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スライムオーシャンで朝食を

作者: たまり


 昇ったばかりの太陽が暗緑色の海を照らしてゆく。

 岸に打ち寄せる波は、まるで煮込まれたシチューのように粘性を帯び、湿っぽい波音をたてている。

 ヌメヌメと陽光を照り返す海は、粘液(・・)で満たされていた。水面を渡る風は生ぬるく、どこか熟れた果実のように甘ったるい匂いが感じられる。


 生きている海――スライムオーシャン。


 海は|粘体状の生命体、スライムで埋め尽くされていた。

 太平洋(・・・)と呼ばれていた目の前に広がる海は、かつて(信じられないことに!)純粋な塩水(しおみず)で満たされていたという。しかし今、海を満たしているのは粘液質の体を持つ生命体。超巨大なアメーバ、すなわちスライム(・・・・)たちだ。


「カイル、海に落ちたら溶けて骨も残らんぞ。しっかり防腐軟膏(ヴェール)を塗っておけよ」


 ウルドは静かに舟を漕ぎながらはるか沖合を見据えている。海の水は粘性を帯びており、泥の干潟を進んでいるに等しい抵抗により(かい)は重い。


 水平線――スライムと空との境界は穏やかで、絶好の(りょう)日和だ。


「わかってるよ、父さん」

 笹の葉のような小舟には、息子のカイルも乗っている。

 あどけなさを残す少年――カイルは、舟の底に置いてある壺に手をつっこんだ。そこから泥のような粘液質のクリームを取り出すと、自分の手足そして顔に塗りたくった。

 甘い匂いが鼻孔をくすぐる。スライムの消化酵素から身を守るため、スライム自身の体表面から粘液を採集し熟成、精製し軟膏にしたものだ。


 ウルドは残された楽園(デイルムーン)の民の漁師として、日々の糧をこのスライム・オーシャンから得て、細々と暮らしている。

「うわぁ、ぬるぬるして気持ち悪い。それに……ちくちくするよ?」

 腰を隠す布だけを巻いたカイルの上半身は裸で日焼けしている。細く頼りない四肢が毒々しい緑色に色に染まる。

「子供のうちは仕方ないさ、じきに必要なくなる」

 優しい眼差しを息子(カイル)へと向けるウルド。今日がカイルにとっては、はじめての(りょう)なのだ。


「父さんは塗らなくていいの?」

「俺は平気だ。彼らに認められた(・・・・・)からな」

「ふぅん?」

 カイルは不思議そうに、恐る恐る指先で海面に触れてみた。

 スライムの海は、想像していたよりもずっと柔らかくて暖かい。指先に感じた心地は、まるで母の乳房のようにさえ思えた。もっと手を押し当てて、触り心地を確かめたい。カイルはそんな衝動に駆られ腕をさらに海へ――。

「カイル!」


「えっ?」

 父の声に思わず手を引っ込める。ちゅぽん、と海から指先が抜け、粘液が糸を引く。


「気をつけろ、海は人を喰らう。肉も骨も……そして魂さえもな。美しく穏やかに見えるが、決して魅入られるな」

「う、うん」

 ぶるっと背筋が震え、思わず手をもういちど、軟膏の入った壺につっこんだ。


 船が大きな「うねり」で揺れる。

「つかまれ、少し揺れそうだ」

「わっ……」

 海水を体内の原形質として取り込んで肥大化したスライムは、無限に増殖を繰り返し、地球上の海洋すべてを支配していた。地球の自転と大気の振動、それにそれぞれのスライムの個体が蠢くことで波がおこる。ゆっくりと上下する海の「うねり」は、細胞膜の内側につまった原形質(・・・)の流動によるものだという。


 うねりを乗り越えながら、慎重に(かい)を動かし進んでゆく。


 小舟の外側にもスライムに喰われぬよう、粘液と同じ成分から生成した特殊な塗料が塗ってある。それにより異物と認識されにくい仕組みになっている。

 漕手である人間も同じで、海に乗り出すには防腐軟膏(ヴェール)が必要だ。念入りに緑色のクリーム――中和し無毒化したスライムの粘液――を表皮に塗らないと有機物(・・・)すなわち(エサ)と認識され消化されてしまう。


「海は、僕らを食べようとしているの?」

「そうだろうな。彼らは海の生き物を全て食べ尽くした。だからいつも腹ペコだ」

「海の生き物って……?」

「習っだろう? 『魚』のことだよ」


 スライムの海は巨大な捕食性の細胞で構成されている。一個の細胞は直径百メートルにも達し、その食欲は底なしだ。穏やかに見える海も、ひとたび牙を剥けば手に負えない。餌を求めて荒れ狂い、手当り次第生物を取り込み、消化性粘液で溶かしてしまう。

 里の長老が云うには「彼ら」は海の生き物を食い尽くしたことで、今は休眠状態に近く、静かで、最低限の生命活動しかしていないらしい。

 昔の海は荒れ狂い、近づくものはみな飲み込まれる恐ろしい地獄だった。


「海はずっと昔からこうなの?」

「あぁ父さんが生まれたときから。でも長老たちの話に耳を傾けるといい。不思議な昔の話を聞かせてくれるよ」

長老(・・)は太陽が出ていないと動かないし、最近なんだか変なんだって」

「寄る年波には勝てんのかなぁ……。昔はもう少しまともだったんだが」

「へぇ……?」

 長老はいつもガラスの管の中にいる。姿は半透明で、いつも雨が降っているみたいに曇って見える。

 村人が話しかけて尋ねると、色々なことを教えてくれる。けれど最近は、質問しても同じことを繰り返したり、違うことを話したりする事が多くなっているらしい。


 かつて――人類史には『二十一世紀』と呼称される栄華を極めていた時代があった。

 人類文明の絶頂期、地球上のあらゆる場所に進出し支配した時代。

 そこへ「彼ら」が忽然と出現した。

 恐ろしく巨大なスライムたちが一体どこから来たのか、起源は謎だと長老(・・)は言った。


 温暖化と呼ばれる気象変動により、南極の氷に封じ込められていた太古の生命体が復活した。あるいは宇宙から飛来した隕石に取り憑いていた未知の生命体であるなど諸説あるという。


 いずれにせよ、南氷洋に出現した超巨大スライムの群れは、瞬く間に海洋を埋め尽くした。

 海洋生物はもちろん、手当たり次第に生き物を飲み込んで巨大化、数を指数関数的に増やしていった。

 数年で南半球の海洋のすべてを、そして赤道付近で爆発的に増殖。海路を分断し、北半球の氷に閉ざされた海の底まで、すべての海を隙間なく覆い尽くした。スライムはあっけなく海洋の支配者となった。

 人類はあらゆる手段でスライムの殲滅を試みた。

 だが、全てが無駄だった。

 火も毒も、神が使う「破滅の光」さえも彼らを止めることは出来なかった。


 やがて世界各地の淡水の川を遡り、ダムを飲み込み、地下水脈にも浸潤した。結果、人類は活動領域のほとんどを失うことになった。

 無限の増殖力を持ち、感情を持たない無慈悲なスライムの海は広がり続け、生き残った人類を、乾いた大陸の奥地、あるいは絶海の孤島の頂上へと追いやった。


 地球表面に存在する広大な海洋や河川、その殆どを覆い尽くしたスライムの群れは、惑星サイズの超巨大生命体も同義だった。

 生存圏を奪われ、文明が後退した人類にとって、彼らは驚異という次元を超え、畏怖すべき神のような存在に昇華しつつあった。


「さぁ、この辺りが良さそうだ」

「陸からだいぶ離れたね」


 振り返ると陸地はまだ見えている。高い岩山がそびえたっているが、かつては千メートル級の山岳地帯だった場所だ。

 その麓に見えるのが、岩肌を穿ち築かれた町。

 乾いた流砂が川のように海へと流れ落ち、スライムたちを遠ざけている。


「若い細胞ほど沖合にあるから、良いものが採れる」


 父ウルドは長い槍のような、漁具を船の縁から取り外す。そして息子のカイルが使ったのと同じ、緑色のクリームを満遍なく塗りつけた。


「父さん見て、あそこに!」

 海面から海中を覗き込んでいたカイルが指差した。


 指差す先、細胞膜と粘液で満たされた海中に、巨大な赤い球体が浮かんでいた。


「おぉよく見つけたな。あれが細胞核(・・・)だ、大きいだろう? あれで十メートルはある」

「すごい……!」


 距離感が掴めないので正確な大きさはわからない。だが優に十メートルはあるだろう。赤い細胞核は周囲を無数のブツブツした突起に覆われていた。

ドロドロした原形質の中に浮かんだ細胞核は、まるででいるかのようだ。

 よく見ると何か紐のようなものや顆粒状の物体が表面からゆっくりと出入りしている。


「あれは絶対に刺激しちゃいけない。怒りだすと何をしても静まらない。漁師はみなそれで喰われてしまうんだ」

「わ、わかった」

 真剣なウルドの表情に、カイルもごくりと喉を鳴らす。


「あくまでも狙うのは細胞核の周囲にある器官だ。よーく目を凝らしてごらん。間違って落ちないようにな」

「わかってるってば」

 ウルドが舟の縁から顔を突き出して、スライムの海に目を凝らす。


 細胞核の周囲には、赤いつぶつぶの他に、薄い円盤状の器官が周回するように浮かんでいた。

 それらは破れた布のような例えようのない構造で、色は紫色。重ねた厚い布か、パンケーキ(・・・・・)のようにもみえる。

 近くには円錐形の器官も浮かんでいて、そっちはオレンジ色。

 不思議な器官は細胞核を中心に、原形質の流動に乗りゆっくりと動いていた。


「紫の薄いやつがゴルジ体、オレンジ色で細長いほうがミトコンドリア」


「あれがそうなんだ!? 生きてるのは初めてみたよ!」

 カイルは興奮した様子で目を輝かせる。


 いつも食べている『ゴルジ』は乾燥していてパサパサ。水で戻して煮て食べる。干された『ミトコンドリア』は細長い棒みたいで、かじると酸っぱい。貴重な果物の代わりになる。


「さぁ、いくぞ。よく見ていろよ」


 静かに、と息子のカイルに指示を出す。

 ウルドは慎重に長い槍を持ち上げて、海面に対して垂直に立てる。そして、ゆっくりと細胞膜に突き立てた。

 先端は金属の鉤状になっていて、獲物を引っ掛けるようになっている。

 槍の先端が粘膜を分泌する、細胞膜を突き破る。それは思いの外あっけなく、あまり抵抗もなく細胞内に侵入した。


 だが次の瞬間、ぶるっと表面が波打ち、舟が揺れた。


「わっ!?」

「カイル!」

「へ、平気」

 揺れはすぐに収まった。

 幸い、カイルも海に落ちることはなかった。


 スライムのクリームを塗っているとはいえ、落ちたら大火傷では済まない。強力な酸性を帯びた粘液は、人間の肉を焼き骨さえも溶かすのだから。


「敏感なやつめ。まぁ見ていろ、俺の息子を驚かせた分はいただくぞ」


 息子の無事を確かめると、鋭い狩人の目になったカイルは、再び慎重に槍を沈めてゆく。


「まずは、ゴルジ」


 うまく鉤状の先で紫色の器官を引っ掛けると、槍をするするっと素早く引き上げた。

 チュボッ……と音がして穴の空いた細胞膜から引きずりあげる。

 ゴルジ体は中空構造で、指で押すと凹むほど柔らかい。


「わぁ! 捕れた」

「先から外してくれ」

「わかった」

 言われるまま、カイルは鉤先から紫色のゴルジを外し、舟の底の籠へと放り込んだ。


 採集できたゴルジの大きさは30センチほど。太陽の下で見ると淡い紫色をしていた。何枚も重なって張り付いている構造だが、手で簡単に剥がせる。表面の手触りはぬるぬるしているが、原形質自体は無害な塩水が主成分なので、素手で触れてもなんともない。


「これが生のゴルジかぁ」

「ほら、見てないで手伝え。次は……ミトコンドリアだ」


「わわっ、大きい!」

 ウルドが今度は槍の先でミトコンドリアを引っ張り上げた。

 大人の腕ほどの大きさの、大きなソーセージのようだ。夕焼け色の不思議な赤い管のような形をしている。

 太陽に透かすと、中は複雑なヒダ状に仕切られていて細かな粒が無数に浮かんでいた。


「すごい立派なミトコンドリア……! 母さんが喜ぶね」


「もうすこし、ゴルジも頂こう。皆にも分けられるように」


 紫色のゴルジを次々と引っ掛け、引き上げる。ゴルジの横に浮かんでいた、オレンジ色のミトコンドリアも鉤に引っ掛けて引き上げる。みるみる籠はいっぱいになった。


「大漁だ」

「これぐらいで十分だ。今日の漁はここまでにしよう」

「うんっ」

「海の恵に感謝」


 ウルドが印を結んで祈ると、小舟の舳先を岸に向け、漕いで港へ戻りはじめた。


「カイル」

「ん?」

 ウルドが何かを投げてよこした。カイルがキャッチすると、それは透明なプニプニした球体だった。細胞核の周囲に浮いてい粒のひとつだった。


「リポソームっていうんだ。新鮮なうちは格別に美味いぞ」

「生で食べていいの?」


「漁に出た者の特権さ」

 そう言うとウルドは、リポソームをぺろりと、美味そうに頬張った。

 ウルドの瞳はエメラルドグリーンで、スライム・オーシャンと同じ色をしている。長年漁をし、彼らの臓器を口にしていると瞳の色も変わってくる。


 カイルも真似て、口に放り込んだ。

 少し塩気と酸味のある、貴重な果物(・・)ゼリーのような味がした。


「美味しい……!」


「朝食は新鮮なゴルジでホカホカのパンケーキ。それにミトコンドリアは油で揚げて、パリッパリのソーセージがいいな」

「いいね、早く食べたいね、楽しみ!」

「あぁ、母さんに頼もう。もうすぐ入り江につく」


 朝食は新鮮なスライムの細胞器官を頂こう。

 やがてカイルの瞳も、父と同じ綺麗なエメラルド色に染まるだろう。


 小舟は静かに入り江の奥の港へとと滑り込んだ。


<おしまい>


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[良い点]  よくあるSFに見られるような機械やギミックが一切ないのに拘わらず、"これはSFである"と読者に思わせる作品ですね。 [一言]  ずいぶん昔のSF映画である、"惑星ソラリス"のラストシーン…
[良い点] 『かつて太平洋と呼ばれていた目の前の海は(信じられないことに!)塩水で満たされていたという。』 冒頭のこの一文、特に文書の途中の『(信じられないことに!)』というところがハヤカワの海外SF…
[良い点] SFファンタジーなのに難しく無い。感覚的な読了感でありながら、科学的でもあって、スライムの海に美しさを感じました。 [一言] 同じ物ばっかり食べてたら飽きるから、炊くとホカホカのお米みたい…
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