火炎の国の妹姫
旅人の娘は夢を見る。
それは、今は遠い、故郷の姿。
そして彼女の運命が決定的に変わってしまった、あの日の『儀式』――その、前日。
「火瑠羅」
夢は、決まって姉の声から始まる。
「火深羅姉さま」
少女――火瑠羅はにこりと微笑んで、頬杖から顔を上げる。
夜陰に紛れた姉の姿を、細い月光が照らす。
真っ直ぐ伸びた深紅の髪。怜悧な顔立ち。深夜だというのに、一分の隙もない服装と立ち姿。
対して妹の方は、緩やかにうねった髪と艶やかな顔立ち、着崩した夜着に、だらしなく片膝を立てている。
唯一、髪の色は全く同じで、それがかえって、この姉妹を対照的に見せていた。
一族の中で最も赤い髪を持つ姉妹。
火深羅と火瑠羅は、この国唯一の王位継承者だ。
いずれはどちらかが、女王になる。
「いよいよ明日ね」
青い瞳の火深羅が、抑揚の薄い口調でそう言った。
「そうね、姉さま」
赤い瞳の火瑠羅は、姉にそう微笑みかける。
「ねえ、姉さま。明日、私を選ぶ神は現れるかしら」
「……せめて『神様』とおっしゃい」
姉は嘆息して、けれど、律儀に答える。
「きっと、いらっしゃるわ。この国には、八百万の神々が御座すのだから」
それに、と、火深羅は続ける。
「……美しく、魅力的で、誰からも好かれる貴女が、選ばれない筈が無いわ」
私と違って、という最後の呟きには気づかず、火瑠羅は眉を下げて微笑む。
「言い過ぎよ、姉さま。私は私のやりたいようにやっているだけ」
そう言って、火瑠羅は身を乗り出して、姉におねだりする。
「ね、姉さま。私にもう一度、見せてくださらない? あの、美しい炎を」
「……仕方ないわね」
火深羅はため息をついて、両手を胸の前で合わせる。そして目を伏せ、何かを呟くと――
「……嗚呼、やっぱり綺麗!」
次の瞬間、受け皿のような形にした火深羅の両手に、赤い、そして中心が青い炎が、ポウッと灯っていた。
「言い過ぎよ、火瑠羅」
そう言う火深羅は、どこか誇らしげだ。
そして掌の炎からぽぽぽぽぽ、と小さな炎を生じさせると、桜色に変えたそれを、火瑠羅の周囲にはらはらと舞わせてみせる。
「わあ」
火瑠羅は嬉しそうに、それに触れる。
炎のはずのそれは触っても火傷することなく、ほのかに温かかった。
「やっぱりすごいわ、姉さま。国の象徴の『火神』に選ばれるなんて!」
「王族なら、当然のことよ」
火深羅はそう言った後、目を伏せ、それに、と続けた。
「貴女だって、『火神』に選ばれるかもしれないわ」
「ええー、嫌よ!」
「どうして?」
「だって、私まで選ばれてしまったら」
「しまったら?」
「……兎に角! 私は選ばれたくないわ。だって、目立ちたくないもの」
「まあ」
火深羅は嘆息する。
同時に、周辺を舞う炎がゆらゆらと揺れる。まるで、笑っているように。
「あ、ごめんなさい。姉さまの神様、気分を害されたかしら?」
「……いいえ、笑ってらっしゃるわ。大丈夫」
そう言いながら、火深羅は炎をパッと消し、踵を返す。
その表情は再び夜に紛れ、火瑠羅からは窺い知ることは出来ない。
「もう寝なさい、火瑠羅。明日は貴女の、あなたたちの、『成人の儀』なのだから」
「そうね、姉さま。お休みなさい」
「ええ」
部屋に戻っていく姉の後姿を見送りながら、火瑠羅はぽつりと呟く。
「本当よ。本当に、私は、神様なんかに選ばれたくはないの。……姉さまの邪魔にはなりたくない。だって」
女王に相応しいのは、火深羅なのだから。
◆◆◆
翌日。
十五歳になった少年少女は、御祠山という、「神域」の一つに集められる。
――ここで、彼らの『成人の儀』が行われるのだ。
「次の者。前へ」
早朝から始まった儀式。そろそろ太陽が中天を退き始めた頃、火瑠羅の番となった。
「嗚呼、貴女様でしたか。説明は」
「要らないわ」
「左様ですか。では、いってらっしゃいませ」
そう、短く言葉を交わして、火瑠羅は神域の入口へと向かう。
……此処は、この国の者が生涯にただ一度だけ、足を踏み入れることが許される場所。
十五歳になった春、少年少女は儀式用の服に着替え、己の名を書いた細長い木札のみを持って、山に足を踏み入れる。
そこには数千、いや数万は下らない、数えきれないほどの小さな祠があり、その一つ一つに、『神様』が宿っているのだ。
そして少年少女は、これからの人生を守護してくれる神様――『守護神』を探す。
いや、選んでいただくのだ、と、儀式を終えた大人たちは言う。
常人には計り知れぬ次元の眼を以て、神々は私たちの資質を見定めている。
そしてその審美眼に叶った者だけが、『守護神』の加護をいただくことが出来るのだ、と。
神様に選ばれたって、どうやって分かるの、と、火瑠羅はかつて、姉に訊いたことがある。
火深羅は、そうね、と少し考え、やがてぼそりと言葉を紡いだ。
「実は、あまり覚えていないの」
「ええ?」
「無意識のうちに、走り出していて――いつの間にか、その祠の前に居たのよ。そして」
私の神様が、目の前に御出でになったの。
そんな姉の言葉を、火瑠羅はぼんやりと思い出していた。
山の麓、入口の真逆、そこに打ち捨てられたかのように在った、苔生した小さな祠。
気が付くとそこに居て、目の前には薄く光る、人影。
(嗚呼――選ばれてしまった。けれど)
姉の邪魔になってしまうという、絶望。
そして、隠しきれない胸の高鳴り。
(私の神は、どうしてこんなに――綺麗、なのかしら)
火瑠羅は夢見心地のまま、神様に促されるまま、自分の名を――決して離すまいと握りしめていた、名が書かれた木札を、神に捧げてしまったのだ。
それがどのような存在なのか、これからの自分に何が待ち受けているのかも、知らぬまま。
◆◆◆
ふ、と瞼を開く。
どうやら寝てしまっていたようだ。軽く頭を振って、火瑠羅は起き上がる。
『大丈夫か?』
「……ええ、大丈夫よ。私は、大丈夫」
頭に響く声。
そんな『彼』の言葉に応えながら、彼女は夢に思いを馳せる。
あの後、国は大騒ぎになった。
彼女の『守護神』が、国始まって以来の、前代未聞の存在だったから。
……彼は『時神』。
神話でしかその存在が語られたことのない、時間を司る、強大な神。
当の本人は、今は最早殆ど力は残っていない、と言うが。
そんなこと、人間にとっては些末なことだった。
国民は、幻の神に見出された火瑠羅を褒め称えた。
流石は王族、『守護神』を得られなかった先代とは大違いだと。
そして遂には、火瑠羅を時期女王に推す声ですら上がり始めたのだ――あれ程、国民の前では、愚かしく奔放な王女を演じていたというのに!
それだけだったら、まだどうにかなったのかもしれない。
あんなものは一時の熱だ。
普段の火瑠羅を思い出したら、火深羅の方が女王に相応しいことなど、誰かどう考えたって自明な筈だから。
けれど、事態は火瑠羅が考えていた程甘くは無かった。
最も近くに居た人、尊敬してやまない、唯一の親族。
……真面目で優しい、火深羅姉さま。
彼女をあれ程までに傷つけていたのだと、もっと早く、気付けていれば。
『……あの子なんて、最初から居なければ良かったのに――』
あんな言葉を、聞かずに済んだだろうか。
『本当に、大丈夫か』
「ふふ、大丈夫だって言ったでしょう?」
『嘘だ』
薄く透ける両腕を伸ばし、『彼』が彼女の頬に触れる。
『泣いている』
「嘘。……あら」
頬に触れると確かに、涙の跡があった。
如何してだろう。
夢、それ自体は、そんなに泣く程のものでは無かったのに。
『……あの日々に、戻りたいのではないのか』
「え?」
『ずっと、言っているだろう。私の力はもうほとんど残っていないが、お前一人、望みの時間に飛ばす位は、簡単なことだと』
だから、望みを言え。
そう言う『彼』に、火瑠羅は緩やかに首を振る。
「これも、ずっと言っているでしょう。私は貴方の力を生涯、借りるつもりは無いって」
『……』
不服そうにする彼に、彼女は苦笑する。
火瑠羅だって、考えなかったわけではない。
あの日に――あの、楽しかった日々に、戻ることが出来たなら、と。
……あの日、火瑠羅はすべてを失った。
美しい故郷。
優しい姉。
もしかしたらこれらは、過去に戻ってうまく立ち回れば、失わずに済むかもしれない。
……けれど、火瑠羅は昔から、衆目を集めやすい存在だった。
それはまるで、呪いなのではないかと疑うくらいに。
だから、遅かれ早かれ、自分は火深羅の負担になったのではないかと思うのだ。
それを悟れば、自分はきっと今のように、故郷を出る決心をするだろう。
それでは過去に戻る意味が無い。
それに、例え戻ったって、手に入れられないものもある。
彼女にとって、それは――最初で最後の、鮮烈な恋。
誰にも言ったことのない、彼女の願い。
普通の娘としてありきたりな日々を過ごし、誰かと恋をして、結婚して、子どもを産んで。そうして家族と一緒に、幸せに老いていく。
そんな、ありきたりな、けれどかけがえのない夢だった。
だと、いうのに。
あの日目の前に現れた彼女の神は、これまでに見たことのない程、美しく、綺麗で。
そんな『神様』に、彼女は愚かにも恋をした。
――絶望的に、人間とはかけ離れた存在の『彼』に。
彼相手に、己の夢が成就出来る筈もないし、これは過去に戻ったってどうにか出来ることでもない。
だから、火瑠羅は生涯、『彼』の力を行使しようとは思わない。したく、ない。
『火瑠羅』
「なに?」
『……私は、如何すれば良いのだ。これではお前の守護神になった意味が無い』
「まあ」
火瑠羅はからりと笑う。
「何も。何も、しなくて良いのよ。ただそこに在ってくれれば」
『……』
ぐっと眉根を寄せる『彼』。
実際自分のことを隠さなくて良い、絶対的な味方が常に側に居るのは、旅人の身である彼女にとって、とても幸運なことだった。
それが初恋のひとであるなら尚更。嗚呼、けれど。
彼女は己の身の内に渦巻く、どろりとした、薄暗く、浅ましい感情に気付いている。
貴方は、そのまま見ていてくれれば良い。
私の人生を、もどかしく、私を、私だけを見て。
そうして、貴方に頼らず、私は最期まで、生きて、生きて、生き抜いてやる。
そうすれば、それは、普通の人間の一生よりも、何時何時までも貴方の中に、鮮烈に遺るでしょう?
くすりと、けれど、どこか儚げに笑みを深めた彼女を見て、『彼』は何も気づかず、不審そうに首を傾ける。
「カルラさーん? 起きてますぅ? 踊りの指導を頼みたいんですけど!」
不意に、テントの外からかけられた声。それに彼女ははっとして、慌てて声を張り上げる。
「はぁい、朝食の後にね!」
「やったぁ!」
うら若く弾む声が、彼女のテントから遠ざかる。
彼女はぐっと伸びをして、ぱぁんと頬を張る。
それに目を白黒させている『彼』を見て、彼女はからりと笑う。
『彼』に対する、浅ましい感情。
どこまでも彼女は人間で、神である『彼』とはやっぱり違う。
けれど、それで良いのだ。
そして『彼』に美しく記憶される為に、彼女は毎日を生き生きと過ごさなければならない。
だって、ジメジメした自分を、初恋のひとに覚えていて欲しくはないでしょう?
そうして、彼女――旅団の一番の舞手・カルラは立ち上がる。
顔に、誰もを魅了する、艶やかな笑みを浮かべながら。
「さぁて、今日も一日、生き抜きましょうか!」
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
これは連載中の小説、「舞踏会の夜から始まる契約結婚」のスピンオフ的作品です。
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