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黄昏と宵闇のヨスガ  作者: 琥珀さそり
孵化の章
1/79

厄病神 ―黄昏―

 背中を押され、ヨスガは一瞬だけ無重力を味わった。

 視界がぐるんと反転する。まずいとヨスガが思った時には、体は学校の固い階段を石のように転がり落ちていた。やがて塩ビの床に叩きつけられて回転は止まり、ほんのわずか身動みじろぐだけでも、体中に激痛が走った。


 うめきながら上体を起こせば、頭上から複数の嘲笑ちょうしょうが降り注いできた。伸びた前髪の隙間から見えたのは、ヨスガが床に這いつくばる様を指さしている、体格のいい四人の男子だ。

 その内のいっとう大柄な少年――越山が、さげすむように口の端をゆがませた。


厄病神やくびょうがみがこっち見たぞ!」

「キモい目で見んなよ、死神!」

「コケるとかダッセー!」


 そっちが背中を押したくせに、とのどまで出かかった言葉を、ヨスガはみ込む。

 言ったところで彼らは謝らないし、逆に激高げきこうして暴力を振りかざしてくることは経験として知っていた。


 口汚い罵声ばせいにも、ヨスガは何も言い返さずに立ち上がって服とランドセルのほこりを払う。そんな態度もしゃくさわるのか、越山がヨスガの拾おうとした体操着の袋を横からかっさらっていった。

 そのまま彼らは廊下を走っていく。さすがに私物を奪われたまま帰るわけにはいかない。皮膚がけてじくじくと痛む膝小僧に顔をしかめながら、彼らの後を追いかけた。


 足の速い彼らをすっかり見失ってしまったが、人気ひとけの少なくなった静かな校舎は音がよく響く。笑い声を頼りに歩けば、部活にも使われていない体育館前にある水飲み場のシンクにそれはあった。


 先程、越山に持っていかれたヨスガの体操着入れが、全開にされた蛇口じゃぐちの水でびしゃびしゃになっていた。ご丁寧に袋の口まで開けられている。

 ヨスガが駆け寄ってせんを閉める間も、背後からケラケラと笑う声が突き刺さってきた。

 ヨスガとて、言いたいことがないわけではないが、ぐっと空気と共にくだす。


 たっぷりと水を含んだ服や袋をしぼり、何事もなかったように帰ろうとしたヨスガの頭に、何か柔いものがぶつけられた。

 パチンと割れて冷水が弾け、頭や肩が一瞬で濡れた。越山たちはいつの間に用意したのか、水風船をヨスガ目掛けて次々と投げつけてきた。

 小さな水風船も力いっぱい投げられれば、耐えられないほど痛い。ヨスガが腕で頭をかばうと、反応が返ってきたからか越山たちの暴力がエスカレートしていく。


「佐藤が怪我したの、お前が呪ったせいなんだろ!」

「もう学校来んなよ厄病神!」

「そのキモい白髪、自分で染めたんだろ? 洗ってやろうぜ!」

「痛っ……!」


 越山の号令に、彼らはヨスガを取り囲んで右側頭部の一部分だけ白い髪を引っ張り始めた。振り払いたくても、せぎすなヨスガでは一般的な体格の男子にすら勝てない。

 鼻の奥がつんと痛む。目頭と頬に熱が集まり、視界がにじんできた。


 ――みじめだ。


 認めたらあふれて決壊けっかいしてしまいそうで、奥歯を食いしばり耐え続けた。


「コラ! 何してるんだ!」

「ヤベッ、野沢だ!」

「もう行こうぜ、厄病神に取りかれちまう」


 教師の鋭い叱責しっせきが飛んできて、慌てて逃げていった越山たちにヨスガは突き飛ばされた。

 ポロシャツにジャージ姿の若い男性教師は彼らを追いかけることはせず、尻餅しりもちをついたヨスガを助け起こしてくれた。


 彼は野沢という、今年赴任(ふにん)してきたヨスガのクラスの副担任だ。休み時間には児童と共に校庭で遊び、爽やかな容姿ようしも相まって、あっという間に人気教師になった。

 膝に擦り傷をこしらえ、ずぶ濡れになっているヨスガの姿を見た彼は、何が起こったか察したらしい。ジャージのポケットからハンカチを引っ張り出して、ヨスガの顔をぬぐう。


「大丈夫か? 君は僕のクラスの要くん……だよね? かなめヨスガくん」

「はい……すみません、ハンカチを汚してしまって……」


 ヨスガは小さく頭を下げて謝罪する。だが、野沢は白い歯を見せて笑った。


「気にしなくていいよ。まったく、水風船なんて持ち込んで……越山くんたちは、明日先生がガツンとしかっておくから。怪我もしていることだし、とにかく保健室に行こうか」

「いえ、平気です。門限があるので、帰ります」

「ダメダメ、びしょ濡れのまま帰すわけにはいかないよ。時間が気になるなら、先生から親御おやごさんに話しておくし……」

「親はいないので。――ハンカチ、すみませんでした」


 ヨスガはもう一度深く礼をして、濡れた体操着入れを引っ掴み、野沢の引き止める声を振りほどくように駆け出した。一瞬、水溜りをそのままにしてきたことが頭をよぎったが、とにかく今はこの場から去りたかった。


 彼はいい人だ。いじめられたこと、怪我をしたことを心配してくれた、優しい人だ。きっといい先生になる。――だからこそ、ヨスガは離れなくてはならない。


 ヨスガが校門を飛び出した時、赤みがかった橙色の空に紺色が混ざり始めていた。初夏とはいえ、濡れた服に吹きつける風は震えるほど冷たくて、勝手に背筋が丸くなる。

 しかし、立ち止まっていても服はかわいたりなどしてくれない。ビル街にまれていく夕日を背に、ヨスガは足を動かした。


 シャッターだらけの商店街と夕食のかぐわしい香りが混ざり合う住宅街を抜けて、ヨスガは『あけぼの園』と刻まれた門扉を潜る。ドアを開けて「ただいま」と挨拶をする前に、飛んできたのは「遅い」という甲高かんだかい怒声だった。


 玄関先に立っていたのは、切れ長のまなじりを更に釣り上げた初老の女だ。彼女は児童養護施設『あけぼの園』の施設長で、佐久間という。

 常に光沢のある黒いワンピースを着ていることや真っ赤な口紅で唇を縁取ふちどっていること、数多あまたのルールを作っては厳守げんしゅを徹底させることから、入所している子供たちからは影で『魔女』とささやかれて恐れられている。


 佐久間が銀色の指示棒で、玄関脇の壁に掛けられた時計を指した。バチンと金属が打ち合う音に、ヨスガは肩を震わせる。


「要ヨスガくん、小学生の門限は十七時だと教えたはずですよ? いま何時だと思っているのですか?」

「十七時……三分、です」

「三分であろうと、遅刻は遅刻です。ばつとして、貴方には寝る前にリビングルームの掃除をしてもらいますからね」


 はい、と従順じゅうじゅん首肯しゅこうしたヨスガの髪から水滴が落ちたのを、彼女は見逃さなかった。細く鋭い眉尻まゆじりがピクリと跳ね、ヨスガが頭から爪先つまさきまで濡れていることを知ると、深く溜息を吐いた。


「何ですか、その格好かっこうは。学校ではもうプール開きの時期なのかしら。はしゃぎすぎて服のまま飛び込みでもしたのですか?」

「……ごめんなさい」


 説明する気力もなく、ヨスガはただ小さく謝る。あちこちからクスクスと忍び笑いが聞こえた。

 佐久間が手を二回打ち鳴らすと笑い声はさっと止み、エプロンをつけたひとりの職員が調理室から顔を出した。


「近藤さん、タオルを持ってきて頂戴ちょうだい。このまま中に上がられたら、床が汚れてしまいますからね」

「あらあら、大変。今持ってきますね」


 職員が小走りでリネン室まで向かい、佐久間はヨスガにそこで待つよう命じて職員室へと消えていった。

 三分ほど経って、大きなバスタオルを持って職員が駆け寄ってきた。ヨスガの肩からくたびれたランドセルが下ろされ、うつむいた頭を柔らかく包まれた。


 ゆるくパーマがかかった、栗色のショートヘアの彼女は、近藤という中年の女職員だ。佐久間とは真逆でほがらかで優しく、誰からも避けられているヨスガを何かと気にかけてくれる。


「今日の学校はどうだった? 遊んでたら、門限なんて忘れちゃうわよね。でも間に合うように頑張って帰ってきてくれたんでしょ? クールなヨスガくんがこんな時間になるまで遊ぶなんて、珍しいわねぇ」

「そんなんじゃないです……。夕食の準備もあるのに、邪魔をしてすみません」

「邪魔だなんて思ってないわ。ヨスガくんはちゃんと謝れてえらいわねぇ。でも、私は『ごめんなさい』より『ありがとう』が聞きたいかな」

「……すみません」

「もー、また謝るんだから。さ、晩ご飯の前に着替えていらっしゃい。その膝にも、絆創膏ばんそうこうを貼らなきゃね」

「自分でやります。……すみません」


 膝に伸ばされた近藤の手を、ヨスガは思わず避けた。

 それに彼女は何も言わず、濡れた体操着入れを回収する。彼女からうながされて、やっとヨスガは玄関からフローリングに足を乗せることができた。


 自室がある二階へ行くには、他の子供たちが思い思いに過ごすリビングルームを横切って階段を上らねばならない。みな、うとましそうな視線でヨスガをひと刺しした後、一様いちように顔をらしたのが気配で分かる。ヨスガは誰からも声をかけられることなく、ひとりきりの四人部屋へ入った。


 物心ついた時分から生傷の絶えない生活を送ってきたから、手当てなど慣れたものだ。学習机の引き出しから救急セットを取り出し、ティッシュに消毒液を含ませ、血が固まりかけている膝小僧に押し当てる。つんとみて顔が歪んだ。


 濡れた服を脱ぐと、姿見すがたみに映る自分と目が合う。

 あばらが浮き、脂肪もなければ筋肉もない細く薄い肢体したい貧相ひんそうだ。雑に揃えられた前髪からのぞく瞳も、また光を宿さず暗い。嫌でも目に入るひと房の白髪と左胸のあざ――ヨスガはこれが何よりも嫌いだった。


 右の蟀谷こめかみ辺りに木葉型に生えた白髪は、文字通り死んでいるような手触りをしていた。目立つだろうと何度か大人たちによって染められたこともあったが、数日と保たずに色は落ちてしまい、染料せんりょうがもったいないからといつしか手を付けられることはなくなった。


 あざはちょうど心臓の上に、円を描くように青紫色ににじんでいる。

 いつからあるのか、どのようについたのか、ヨスガ自身も分からない。少なくとも真冬の寒空の下、薄い産着うぶぎにくるまれて道端みちばたに捨てられていた時には、もうあったという。


 裸身らしんの背中が寒気でふるりと震え、ヨスガは肌着と冬物の厚いトレーナーを身にける。風邪をひいて職員の手をわずらわせることはできないから、少々厚着しているくらいがちょうどいい。

 これまで着ていた服を持って階下かいかのリネン室へ向かうと、甲高い怒声が廊下にまで響いていた。


「あの厄病神の服、アタシが使った後の洗濯機で洗わないでよ! 不幸が移ったらどうすんの!?」

さきちゃん、そんなこと言わないの! ヨスガくんはここで一緒に暮らす家族でしょう?」

「今週に入って和宏かずひろ喘息ぜんそくで三回も病院に運ばれた。絶対アイツが呪ってるんだ! アイツなんて家族じゃない!」


 両のこぶしをわなわなと震わせながら近藤に叫んでいるのは、ふたつ年上の少女、咲だ。彼女には今年小学一年生になった弟の和宏がいるが、喘息の持病がありたびたび発作ほっさを起こしていた。ふたりがどういう経緯で施設に入ったのかヨスガは知らないが、咲は弟のことになると攻撃的な振る舞いが多くなる、少々神経質な気性の持ち主だった。

 厄病神と呼ばれるヨスガが入所したことは、彼女の不安を逆撫さかなでしたことだろう。弟がヨスガと接点せってんを持たぬよう、徹底的に忌避きひし続けていた。だから、ヨスガは和宏と会話をしたことは一度もない。


 咲は言いたいことは全て出したのか、たしなめる近藤の言葉を振り切るように勢いよくきびすを返した。

 いるとは思っていなかったヨスガの姿に、彼女はわずかに狼狽うろたえたものの、ツンと顔をらせて去って行った。擦れ違いざまに肩を押し退けられ、ヨスガは体勢が崩れるままに尻餅しりもちをつく。


 すぐに近藤がヨスガに駆け寄り、咲をとがめたが、本人は一瞥いちべつもくれずに二階へ上がっていった。


「ヨスガくん、咲ちゃんが言ってたこと、気にしなくていいからね。ほら、季節の変わり目って体調を崩しやすいっていうでしょう? 和宏くんの喘息ぜんそくが大変なのも、それが原因だからさ。ヨスガくんが厄病神だなんて、みんな思ってないからね」


 厄病神と口にした瞬間、ほんの少しだけ、彼女の瞳が揺れて嘘だと悟る。

 ヨスガのことを子供たちが陰で厄病神と言っていることは、職員なら誰でも知っているはずだ。大人の体裁ていさいを保つためにその場では叱るが、彼らも子供たちがいないところでヨスガを恐れている。厨房で、リネン室で、サンルームで、次は誰が犠牲になるのか怖々と噂しているのを聞いたことがあった。


 立ち上がったヨスガは小さく「大丈夫」と答え、私服を体操着の入っている洗濯機に放ってスイッチを押し、洗濯槽が回り始める音を待たずにヨスガはリネン室を後にした。

 近藤の心配そうな視線を感じたが、彼女の顔を見ることはできなかった。


 部屋に戻ったヨスガは、夕食の時間まで勉強をすることにした。――というか、それしかやることがない。勉強も将来ひとりで生きていくためだと思えば苦にも感じないから、机の上に算数のドリルを広げた。

 その時、部屋の扉がひかえめにノックされた。厄病神のヨスガの部屋を訪れる者など限られている。ヨスガが開いた扉の向こうに立っていたのは、ふたつ年下の少年、しょうだった。


 毛先があちこちに跳ねた癖毛くせげの下から、丸い目でまっすぐにヨスガを見上げてきた彼は、漢字ドリルと筆記用具を腕に抱えていた。


「ヨスガにいちゃん、勉強おしえて!」


 翔はヨスガの返事も待たず、わきを擦り抜けて部屋に入ってきた。空いている椅子を持ってきて、ヨスガの隣りに置いた。

 溜息をひとつ吐いたヨスガは、諦めて自分の机に戻った。


「何度も言うけど、僕に関わらない方が良いよ、翔。君だって、僕の噂は聞いてるよね?」

「ヨスガにいちゃんに関わると、不幸になるって噂だろ? おれ、全然そういうの気にしねーし」


 軽い語気ごきで言ってのける翔に、ヨスガは困惑混じりの笑みを浮かべた。


 この『あけぼの園』はヨスガにとって四番目の養護施設だ。里親に引き取られたことは六度もある。十年間生きてきたが、どこへ行っても三年以上は同じ場所にいられなかった。――全て、ヨスガがもたらした『不幸』によって壊してしまったから。


 一番最初にヨスガを引き取ってくれた夫婦は優しくいつくしみを持って育ててくれた。しかし、家族となって二年が経つ直前、小学校入学をひかえた晩冬ばんとうに交通事故で帰らぬ人となった。それが一番初めに訪れた『不幸』である。

 それからというもの、ヨスガを引き取った家族や入所した施設には必ず何かしらの不幸が起こり、幾度いくど養子縁組ようしえんぐみと解消、入所と転園を繰り返した。


 行く先々で不幸をもたらすから――『厄病神』。

 どこから聞いたのかは分からないが、それが越山たちに知られ、いじめの的になったのは転校してすぐのことだ。

 当初は担任の女教師がかばってくれたが、彼女は二ヶ月前に階段から転落して足や腕を骨折し、今も入院している。皮肉にも彼女の事故がヨスガは厄病神であるとより強く印象付けることとなってしまった。


 ヨスガが学校で、施設でそのように呼ばれていることは、翔も分かっているはずだ。それなのに、彼は計算ドリルを進めていたヨスガの服を引っ張り、強い眼差しで見上げてきた。


「ヨスガにいちゃん、今日漢字のテストしたんだけどさ、おれ、ほとんど間違っちゃったんだ。何となく形は分かってるんだけど、いざ書こうとすると思い出せなくなっちゃって……」

「漢字はバラバラにして覚えるといいよ。間違えてる『潔』の文字も、さんずいと縦線が出てる王、刀、糸っていう風に。そうやっていくと、他の漢字も分かりやすくなると思うよ」

「そっか、おれはそのままの形で覚えようと思ってたから、上手くいかなかったんだ。ヨスガにいちゃんって、教えるの上手いよな。将来さ、学校の先生になったら?」

「不幸を呼び込む厄病神の先生なんて、ダメだよ。僕はなるべく人と関わらないで生きた方がいい……その方がいいに決まってるんだ」


 自分に言い聞かせるように、ヨスガはつぶやく。ヨスガとて、不幸にしたくてしているわけではない。新しい環境に身を置く度、悪いことが起きないようにと願っては裏切られてきた。

 だから、もうヨスガは諦めているのだ。他人を不幸にしておいて、自分だけ幸せや成功を望むなど、許されることではない。


 翔はまだ何か言いたげに唇を尖らせていたが、夕食を告げる十八時のアラームが鳴った。パッと笑顔になった彼は、跳ねるように部屋を飛び出していった。


「ヨスガにいちゃん、ご飯食べに行こうぜ! 今日カレーだって、配膳係のヤツが言ってたんだ!」

「翔は先に食べてて。僕は片づけてから行くよ」

「ダメだって! 早く行かなきゃ、肉とかぜーんぶ取られちゃうよ!」


 ヨスガは翔に腕を掴まれ、部屋から引っ張り出された。

 彼に気づかれないよう、ヨスガは曖昧な笑みを浮かべた。早く行こうが遅く行こうが、ヨスガにカレーの具が乗せられることはないと知っている。


 リビングルームに並べられた長テーブルの隅が、ヨスガの定位置だ。その周りはいつもぽっかりと空いている。誰も厄病神の近くに寄りたがらないからだ。

 やはり他の子供よりも具を少なく盛られたカレーを、翔と並んで食べる。よく口の回る彼は、学校であったことを一方的に教えてくれた。ヨスガはただ相槌あいづちを打つだけだが、彼にはそれでも構わないらしい。


 食事が終わった子供たちは、足早に浴場へ向かう。佐久間によって決められた分刻みのスケジュールを守らねば、すぐにばつとして掃除や仕事を割り振られるからだ。

 ヨスガもからす行水ぎょうすいの如く慌ただしく入浴を済ませ、寝間着代わりのジャージを着る。そして夕方に言いつけられていた、リビングルームの掃除に取り掛かった。翔も手伝うと言っていたが、罰を肩代わりさせたり手伝わせたりすることを佐久間は嫌う。翔も叱られてしまうことになるため、ヨスガは言いくるめて部屋へと返らせた。


 ほうきほこりや低年齢の子供が遊んだであろう折り紙のくずなどをまとめてゴミ箱に捨て、外のダストボックスへ向かう許可を得ようと、職員室の前に来た時だった。


「聞いた? さっき三丁目で事故があったんだって」


 ドアのわずかな隙間から、当直の職員のものと思われる声がこぼれてきた。休憩中なのか、手には菓子やカップを持って椅子いすに座っている。人影は三つあり、その中には近藤の後ろ姿もあった。


「嘘、どの辺?」

「スーパーのとこの交差点。派手に事故ったみたいよぉ、一台ひっくり返ってたって」

「やだ、結構大事じゃない。だからさっきサイレンの音聞こえたのね」

「それでさぁ、近くに住んでるママ友が見てたらしいんだけど……ひっくり返った車に乗ってたの、学校の先生だったんですって。怪我とか、酷かったみたいよ」


 噂好きな職員の声に、段々と熱がこもっていく。

 反対に、ヨスガは内側から凍り付いていく心地がした。身体をめぐる血が全て氷水になってしまったかのように、頭や心臓が冷えて耳の奥で『聞きたくない』けたたましく警戒音が鳴り響く。

 背後のヨスガに気づかぬまま、職員は更に続ける。


「その先生っていうのがね、今年赴任(ふにん)してきたっていう若い先生みたいよ。ほら、要くんの担任の……」

「でも、担任の先生は骨折して入院中じゃなかった?」

「違う違う、副担任の方よ。ちょっと前に変わったでしょ、野沢先生って男の人よ」


 足元で何かが跳ねた。それが自分の手から滑り落ちたプラスチックのゴミ箱だと、すぐには分からなかったほど、ヨスガは呆然ぼうぜんとしていた。

 近藤たちが一斉いっせいにヨスガを振り返り、今まで軽快に喋っていた職員らは一斉にばつの悪そうな顔をする。近藤だけが職員室から出てきて、ヨスガと目線を合わせて取り繕うような笑みを貼りつけていた。


「ヨスガくん、お掃除終わったのね。ありがとう」

「野沢先生……事故に遭ったんですか?」

「えっと……事故があったのは本当みたいだけど、まだ野沢先生だと決まったわけじゃ……」

「僕のせいだ」


 くちびるからこぼれ落ちた言葉が、寒い廊下に響く。

 ヨスガを越山たちのいじめからかばい、ハンカチで優しく濡れた頬を拭ってくれたから、彼は事故に遭ったのだ――そう思えてならなかった。


 そんなことはないと、否定する近藤の言葉尻がわずかに揺れるのを聞き逃さなかった。

 それだけで、ヨスガは今の言葉が嘘だと確信する。近藤がまた何か言う前に、ヨスガから口を開いた。


「野沢先生は僕のせいで不幸になったんだ。厄病神の僕なんかに、優しくしたから……」

「ヨスガくん、違うわ。事故は偶然なんだから、君のせいじゃないのよ」

「でも……」

「何を騒いでいるのです」


 ヨスガの否定の言葉は、佐久間の冷たい声にさえぎられた。

 消灯時間の前に、子供たちが自室に戻っているか見回りをしてきたのだろう。廊下に転がるゴミ箱と、うつむくヨスガの腕をなだめるように擦っている近藤を見て、彼女はまた何かしら問題が起きたと考えたのだろう。ヨスガは彼女の鋭い視線で射貫いぬかれ、身体が強張こわばった。


「要ヨスガくん。掃除が終わったのなら、道具はすぐに片づけなさい。そこのゴミはこちらで捨てますから、あなたは消灯前に自室に戻ること。いいですね」

「はい、施設長……」


 ヨスガはまともに大人たちの顔を見れないまま、重い足を動かしてその場から逃げるように離れた。大人たちがどんな表情をしているのか、簡単に予想がついて怖かった。


 掃除に使用したワイパーやモップは、廊下の奥にある納戸に戻さなければならない。時計を見れば、消灯の十時まであと十分を切っている。一分でも遅れたら佐久間にまた怒られてしまうから、駆け足で向かった。


 納戸の照明のスイッチを押したが、一瞬明るくなってすぐに消えた。

 蛍光灯が切れてしまっているようだ。それでも窓から注ぐ青白い月光のお陰で、室内の様子はぼんやりと分かる。少々頼りないが、掃除用具をロッカーにしまう程度ならば問題はない。ヨスガが床に積まれた段ボールを避けて、建付たてつけの悪い古いロッカーの扉を開けた時だった。


 背後で引き戸が動く音がして、ヨスガは心臓が口からまろび出そうなほど驚いた。すぐに出ていく予定だったため、開けっ放しにしていたのにひとりでに閉じたのだ。

 扉に付いていた硝子がらすの向こうで、いくつか小さな影が動いているのが見えた。意地の悪い笑い声と共に、外からガチャガチャと金属がこすれる音もする。


「厄病神、アンタは今日ここで寝なよ」


 扉越しに聞こえたのは、悪意に満ちた咲の声だった。


「ヒナちゃんが階段から落ちて怪我したり、和宏の喘息ぜんそくが悪化したり、アンタがここに来てから変なことばっかり起きる。前の施設とか里親のところでもそうだったから、厄病神なんて言われてんでしょ? 大人たちが言ってたもん」

「そ、それは、僕のせいじゃ……」

「うっさい! 全部アンタが悪いに決まってるのよ! とにかく、今夜はそこから出てくるんじゃないわよ。ま、鍵つけたから出たくても出られないと思うけど」


 咲ともうふたり分の足音と、勝ち誇ったような笑い声が遠のいていく。ヨスガは何度も取っ手を引いてみるも、扉は金属音を立てるだけで動こうとしなかった。


 やがて消灯時間を告げるチャイムが鳴り、ヨスガは魂が抜けたようにその場に座り込む。

 この物置は子供部屋からも離れ、職員の巡廻じゅんかいルートからも外れている。ずっと扉を揺さぶって音を立て続ければ気づいてもらえる可能性もあるだろうが、ヨスガにはもうそんな気力もなかった。


 頭の中で咲や越山たちの『厄病神』と罵る声が反響する。


 いつもこうだ。ヨスガに優しくしてくれた人、親切にしてくれた人から不幸になっていく。事故に遭った野沢がどのくらいの怪我をしたのかは分からないが、明日にはきっとヨスガを嫌っているだろう。いずれは近藤や翔にも不幸が降りかかり、憎悪ぞうおを向けられる日が来るのだろうか――それがヨスガは一番怖かった。


「少し、疲れた……」


 ヨスガは壁にもたれ、目を閉じる。

 雲に隠れ、窓から差し込む月光が途切れるように、ヨスガの意識は眠りの坂を転げ落ちていった。

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