増強の基礎運動ばっかりだったな。演習も遠くから見てるだけだったし」
シャロンががっくりと肩を落とす。
クローリアも時折演習場で騎士の稽古を見せてもらうことがあったが、武器は振るわなかった。最初はクローリアが怪我をすることを恐れての措置かと考えたが、碧天よりも武を誇る烈日に入ったシャロンも見学していたのであれば、学校と騎士団の方針だったのだろう。
互いに騎士団で体験したことを話していると、突然頭上から小さく火が爆ぜる音と、たくさん花弁が降ってきた。クローリアとシャロンが驚いて振り向くと、数歩後ろに悪戯が成功して手を合わせて喜ぶ双子の姿があった。
クローリアは腰に手を当て、こら、と鋭く声を上げた。
「驚かせないでくださいまし、オーフェルベック兄妹!」
「どう? ティーナとヴィータの最新作『お祝い花火ちゃん』よ!」
「職業体験先で作ったんだ。花弁や紙と小粒の火の魔鉱石を粘土でくるんで、魔力を込めて投げると音と一緒にばらまかれるんだよ。ヨスガの世界にあった『くらっかー』とかいうものを参考にしてみたんだ」
「はいはい、スゴいスゴい。花弁の片づけはアンタたちでやりなさいよね」
双子は不服そうな声を上げるも、渋々しゃがんで廊下に散らばった花弁を集めていく。
悪戯をしかけてくる者など、今まで自分の周囲にはいなかった存在だ。迷惑をかけられても憎めないのは、双子の愛嬌にクローリアもほだされているからだろう。結局、クローリアとシャロンも加わり四人で廊下を掃除した。
「アンタたち、今ここにテオがいなくてよかったわね。『クローリア様に何をするー!』って怒鳴られてたわよ」
「う……確かに……」
「てか、テオが隣にいないの、珍しいね。一緒に体験入団しなかったんだ」
「えぇ。彼には空明騎士団からの勧誘がありましたから。わたくしは碧天へ行っていたんです」
「碧天騎士団!」
双子が同時に、色違いの目を輝かせた。
興奮したふたりの話をまとめると、職業体験で双子が世話になった魔導具の工房は碧天騎士団とも懇意であるらしい。魔導具職人にとって、碧天騎士団に認められるものを作ることは冠姓を戴くことと同等の誉れであるという。
「そういえば、騎士団ではおふたりのことをよく聞かれましたわ。将来有望な職人兄妹、オーフェルベック兄妹は騎士団に入らないのかと」
「え、アンタたちって結構有名なの?」
「まぁね~。実は昔、ブランシェールの魔導具品評会で一等を取ったことがあるのよ」
「その時作ったのが、この『いつでもお話くん』さ!」
ヴィータが鞄の中から取り出したのは、小さな手鏡のような魔導具だ。顔を映す水影晶ではなく土と風の魔鉱石を嵌め込んだそれは、双子が寄宿舎で部屋が離れてもおしゃべりができるように持ち込んだものだ。
品評会で評価された時はブランス広場の噴水と端までしか声を届けられなかったが、士官学校入学を機に改良したという。今ならばブランシェールの半径ほど離れていても会話は可能だと、双子は胸を張った。
「団員の方から聞いたのですが、そちらの魔導具をバルヒェット団長が大層褒めていたそうですわ。似たようなものを碧天でも作れないか、今も研究中みたいですの。実用化できれば、戦場での伝令も短縮できる優れものになると」
「そういえば、見学に行った時もアンタたちの進路を確認されたわね。就職希望だって伝えたら落胆してたわ。騎士団から腕のいい魔導具職人が減ってるって言ってたし」
「それは嬉しいけど……ティーナたちには、ちょっと困るな」
「あら、どうしてですの?」
クローリアは首を傾げる。聖騎士団の団長、しかも滅多に褒めることをしないエーリッヒに認められたということは、誇らしいことであるはずだ。だが、ティーナの表情はいまいち晴れない。
「ティーナたちは、誰かを傷つけることに魔導具を使いたくないの。もちろん、身を守るためとか、どうしても必要な場面があることは理解してるわ。それでも、自分たちが作ったものが、戦いの道具になるのは嫌なの」
「ヴィータたちのお祖父ちゃんも、魔導具職人だったんだ」
ヴィータとティーナが生まれた頃には、祖父のギャレルは既に故人だった。
ギャレルについては、両親や祖母の口は重かったが「腕のいい魔導具職人だった」と教えてくれた。詳しく知ったのは、ふたりが品評会で優等賞を取った時である。
ブランシェールで工房を営んでいたギャレルの代表作は、金属の加工をしやすくする壺だった。火と水と土の魔鉱石を使い、本来ならば高温の炎に三日入れなければ柔らかくならない金属すらも一日で加工可能にする優れものだ。形を作った後に再度壺に入れれば、固めることができる。画期的だと騎士団へもたくさん納入したらしい。
しかし、誰にでも使いやすくしすぎた弊害か、無断で合鍵を作る泥棒や粗悪な工芸品を大量生産する詐欺師が現われるようになった。幼い子供が大人の真似をして短剣を作ってしまい、扱いを誤って自らの喉を刺して死亡してしまうという事故も起きた。ギャレルは犯罪や悲しい事故に己の魔導具が関わっていることを嘆き、壺の製作中止を自ら神殿へ提言し、南の故郷へ戻っていったという。
「お祖父ちゃんが亡くなったのは、ティーナたちが生まれる一年くらい前なんだけど……最期まで壺を作ったことを後悔してたみたい。だから、ティーナたちが魔導具職人になるって言った時、絶対に誰かを傷つけるものを作ってはいけないよって、お祖母ちゃんに言われたの」
「そんなの、使う側の問題じゃない。ティーナたちのお祖父さんって、責任感の強い方だったのね」
「そう。職人は作るだけが仕事じゃないわ。自分たちが作った物への責任は、売れたら終わりじゃないのよ。だから、士官学校には通ってるし騎士団にも悪い感情はないけど、最初から傷つける目的の魔導具は作りたくないんだ。ね、ヴィータ」
「あ……うん、そうだね」
頷くヴィータの様子は、どこか上の空のようにクローリアには見えた。
エーリッヒに褒められたからだろうかと思っていると、背後から逼迫したこえをかけられた。振り向くと、テオが息を切らせて柱の影から走り出てきた。
「クローリア様……!」
「テオ? どうしたんですの、そんなに慌てて……」
「すぐ屋敷へお戻りください……旦那様が例の病に罹られたと、先程連絡が……!」
「は……?」
クローリアは、テオの言葉の意味が分からなかった。――いや、頭が理解を拒否しているのだ。なにせ、クローリアの脳裏には朝に登校の挨拶をした時の父の姿がはっきりと思い出せるのだ。
シャロンに肩を叩かれて、クローリアは目覚めるように現実に引き戻される。
「例の病って……『渡り鳥病』? 大変じゃない、早く帰ってあげて、クローリア!」
「え……えぇ、そうですわね。ごめんなさい皆様、わたくしは失礼しますわ」
お大事に、と双子からも労りの言葉をもらい、クローリアはテオを伴って早足で学校を後にした。
正門前につけた馬車に乗り込むと同時に、馬が進み出す。いつもは安全を考えて徒歩よりも少し早い程度の速度で馬を歩かせるが、今は駆け足気味だ。
揺れる馬車の中、クローリアはテオに届いた手紙の内容を確認する。送り主は家令のマティアスで、当主が急病のためクローリアとすぐ帰還するようにとだけ書かれていた。普段は冷静沈着な彼も少々焦りがあったのか、字が少々斜めになっている。
クローリアは腹の底に淀む不安を押し出すように、長く息を吐いた。その眼前に、湯気の揺れる小杯が差し出される。テオが馬車に備え付けの茶器から、蒸し香茶を淹れてくれたのだ。
「どうぞ、クローリア様」
「ありがとう。……駄目ですわね、わたくし。筆頭貴族の令嬢として、常に泰然としていなければならないというのに……」
「旦那様は、クローリア様のたったひとりのご家族です……心乱れるのは、当然かと」
「屋敷に帰ったら、すぐにお父様のご容態を確認しましょう。それから、マティアスと共に使用人の勤務調整をしなくては。『渡り鳥病』は同じ魔力を持つ者に感染しやすいといいます。しばらくは、わたくしもお父様の寝所へは近づけませんわね」
花蜜をひと匙落とした香茶をひと口啜ると、頭の奥がスッと冴えていくのを感じる。父の病状は不安だが、今ここでクローリアがどれだけ気を揉んだとしても病が快癒するわけがない。
沸々と湧き出す後ろ向きな思考を押し留めるように、クローリアは香茶をひと息で飲み干した。眉間を指で揉む。皺を寄せて悪い想像ばかりをしていると、頭の中で『彼』に笑われた気がした。
やがて馬車はシェーンローデル家の門を潜った。赤い花が咲く、綺麗に刈り揃えられた植栽に挟まれた広大な庭園を横切り、玄関先で馬車が止まると同時にクローリアは飛び出すように降りた。
広間に入ると、使用人たちが一斉に礼をした。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただ今帰りましたわ。マティアスはどこですの?」
「――こちらに」
柱の影が波打ち、竜人族にしては長身痩躯の壮年の男が現れた。銀翠色の鱗に覆われた尾を持つ彼は、テオの父である家令のマティアスだ。
マティアスは恭しく腰を折って頭を下げた。
「お帰りを急かしてしまい、申し訳ございません、お嬢様。ご学友の方々とご歓談中でありましたでしょう」
「気を遣わせてしまいましたが、それくらいで腹を立てるような狭量な方々ではありませんわ。それよりマティアス、お父様は?」
「寝所にてお休みになっております。――どうぞ、こちらへ」
促しつつも、マティアスの姿は一瞬で影に溶けて、階段の上に立っていた。クローリアも階段を駆け上がり、影の上を滑るように歩くマティアスを追う。いつも通っている我が家の廊下なのに、今はいやに長く感じた。
クローリアが三階にある父の寝所の扉を開けようとした時、マティアスに止められた。
「お嬢様、口覆を……貴女様まで伏せることになっては大変です」
「えぇ、そうね。テオ、あなたもここにいなさい。わたくしも長居はしないようにしますから」
「はい」
マティアスとテオを廊下に残し、クローリアは扉を開けた。
秋の涼やかで柔らかな風が吹き込んでくる。換気のために窓を開けているのだ。風で揺れる窓幕の下には、鳥を象った茶色い水差しが置かれていた。
筆頭貴族の当主が使う部屋にしては、素朴で質素な調度品が多く設えられている。クローリアの父は華美で高価な壺よりも、素焼きの壺の方が好きなのだ。
「お父様、クローリアです。ただ今、士官学校から戻ってきました」
「あぁ、お帰りクローリア」
窓辺に置かれた寝台の毛布が動き、父――クラレンスがクローリアと同じ赤色の瞳を細めた。いつもは項でまとめている濃い茶色の髪を肩で緩く結んでおり、色白の肌はより青白く見える。
彼は上体を起こそうとしたが、関節が痛むのか動きはひどく緩慢だ。クローリアは慌てて父を呼んだ。
「どうかそのままで。熱で辛いのでしょう」
「お前は優しいね。感染ってしまうから、お前もあまり近づかないように。あぁ、可愛い娘を抱き締められないなんて……病よりもそっちの方が辛い、父はクローリア不足で死んでしまいそうだ」
「はいはい、それくらいのお元気があるのでしたら、すぐに治りますわね」
呆れたような言葉を言いながらも、クローリアは内心で安堵していた。
大人でもあまりに高熱が続くと、体内の魔力が暴走して命に係わったり後遺症が残ったりする。実際『渡り鳥病』に罹った者から、症状は落ち着いたのに咳だけが治らない、魔力を上手く扱えなくなったという事例が、時折神殿に報告されているという。
だが、クラレンスは熱や痛みこそあるが、激しく咳込んだり魔力が不自然に揺らいだりはしていないようだ。きちんと栄養のある食事を摂り、たっぷり休めば快方に向かうだろう。
「お仕事のことは、わたくしとマティアスで相談いたしますわ。最近働きづめでしたから、いい機会だと思って養生してくださいまし」
「そうしておくれ。我が娘ながら、賢くて愛らしくて誇らしいよ。でもすぐに治すからね。口覆で可愛い顔が半分も見えないのは、堪えられないからね」
「マティアス、主治医のベリリュード先生に強めのお薬をお出しするように伝えなさい。どれだけ苦くても我慢して飲むそうですわ」
「かしこまりました」
「あ、ちょ、それはお父様が困るよクローリアぁ~」
毛布を鼻まで被り情けない声を上げているが、クラレンス・セヴォール・シェーンローデルは、筆頭貴族の当主に相応しい才覚を持っている。
クラレンスが家督を継いだのは、十八の時だ。士官学校の卒業と結婚と同時のことである。クローリアが生まれたのはその二年後であったから、父は三十代前半の若者といっても差し支えない年齢だ。
両親――クローリアからすれば祖父母――はまだ健在で、何かしらの不幸があったわけではない。嫡子が結婚をすると家督を継ぐのがシェーンローデル家のしきたりなのだ。
新しいもの好きで閃き豊かなクラレンスが目をつけたのは、観光と交通だ。主要な街道に安価な『風宿』という休憩施設を作ったのだ。
今まで町から町へ移動する際は、魔物が出てくる関係で陽が空にある内しか進むことはできなかった。だが、途中に風宿があることで移動に余裕ができたのだ。
もちろん警護も必要であるから、従業員には引退した聖騎士や失職者を雇用している。行商人たちは交易の場としても利用しているようで、需要はこれからも高まっていくだろう。
少々過保護で鬱陶しいところはあるが、クローリアは父の先見性や経営手腕は心から尊敬している。常に未来を見据え、正しい道を選び取る同じ色の瞳を持つ父の隣に、クローリアは早く並び立ちたかった。
クローリアは胸に手を当てて膝を屈める、淑女の礼をした。
「わたくしはそろそろ失礼いたします。お大事になさってくださいまし、お父様」
「ありがとう。お前も気をつけて、わたしたちの可愛い娘。何かあったら、すぐにマティアスを頼るんだよ」
クローリアが部屋の扉を閉めると、クラレンスが激しく咳き込む音がした。あまりに苦しそうだったから、閉じた扉を再び開けて、父の枕元に駆け寄りたかった。だが、そうしては娘の前で気丈に振る舞っていた父の心を無碍にしてしまう。
クローリアは両頬を己の手でぴしゃりと叩いた。
「マティアス。お父様のご予定を教えなさい。とりあえず、今日を含めた三日間です」
「は。本日は『傾陽の鐘』の頃にニークヴィスト家との晩餐会のご予定がございます。明日は開門と共にブランシェール南西の星篝の丘にある風宿の視察。昼前にはお戻りいただき、午後からは神殿の病院と孤児院の慰問。それから――」
淡々とした説明を聞きながら、クローリアは自室へ爪先を向ける。最初は父の執務室へ行こうと思ったが、直近の予定が晩餐会だとすると着替える必要があるからだ。
三日で二十を超える予定を全て言い終えたマティアスが、低い声で尋ねてきた。
「晩餐会はいかがなさいますか」
「……出るしかありませんわ」
クローリアは立ち止まり、下唇を噛みながら数秒考え、喉から息を押し出すように答えた。
視察や慰問は体調不良を理由に延期してもいいだろうが、他家との交流はそうもいかない。今の季節は貴族にとって、子供の伴侶を見定める求愛期間だ。より優秀な相手を求め、必要があれば生まれた時から決まっていた婚約すらも反故にする。貴族の関係とは、薄氷でできた梢の上を常に渡り歩くようなものだ。だから貴族の親たちは、上等な絹で子供を着飾り、学や才で磨くのだ。
今回のニークヴィスト家の晩餐会も、表向きは懇親会だが実際は子息のお披露目と結婚相手探しだろう。付き合いが浅ければ断ってもいいが、ニークヴィスト家とは五代前の当主の時代から付き合いがある。おまけに今代の当主は疑り深く、少々思い込みも激しい。直前に出席を取りやめたことで、あることないこと吹聴されては困る。
「出席はいたします。ですが、ご当主にご挨拶をしたら、すぐにお暇させていただきましょう。明日も学校がありますから、少なくとも『星灯の鐘』が鳴る頃には家に帰っていたいのです。マティアス、今宵は貴方が共をなさい」
「かしこまりました」
「ク、クローリア様! おれでは、ないのですか……!」
これまで静かについてきていたテオが、焦った声を上げた。
父であり上司であるマティアスにじろりと睨まれ、テオは口を噤む。その銀色の頭に、クローリアは手を乗せた。
「テオ。今回の晩餐会に、わたくしはお父様の名代として行くのです。子供のわたくしに随従しているのが子供の貴方では、ニークヴィスト家を軽んじていると思われてしまうでしょう」
「それは……しかし……」
「貴方には、別で頼みたいことがあるのです。明日の慰問について延期したい旨を手紙に書きますから、神殿へ届けてください。それから、仕事によっては学校を休む時もあるかもしれません。事前に書類の提出は必要か、教師に確認してきてくださる?」
「……かしこまりました、クローリア様」
テオはやや不服そうな表情だったが、頭を垂れて承諾した。体験入団中、クローリアと離れたことで彼も何か考えることがあったのだろう。だが、クローリアには詳細を聞く時間はない。晩餐会に向けて、身嗜みを整えねばならないのだ。
三人の女の使用人と共に自室に入り、制服と稽古着を脱ぐ。湯に浸した布で肌を拭い、絹の真っ新な下着を身につけた。
使用人が持ってきた衣装掛けの中から、クローリアは淡い水色の夜会服を選んだ。今年流行のきめ細かいリンドル絹で、裾には銀糸で六枚花弁の花の模様が刺繍されている。
服が決まったら、次は髪と化粧だ。鏡台の前に座ると、使用人のひとりが髪を、ひとりが顔の化粧を、もうひとりが爪紅塗りを始めた。
「誰か、紙と羽根筆を。神殿への書状を書きます」
「はい、ただいま」
右手の爪先を服と同じ淡い青に染め終えると、クローリアは羽根筆を紙の上に走らせる。父クラレンスの急病と『渡り鳥病』に罹患したこと、それ故に明日の視察と慰問は延期したいという内容だ。
ふと、顔を上げたクローリアの視界に入ったのは、鏡台に置かれていた白玖銀細工の髪飾りだ。繊細な蝶の翅が美しいそれを、クローリアは手に取っていた。
「ねぇ」
「はい、お嬢様」
「髪飾りは……これを使ってくださる?」
「かしこまりました。――まぁ、素晴らしい白玖銀細工ですこと!」
「貴女、分かるの?」
クローリアの髪に花の香油を塗っていた、中年の使用人が朗らかな笑顔で頷いた。
「祖父がセルザヴァン地方で職人をしていたんです。わたしも幼い頃から工房によく出入りしておりまして、本物と偽物の見分け方も祖父から教わりましたよ。本物は曇りのない銀色で、光を歪みなく跳ね返すのです。お嬢様の髪飾りは、本当に美しくて見事な銀細工ですわ。旦那様がお買い求めになられたのかしら」
「いえ、それは――えぇと、去年の万聖節で、露天商から買ったものですわ」
「まぁ、露天商から! 行商人が売る物は贋作が多いと聞きますが、その中でも本物を選ぶなんて、さすがはクローリアお嬢様ですわね!」
「えぇ、本当に審美眼がおありですわ!」
他の使用人たちも、作業合間にコロコロと笑い合う。これは同学年の友人にもらったものだと言ったら、彼女たちはどんな反応をするか――クローリアは少しだけ興味が沸いたが、すぐに頭の奥に引っ込めた。あれこれ聞かれて、相手が貴族の男子だということがクラレンスやマティアスの耳に入れば、より面倒なことになるだろうから。
高い位置にまとめられた蜜色の髪に、銀色の蝶と造花が差し込まれた。顔だけでなく首や鎖骨にまで白粉をはたかれ、薄紅色の口紅を引かれれば化粧も終了だ。
まるで見計らったように、扉の向こうからマティアスの声がした。
「お嬢様、馬車の用意ができました」
「ありがとう、今まいりますわ」
廊下で待つマティアスも使用人用の礼服に着替えており、彼の一歩後ろにはテオも控えていた。クローリアは先刻書いた手紙を、テオへ渡す。
「テオ、先程わたくしが指示した通り、こちらを神殿へ届けてください。お父様が例の病に罹ったことは書いてありますから、貴方は渡すだけで結構ですわ」
「……かしこまりました」
短く了解の言葉を呟いたテオは、一礼して姿を影に溶けさせた。銀影潜の民は、己の足で歩くよりも影の中を泳いだ方が早いのだ。
玄関先につけられた馬車に、クローリアとマティアスが乗り込む。車輪が石畳を噛む振動に揺られながら、クローリアは知らず、小さく溜め息を吐いた。
「……緊張しておいでですか」
マティアスから、眼前に小杯を差し出された。白い縁の内側では、茶褐色の香茶が揺れている。
クローリアは礼を言って、それを受け取った。
「お嬢様おひとりで晩餐会にご参加なさるのは、今回が初めてのことでしたな。ですが、このマティアスがついております。万事、問題はありません」
「えぇ、もちろん頼りにしていますわよ、マティアス」
「今後はこういった夜会も多くなることでしょう。結婚や交際の申し出が多くございますでしょうが……貴女様は誇り高き筆頭貴族、シェーンローデル家の次期当主、今はどれもお受けしませぬように」
分かっています、とクローリアは頷く。
クローリアはシェーンローデル家のたったひとりの嫡子であり、女だ。息子を婿入させ、シェーンローデル家を支配下に置きたい者は多いだろう。これから己が向かう先は、綺羅びやかな夜会などではない。腹を空かせ、隙あらば喉元に噛みつこうとする狼の巣穴なのだ。
貴族の娘として生まれた己の使命は分かっている。いつか訪れる結婚の時を拒否するつもりはないが、年齢のせいなのかいまいち実感がなかった。
黄金の陽光を跳ね返す黄昏色の婚礼衣装。
頭には本物の黄昏樹の冠を飾り、神殿で永久の誓いをする。たとえ、お互いがお互いを愛してなくとも。
――クローリア。
風のように柔らかで、木の葉のように軽やかな声が、己の名を呼ぶ。
聞き覚えのあるその声の持ち主が瞼の裏に描かれ――クローリアは慌てて首を横に振った。
今、ここで思い出してはいけない名前だ。そうクローリアは考えた。
斜陽を受けて、白玖銀細工の蝶が煌めいていた。




