聖騎士の心臓 ―駆けろ!―
先頭にジェキルが乗った風溟馬が松明を掲げて走り、セリカとロナルド、ルカを乗せた荷車を曳くレラが続き、後尾にはグレイスと荊雷馬がついた。士官学校に入学する前、ヴィンセントから教わったことがある――護送の陣形だ。
レラは荷車を曳くのは初めてだったが、足取りは強く地面を蹴っている。ジェキルの掲げる松明を目印に、ヨスガは手綱を握りしめた。
速く速くとせっつく心を、呼吸と共に吐き出す。馬を操る時、乗り手の心理状況は自分が思うよりも馬に伝わるから、ヨスガが焦った分だけレラも焦る。レラの集中が乱れて足が縺れでもすれば、全ての努力が水の泡だ。
荷台の中では、セリカの苦し気な呻き声が絶えず聞こえている。ロナルドが彼女と腹の中の子供に、優しく声をかけ続けていた。彼も不安と恐怖で堪らないだろうに、前向きな言葉を口にしている。
ヨスガは巨大な岩を背中に乗せている感覚がした。これがきっと、聖騎士が背負う命の責任なのだろう。
「負けるわけにはいかない……必ず助けるんだ。レラ、頑張って!」
ヨスガは手綱を介してレラへと魔力を送る。轡に嵌め込まれた魔鉱石が光り、鬣が一層豊かに燃える。
ラルファ川沿いに敷かれた街道を駆け続け、このままラドゥーの町まで何事もなく着くことを願っていたが、やはり邪神はヨスガたちを見逃さなかったようだ。荷車から周囲を哨戒していたルカが「魔物だ」と大きく声を上げた。
「南南西、海鳥星の方角に宵闇の魔物が三体! 狼だ!」
「前からも来たぞ! 西北西、山鹿星の方角から狼が四体だ! お前は前だけ見て走れ、ファリエール!」
「はい!」
ヨスガは手綱を握る手に力を籠める。
前方はジェキルが、後方はグレイス、荷車はルカが守ってくれている。魔物の鳴き声と断末魔に意識が揺れそうになるが、ヨスガは彼らを信じて暗い道の先に目を凝らし続けた。
その時、ヨスガの項辺りが逆立ったような気がした。川から一匹の黒い影が躍り出て、ヨスガをめがけて降ってきた。鋭い歯列を持つ、魚型の宵闇の魔物だ。
ジェキルやグレイスは狼の対処で手いっぱいな上、そもそも呼ぶ暇もない。ヨスガが腰の剣に手を伸ばした瞬間、魔物の腹を紫色の刃が貫いた。錐のように鋭く伸ばされた、ルカの右足だ。
「ヨスガ、怪我は!?」
「ないよ、ありがとう!」
「川からも魔物が来るなんて……少し左に寄って、川岸から離れよう」
ルカと話している間も、川から魚の魔物が飛び出してくる。ほとんどがレラに届くことはないが、たまに大きく跳ねて足にかじりつこうとするものがいた。
それらはルカが薙ぎ払ってくれたが、裂かれた魚の頭が足元に落ち、さすがに驚いたのかレラが大きく首を振って足取りが乱れた。振り落とされないよう、ヨスガは腿に力を入れ、首筋に触れる。
「大丈夫だよレラ、大丈夫だから!」
掌から直接魔力をレラに分け与える。優しく宥めながら、花瓶に水を注ぐように魔力を送る。落ち着きを取り戻したのか、レラは再びまっすぐ街道を進むようになってくれた。
触れた皮膚から、レラの張り詰めた緊張も伝わってくる。どれだけ彼女の気が強く、覚悟があったとしても、不安や恐怖心はあるはずだ。それを取り除き、レラの持つ能力を引き出すのは乗り手であるヨスガの役目である。
手綱から伝わるレラの魔力が一定になるよう、ヨスガは魔力を調節しながら送り込んだ。
いつしか、ヨスガたちは小高い丘の上にいた。
眼下にはなだらかな平原が広がり、草の禿げた街道が蛇行しながらも横臥わっている。街道に沿って流れるラルファ川には月光が薄雲越しに注ぎ、水面に星屑のような煌めきを生んでいた。
その道の先に、ぽつぽつと朱い光を見た――魔鉱燈の灯りだ。
狼の魔物を槍で突いたジェキルが、松明を振り上げた。
「見えた! ラドゥーの町が近いぞ!」
「ファリエール、このまま突っ切るよ! 魔物はウチらが対処するから、根性見せな!」
「はい! ありがとうございます!」
村長のゲオルグからは、ラドゥーの町へは次の鐘が鳴るまでの時間がかかると聞いていたが、鐘の音を待たずに着きそうだ。しかし平原に出ると、徐々に魔物の数は多くなっていった。町は目に見えるほど近いのに、襲ってくる魔物を避けていたら街道を逸れるしかなく、近づいては遠のいてを繰り返していた。
ヨスガは額から伝う汗を拭う。体感として、既に二時間以上は全速力で走り続けている。絶えずレラに送っているため、ヨスガの中にある魔力も底が見え始めていた。
目が霞みそうになるが、手綱を握る手は緩めない。ラドゥーの町に着くことは目標のひとつだが、セリカたちを病院まで届けることが最終的な目的だ。
セリカは陣痛の波がいくらか引いたのか、荒くも規則正しい呼吸になっている。それでも体力はかなり消耗しているはずであるから、余裕があるとはいえなかった。
荷車に群がる魔物を切り捨てたルカが、息を切らしながらも明るい声を上げた。
「大丈夫だよ、お姉さん。もう少しで町に着くから。ヨスガが絶対にお医者さまのところまで連れってってくれるからね!」
「えぇ……ありがとう、本当に……」
「お礼は元気な赤ちゃんを見せてくれたら、それでいいよ! ――おっと!」
荷車を追い越し、レラの足に噛みつこうとする魔物を、ルカが斬る。
こんな状況でも、セリカは腹の赤ん坊に優しい声をかけ続けていた。大丈夫、絶対に守ってあげるから、と。
それを背中で聞きながら、ヨスガは大きく頭を振った。振り払ったのは魔力の欠乏による意識の霞みだけではない。心に滲み始めた黒い靄だ。ヨスガはその靄を、意識の端に追いやる。見てしまえば最後、レラの背中から振り落とされそうだった。
こんな黒い感情を持ってはいけない。親に望まれて生まれてくる命を、羨ましいと思うなど。
走り続ければ、徐々にラドゥーの外門が近づいてくる。門の輪郭が分かるようになった頃、ジェキルがヨスガを呼んだ。
「お前はこのまま走れ、ファリエール! 俺とグレイスはここで魔物を食い止める!」
「え、で、でも!」
「町に魔物を近づけるわけにもいかないだろ? 心配しなくても、こんな小さい魔物に負けるほど、ウチらは弱くないさ!」
行きな、というグレイスの声に背中を押され、ヨスガは振り向きかけた首を前に戻した。ただ走っていたヨスガやレラとは違い、ふたりは戦いながらここまで来た。人も馬も疲労が溜まっているはずだ。
ふたりを心配する資格など、巻き込んでしまったヨスガにはないと分かっている。それでも命の優先順位は、あくまでもセリカと赤ん坊が先だ。
離れていく蹄の音を聞きながら、ヨスガは門まで辿り着いた。太い丸太を地面に突き刺した壁の前には、朝の開門を待つ行商人や守り人の騎士がいた。
ヨスガたちの掲げていた松明は彼らの目にも見えていたようで、騎士が細い槍を向けていた。怯えの滲んだ中年男の顔が、松明で浮き上がる。
「お、お前たちは……士官学校の人間か?」
「門を開けてください! 急病人です、門を開けてください!」
「急病人?」
ヨスガは手綱を引いてレラを止めると、騎士が荷車へと回り込んだ。ロナルドの説明を聞き、陣痛に呻くセリカを見て、彼の顔色が変わった。急いで門を開けるよう、壁の内側へと声を張り上げた。
魔物や獣の侵入を防ぐため、どの町の門も朝が来るまで開けることはない。だが医者を要する急病人がいる際は、特例として開門が許される。
丸太を連ねた門が傾き、轟音と共に開かれていくのと、行商人から悲鳴が上がったのは同時だった。
「魔物だ、魔物が来たぞ!」
緊迫した声は伝播し、他の商人たちにも混乱が伝わっていく。
ヨスガは一瞬、グレイスとジェキルが負けたのかと思った。しかし、遠くでは光がふたつ、激しく揺らめている。恐らく討ちもらしてしまった魔物か、闇から新しく出現してきたのだろう。
門の開閉は人力だ。丸太十本を一度に動かすのだから、時間はかかる。町の中に入って門を再び閉めるより、魔物がこちらへ到達する方が早いのは明白だった。門番の騎士も実戦に自信はないのか、構えた槍先が震えている。
ルカが荷台を降り、両腕を鎌状の刃に変えて魔物の前に進み出た。
「ルカ!?」
「ここはボクが守るから、ヨスガたちは行って!」
「でもひとりは危険すぎる、僕も一緒に……!」
「ダメ! ヨスガは妊婦さんを最後まで守らなきゃ! それがヨスガの……ボクたち聖騎士の使命でしょ!」
振り向いたルカの瞳は、強い決意が煌めいていた。いつものように、歯を見せて笑う。
「ヨスガたちが町の中に入ったら、ボクはジェキルさんたちの加勢に行ってくるよ。大丈夫、ボクが強いの、ヨスガも知ってるでしょ?」
「……うん。気をつけて、無理はしないでね」
任せて、と腕を振り、ルカは跳ねるように魔物へと向かっていった。
門は木の軋む音を立てながら、ゆっくりと口を開けていく。行商人たちが隙間に身をねじ込むように門を潜っていく中、ヨスガはレラが通れるだけの空間が開くまで待つしかなかった。
悲鳴、怒号、セリカの呻き声と魔物の断末魔――耳が拾う全ての音がヨスガを急かせる。気を抜けば一瞬で眠りそうなほど頭はぼんやりとしてきているのに、心臓は痛いほどに拍動していた。魔力と体力はもう限界に等しく、ほとんど気力だけでレラに乗っている。
レラもまた鼻息を荒くしており、鬣の炎の勢いも弱まってきている。その首を撫でたヨスガは、ロナルドを振り返った。
「ロナルドさん、病院の場所は分かりますか?」
「あ、あぁ、何度か行ったことがある」
「では、走り始めたら案内をお願いします。……もし、僕からの返事がなくても、そのまま言い続けてください。レラは必ず、その通りに走りますから」
ロナルドが何か言う前に門が開き、ヨスガはレラの腹を蹴った。同時に、己の中にある魔力を全てレラへ与える。全身が酷く重くなったように感じた。唇の内側を噛んでいなければ、意識が千切れて飛んでいきそうだった。
眠りに沈むラドゥーの町に、石畳を叩く蹄の音と荷車の車輪が転がる音が響く。ロナルドの指示に沿って街道を進み、やがて「あそこだ」と喜色を滲ませた彼の声が聞こえた。
魔鉱燈の薄明りに照らされた、薬草が書かれた看板が見えた――診療所のしるしである。
扉の前でレラを止めるなり、ロナルドが荷台から飛び降りて扉を叩いた。
「先生! ラムドン先生! お願いします、開けてください!」
ロナルドが何度も扉を叩くと、カチ、と鍵の開く音がした。
手持ちの魔鉱燈を携えて現れたのは、白い髭を蓄えた人間族の老医者だった。訪問者の顔を見て、目を丸くしていた。
「フェルザーさん? どうしてここに……」
「セリカが急に破水してしまって……助けてください!」
「破水だって!? 予定日はまだのはず……いや、話よりもまずは診察だ。誰か、担架を!」
ラムドンの一声と慌ただしく動く看護師たちの足音を聞き、ヨスガはレラの首に体を預ける。魔力と体力の枯渇で、瞼が下がるのを止められない。
担架に乗せられたセリカが、診療所の中へ入っていく様子――それが意識を失う前にヨスガが覚えていられた、最後の景色だった。
◆◇◆
耐えがたい空腹感に引きずられて、ヨスガは目を覚ました。
視界に映った赤茶色の板天井を見て、知らない風景だとぼんやりと考えた。どうして自分がここにいるのか、霧の中を進むように記憶を辿っていると、ツンとした薬草の匂いに鼻をつつかれて思い出した。
薄明騎士団としてアーディア村の警護任務に帯同し、宵闇の魔物となった錬塊熊と相対した。避難中に妊婦のセリカが産気づいてしまい、医者がいるラドゥーの町まで運んだのだ。
町の外で別れたルカや、魔物を食い止めていたジェキルとグレイスはどうしたのだろう。ヨスガが寝台から抜け出そうとすると、近づいてくる小刻みな足音が聞こえた。
病室に飛び込んできたのは、ルカだった。腕や脚のあちこちが包帯に巻かれ、頬にも当て布をしている。
寝台から降りようとしているヨスガと視線が合うなり、彼の目が一瞬で潤んだ。
「ヨスガ、起きたの!?」
「ルカも無事だったんだね。でもすごい怪我……」
「これくらい平気! 待ってて、お医者さまを呼んでくるから!」
目元を手の甲で拭いながら、ルカは風のように病室を出ていった。
少しして、ルカが白い髭を蓄えた医者――ラムドンを引っ張ってきた。ラムドンに首元や頭、脈拍などを触診され、大きな問題はないと診断された。使いきった魔力も回復したようで、倦怠感や眩暈などもない。どうやらヨスガの体は回復のために、丸一日眠っていたようだった。
魔物と直接戦ってはいなかったはずだが、ヨスガの両手や左右の腿に包帯が巻かれていた。ラムドンによると、レラに送る自分の魔力や馬体の熱で軽い火傷をしてしまったという。縫焔馬は興奮すると体温が炎のように高温になるため、これからは注意する必要がありそうだった。
人肌の温度に温めた湯を飲みながら、ヨスガはラムドンに尋ねた。
「あの、セリカさんとロナルドさんは……赤ちゃんはどうなりましたか!?」
「彼女たちなら、別の病室に……」
「ボクが案内するよ! こっちこっち!」
ヨスガはルカに手を引かれ、木製の廊下を駆けた。連れてこられたのはヨスガのいた病室から四つ離れた部屋で、廊下の突き当りにある角部屋だ。
陽光が満ちる病室には、寝台の上に横臥わるセリカと寄り添うロナルド、そしてヴィンセントがいた。
まさかヴィンセントまでいると思わず、ヨスガが驚いた声を上げると、彼は灰銀色の隻眼の目尻を緩めた。
「起きましたか、ヨスガくん」
「ヴィンセントさん……! ご無事だったんですね」
「あんな小粒の魔物に負けては、団長の名折れですから」
「ヨスガくん」
穏やかなセリカの声に呼ばれ、ヨスガは彼女の寝台に駆け寄る。その傍にはもうひとつ、小さな揺り籠が置かれていた。
セリカが揺り籠を傾けて中を見せてくれた。白い布に包まれて、赤ら顔の小さな赤ん坊が、健やかな寝息を立てていた。
呼吸も忘れて見入っていると、ロナルドがヨスガの右手を取り、赤ん坊へと導いた。小石のように握られた手をつつくと、蕾が朝日に綻ぶように開いて、ヨスガの人差し指を握ってきた。包帯越しでも分かる、頼りなくも明々と燃える炎のような力に、気づけばヨスガの目からは涙がこぼれていた。
伸ばされたセリカの掌が、ヨスガの頭をゆっくりと撫でる。
「ありがとう、ヨスガくん。みんなが頑張ってくれたから、わたしもこの子も、生きて出会えたのよ」
「君のお陰だ……本当にありがとう」
「いえ……僕はただ、夢中で走っただけで……。でも、良かった……本当に……!」
袖で頬の雫を拭うヨスガの背中に、ルカが抱きついてきた。彼は「赤ちゃん可愛いね」と声を弾ませながら、ふっくらとした頬を指先でつつく。すると、今まですやすやと眠っていた赤ん坊の顔がくしゃりと歪んで、甲高い声で泣き始めてしまった。
「わぁっ! ごめんなさい、起こしちゃった!?」
「ふふ、みんなが来てくれて嬉しくなっちゃったのかな。泣いてる顔も可愛いでしょ?」
「はい、すごく。男の子ですか、女の子ですか?」
「女の子だよ! きっとセリカに似て、世界一可愛い女の子になるんだろうなぁ。あぁそうだ、ヨスガくん。ブランシェールに戻ったら、ルーベンさんたちにも産まれたって伝えてくれないかな。おふたりには結婚当初からお世話になっててね。落ち着いたらまた料理屋に顔を出しますって」
「分かりました。おふたりには、必ず伝えます――あっ」
欣欣とした雰囲気に気が緩んだのか、それとも料理屋という言葉が聞こえたからか、ヨスガの腹が大きく鳴った。
思えばヨスガはさっきまで眠っていたのだから、一日以上何も食べていないことになる。恥ずかしさで顔が火照るヨスガの肩に、ヴィンセントが微笑みながら手を置いた。
「空腹を感じるほど、体力が戻ったようで何よりですよ。我らはこのまま、アーディア村へと戻ります。奥様、お大事になさってください」
「ヨスガくんたちがいなかったら、わたし、きっと赤ちゃんと一緒に死んでいたわ。たくさんの人たちが命がけで守ってくれて……この子はきっと、世界で一番幸福な子よ。本当にありがとうございました」
寄り添い合うセリカたちと、彼女の腕の中で安心しきった顔で眠る赤ん坊に手を振って、ヨスガたちは病室を出た。
治療をしてくれたラムドンに礼を言って、病院を出るとヴィンセントが封幻石から水玲馬のガルディを呼び出した。ガルディの鞍にセリカたちを運んだ荷車をつけ、そこにヨスガとルカが乗り込む。
最初、ヨスガはレラに乗っていくと言ったが、ヴィンセントにはレラも長距離の移動で疲労が溜まっているからと言われてしまった。荷車に揺られながら、ヨスガは胸につけた赤い封幻石を見つめる。
「頑張ってくれてありがとう、レラ。無理させてごめんね」
「ヨスガくん。きっとレラは気にしていませんよ。グレイスとジェキルから報告は聞きましたが、レラは自分で石から出てきたのでしょう? ならば、多少の無理は承知のはずですよ」
ヴィンセントの言葉を肯定するように、石が小刻みに震えた。手に伝わるほのかな熱が、レラが少し照れているように感じられて、ヨスガは小さく笑って胸元に戻した。
途中、ヴィンセントが露天商から野菜と鶏肉の詰まったフラッテを購入し、ヨスガとルカに手渡した。一日ぶりのあたたかい食事に、ヨスガは体の芯が凪いでいくのを感じた。
「ありがとうございます。あの、グレイスさんとジェキルさんは?」
「ふたりも無事です。多少の怪我はしていましたが、心配するほどのものではありません。先にアーディア村へ戻らせました。……まったく、肝が冷えましたよ。私が魔物を討伐している間に、君がフェルザー夫婦を連れてラドゥーの町へ向かったというのですから」
「……すみません」
「……何故、謝罪するのです?」
鞍に再び跨ったヴィンセントが、ゆっくりとガルディを進ませながら問いかけてきた。
その声がいつもよりも少し硬くて、ヨスガは一瞬だけどきりと心臓を跳ねさせた。頭の中で言葉を探しながら、徐に口を開く。
「もう少し……考えてから行動すればよかったと思います。今思うと、僕はすごく混乱していると同時に緊張もしていて、何が最善だったのかが分からない状態でした。陣痛がきているセリカさんを荷車に乗せて、経験のないレラにそれを曳かせて、鐘ひとつ分も離れた町に運ぶだなんて……危険すぎる賭けだったと思います」
ヨスガは抱えた膝を擦り合わせる。
あの夜のことを考えれば考えるほど、よくラドゥーの町まで辿り着けたと思う。一歩間違えば己だけでなく、セリカたち夫婦と胎児、ルカやジェキルたちの命もなかっただろう。いくつもの命を危険に晒した事実に、今更ながら背筋が震えた。
待ってよ、とルカが声を上げた。
「そもそも、セリカさんを町まで運ぼうって提案したのはボクだよ! あの時は産婆さんもお医者さまもいないって聞いて、ボクもそれしか思い浮かばなかったんだ。冷静に考える時間なんて、ボクもできなかったよ……」
「そうですか……では、落ち着いた今なら、君たちはどう動くべきだったと考えますか?」
ヴィンセントの問いに、ヨスガとルカは顔を見合わせる。ふたりで首を捻りながら、あの夜のことを思い出して様々な動きを思考していく。
「あの場で赤ちゃんを取り上げるべきだったかな……でも逆子だったとも聞いたし、やっぱり難しいかな」
「せめて、ヴィンセントさんを待てばよかったかもしれません。もしくは他の候補生の人たちに頼むとか……」
「……成程。今の君たちならば、そういう判断をするのですね。先にお伝えしますが、それらの行動は不正解です」
ヨスガとルカは同時に「えっ」と声を上げた。何が間違っていたのだろうと更に考え込むふたりに、ヴィンセントは鷹揚な口調で続けた。
「魔物に襲われる夜の中を、荷曳きも不慣れな馬で妊婦を町まで運ぶことを選択したことは、確かに危険極まりない行為でしょう。ですが君たちは結果として、妊婦の命も胎児の命も守りました。だから、君たちが決めた行動、策は正解だったのです」
「正解……本当に……?」
「策というのは、どれだけ机上でこね回したとしても『絶対』はありません。同じように行動も、どれだけ頭の中で描いたとしても『絶対』などないのです。私たちがやり遂げて初めて、それらは『正解』になります。今、君たちが挙げた策や行動の中には、もしかすればより安全な『正解』があったかもしれません。ですが所詮は『たられば』でしかありません。この世にある事実は、君たちが妊婦と胎児の命を守りきった『正解』だけ――よく、頑張りましたね」
振り向いたヴィンセントが、晴れやかな微笑みを浮かべた。称美され、肯定されたことで、ヨスガの胸の内がじわりと温かくなる。なんだかむず痒くて、隣のルカに目を向けると、彼も同じような表情をしていた。
「まぁ、心配はかなりさせられましたがね。君の身に何かあれば、私はルーベンに斬り捨てられてしまいますので。ただでさえ君を薄明の後進にすると言ったらかなり渋い顔をされたのに、大怪我まで負わせてしまっては合わせる顔がありません」
「そ、それは本当にすみません……」
「君が謝る必要はありません。今回は私に落ち度があります。私は君のことを守らねばならなかったのに、離れてしまいましたから。ですが君は私の選択すらも『正解』にしてしまったのです。……本当に、成長しましたね。今の君たちは、立派な聖騎士の心臓を持っていると言っても良いでしょう」
「聖騎士の心臓?」
ヨスガとルカの疑問符が重なる。信念です、とヴィンセントが柔らかくもはっきりとした声音で教えてくれた。
「聖騎士の心構えのようなものです。聖騎士にとって、己の心臓は己のものに非ず……守るべき民の命あってこそ、我らは聖騎士として生きられるのです」
ヴィンセントが語ってくれたのは、クレイスト大陸の聖騎士に代々受け継がれる滅私の精神だという。
見返りを求めず、研鑽を怠らず、死を恐れずに民のために命を捧げる。それが黄昏の世界を守護する聖騎士のあるべき姿なのだ。
「君たちにその自覚はなくとも、あの夜を駆けた君たちは、己の命よりもセリカさんとこれから生まれてくる新しい命を優先したのです。確かに聖騎士の心臓を宿していると、私が認めましょう」
「守る……守れたんだ、ボクが、この力で……」
ルカが己の両手に目を落としながら、噛み締めるように呟いていた。
ですが、とヴィンセントがやや強めの語気で言う。
「今後はできるだけ、命に関わる行動はしないように。未来のためにも、君を喪うわけにはいきませんから」
「ふふ、じゃあ多少危険なことをしても平気なように、ヴィンセントさんに鍛えてもらわなくちゃいけませんね」
言いましたね、と振り向いたヴィンセントの表情は、普段の仮面を貼り付けたような他人向けの笑みではなく、ルーベンとよく似た悪戯っぽい若々しいものだった。
やがてガルディが町の門を潜り、ラルファ川沿いの街道を進んでいく。魔物に追われながら駆けたレラの蹄か、緑の平原のあちこちに抉れた茶色の跡が見えた。
草を潰しながら大きく湾曲する轍――あの辺りで、ヨスガは赤ん坊に黒い感情を抱いたことを思い出す。
赤ん坊に嫉妬するなど、ヨスガ自身どうかしていたと思う。母親から「守ってあげる、大丈夫」と声をかけてもらえる赤ん坊が、羨ましかった。
ヨスガを産んだ母親が、ヨスガのことをどう思っていたのかは分からない。それでも、信頼できる大人と頼れる友人たちを得られたことは、紛れもなく幸福なことだ。
だからきっと、何があっても大丈夫――荷車に揺られながら、ヨスガが見上げた空は、どこまでも高く澄んでいた。




