一年目、夏秋 ―寄宿舎『雛の鐘』―
雨期が終わり、毛布を被って眠ると汗ばむようになった夏が訪れた。
鏡台で寝癖を直したら、乱れた寝台を普段より丁寧に整える。本棚や衣装棚、机の中を確認して、忘れ物がないかを指をさしながら細かく確認する。昨日の夜も確認したのに、どことなく不安が付きまとうのは、今日を境にここへは気軽に戻れないからかもしれない。
隙間から光が漏れてこないように、窓幕を端までしっかりと引いて、ヨスガは自室を見渡した。
一年前、初めてジャクリーンからこの部屋を見せられた時、屋根裏にしては広くて自分にはもったいないとさえ思っていた。しかし今は、心なしか小さく感じた。それはきっと、家具が増えたからだけではないだろう。
「ヨスガ、準備できたかぁ?」
「はい、今行きます」
階段の下からのルーベンの呼びかけに返事をして、昨夜の内にまとめていた荷物を持った。レオンハルトからもらった鞄も忘れずに肩にかけて、扉を閉めた。
荷物と言っても、下着や文具など最低限のものしか入っていないため、大きい旅行用鞄ひとつで事足りる。両手で牛革の鞄を持って階段を降りると、ルーベンとジャクリーンが待っていた。
「忘れ物はねぇな?」
「はい」
「じゃあ、もう出るか。早めに着いて悪いことはねぇ」
「いってらっしゃい、ヨスガ」
潤んだ声音で、ジャクリーンに抱き締められる。洟を啜る音が頭上から聞こえた。
「あぁ……ついにこの日が来ちまったんだねぇ……」
「大袈裟だな、ジャクリーン。なにも、一生会えなくなるわけじゃねぇんだ。次の万聖節には帰ってくるさ」
「それがどんだけ先だと思ってるんだい! 今日からヨスガのいない日々を過ごさなきゃいけないなんて……想像もできないよ」
ルーベンから促すように肩を擦られたジャクリーンは、渋々といった感じでヨスガを解放する。
エパの焼ける香ばしい匂い。香辛料と香草、窓辺で揺れる花の香り。安心できるふたりの体温。ヨスガもこの温かさにずっと包まれていたいが、どれだけ名残惜しくても手放さなければならない。
ヨスガは腹が腿につくほど、深く頭を下げた。
「ルーベンさん、ジャクリーンさん。一年間、育てて下さってありがとうございました」
ふたりは突然異世界へ来たヨスガに、温かい食事と寝床、騎士として生きる力を教えてくれた。縁も所縁もない子供なのだから、出来が悪ければ叩き出しても良かったのに、ふたりはヨスガに居場所をくれた。
ヨスガの頭ひとつ下げたくらいの感謝では、到底足りないくらいだ。
「……最初にお前が来た日のことを思い出すな。今みたいに、こっちが畏まるくらい礼儀正しい挨拶だった。あの日から、随分と見違えたもんだよ。木刀を持つだけで精一杯だったのに、今じゃ鋼の剣で魔物と戦えるくらいになった。お前が努力を忘れなかったからだ」
ルーベンに頭をくしゃりと撫でられて、ヨスガは顔を上げた。
「士官学校に入学したら終わりじゃねぇ。聖騎士になるには、もっと多くの努力を重ねなきゃならん。時には努力が実らないことだってある。何をやっても上手くいかない、自分の力が足りないことに絶望する時もある。それでも前に進み続けた者だけが、聖騎士になれるんだ。――お前にできるか?」
ヨスガはわずかに視線を爪先へ向けた。だが、一秒も経たない内に再度顔を上げて頷いた。
上手くいかない不出来な己自身に絶望するのは、日本にいた頃から慣れている。腐らず、立ち止まらず、何度も歩き出すことを教えてくれたのは、他ならぬふたりだ。
できるかどうか、まだヨスガには分からないが、やってみたいと思う。
まっすぐに己を見つめ返すヨスガの瞳に、ルーベンは満足そうに頷いた。どこか面映そうな笑顔だった。
「よし、じゃあ行ってこい! ああは言ったが、無理だけはするんじゃないぞ。体を壊したら元も子もねぇからな!」
「勉強や鍛錬も大事だけど、食事と睡眠は疎かにしちゃ駄目だからね。辛くなったら、いつでも帰っておいで。ヨスガの好きなシチューを作って、待ってるから」
「はい、行ってきます!」
荷物を持って、ヨスガは店を出た。
空は濁りもなく蒼を湛え、遥か天上へ昇った太陽は石畳に濃い影を敷いている。季節の隙間を埋めるような長雨の余韻を残す、まとわりつくような湿気も、今は気にならない。
――ヨスガは今日から、クラリシア聖騎士養成学校の寄宿舎に入るのだ。
目の奥に力を入れていなければ、安心できるふたりの元にずっといたいと叫ぶ心の弱い部分が溢れ出しそうだ。ふたりが店先まで出てきて、ヨスガの姿が街角に消えるまで見送っているのも分かっていたから、振り返りもせずに足を動かす。
目尻から顎へ伝い落ちる雫を拭うこともせず、ヨスガは止まることなく街道を歩き続けた。
◆◇◆
神殿の西側、聖騎士団本部の敷地内に、クラリシア聖騎士養成学校はある。
更に言うと寄宿舎『雛の鐘』はその北側、学校の演習場の反対側にある。名前の由来になった釣鐘を半分に割ったような形の、四階建ての古い建物が木々に囲われるように建っていた。外壁の煉瓦はほんのりと黄味を帯びた白色で、所々に這う蔦の緑を濃く浮き立たせている。
ヨスガは早めに着いたつもりだったが、構内は既に入学者で溢れていた。寄宿舎に入るのは、基本的に遠方の町や他の地方から入学する者たちだ。しかし、ブランシェールに家があっても、子供に自立を促す目的で入居させる親も多い。
まずは入り口で入学許可証を提出し、事前に学校の方で割り振られている部屋の鍵を受け取らねばならない。寄宿舎の外まで続く列の整理をしている上級生の指示に従って並んだが、まだまだ順番は先のようだ。
「君、不思議な髪をしているねぇ」
自分の番が来たらすぐに提出できるよう、肩掛けの鞄に入れていた入学許可証を手前に移動させていると、隣から話しかけられた。
少し背の高い、くすんだ金髪に薄氷のような蒼い瞳の美少年が、ヨスガの髪をしげしげと眺めていた。
「あぁ、失礼。これまでたくさんの美髪を見てきたけれど、こうも美しく左右に分かれている髪は初めて見たものだから、さ。地毛なのかい?」
「う、うん、生まれつき。えっと、君は……?」
「おっと、名乗りもせず無礼だったね。俺はジェラルド・フィン・バシュラール。北のセルザヴァン地方の出さ」
「僕はヨスガ・ファリエール。冠姓があるってことは、貴族?」
ご名答、とジェラルドは柔和に目尻の垂れた片目をパチンと瞑った。
『冠姓』とは、巫女からクレイスト大陸を支える力を持つ者へと与えられる特別な姓だ。
商売で多額の資産を得ている者。他者には真似のできない優れた技術を持っている者。福祉や神殿に多くの貢献をしている者。世界へ奉仕する力のある者たちが神殿から認められると『冠姓』を与えられ、貴族と名乗ることができる。
貴族になると、政治への参加や巫女への謁見が認められる。しかし、その地位は永遠ではなく、一般的な民が納める税とは別に『貴族税』を納め続けなければならない。
税の内容は貴族が自分で決め、巫女へ宣誓し、女神との契約とするのだ。
だがそれはアルシエール地方の貴族の話で、セルザヴァン地方の場合は少し違うらしい。興味を惹かれたが、彼はあまり話したくないのか歯切れ悪く頬を掻くばかりだった。
「……それにしても、列、長いね」
「確か、寄宿舎に入るのは百三十人くらいだったかな。例年より少し多いようだから、時間がかかっているんだろう」
「ジェラルドくんは一般試験を受けたの?」
「いや、俺は特例。受けなくてもいいのなら、そっちの方が楽だろう? 俺は別に聖騎士になるために入学するわけじゃないし」
「え……騎士にはならないの?」
「まぁね。最近はそういう奴のほうが多いんじゃないかな? 貴族は特にね」
当然だと言わんばかりの彼の言葉に、ヨスガは目を瞠った。
士官学校に入学する者の全員が聖騎士となるわけではないと知ってはいたが、意識の差がここまで違うとは思っていなかった。
ジェラルドも背中に二本の槍を背負っているから、聖騎士を目指しているのかと勝手に考えていた。シャロンの槍は柄の半分ほどまでが円錐型の穂先だったが、彼のものは湾曲した短い穂先で、全長はヨスガの剣より少し長いくらいだ。
ラルフのように二刀流――この場合は二槍流か――で戦うのだろうかと思っていると、ジェラルドは肩に手を回してきてパシパシと叩いた。
「ヨスガくんは聖騎士を目指しているんだろう? 夢があるのはいいことじゃないか! 応援するよ、俺は」
「うん、ありがとう」
「ま、今日ここで会えたことも学友となることも、全ては女神様のお導きさ。たった三年間でも、仲良くしようじゃないか」
「そうだね、よろしく」
差し出されたジェラルドの手を握り返す。ヨスガよりも長くほっそりとした指だったが、親指と小指の付け根には肉刺が潰れて硬くなった部分があった。
ジェラルドは話好きなようで、ヨスガが相槌しか返せなくとも気にしていないようだった。
彼の故郷であるセルザヴァン地方は人間が王国を築いて統治しており、製鉄と宝飾品が主な特産品のようだ。だが、土地は全体的に痩せており、農耕は限られた場所でしかできないため、生鮮食品の大半を他地方からの輸入で賄っているという。
肉や魚は腐敗防止のために塩漬けや香草漬けにされているから、彼は塩辛くない肉をいつでも食べられるブランシェールを羨ましがっていた。
やがて列も進んで、ヨスガたちの番になった。
神殿の役所から派遣された、やや疲れた様子の女に入学許可証を渡すと、二、三回ほど目が上下して判が押された。判からは、わずかに魔力を感じる。もし許可証が偽装された書類であった場合、顔料が黒くなる魔導具らしい。
ヨスガとジェラルドの許可証には赤い顔料の判が押印され、部屋の鍵と寄宿舎の見取り図を手渡された。昇降口や食堂といった共同区間を中心に、男は東館、女は西館に分けられている。
新入生は三階に割り当てられているようだ。部屋に一番近い階段は今いる昇降口からは奥の方で、同じ方向へ行く者たちの背中についていけば迷うことはないだろう。
「俺の部屋は、手前の階段が近いようだ。寂しいけど、ここで一旦お別れだ、ヨスガくん。また明日、学校で会おう」
「うん、また明日」
ジェラルドと軽く手を振って別れ、ヨスガは人波に流されながら階段を目指した。徐々にその歩みが重く感じるのは、荷物が重いからではない。
寄宿舎の部屋は、原則的にふたり一組で使用する。ヨスガにとって、それが唯一の不安要素だった。厄病神と疎んじられていた日本では、周囲の協調を乱すからと施設から多人数用の部屋を与えられてもひとりで使っていた。
自分は厄病神ではない、もう誰かを不幸にすることはないと己に何度言い聞かせても、同室になる者とちゃんと良好な関係を築けるか不安はつきまとう。
それでも足を動かし続ければ、いつかは目的地に辿り着く。鍵に括りつけられた丸い金属板に刻印された番号と、扉に鋲打ちされた表札の番号が同じであることを何度も確認した。
深呼吸をして、まずは挨拶から始めなければと頭の中で繰り返す。意を決して鍵を握った手を扉へ伸ばしたが、鍵の先が穴に入る直前に扉の丸い取っ手が回った。
勢いよく開かれた扉の向こうにいたのは、額と目の下を滅紫色の幾何学模様が彩った銀髪の少年だった。
彼はヨスガを見るなり、くりくりとした大きな双眸を見開いて笑顔を浮かべた。
「キミがボクの同室になるヒト? ようこそぉ! 待ってたよぉ!」
両手を大きく広げて、少年は軽快に飛び跳ねる。その度に長い耳朶に沿ってぶら下がる耳飾りが、シャラシャラと涼やかな音を立てた。
ヨスガが入り口で呆けていると、少年に手を掴まれて部屋へと引き入れられた。
「えへへへ、優しそうなヒトでよかったぁ! あ、ボクは勝手にこっちの寝台を使わせてもらってたけど、いいかな? でもまずは重そうな荷物を降ろすのが先だね。わぁ、この鞄、滑らかな革でできてるね! 何の革だろう、ローノ牛かな、ガボ羊かな? それともスノイア馬?」
矢継ぎ早に少年の口から放たれる言葉に、ヨスガは答えを挟む間もなく戸惑うことしかできなかった。その様子に気づいたのか、少年が申し訳なさそうに頭を掻いた。
「ごめん、ボクばっかり話しちゃって……大陸に来るのは初めてだから、何でも珍しくてさ」
「大陸に来るのは初めてって?」
「うん。ボク、北西の海の果てにあるヴァレィア島から来たんだ」
少年は分厚い本が積まれた机の引き出しから地図を引っ張り出し、ここ、と指差したのは紙面の左端だった。小さな三角形の島があり、名前は書かれていない。
「こ、こんな遠くから……!?」
「そうだよ。お船には三日くらい乗ってたかなぁ。ここまで来るには二十七日かかったよ」
「それは……長旅だったね」
「でも楽しかったよ! ボクの一族は島から出ちゃいけないって掟があるから、見るもの全てが不思議で、鮮やかで……本で見るよりも感動したよ! もっとゆっくり見たかったけど、聖騎士のヒトが迎えに来てくれた手前、ワガママは言えなくてさぁ」
「お、掟……すごい所から来たんだね……」
少年の話はヨスガの想像力で補える限界を遥かに超えており、呆けたような相槌を打つことしかできなかった。
恐らく、彼は士官学校の入学者の中で一番遠い所から来ている。そのため、寄宿舎に入ったのも誰より早く、十日前から生活しているらしい。
「あ、自己紹介がまだだった! ごめん、ボクばっかり喋っちゃって。ボクはルカ・ミスティオ!」
「僕はヨスガ・ファリエール。これからよろしく、ルカくん」
「ルカでいいよぉ、ボクもヨスガって呼ぶしさ! 島暮らしが長くて大陸の文化とか、まだよく分かってないんだ。色々と迷惑かけちゃったら、ごめんねぇ」
「いいよ、大丈夫。僕も……えっと、一年くらい前まですごい田舎に住んでて、同じようなものだから」
「そうなんだ! えへへ、一緒だねぇ! ちなみに、どこに住んでたの?」
「あー……えーっと、この辺り、かな」
ヨスガはブランシェールから北東周辺を丸く囲った。ルカは笑みを潜め、やや驚いた様子でヨスガを振り向いた。
「この辺りって……『ツヴィアリーの戦闘』があったところじゃない?」
「うん、僕はその近くの村で生まれたんだけど……身寄りがなくなって、去年こっちに来たんだ」
「そっかぁ……大変だったんだね」
労るルカの言葉に、ヨスガの胸奥が針で刺されたように痛んだ。
ルカに語ったことは、ルーベンが考えてくれた嘘だ。もし出自を細かく聞かれたら、こう答えるようにと言われていた。
ヨスガが示した辺りでは、十年ほど前に宵闇の魔物と聖騎士団の大規模な戦闘があったらしい。ツヴィアリーという小さい農村に、宵闇の魔人が大量の魔物を引き連れて現れたのだ。
甚大な被害を出しながらも魔人を退却させることができたが、ツヴィアリー村は壊滅した。跡地からは絶えず魔物が現れるようになり、周辺の村も故郷を捨てることを余儀なくされた。ターナ街にいる者のほとんどは、この戦闘で生まれた難民であるという。
極北の孤島から出たことのないルカすら知っているのだから、大陸に相当な影響を与えたことが窺える。
そういった事情があるため、ツヴィアリー周辺の出身だと言えば大抵の者は深く詮索はしてこない。会って間もないルカに嘘をつくのは心苦しいが、ヨスガが神託を受けて生まれた存在だと悟られないためには必要なこと――そう自分に言い聞かせた。
「そういえば、ルカは聖騎士を目指してるの?」
持っていた荷物をもうひとつの机の上に置きながら、ヨスガは尋ねた。
ルカは首を横に振る。
「こっちにいるのは三年だけ。ボクは一族の族長にならなきゃいけないんだ」
「族長に?」
「そう! ボクの一族はね、ずーっと昔からとっても大切なお役目を神殿から仰せつかっているんだ! そのお陰で島からは出られないけど、他の誰にもできないお役目なんだよ!」
そう言って、ルカは誇らしげに胸を張った。
せっかく仲良くなれそうなのに共に聖騎士となれないのは残念だが、彼には彼の未来がある。当然だが、それをヨスガが捻じ曲げていい資格などない。
日が傾き、夕食の時間を告げる鐘が鳴るまで、ふたりはお互いのことを話し合った。もちろん己が『黄昏の器』であることは伝えていない。同様に、ルカも自身の全てをヨスガに曝け出しているというわけでもなさそうだった。
本人は「島育ち故に世間知らず」と言っていたが、その知識量は好奇心の深さと比例するように膨大で、話していて楽しい。だが、明日は入校式であるため、早めに床に就くことにした。
同じ部屋に自分以外の誰かがいることに緊張するかと思ったが、先に寝入ったルカの寝息に誘われるように、ヨスガも自然と眠りの中へと沈んでいった。




