一歩
私の好きな小説の中にこんな言葉があります。「やればできた子よ」 世の中はやってみないと分からないことの方が多いです。今こうして趣味で短編小説を制作していますが、30年後作家になっているかもしれません。どんな人も初めは無名です。そして有名になってから、昔から頭一つ飛びぬけていたと語られるのです。大事なのは手探りでも一歩進むことです。そのために今頑張るしかありません。そして成功してからこう語るのです。「やってきたから成功できた」と。
どさり。何か重たいものが落ちる音がした。
女子生徒が床に落ちた教科書を拾い集めている。肩が震えている、笑っているのではない、泣いているのだ。
「みいちゃんおはよ」
まだ残暑が残る10月中頃の朝、通学途中に後ろから長瀬綾に声をかけられた。
「おはよ、綾」
走ってきたのか、息が上がり肩が上下に揺れている。
「ひどいよ置いていくなんて。たった5分じゃん」
「これで何度目よ。ついに私の堪忍袋の緒は切れました。我慢の限界です」
そんなぁと、すがるようにくっついてくる彼女は遅刻の常習犯だ。あまりに多いので最近は確信犯ではないかと疑いたくなる。
「綾のせいで何回遅刻したと思ってるの。たった5分遅れるだけで遅刻してしまうくらい集合時間を遅くしているのも、綾が起きれないからでしょ。だからこれからは1分1秒でも遅れたら問答無用で先に行きます。たとえ転んでひざを擦りむいて足を引きずっていようと私は待ちません」
そんなぁと、今度は懇願するように手を握ってきた。
呼び鈴がなり、なんとか今日も遅刻ギリギリで滑り込みで席に着く。と同時に担任の教師が入ってきた。
学級委員長が起立礼の号令をかけ、席に着くと出席確認をとり担任の朝の挨拶が始まる。
「おはようございます。先週の中間テストの結果が今週返ってくるので、皆その結果をしっかり受け止めて成績の良かったものはこのまま油断せずに、悪かったものは今一度気を引き締めなおし頑張るように」
中学3年のこの時期のテストはいわば受験の予行練習だ。どこの中学も受験に控えそれなりの問題を出し、生徒の力を測る。もちろん生徒側も自分の立ち位置を認識し、最後のひと踏ん張りというところだ。
1限目、数学のテストが返却された。答案用紙を受け取った者は笑っていたり、下を向いたり開き直って20点の答案用紙を見せびらかす者もいた。
「山岸」と呼ばれ、担当教師の方へ向かう。よく頑張ったなと担当教師から答案用紙を渡され受け取ると83点だった。数学が苦手で70点を超えたことがなかったのだが、ここへきて最高点をとれた。
綾の方を見る。にこにこと、こちらに目を向け よかったの?と答案用紙に視線を落とす。すごいじゃんと自分のように喜んでくれた。そして綾の机の上を見ると点数は32点だった。
私はだめだ。と肩を落としながら綾は翠のことを思い出す。今日返された答案用紙3つの平均点は31点。三つ合わせても100点にも届かない。つくづく綾は自分の馬鹿さ加減を恨む。一方翠は平均80点を超え、現代社会なんかは90点だった。それだけでほぼ綾の合計点と並んでしまう。
並んで歩く翠に「みいちゃんは天才だよ。頭がもう一つあるんだよきっと」と讃え、自分とは人種が違うと思い込むことで何とか落ち込むのを耐えた。
私は昔から何をしてもだめだ。運動もできない、勉強もできないしおまけに字も汚い。せめて女性らしくあろうとSNSにたくさん投稿をしているけれどいまいち映えない。
「得意不得意は誰にだってあるよ。私も現代社会の点数は良かったけど国語の点数は70点だったしプラスもあればマイナスもあるもんだよ」
「平均点が違うじゃん。私の平均は30点。でもみいちゃんは80点。私はプラスの倍はマイナスをとるんだから」
「でも綾は私より足も速いし、歌も上手じゃん」
「将来役にたたないよそんなの。全力で走ることなんか無くなるし、歌手になるわけでもない。その点みいちゃんは容姿端麗だから玉の輿にあずかれるじゃん」
「私は自分の足で歩く。他人の船の上で優雅に過ごそうなんて考えてないよ」
大丈夫だよ、人は成長する生き物だよ。と慰められているのかバカにされているのか、区別がつかないくらい今回のテストの点数はあまりにショックだった。
「おかえり」
玄関を開けリビングに入ると母親が声をかけてきた。
「おやおや、この調子だとよほど点数が悪かったのね。お母さんに見せてみなさい」
一通り見せると母親はこれは私立になるわねと、ため息を吐いた。私だって好きでこんな点数取っているわけじゃないのに、母のため息を聞くとますます自分が惨めに思えてくる。もし翠のように高得点を取り、見た目も華やかだったらこんな薄暗い影のような思いはしなくて済むのにな、と思ってしまう。
部屋に戻り答案用紙をゴミ箱に捨てYouTubeでも見て現実逃避をする。ユーチューバーのように好きなことだけをして生きていけたら、こんな楽しくない勉強も、母のため息も、すべて消し飛んでくれるのだろうか。もしそうなら私はユーチューバーになってやる、と体を起き上がらせるが、何からしていいか分からず、またベットに倒れこむ。
どうしたの綾。今朝いつもの集合場所にきた綾は顔色が悪く目の下に大きなクマを作っていたので声をかけた。話を聞くとスマホを触っていたら明け方近くになっていてあまり眠れなかったらしい。
「そんなだとまた授業中居眠りしちゃうよ」と注意するも、もういいのと投げやりになっている様子だ。
なにかあったの?と質問するもどうも暖簾に腕押しで感触がない。虚無感というか、この年齢特有の情緒が安定せず、何もかも嫌になってどうでもよくなっている状態なのだろうか。私でよければ話聞くよ、とだけ告げて今朝は二人黙って登校した。
授業中も綾はほとんど寝ており、時折担当教師から注意を受けるが、その時だけ起きて5分もすればまた頭がカクンっと落ちた。昼休みになると給食を食べるのだが、やはりあまり口をつけずほとんど残してまた眠る。
放課後になり一緒に下校しているが心ここにあらずといった様子だ。担任の教師に相談するべきだろうかと考えるが、そんなことをすればなにか綾の抱えているものが爆発してしまう気がした。
12月に入り、綾の週に1度行う小テストの点数があまりに悪く、居残って補修を受けるように言われたため、翠も一緒に受けることにした。あれから普段と変わらないが、どこか影が見えて翠は心配していた。覇気がなく、よく笑うが、時折色のない目をする時がある。そんな綾になんて声をかけてやればいいか分からず、ただ悶々とした日々を翠は送っていた。
「あれ、山岸も一緒か」
担当教師が入ってきて、開口一番驚いた様子だった。
「先生、私も分からないところがあるので、一緒に受けてもいいですか」
「もちろん。だが、今日は長瀬がメインだから山岸も一緒に問題を考えてやってくれ」
「わかりました。ありがとうございます」
補修授業は、国語で翠は文法問題が苦手だ。担当教師はまずしっかり文を読み、一語一句しっかり理解し、そのうえで全体像を掴んでいけ、と授業が進んでいく。
「あー、ほんとにわからない。楽しくない。やりたくない」と、駄々をこね、シャーペンを放り出す。担当教師もため息を吐きながら、お前のためだぞと、綾を見下ろす。
「どうしてそんなに嫌なの」と、翠は身も蓋もないことを聞く。
「だって楽しくないじゃん。こんな昔の人の言い回しを理解して将来なんの役にたつっていうの。漢字なんて今はスマホの変換機能でどうにでもなるし、言いたいことなんてちょっと電話すれば済むし意味なんてなにもないよ。それに私、みいちゃんみたいに頭良くないし、やっても無駄だよ」
自分の惨めさに涙がこみあげてくる。すべての物を床に落とし肩を震わせながらそれを拾う。もうどうしていいかわからない。何をやっても上手くいかないし、どんどん自分が嫌いになっていく。
翠はじっと綾の方を見る。下を向いて泣いていた綾はその視線に気づき「ん?」と、あまりに真剣な顔をしている綾に困惑する。
「私の中学1年の数学の点数は15点だったよ」
え、とびっくりして綾は顔を上げ翠を見返す。
「私も初めはできなかった。むしろ30点ていう点数だけを見れば綾の方が優秀だったね」
「もう二年も前の話じゃん。今のみいちゃんには敵わないよ」
「たった二年よ。私たちはあと何十年も生きることを考えれば2年なんて一瞬でしょ。大事なのは今頑張ることだよ。私の好きな言葉で、今日は昨日で、明日は今日っていう言葉があって、これはおばあちゃんが教えてくれた言葉よ。明日になれば世界が変わっているかもしれないなんてことはない。だって妄想している明日は、昨日妄想した今日なんだから。だから今頑張って明日も頑張るの。そうして人生はいい方向に進んでいくんだよ」
綾は口を半開きにしたまま、翠を凝視していた。思えば仲良くなって1年、1度もケンカしたことがなかったし、苦言は呈されても叱られることなんてなかった。
担当教師も、うんうんと頷き山岸の言う通りだよと同調した。
「でも、でもわたし馬鹿だし」と、自信なくうつむく綾に、少しずつ頑張ろうよと励ます。「今日1問解ければ明日も1問解けるよ。それを続けていけばどこまででもいけるよ」と、背中を押し、一緒に問題を解いてやる。分からなければ聞けばいい、調べればいい、解き方なんて何通りでもある。大丈夫、この一歩は偉大なる航路へと続く第一歩だ。心の中でまたおばあちゃんの言葉を思い出す。
「みいちゃん!」振り返ると、振袖を着て満面の笑みを浮かべている綾がいた。「いいじゃん、綺麗だよ」と翠は称賛し、みいちゃんには敵わないよと綾は謙遜する。
今日は成人式だ。男子はスーツでビシッときめ、女子は振袖で着飾る。久々に会う綾の印象はどこか中学の頃のあどけなさを残しつつ大人の女性の色気も兼ね備えていた。口調やよく笑うとこは相変わらずだが、洗練されて磨きのかかった雰囲気を感じる。親じゃないけど心の中でそんな綾を誇らしく思った。
「久々にみんなに会うね。中学卒業してから誰かとごはんとか行った?」
綾に聞かれ、誰とも行ってない綾とだけだよ、と笑う。
高校は地元で誰も行かなかった私立の高校を受験した。理由は、普通の公立校より一つのものに特化し、集中してその分野を学びたかったからだ。そのあと順調に成績をあげ、大学は都会の方を選び今は単身上京ている。
一方綾は、三学期からの巻き返しで何とか公立高校に滑り込んだ。だが、やっぱり勉強は好きになれず卒業と同時に働くことになった。それでも今は立派に社会人をやっている。
高校から別々の道を歩くことになったが、今でもこうして友達としていられるのが翠は何よりも嬉しかった。高校受験の時、みんなとは違う進路を進むか悩んでいたとき綾に「どんな選択をしても私はみいちゃんの選んだ道を応援するよ」と、今度は綾が背中を押してくれた。あの時の言葉は今でも胸に深く刻まれている。
もちろん翠も綾のことは心底応援している。たとえ道を踏み外し、世界がすべて敵にまわっても私は最後まで見方でありたいとさえ思っている。
そうして二人よぼよぼになっても友達でいたいと翠は心の底から思う。
机に向かい勉強をしていると、時折どうしても解けない問題がでてくる。そんな時、涙のたまった目をこすり、必死にペンを走らす綾を思い出す。
今日は昨日で、明日は今日。同じ日なんてないのだけれど人生は続いていく。そして今日の頑張りはいつか大きな目標への第一歩になる。