黄昏の世界 ―神託の夜―
星も月もない夜だった。
白亜の首都、ブランシェールは眠りに沈み、辻に立つ不寝番の騎士を魔鉱燈の緋い光だけが柔らかく照らしていた。調子外れな歌が響く酒場も灯りを落とし、今は風と珀眼梟の夜啼きが遠くに聞こえるだけの、何も変わらない静かな夜が更けていく。
――だが、それを見た者は多かった。
ブランシェールの遥か上空に亀裂が生まれた。それは眩い光に押されるように広がり、やがて太陽の如く煌々《こうこう》と街を照らしていく。
光に気づいた騎士たちが空を指さしながら慌ただしく動き始め、朝日と勘違いしたカンライ鶏が甲高く鳴き、眠りから叩き起こされた住人は窓から身を乗り出した。――静かだった夜が、にわかに騒がしくなる。
亀裂から溢れる光は、ブランシェールの中心に佇む黄昏神殿に降り注いでいた。神殿の守護を任されていた金環騎士団団長のレオンハルト・ノエンドルフは、波打った朝焼け色の髪を適当に束ね、しかし鎧は隙もなく装着し早足で回廊を進んでいた。
「ブランシェールの内側は流星騎士団と烈日騎士団、外側は四方を天涯騎士団、銀鉤騎士団、碧天騎士団、凍雲騎士団で固めろ。住人には家屋から出ず、身の安全を確保するよう伝えるんだ。月虹騎士団と星雲騎士団は騎士学校と寄宿舎の守護を頼む。くれぐれも雛鳥たちを混乱させないように」
「はっ!」
緊張した面持ちで短く一礼した若い騎士たちは、小走りで駆けていく。
入れ替わるように、ふたりの騎士がレオンハルトを呼びながら駆け寄ってきた。赤紫色の髪を編み上げた女騎士と、深い蜜色の短髪が美しい男騎士だ。
女騎士が先に口を開いた。
「レオンハルト総帥、神殿上空の亀裂は依然拡大を続けているようです。今のところ宵闇の魔物が出現したという報告はありません」
「分かった。魔物が出る前に、コトが終息すればいいんだがなぁ」
「クラリア川上にいる碇星騎士団と各地に散った空明騎士団からの報告では、ブランシェールから離れた場所の魔物も活性化している様子はないそうです。むしろ、どこか恐れているような感じもすると……」
「恐れる? 魔物が?」
レオンハルトが問い返すと、彼女も複雑な表情で頷いた。報告内容に嘘がないことは知っているが、信じられないとでも言いた気だ。生真面目で不明を許さない彼女にしては、珍しく歯切れも悪い。
情報が満足に集まっていない現状は焦燥と混乱を煽るが、ここで聖騎士を取りまとめる立場であるレオンハルトが平常心を崩せば、部下も惑う。異常事態に乗じて魔物が街に攻め込んで来ないならそれでいい。
努めて普段通りの口調と表情で、金髪の男騎士を振り返った。
「亀裂について、月虹団長殿は何か言ってたかい?」
「それが……不明、とのことです」
「はぁ?」
簡潔な男騎士の返答に声を荒げたのは女騎士だ。涼やかな眦を吊り上げ、頭ひとつ分上にある男騎士を睨みつける。彼女の反応は予想済みのようで、彼はさして取り乱すこともなく困ったように肩を竦めた。
「正直、それしか言うことはないからそのまま総帥に報告しろと言われました。空が割れるなんて生まれて初めてだと、笑っておられましたよ」
「森羅万象を知る方でも分からない事象か……はっははは、これは本当に困った、対策の立てようがない」
「笑っている場合ですか! 亀裂が観測されてから、かなりの時間が経過しています。事態が長引くほど民たちは不安になり、混乱が起きるかもしれないんですよ!」
「それは街に配置した騎士たちが上手くやることを信じるしかないさ。――そろそろお前たちも警備につけ。何かしら進展があれば、逐一私に報告しろ」
「はっ!」
ふたりが一礼し遠ざかる足音を背中で聞きながら、レオンハルトは回廊を抜けた。
『女神の間』へと続く廊下は、魔鉱燈の灯りも不要なほどに明るかった。高く緩やかに曲線を描く天井に嵌め込まれた色硝子が、黄昏色の絨毯に落とす彩影は色鮮やかで濃い。真昼の太陽より強い光に、レオンハルトの柳眉がわずかに寄った。
進んだ先には、光輪と大樹が刻まれた石造りの扉が聳えている。その前に、白い僧衣の上に鎧をまとったひとりの女神官が立っていた。彼女はレオンハルトの足音に気づくと、深く頭を下げた。
「レオンハルト総帥。夜分遅くにお疲れ様でございます。それとも……わたくしが見えていないだけで、もう日の出なのでしょうか?」
「いや、まだ真夜中だよ。神官たちに混乱はないか?」
レオンハルトの問いに、女神官は瞑目したまま頷いた。
「最初こそ多少慌てる者もおりましたが、巫女様がお声をかけて下さり今は平生を取り戻しております。――それより中へ。巫女様がお待ちです」
「分かった。君はこのまま神殿で待機していてくれ。魔物が出たという報告は今のところないが、混乱した民衆による諍いが起こるかも分からない。白夜騎士団としていつでも救護に駆け付けられるよう、準備を頼む」
「心得ました」
深々と一礼した彼女は、身の丈より大きな錫杖を杖代わりにしながら、確かな足取りで去っていった。
レオンハルトが名乗りを上げると、重厚な石扉がひとりでに開かれた。天から降り注ぐ光が扉の隙間から溢れて、レオンハルトの瞼を灼いた。
円形になった室内の中心、十二枚の花弁を持つ黄昏花を模した台座の上に、ひとりの少女が座っていた。
汚れなど知らない新雪を思わせる白く長い髪の彼女こそ、黄昏の巫女ライラだ。その瞳は静かに閉じられ、口元には淡い微笑みを湛えている。彼女を中心とした空気が震え、レオンハルトの頭に玲瓏な声が響いた。
『お待ちしておりました、レオンハルト総帥』
「ライラ様、神殿上空に詳細不明の亀裂が発生し、真昼のような光が差し込んでいます。今のところ宵闇の魔物の強襲を心配する必要はありませんが、ブランシェールには聖騎士団を配備し民の安全を最優先に警戒させております。こちらに異常は?」
『ありません。――そう警戒なさらずとも、貴方が考えているようなことは起こらないと思いますよ』
「それは、どういう……?」
首を傾げたレオンハルトの頬を、一陣の風が撫でていった。
ライラの背後に開け放たれた庭園には、夜露を乗せた背の低い草と色とりどりの小さな花々が、亀裂から注がれる光を受けて煌めいている。
その中に、彼女はいた。薄い黄昏色の寝間着に濃い蜜色の豊かな髪がしどけなくかかる、ライラより小さな体躯の少女が佇んでいる。その丸い大きな瞳はまっすぐに天上へ向けられ、光を受けて黄金色に染まっていた。
『お喜び下さい、お兄様。アリスは今、初めて女神様の声を聴いているのです』
少女――アリスが空へ向かって両腕を伸ばす。応えるように光がアリスを包み、亀裂の隙間からひとつの玉が零れ落ちてきた。無意識に、レオンハルトの手が腰に挿した剣に伸びる。
玉は歪みながら綿毛のように緩やかに落下し、やがて人の形を作った。裸身で、短い髪は黒い。アリスと同じくらいの少年だ。
アリスの腕の上に、少年の体が横臥わる。肋骨の線が見えるほど痩せた、腹に大きな傷跡のある枯れ木のような子供だった。少年を両腕に抱いたまま、アリスはレオンハルトへ向き直る。
何ひとつ感情のない黄昏色の双眸に射抜かれ、レオンハルトは剣の柄から手を離してその場に跪いた。
己の目の前にいるのは、幼い巫女見習いの子供ではない。『女神』なのだ。
『予言は成就せり』
アリスの花弁のような唇が動き、いとけない高さと老練な低さが混ざった声が大気を震わせる。
『――世に宵闇に来たりぬ。
水は泥に、風は毒に、花は石に、黄昏は宵闇に。
遍く命はみな、無限の闇に沈み一切の光を喪うだろう。
然れど、恐るるなかれ。
双子月が四度重なる晩夏、雲間を裂く暁光と共にひとりの子供が生まれるであろう。
その子供こそ、黎明の子。
黄昏を背負い、宵闇を封ずる黎明の子なり。
剣を持たせよ。然らば彼は汝らの敵を切り裂くであろう。
盾を持たせよ。然らば彼は汝らの友を守り抜くであろう。
然れど、宵闇は黎明の子を屠らんとするであろう。
宵闇が空を覆うその時まで、黎明の子を守り抜け。
我が愛しい黄昏の子等よ恐るるなかれ。
光は常に汝らと共に在るのだから』
彼女の唇から紡がれたのは、十二年前に常春万聖節で先代の巫女が告げた女神からの予言だ。
――そうか、彼が。
レオンハルトはアリスの腕から受け渡された少年の裸身を、鎧から外した黄昏色の外套でくるんだ。
「女神様の神託の侭に」
レオンハルトの恭順に女神は美しく微笑んだと思えば、唐突に糸が切れたように少女の身体が揺らいだ。咄嗟に彼女の背中へ右腕を差し込み支えたことで倒れることはなかったが、アリスは穏やかな顔で眠っている。
左右に昏々《こんこん》と眠る少年少女を抱え、空を仰げば眩しかった空は嘘のように暗く黙している。どこか呆然と眺める背中に、ライラから『お兄様』と声をかけられ我に返った。
『動き出してしまうのですね、運命が』
「あぁ……そうだね、ライラ」
『例え何があろうと、私たちの為すべきことは変わりません。ただ女神様のお言葉に従い、女神様の愛する民を守るだけ――レオンハルト総帥、聖騎士たちに警戒を解くよう伝えてください。今宵はもう何も起きることはないでしょう』
「はっ」
『ふたりは神殿で休ませましょう。くれぐれも内密に。……ふふ、アリスは今夜のことを明日もちゃんと覚えているかしら』
短く頭を下げ、いつの間にか背後に控えていた女神官たちにアリスと少年を託して、レオンハルトは巫女の間を後にした。
ブランシェールの内外に配備した騎士たちにも、元通りの夜空に戻ったことは見えているだろう。まずは騎士団長を集め、顛末を説明せねばならない。総帥や巫女からの言葉があっても、しばらくは騎士団も街も騒がしくなるだろうが、それは各団長たちの口も借りながら沈静化させていけばいい。
仄暗い回廊を歩きながら、レオンハルトの髪を冷たい夜風が揺らした。東の山際、そのなだらかな稜線がうっすらと視認できるようになっている。暗澹たる漆黒の夜が白い朝陽に染まるまで、もう間もなくだろう。
どうやら徹夜になりそうだと、レオンハルトは口の中で欠伸を噛み殺しながら駆け寄ってくる部下の元に急いだのだった。