聖騎士の心臓 ―急転―
◆◇◆
天幕の隅でヨスガたちが夕食を摂っていると、村の青年が神妙な顔つきで「医療騎士はいないか」と拠点を訪ねてきた。
ヴィンセントが話を聞くと、青年の妹が十日ほど寝込んでいるという。症状が『渡り鳥病』に似ていることから、ヨスガは彼に咳止め薬と熱冷ましの薬草を渡した。礼を言いながら拠点を去っていく青年の後ろ姿を、ヨスガはフラッテを食べるのも忘れて思い出していた。
フラッテの端から零れ落ちかけた根菜の欠片を、横からルカが受け止める。ペルケという蓮根のような食感のそれを口に抛りながら、ルカが顔を覗き込んできた。
「どうしたの、ヨスガ。考え事?」
「うん……ちょっとね。あの病気……『渡り鳥病』のことについて」
「何か、君の記憶に光るものでもありましたか?」
候補生たちに巡回の指示を出していたヴィンセントが、湯気の立つ小杯を持って戻ってきた。
ヨスガは小さく頷く。
「ここ最近、『渡り鳥病』に罹った人たちの症状について、思い当たることがあって……」
「ヨスガ、それ本当!?」
ルカが椅子を転ばす勢いで立ち上がる。その音を聞いた周囲の候補生たちが、こちらへ視線を向けてきた。
慌ててルカを宥めるヨスガの様子に、ヴィンセントも察してくれたらしい。外で話しましょう、と言ってくれた。
フラッテを腹に収め、ヨスガたちは拠点の天幕の外に出た。
雨が近いのか、湿り気を帯びた空気は肌寒い。ヨスガとルカは稽古着の上に外套を羽織り、暮れなずむ空の下を見回りを装いながら歩いた。普段は鬱陶しい感染予防の口覆も、今は風除けになってくれるからありがたい。
拠点と村から十分離れた、誰もいない麦畑に着くと、ヴィンセントが口を開いた。
「それで、ヨスガくんは何を考えていたのです? かつていた世界のことですか?」
「はい。『渡り鳥病』の症状が、僕がいた世界の病気に似ている気がするんです」
ヨスガは頷いて、自分の頭を整理しながらヴィンセントたちに伝えた。
この病が流行り始めた頃は咳と関節痛ばかりだったが、今は高熱とそれによって引き起こされる魔力暴走が厄介だと言われている。高熱、咳、関節痛――どれもインフルエンザの症状とよく似ていた。
当然、クレイスト大陸にインフルエンザはない。万象を識る月虹騎士団団長のアーヴィンが図書館中の本を調べて、似た症例が未だ見つかっていないのだから。ヴィンセントもルカも、その名前を初めて聞いたという反応だった。
ルカがヨスガの腕を掴んできた。アーヴィンが苦戦しているところを間近で見てきたからだろう、彼の深い紫色には焦燥が滲んでいた。
「ヨスガ、その『いんふるなんとか』って、どうやったら治るの? 薬とかある?」
「薬はあったけど……ごめん、成分までは知らない。向こうの世界で薬を作ることは、専門の勉強をしたすごく頭が良い人じゃないとできないんだ。子供の僕の知識じゃ、どうにも……」
「そ……そっか。そうだよね。ごめんヨスガ、困らせちゃって」
「僕の方こそ、思わせぶりなことしちゃったね。普通に考えれば食べ物も生態系も何もかもが違うんだから、向こうの知識なんて何の役にも立たないのに」
「……いえ、それは少し違うと、私は思いますよ」
顎に手を当てて、じっと黙ってヨスガの話を聞いていたヴィンセントが、神妙な顔つきで静かに首を横に振った。
そして、彼は懐から掌に収まる大きさの紙束と、鋭く尖った深い藍色の小石を取り出す。『閃融石』と呼ばれるその石は、筆記用の顔料として用いられる鉱石だ。閃融石で文字を書くには少々コツが必要だが、いちいち羽根筆や墨壺といった筆記用具を広げずに済むという利点から、遠征の多い騎士や行商人の間ではよく使われているのだ。
尖らせた閃融石の先端で何事かを書き終えたヴィンセントは、その紙を束から破って小さく折り畳む。彼は「戻りますよ」とひと言だけ口にし、踵を返して拠点の方へ歩いていった。ヨスガとルカは慌ててその後を追いかけた。
拠点に戻るなり、ヴィンセントは近くにいた候補生のひとりに赤羽の玻声雲雀の籠を持ってくるように指示した。騎士団は遠征の時、神殿との連絡用に玻声雲雀を一羽、帯同させるのだ。
ヴィンセントは小鳥に乾燥させたソヴィの実を与え、嘴に先程の紙を挟ませて籠から飛び立たせた。
ブランシェールの方へ向かった玻声雲雀の小さな体は、あっという間に夕闇に溶けて見えなくなってしまった。
「先程のヨスガくんの話を、シュトラウス卿へと送りました。今夜の内には彼の手に渡るでしょう」
「えっ!? で、ですが、あれは『渡り鳥病』とは関係がない話で……」
「関係があるかないかを判断するのは、シュトラウス卿と白夜騎士団団長のエルヴェシウス卿です。物事の行き詰まりを打破するのは、案外小さな罅だったりするものですよ」
くるりと振り向いたヴィンセントが、まっすぐにヨスガを見据えてきた。
「君はこちらとは違う視点や、知識を持っています。それは君にとっても我らにとっても、有益な結果を生むでしょう。些細なことでも関係がないと思ったことでも、気づいたことは遠慮なく言うように。あぁもちろん、私やルカくんなど、秘密を共有している者だけにしてくださいね」
「分かりました、ヴィンセント団長」
「ヨスガの情報、お爺さまの助けになるといいね」
ヨスガが頷くと同時に、冷たい風に鼻先を擽られてくしゃみが出た。
拠点へ戻ろうとした時、村からけたたましい笛の音が響いた。ヴィンセントだけでなく、拠点で穏やかに過ごしていた候補生たちの空気が一瞬で変わる。糸をきつく張るような緊張感は、ヨスガでも感じ取れた。
ヨスガが何か言う前に、ヴィンセントが強張った声で「警笛です」と教えてくれた。
「騎士が使う、異常事態を知らせる笛です。先程、見回りに出た候補生のものでしょう。……三度鳴ったということは、魔物の襲来を意味します」
「じゃあ、村に魔物が……!?」
「えぇ、こちらの想定よりも早いお出ましですね。――総員、集合!!」
ヴィンセントの号令に、武器を携帯した候補生たちが拠点の前に整列する。
「今の警笛を聞きましたね。先程の指示通り、四班に分かれて行動なさい。一班と二班は私と共に魔物の対処、二班は村民の避難、四班は避難の後方支援です。――出撃!!」
「はッ!!」
四つの小隊に分かれた候補生たちが、村へと駆け出していく。村には明かりがちらほらと灯り始めた。魔物の襲撃に気づいたのだろう。
「ヨスガくんとルカくんは、私から離れぬように。恐らく、大型の魔物は君の方へ寄ってくるはずです。なるべく村から離れるように戦い、村民の方々を避難させる時間を稼ぎます」
「分かりました!」
「確か、村の人たちは北の丘に避難させるんだよね。なら、風上になる村の西側に行こう!」
ルカの提案に、ヴィンセントが大きく頷いた。
強く吹いた風に、甘ったるい臭気が混ざっている――姿が見えずとも分かる。村を襲ったのは、黒紫の花を咲かせた魔物だ。ヨスガの剣を握る手に、力が籠る。
村では候補生たちが人々を家から出し、北へ、と誘導していた。建物の陰から躍り出てきた魔物は、彼らが剣や魔法で倒していく。
ルカが黒濫燐石の刃を両手足につけて蹴り飛ばし、ヨスガも鞘から剣を抜いて魔物を斬る。村を襲っていたのは大型の熊だと思っていたが、現れるのは泥でできた犬のような魔物ばかりだ。ヨスガの目に見える範囲に、熊の影はない。
黄昏樹の枝を燃やした魔物避けの松明も効果が薄いのか、犬の魔物が薙ぎ倒していた。火は近くに積まれた麦袋に燃え移り、村だけが昼間のように煌々と照らされる。
「ひぃっ!」
ヨスガの耳に、甲高い悲鳴が届く。見れば、マーレが地面に倒れていた。這々《ほうぼう》の体で逃げる彼女に、宵闇の魔物が襲いかかろうとしている。
鋭い漆黒の牙が、マーレに突き立てられる寸前、ヨスガは盾を構えて体を滑り込ませた。
ギィ、と魔物がひしゃげた悲鳴を上げて怯んだ隙に、ヨスガは剣でその首を斬った。
「大丈夫ですか、マーレさん! 立てますか?」
「あぁ、ありがとう、ありがとう……!」
ヨスガは頬を涙で濡らしながら礼を言うマーレを助け起こし、駆け寄ってきた候補生に引き継ぐ。候補生の青年は微笑んで「偉いぞ」とヨスガの頭を撫で、マーレを連れて北へ向かっていった。
礼を言われながらマーレに握り締められた掌と、候補生に撫でられた頭がじんわりと熱を持つ。ヨスガでも誰かを助けられたことへの嬉しさと同時に、人々の生活を壊す魔物への怒りが沸々《ふつふつ》と湧いてきた。焼けた麦も野菜も、村の人々が長い時間をかけて大切に育て、収穫を待ち望んでいたものである。
体の中で渦巻く炎を剣に纏わせた時、ヨスガの背中にヴィンセントの手が添えられた。
「冷静におなりなさい、ヨスガくん。怒りを覚えた時ほど、深く呼吸をして周りを見るのです。そう教えたでしょう」
「……はい、すみません」
ヨスガは肺腑の底まで息を吸いこみ、長く吐き出す。魔物への怒りは収まらないが、頭の奥が少し冷えて視界が広がった気がした。
「ヨスガ! ヴィンセントさん!」
屋根の上から、ルカの声が降ってきた。見上げると、右足を鎌にしたルカが森の方を指さす。
「森が騒がしいんだ。酷い臭いもする……魔物が来るよ!」
風に乗って、一層強い甘い香りと腐臭がヨスガたちに吹きつけた。
揺らめく炎の先――闇の中から、一頭の熊が姿を現した。黒銀色の分厚い毛皮は所々が削げ落ち、赤黒い肉が見えている。左半身を黒紫い花に侵食され、口からはだらしなく涎を垂らしている。白く濁った眼球は、明らかに死骸の様相だった。
背中を氷で冷やした刃物で撫でられているような忌避感と嫌悪感に、ヨスガは息を詰める。これまでに何度も魔物と対峙したのに、未だに怖くて仕方がない。自分で戦うと決めたくせに、震えてしまう剣先をみっともなく思っていると、ヴィンセントの掌が剣を握るヨスガの手に乗せられた。
手袋越しでも分かるほど冷たい彼の手に、ヨスガは驚いて彼を見上げた。ヴィンセントは穏やかな微笑みを湛えながらも、隻眼は氷柱のような鋭利さで魔物を射貫いている。
「……成程。あれがルーベンの言っていた魔物化した幻獣ですか」
「はい。きっとどこかに種があって、それを壊せば魔物を倒せます」
「では、奴は私が対処します。君とルカくんは、村民の避難に回ってくださ――」
「セリカ!」
ヴィンセントの言葉に被さって、悲鳴のような男の声が響いた。
振り向いたヨスガの目に、道端で蹲るセリカとその肩を支える亜人族の男――セリカの夫であるロナルドだ――が映る。夜闇の中でも分かるほど、彼女の表情は青褪めていて脂汗が滲んでいる。動けないふたりに襲い掛かる犬の魔物を、ヨスガとルカで斬り倒した。
「セリカさん、どうかしましたか!? どこか怪我でも……」
「ち、が……赤ちゃんが……痛ッ……」
ヨスガの足元で、ビシャ、と水を踏む音がした。血かと思ったそれは透明な水で、セリカの足の間から流れている。
破水だ、とルカが焦燥を滲ませた硬い声で言った。
「は、破水……?」
「赤ちゃんが生まれそうってこと。今、この場で!」
「そ、そんな! 予定は冬栄万聖節の後のはず――ひぃッ!」
ロナルドが覆い被さるようにセリカを庇う。魔物となった熊が歪な咆哮を上げて、こちらへ突進してきた。
武器を構えるヨスガとルカの眼前に、薄紫色の外套が躍る。肌を裂くような冷たい風が吹き抜け、熊の巨体が一瞬で氷漬けになった。
白い息を吐いたヴィンセントが、ヨスガたちを振り向く。普段は灰色の隻眼が蒼く発光していた。
「ご無事ですか?」
「はい、大丈夫です。魔物は……倒せたんでしょうか」
「いえ、恐らく一時的な足止めにしかならないでしょう。――それより、ご婦人の容態は?」
「陣痛が来てるみたい。お姉さん、歩ける?」
「む、無理……」
セリカは首を横に振る気力もないのか、ぐったりと体をロナルドに預け、呼吸と呻きを繰り返すだけだ。
ヴィンセントが近くの家の扉を、蝶番を壊して外してきた。
「ご婦人をこちらに寝かせて、丘まで運びます。――グレイス、ジェキル!」
ヴィンセントは近くで魔物を討伐していたふたりの候補生を呼び、セリカを扉に寝かせて運ぶよう指示した。体格の大きな竜人族の女と獣人族の男は、セリカの横臥わる扉の前後に立ち、駆け足で丘へ向かっていく。ヨスガとルカは対処役として、セリカを襲う魔物を退けながらその隣を走った。
その時、ヨスガは項の産毛が逆立つ感覚がした――殺気だ。
ヴィンセントの氷の拘束を解いたのか、熊の魔物が家や木にぶつかりながら追いかけてきた。狙いはやはりヨスガのようで、血泥に塗れた鋭い爪が振りかざされる。その腐った腕を貫いたのは、氷をまとったヴィンセントの剣だった。
死骸でも痛覚はあるのか、耳障りな悲鳴が響く。魔物が怯んだ隙に、ヴィンセントが高い氷壁をヨスガたちとの間に作り出した。巨大な壁の内側には、ヴィンセントと魔物が閉じ込められたことになる。
「ヴィンセントさん!?」
「走りなさい、ヨスガくん。ご婦人も生まれてくる赤ん坊も、決して死なせてはなりません! それが聖騎士としての責任です!」
ヨスガは剣を握り、セリカたちの後ろについて走った。
最初に聞いていた話は、獣が一匹出たというものだったはずだ。しかし報告よりも魔物の数が多かったことから、一番危険な熊の魔物はヴィンセントが対応することにしたのだろう。
本当は魔物に狙われやすいヨスガを己の傍に置き、戦う力のない村民たちから離したかっただろうが、未熟者のヨスガを守りながら戦うのはヴィンセントの大きな負担になる。魔物となった熊が凶暴な錬塊熊だったこともあるだろう。錬塊熊は食べた銅や鉛などの鉱石を体表や爪にまとう、西のクォルラ地方にしかいない幻獣だ。湿気を嫌うはずの熊が、アルシエール地方の川沿いに現れるはずがない。
ヨスガはぐるぐると巡る思考を振り払うように、剣で魔物を斬る。
ヴィンセントは強いから、負けることは絶対にない――そう自分自身に言い聞かせながら、避難場所にした丘の上にある水車小屋まで走った。
水車小屋は、村で採れた麦の脱穀場所でもあり、五十歩ほどの広さがある。魔物避けの松明が焚かれ、候補生たちが哨戒や魔物の対処に当たっている。
ルカが体当たりをするように水車小屋の扉を開けた。
「産婆さんはいますか!?」
ルカの言葉に村民たちは驚いた声を上げたが、続いて入ってきた扉に横臥わるセリカの姿に、濁流のようなどよめきが走った。
地面に降ろされたセリカの傍に歩み寄ってきたのは、マーレを始めとした女たちだった。男たちは壁際に追いやられ、ヨスガも小屋の隅で女神に祈るロナルドの傍についていることしかできない。
破水してる、陣痛が早いなどといった声が飛び交う中、ルカが「ねぇ」と村長のゲオルグに声を上げた。
「村にはお医者さまはいないの? 産婆さんは?」
「少年よ。このような小さな町に医者はおらぬ。出産は女たちが協力して行うから全員が産婆のようなものじゃが……確かな知識があるわけではない」
「じゃあ、普段は病人が出たらどうしてるのさ!」
「定期的に、ラドゥーという町から医者が回診してくれておる。次に来るのは三日後じゃ……」
「もう、この場で産むしかないってこと……? そんなの危険すぎる。薬も何もないのに……!」
ルカが銀髪を掻きむしりながら、ウロウロと歩き回る。その間もセリカは荒い呼吸を繰り返し、女たちは自分の服の裾を破って手巾にして彼女の汗を拭っていた。ヨスガはただ立ち尽くし、その様子を見ているしかない。何かをしたいのに、何をすればいいか分からない――途方もない無力感だった。
ルカがその場を五巡ほど回った時、不意に足を止めた。
「……村長さん。ラドゥーの町って、どれくらい遠い?」
「え? えぇと……馬車で行けば、時の鐘ひとつ程度でしょうか」
時の鐘は、神殿の鐘楼で鳴らされる時報だ。アルシエール地方にいれば、どこからでもその音色は届く。ルカは水車小屋に向かう途中、低い鐘の音がひとつ聞こえたという。『深更の鐘』だ。鐘ひとつ分の距離ということは、次の鐘の『月明の鐘』が鳴る間には着くということである。
ゲオルグの言葉を聞いたルカが、ヨスガを見た。滅紫色の瞳には、覚悟が宿っている。
「ヨスガ、レラを貸してほしい」
「レラを? ど、どうして……」
「セリカさんをラドゥーの町まで運ぶんだ。お医者さまを連れてくるより、直接運んだ方が早い。荷車にセリカさんを乗せて、君がレラに乗る。ボクが魔物の対処をすれば、きっと――」
「そんなのできるわけがない!」
立ち上がって叫んだのはロナルドだ。
「ただでさえ早産で危険な状態なのに、魔物の出る道をラドゥーの町まで行くだなんて……! これ以上セリカを危険に晒せない!」
「けれどロナルドさん、今ここで産むのも危険だよ! 薬もないし、臍の緒を切る器具もないんだよ。あたしたちの手じゃ、どうにも……」
「じゃあどうすればいいんだ! このままセリカと赤ん坊が死んでいくのを、ただ見てるしかないっていうのか!?」
ロナルドとマーレ、双方の言い分はヨスガにも理解できる。しかし、話し合う時間が長引くほど、セリカと赤ん坊の命は死へと傾いていく。
ルカの提案通り、レラでラドゥーの町まで運んだ方がいいのだろうか。だが『黄昏の器』であるヨスガを狙って、宵闇の魔物が大挙して襲ってくる可能性もある。ヨスガはまだレラに乗りながら剣を振ったことはないし、ルカひとりで対応できるかも分からない。セリカと赤ん坊を守りながらラドゥーの町へ辿り着けるかどうか、自信がなかった。
「あ……あなた……」
「セリカ……!」
喘ぐようなセリカの声が聞こえ、ロナルドが飛びつくようにセリカの手を握りしめた。
「お願い……わたしのことはいいから、赤ちゃんを……」
「そんな弱気なこと言うなよ……! 何とかして、セリカも赤ん坊も助けるから……!」
ロナルドの声は、ほとんど泣き声に近かった。叶う見込みが薄い希望を口にしていると、自分自身でも分かっているのだ。
その時、ヨスガの胸で封幻石が震えた。ヨスガが魔力を注いでもいないのに、赤い石から光の粒子が飛び出して扉の隙間から出ていく。ヨスガも遅れて外へ出ると、明々と鬣を燃やすレラが佇んでいた。
フルル、と嘶いたレラが首を向けたのは、小屋の脇に置かれている麦袋を運ぶ荷車だ。
封幻石は、所有者の感情による魔力の揺れを幻獣に伝える。ヨスガは迷っているのに、レラの赤い瞳は強い光を宿している。
――レラはもう、覚悟をしているのだ。
「……分かったよ、レラ。ルカ、セリカさんをラドゥーの町まで運ぼう」
「ま、待ってくれヨスガくん! さっきの話を聞いていただろう? 夜は魔物が……!」
「確かに、黄昏樹の松明を焚いていても、奴らは襲って来るでしょう。魔物はルカと――グレイスさん、ジェキルさん!」
ヨスガは先程セリカを運んでくれた、ふたりの候補生に声をかけた。
「セリカさんをラドゥーの町へ運ぶのを、手伝ってください。おふたりは天涯騎士団への配属を希望されていましたから、馬に乗りながら魔物を倒すことも慣れていますし、馬の持久力もありますよね。セリカさんを荷車に乗せて、レラが曳きます。おふたりは左右から守ってください」
「だが、君はまだ早駆けの訓練も受けていないだろう? さすがにそれは……」
「それでも、セリカさんと生まれてくる赤ちゃんを守るには、もうこれしかありません! 縫焔馬のレラは、僕が魔力を注げば夜通しでも走り続けられます」
以前、ジェラルドから「馬は魔力を食べる」と聞いたことがある。物質的に食べるのではなく、自然界に宿る魔力を鬣や体毛から取り込んで糧とし、体内の魔力が続く限り走り続けられるのだ。それは騎乗者からの供給でも同じで、ヨスガとレラは相性も合うから、魔力を注ぎ続ければ彼女はラドゥーの町まで荷車を曳くことができる。
それでもふたりの候補生の表情は不安なままだった。背中には村人たちの怪訝な視線も刺さっている。
今回の任務に参加している候補生の中で、天涯騎士団を志望し己の馬を連れてきているのはこのふたりだけだ。どちらかの馬に荷車を曳かせたとしても、今度は魔物の対処に手が回らなくなる。ヨスガとルカだけでもラドゥーの町へ辿り着くことはできないから、グレイスとジェキルの協力は必須なのだ。
ヨスガの脳裏に、ヴィンセントの言葉が思い出される。セリカの命と赤ん坊の命を守ること――それが聖騎士の責任だ。もしも今この場に彼がいたら、ヨスガと同じことを言うだろう。
「僕が雛鳥だろうが未熟者だろうが、消えかかっている命の前ではそんなこと関係ありません! 無理を言っているのも、賭けに近い危険なことも分かっています。けれど、どちらかを生かすためにどちらかの命を犠牲にすることは、あってはいけません! 決断が遅れれば遅れるほど、セリカさんと赤ちゃんは手遅れになります。今ならまだ間に合うかもしれないんです。責任は僕が負いますから、お願いします!」
ヨスガは深々と頭を下げる。
グレイスとジェキルが互いに顔を見合わせ、頷き合う。それぞれの封幻石から、体格のいい荊雷馬と風溟馬が現れた。
「若い奴にそこまでの覚悟見せられたら、ウチらも動くしかないじゃないのさ」
「その代わり、失敗は許されないぞ。やれるか、ファリエール」
「はい! ありがとうございます!」
ヨスガはふたりに礼を言って、すぐに小屋脇の荷台へ走った。
グレイスとジェキルが荷台をレラに繋いでいる間に、ヨスガは台上に藁を敷き詰める。布を被せて簡易的な寝台を作り、その上にセリカを寝かせた。
出産に詳しい女を誰かひとりは乗せたかったが、多くの人数は乗せるとレラの負担も大きくなり速度も落ちるため、ロナルドとルカが乗ることとなった。荷台には魔物避けの松明を挿し、ヨスガはレラに跨った。
「ラドゥーの町へは、川沿いに北へ進みなされ。分かれ道などはありませんから、いずれ煉瓦の街並みが見えるでしょう。セリカを頼みましたぞ」
「はい、必ず助けます。……頼んだよ、レラ。僕の魔力、全部持っていっていいからね」
ヨスガはレラの首を撫で、魔力を籠める。彼女の赤かった炎の鬣が、黄昏色に変わった。
ヨスガが踵で腹を蹴ると、黒々とした夜闇の中へ、レラは放たれた火矢のように勢いよく走り出した。




