厄病神 ―宵闇―
◆◇◆
「なぁ翔。お前、あの厄病神と一緒にいて怖くねぇの?」
宿題の漢字ドリルを埋めていた翔は、同室の少年、美智男に声をかけられた。
消灯時間の間際まで何をやっていたのか、彼は随分と息を切らせて、そして誇らしげな表情で部屋に戻ってきた。十中八九、他の部屋に悪戯でも仕掛けに行ったのだろうと、翔は溜息を吐く。三智男は翔と同じ八歳のくせに、三歳児のような行動ばかりするから、職員たちも手を焼いていた。
その上、彼はヨスガのことを嫌っていた。直接何かされたわけでもないのに、ヨスガを『厄病神』と呼んでいる周囲の声に乗っかって、遊ぶようにヨスガをいじめる。
この施設のヤツらは本当に馬鹿ばかりだと、翔は内心で悪態をつき、鉛筆を握る手に力を籠めた。子供たちも、職員たちも、噂なんかに踊らされてヨスガを見ようとしない。彼は優しくて、落ち着いていて、勉強だって先生より教えるのが上手いのに。
「怖くなんかねぇよ」
「つーかさぁ、お前って何であの厄病神と仲良くしてんの? 呪われても知らねぇぞ~」
「ヨスガにいちゃんは、そんなことしねぇ!」
堪りかねた翔が怒声を上げると、三智男はニヤニヤと笑いながら「怖ぇ~」とおどける。他の同室の男子らからも三智男と同じような視線を向けられていたから、翔は睨み返して牽制した。
翔がヨスガを慕う理由は、彼に命を助けられたからだ。
ヨスガが入所してきたのは、だいぶ雪の融けた冬の終わり頃だ。春休みの一週間前という変な時期にやってきた彼は、いつも俯きがちで誰とも交流をしようとしなかった。『あけぼの園』に入所している子供たちはみな、何らかの事情を抱えているから、ヨスガが暗い顔をしているのは翔も特に疑問には思っていなかった。だが、風向きが変わったのは彼が『厄病神』と呼ばれ始めてからだった。
誰が最初に言い出したのかは知らない。しかし、いつしか『あけぼの園』の中で、ヨスガはそう呼ばれるようになった。同じ時期に、ヨスガと接点を持った子供や職員が、怪我をしたり病気を患ったりすることが多くなった。
ヨスガに優しくすると不幸になる――そんな噂は一気に広がり、彼は孤立してしまった。
翔も最初は三智男や他の子供たちと同じだった。噂を聞いて、ヨスガに近づくことを怖いと思っていたのだ。
だが、ある日の学校帰り、被っていた帽子が風に飛ばされ、翔はそれを追って道路へ飛び出してしまった。
迫る車が視界に入り、頭を貫いた死の直感を翔は未だはっきりと覚えている。しかし、腕を強く引かれて歩道に倒れ込んだことで、翔は無傷で助かった。
――大丈夫?
落ち着いた声で訪ねてきたのは、ヨスガだった。偶然近くを歩いていて、翔が危なっかしい動きをして目についていたから、すぐに駆け付けられたらしい。翔の体に怪我がないか確認する彼は、厄病神という言葉など全く似合わない、優しい表情をしていた。
その時、翔は己がヨスガのことを知りもしないで、嫌悪していたことが恥ずかしく思えた。彼は翔を助けたことを忘れてしまったかもしれないが、翔だけはヨスガの味方でいようと決意したのだ。
その時、消灯を告げるチャイムが鳴って、翔たちは急いでベッドに潜り込んだ。間もなく佐久間が見回りに来るから、眠ったフリをしていないと罰が与えられてしまう。
何やら三智男のベッドからクスクスと楽しそうな笑い声が漏れ聞こえていたが、構わずに翔は目を閉じた。
明日は漢字の再テストがあるが、ヨスガとしっかり復習したから問題ないはずだ。良い点数を取れば、きっと彼はまた笑ってくれるだろう。
そんなことを考えている内に意識は沈み、次に起きたら朝になっている――はずだった。
誰かが大きく咳込んだ音で、翔は目が覚めた。一瞬だけ浮上した翔の意識は再度眠りの中へ沈んでいこうとしたが、己もまたひどく喉が痛んで咳が出た。
まるで埃が喉に絡まったようだ。気づけば、同室の子供たちも同じように激しく咳をしている。
じわりと翔の心に不安が滲む。叱られるかもしれないが、キッチンに水を取りに行こうかと考えていると、部屋の扉が勢いよく開いた。
起き抜けの目には暴力的なほどに眩しい懐中電灯の光を向けてきたのは、ひどく焦った表情の職員だった。
「みんな起きてる!? 急いで外に出るわよ!」
「ど、どうしたの、いきなり……」
「落ち着いて聞いてね、火事が起こったの。廊下の先にある非常階段から、外に避難するからね!」
職員の火事という言葉に、翔は背筋が冷たくなった。無意識に身体が震える――翔は三年前、家族を火事で喪ったことで、ここへ入所することになったから。
それは若い女の職員も分かっているようで、彼女は翔の手を握ってくれた。
「大丈夫よ、まだここまで火は来ていないわ。落ち着いてお兄さんお姉さんたちについて行って。消防車もすぐ来てくれるから」
「う、うん……」
職員は部屋で最年長の少年に翔の手を握らせ、他の部屋へも声をかけに行った。
廊下へ出ると、煙が天井を覆っていた。腕で口と鼻を塞ぎながら、非常口を示す緑のランプを頼りに早足で避難する。頭の中で学校で行った避難訓練での知識を反芻しながら、翔は上級生の後に続いて避難階段を降りた。
階段を降りるなり、翔は園庭の隅へと走った。背後から聞こえるバチバチという火が燃える音や、追い縋る煙から、一刻も早く遠ざかりたかった。
最後にふたりの職員たちも建物から逃げたことで、避難は完了したらしい。佐久間と近藤はどこかに出かけていたらしく、駐車場の方から駆け寄ってきた。
「あぁ、何てこと……火の元栓は確認したのに……」
燃え落ちる施設に呆然とした様子で、佐久間が呟く。そこには普段の魔女のような威厳はない。
泣き喚く子供たちを宥めながら、人数を確認していた近藤が、悲鳴を上げるように佐久間を呼んだ。
「子供の数がひとり、足りません……!」
「何ですって!?」
「そんな! 最後に全部屋見回って、誰もいないことを確認したのに!」
「誰がいないか分かる!? お部屋が一緒のお友達、ちゃんとここにいるかみんなも見て!」
職員の言葉に、翔は周囲を見渡した。同室の上級生ふたりもいるし、三智男の姿もある。
だが、この場には確かにいなかった――今、一番己の手を握っていてほしい、髪の一部分だけが白い彼が。
翔は近藤の服の裾を引っ張った。
「ヨスガにいちゃんがいない!」
「ヨスガくんが!? そんな……あの子の部屋は非常階段に一番近い所のはずよ。騒ぎに気付かないほど鈍感な子でもないでしょうに……」
「オレたちはやめようって言ったんだ!」
裏返った声で叫んだのは、三智男だった。
その隣にいた、小柄な少年も震えるようにコクコクと頷いて、口を開いた。
「ヨスガは厄病神だから悪いことを起こさないように、物置に閉じ込めようって、咲が……」
「バレたら怒られるからやめようってオレたちは言ったのに、ビビりなアイツは先生にチクらないから絶対大丈夫だって、咲が言ったんだよ!」
その場にいた全員から目を向けられ、咲は色を失った唇を戦慄かせる。その頬は青を超えて白く染まっており、ガタガタと震えている。
咲は「だって」とか細い声を零した。
「アイツが来てから、みんなが怪我したり病気になったりするから不安になって……。先生たちが前の施設でも関わった人が不幸になったって言ってたのを聞いて、少しビビらせたら悪いことしなくなるかなって思っただけよ。明日の朝には出してやるつもりだったの! 本当よ!」
「ヨスガが掃除道具をしまってる隙に、扉を閉めて外から鍵をかけたんです……」
「じゃあ、ヨスガくんはまだ納戸に!?」
「でも、リビングルームはかなり火が回ってたから、もう……」
わっと泣き始めた三人に、翔の中に怒りがこみ上げた。全身が沸騰するような感情に動かされるまま、咲たちに詰め寄った。
「お前ら、ヨスガにいちゃんを殺そうとしたのか!?」
「そ、そんなわけない! ただ悪戯のつもりで……火事が起こるなんて分かるわけないでしょ!」
「黙れよ、人殺し!」
殴りかかろうとした腕を、佐久間に止められた。そんなことを言ってはいけないと叱られても、何が悪いのか分からなかった。咲がヨスガを殺そうとしたのは事実なのに。
いっそ今からでも助けに行こうかと、施設を振り向いた翔の目に飛び込んできたのは、屋根までを覆う真っ赤な火の塊だった。
それを見ただけで、勇んだ翔の心がしぼんでいく。脳裏に焦げ付いた記憶が、翔の体を縛り付ける。
「……どうして怖がるんだ。ヨスガにいちゃんが、まだあの中にいるのに……助けたいのに……!」
頭の中では、漫画の主人公のように格好よくヨスガを助ける自分の姿をありありと思い描けるのに、身体は地面に縫い付けられてしまったように動かない。火の熱さや煙の息苦しさがフラッシュバックして、どうしても震えてしまうのだ。
その時、近藤が咲の前に立って肩に手を置いた。
「咲ちゃん、納戸にかけた鍵、持ってる?」
「う、うん……」
咲は羽織っていたカーディガンのポケットから、小さな銀色の鍵を取り出した。自転車に使うキーチェーンのものだ。翔の友達が、同じ物を持っていたから分かる。
それを受け取った近藤は、咲に礼を言って着ていたウィンドブレーカーを脱いだ。
「施設長、子供たちをお願いします」
「近藤さん、あなた、何するつもり?」
「ヨスガくんを助けに行きます」
彼女は水飲み場の蛇口を全開にし、バケツに溜めた水を頭から被る。佐久間たちが止める声も聞かず、近藤は施設へと走り出していった。
その後ろ姿を、翔はただ立ち竦んで見送ることしかできなかった。
◆◇◆
堪えきれないほどの喉の不快感に、ヨスガは眠りの海から引きずり上げられた。
体を起こして目に映る風景に戸惑ったのも一瞬で、咲に納戸へ閉じ込められたことを思い出した。月は隠れてしまったのか、室内は随分暗い。加えて、心なしか暑い気がする。
不意に大きな咳が出た。喉に綿埃が引っかかっている感覚がして、寝ている間に吸い込んだのかと思ったが、小さな違和感がヨスガの中で膨れていく。
視界の端に橙色の光がよぎった。磨り硝子の向こうが、やけに明るい。また咳き込む。息を吸った時に鼻を突いた焦げ臭さと、天井で揺らめいた黒煙に、背中が凍り付いた。
「か、火事……!?」
飛び上がり、扉に縋りつくように引手に指をかけるも、触れた瞬間に電流に似た激痛が走った。大火に熱せられた扉には触れることもできず、そもそも咲が鍵をかけていたから内側からは開けられないことも思い出す。
ヨスガは周囲を見渡す。せめて窓から煙を逃がし自分の存在を叫びたかったが、天井に合わせて取り付けられた高窓には届かない。
「そうだ、脚立!」
職員が棚上の物を取る時に、脚立を使っていたことを思い出した。目当てのものはすぐに見つかった。スチールラックの隙間に立てかけられていたそれを引っ張り出し、三段ステップの脚立を開いて最上段まで登って背伸びをするも、窓の縁にすら届かない。
ヨスガは自身の低身長を初めて恨みながら思考を巡らせる。段ボールの上に脚立を立てれば届くかもしれない。安定性があり、それなりの重量に耐えられそうな古本が平積みされた段ボールを見つけて、壁に押し付けた。
本の上に脚立を乗せ、窓に手を伸ばす。それでもわずかに足りなかったようで、縁に指先を乗せるだけで精いっぱいだった。
天井を濃く漂う煙に耐えながら懸命に指を伸ばすも、足元からビリという音がして段ボールが破れ、本が雪崩れて脚立ごとひっくり返った。
強打した背中の痛みに耐えていると、扉の向こうから金属が擦れる高い音を聞いた。ゴトンと固いものが落ちた振動はヨスガにも伝わり、ガラスに黒い人影が写り込んだ。
――よかった、助かる。ヨスガの顔に笑みが零れた。きっと咲がヨスガを閉じ込めたことを伝え、大人たちが助けに来たのだ。
だが、ほのかに綻んだヨスガの顔は、すぐに強張って引き攣った。
絹糸のような筋がいくつか走った扉が、暴力的な音と共に大小の木片となって吹き飛んできた。それらは熱風と共にヨスガを容赦なく襲い、咄嗟に両腕で顔を覆う。だが、隙間を擦り抜けた硝子の破片が肌を裂いた。
恐る恐る開いた目に映ったのは、子供たちの家同然だった施設を舐め上げる炎と、それを背に立つ巨躯の男。赤々と燃える炎も反射しない深い漆黒の鎧を全身にまとう姿は、まったくの非現実的で世界から隔絶されているようにも見えた。
何より異質だったのは、男の右手に握られた剣だ。鎧と同じく闇を湛えた切っ先が、ゆっくりと持ち上げられてヨスガを捉える。
「……見つけたぞ……『黄昏の器』よ」
兜越しでくぐもっているが、低く唸るような声はひどくヨスガの耳に障った。火事の熱で体の表面は熱いのに、内側には悪寒が吹雪のように渦巻く。逃げろと頭の中で声が響くのに、ヨスガはだらしなく尻餅をついたまま後退ることもできない。
男は剣を高々と振り上げる。兜の隙間から、血のように紅くギラついた瞳を見た気がした。
剣が振り下ろされるのと、ヨスガへ何かが覆い被さり視界が暗転したのは同時だった。
ウッと息を詰めた声が誰のものなのか、ヨスガは一瞬のことで分からなかった。――いや、分かりたくなかったのかもしれない。緩い流線を描く栗色のショートヘアに、ピンクのフリースタートルネック。ずるりと床に崩れ落ちた近藤の背中は、右肩から左の脇腹まで大きく切り裂かれていた。
「こ……近藤、さん……?」
「逃げなさい、早く……」
喘鳴の合間に、彼女の掠れた言葉が浮かぶ。鮮やかなピンク色が血で赤黒く染まっていくのを、ヨスガは震えながら呆然と見ていた。
しびれを切らし、近藤がヨスガの肩を強く叩く。
「いきなさい!! 早く!!」
立ち上がり、走り出すことができたのはほとんど無意識だった。
鎧の男の脇を擦り抜け、納戸から脱出すると、今までの比ではないくらいの熱が肌を焼いた。リビングルームの炎は天井まで舐め尽くし、床ではヨスガを手招くように揺らめいている。
込み上げる涙を呑み込み、火の海の中に残された一筋の道を走る。恐らく近藤が通った道だろう、ヨスガを導くように開け放たれたエントランスへと続いていた。
きっと外には避難した職員や子供たちだけでなく、消防隊員もいるはずだ。刃物を持った不審者に近藤が襲われたことを説明し、早く病院へ運ばなければ。
あと三歩で外へ出られる――そう思ったヨスガの足が止まった。
背中を突き飛ばされるような衝撃に、手足が空を掻いた。喉をせり上がる鉄の味と、腹に感じる強烈な違和感に目線を下げると、腹部から突き出る黒いものが見えた。
それが何か理解する前に、全身を浮遊感が包み視界が転げ回る。熱く固い床に叩きつけられた感覚も上手く拾えず、呼吸も満足にできない。手を腹に乗せると、激痛と共に目の奥で白い稲妻が瞬いた。掌にべったりとついた、このぬめりのある液体は何なのか。
赤く染まっていく世界で、漆黒が近づいてくる。男が仰向けに横たわるヨスガを見下ろし、剣先が喉元へ定められた。
――悲鳴を上げなければ。何でもいい、どんな言葉でもいい。何か叫んでここにいることを示さねばならないと頭では分かっているのに、口から零れるのはか細い喘鳴だけだった。
「宵闇に沈め、器よ」
彼が何を言っているのか、もはやヨスガはどうでもよかった。
血の流出に比例して、指や足の末端から感覚が失われていく。痛みも恐怖も、もはや遥か遠くに追いやられた。足掻くこともひどく億劫で、襲い来る重苦しい睡魔に抗うことなく瞳を閉じる。
――死んだら、自分を生んでくれた本当の両親に会えるだろうか。もう誰かを不幸にしなくてもよくなるのだろうか。
電源が落ちるように全ての感覚が途切れる間際、ヨスガは確かに黄金色の光を見た気がした。