第七話 保健室にて
目を開けると、知らない天井が見えた。
知らないけれど、見当はつく。カーテンで仕切られた白い天井。おそらく学校の保健室か病院のそれだろう。ボーッとしていると身体のあちこちがズキズキと痛んで意識がはっきりとした。足首と右の奥歯、両膝も痛いし左肩も痛い。
「うっ、ううっ……」
思わずうめき声を上げると、カーテンが開き白衣の男性が入って来た。
「意識が戻ったな。名前とクラスを……ああ、新入生か」
私の胸のリボンを見て、了解してくれたようだ。涙目で見上げることしか出来ない。
「治療魔法を使うが、良いか? 本人の了承がないと使えないんだ」
私はコクコクと頷いた。いきなり魔法使われるの怖いとか、副作用とか失敗した場合とか説明して欲しいとか。色々頭に浮かんだが、強烈な痛みが勝った。もうどうでも良いから、早く何とかして欲しい。
「まずは足首だな。折れてる。あー、肩も外れてるな」
毛布をのけて、手のひらで足首や肩にほんの僅かに触れる。具体的に言わないで欲しい。怖いし、余計痛みが増す。
「ちょっと手伝ってくれるか? 三年生だろう?」
白衣の男性が声をかけると、門のところで私の大惨事に貧血を起こしていた女生徒が顔を出した。まだ顔色が悪い。申し訳なさで少し冷静になる。
「ご、ごめいわくを……」
声を出すとズキズキと頭とアゴが痛む。女生徒はわずかに微笑んでくれた。とても美しい人だ。
「血管系と神経系、どっちが得意だ? 骨継ぎはまだ勉強してない時期だったか? 皮膚組織は?」
矢継ぎ早に質問が飛ぶ。なかなかに生々しい単語が並ぶ。
「骨継ぎはまだですね。皮膚組織は得意です」
女生徒の顔がキリリと引き締まる。見惚れるほどのクールビューティー。アーモンド型の緑の瞳が血統書付きの猫みたい。
「じゃあ、顔からはじめてくれ。早く処置すれば痕が残らない可能性が高い」
女生徒が口元にわずかな緊張を乗せて、私の顔に手を伸ばす。
「私は三年のクローディア。治療魔法は一年から専攻しているから得意よ。安心して。皮膚組織に関する魔法は失敗がほとんどないの。組織の再生を促進するだけだから」
穏やかな声で話しかけてくれる。不安そうな患者への対応としてはかなり上等の部類だと思う。私は頷いて目を閉じた。
「俺は神経魔法を併用しながら、足首の骨を継ぐ。痛みは穏やかになるが違和感はあるかも知れない。眠気も感じるだろうから、眠ってしまった方がいい。続けて肩を……、そのあとは……」
医師らしき男性の低く穏やかな声を聞いているうちに眠気が来た。入学初日から、とんでもなくやらかしてしまった。ライノルト殿下との出会いも果たせていない。
エリィは心配するだろうか。それとも何やってるのと怒るだろうか。
訪れた眠りは、意外なほどに優しかった。
* * *
「カレン……カレンってば! もう放課後よ? 起きてるんでしょ?」
いや、寝てたし。放課後? あっ、仕事行かなきゃ! 遅刻だ!
ガバッと起き上がると頭がガンガンと痛んだ。
「入学式もオリエンテーションも終わったわ。カレンは私と同じAクラス。いったい何があったの?」
心配と呆れを含んだエリィが腰に手を当てて仁王立ちしている。そうだった、仕事には行かなくて良いのだ。私は乙女ゲームの世界にいる。
「遅刻しそうになって、転んじゃって……」
言葉にすると計画通りなのだが、結果が伴ってはいない。
「ちょっとやり過ぎちゃって……」
「入学初日に重症で保健室に担ぎ込まれるヒロインがどこにいるのよ」
エリィが深呼吸してから声を顰めて言った。怒気は隠せていない。てへぺろでは許してくれないらしい。
「ごめん……」
やらかした自覚は充分にあるので、素直に謝っておく。
「もう……。大丈夫なの?」
足首や肩を回してみるが痛みはない。腕や膝の傷もほとんど目立たなくなっている。砂や小石が入り込んだ裂傷はかなり悲惨だったのに。
「皮膚系魔法すごい……クローディア先輩、天才……」
もちろん保健医らしき先生の骨継ぎ魔法もすごい。肩も違和感なく動く。この世界の基準がわからないけれど、きっと名医に違いない。でも先輩はまだ学生なのだ。このクオリティは賞賛に値する。たぶん、きっと。
「カレン、あなた資料の読み込みが足りないわね。クローディア・フォンバッハ先輩。フォンバッハ侯爵家のご令嬢よ。ライノルト殿下の婚約者」
ああ、そういえばライノルト殿下には麗しい婚約者がいた。つまり私は、ライノルト殿下よりも先に、恋のライバルとなる婚約者さまと出会ってしまったのか……。
「えー、あの人を差し置いて? まじで無理ゲーなんだけど……」
十歳近く年下の少女を、『あの人』と呼称したことに気づく。そういえば保健医師を見た時も、『大人の人だ』と思っていた。現実と照らし合わせれば、明らかに年下である。
現実が遠ざかってしまった感覚がある。この世界と身体に、精神が順応しはじめているのだろうか。何それ、怖い。
恐る恐る立ち上がってみると眩暈がしたが、それがおさまると気分は悪くなかった。
保健医にお礼を言って『あの、治療費は……?』と質問すると、何言ってんだと笑われた。
「えっ、無料ですか? あんなにたくさん治療してもらったのに」
「俺は学校から給料貰ってるからな」
あれほどの重症がほとんどなかったことになってしまった。魔法がある世界はえらいこっちゃである。
エリィから教科書やら体操服やら、オリエンテーションの資料やらを渡される。代理で受け取ってくれたらしい。二人並んで、傾きはじめた太陽を背にして、寮への道をトボトボと歩く。
寮へ戻ったら反省会と作戦会議なんだろうなぁ。
先行きの不透明さで足が重い。私は本当に二年もの月日を、この世界で過ごさなければならないのだろうか。
もう、おうち、かえりたい。
風情たっぷりの夕暮れの景色に、思わず帰宅願望が溢れ落ちる。ひとり暮らしのワンルームマンションは、私の日々の疲れを癒してくれた大切な場所だ。
ゲームと違ってコマンドを入力して実行すれば一日が終わるわけではない。朝が来て日中を過ごして夜に寝る。現実と変わらない時間の流れだ。
かりそめの少女の身体で過ごす三年間は、途方もなく長く思える。
「三年なんてあっという間よ」
エリィが言った。
いや、三年はけっこう長いよ……。生まれたての寝返りも打てなかった赤ん坊が、三年後には走り回ってしゃべくりまくって『〇〇ちゃんとけっこんする〜』などと言い出すくらいの年月だ。
だがしかし。高校生だった三年間は、確かにあっという間だった。
あの美しい人の婚約者を奪う。出来なければエリィは現実には戻れずに消滅してしまう。『ハッピーエンド』も『トゥルーエンド』も、クローディア先輩の不幸の上にある。
どんな悪夢だよと逃げ出したくなる。逃げ出す先に、思い当たる場所はないのだけれど。