泉 鏡花「紅玉」現代語勝手訳
泉鏡花の戯曲「紅玉」を現代語訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように、あるいはずいぶん勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
浅学、まるきりの素人の私が、言葉の錬金術師と言われる鏡花の文章をどこまで現代の言葉に置き換えられるか、非常に心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
この作品は筑摩書房「泉鏡花集成 7」(種村季弘 編)を底本としました。
時 :現代、初冬
場所:府下郊外の原野
人物:画家
侍女(烏の仮装をしている)
貴婦人
老紳士
若紳士
子ども五人
三羽の烏(侍女と同じ扮装)
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子ども一:ほら、あそこ、遠くの停車場の方から、あんなものがやって来たぜ。
子ども二:何だ、何だ?
子ども三:ああ、大きなものを背負って、よろよろ来るねえ。
子ども四:影法師まで、ぶらぶらしているよ。
子ども五:重いんだろうか。
子ども一:何だぁ? 引っ越しかなあ。
子ども二:構うもんか、何だって。
子ども三:ご覧よ、背よりも高い、障子みたいなものを背負ってるから、凧が歩いてくるみたいだ。
子ども四:糸をつけて揚げる真似をしてやろうぜ。
子ども五:やれやれ、面白い。
凧を持ったのは凧を揚げ、独楽を持った者は独楽を廻す。手に何も持っていない者が一人、こちらに歩いてくる者に向かって、凧の糸を手繰る真似をして笑う。
画家:(枠張りのまま、絹地の画にやたらと紐を掛けて、薄汚れた背広に背負い、初冬の枯野の夕日の影であかあかと染まった淋しそうな顔をしながら、酔った足取りで登場)……落第落第、大落第。
(ぶらつく身体を杖に突っかかって、疲れ切った樵夫のよう。しばらく間を置いてから叫ぶ)畜生! 状を見やがれ!
声に驚き、又、活きた玩具が近づいたのを見て、糸を手繰っていた子どもはさっと、その真似を止めて、何も知らない振りをする。
画家はそれには気づかず、立ち止まり、嬉しそうに遊んでいる子ども達を見廻す。
画家:よく遊んでいるなぁ。ああ、羨ましい。どうだ、みんな面白いか。
子ども達、彼の様子を見て、忍び笑いをする。その中で、糸を手繰っていた一人の子ども、
子ども三:ああ、面白かった。
画家:(管を巻くような口振りで)何? 面白かった? 面白かったは不可んな。この若いのに。……いや、子どもをつかまえて、この若いのにも変だ。(笑う)はははは、面白かったとは心細い。過ぎ去ってしまったのことのようで情ない。面白いと言え、面白がれ、面白がれ。もっともっと面白がれ。うん? どうした?
子ども三:だって、兄さん怒るだろう?
画家:(意味が解らず)俺が? 怒る? 何を? ……何を俺が怒るんだ。生命がけで描いて、文部省の展覧会で、這いつくばって、いいか、洋服の膝を膨らまして、にじり出てだな、こりゃぁ好い図じゃないぜ、審査所のお玄関で、丁寧にお辞儀をした奴にだな、紙鉄砲で、ポンと撥ねられて、ぎゃふんと参った。それでさえ怒りもできずに、すごすごと杖に縋って背負って返る男じゃないか。景気よく蹴飛ばすように、グッと呷った酒なら、跳ねたり息んだりするところだけれど、胃の悪いところへ、げっそり空腹とくりゃあ、蕎麦とも行かず、停車場で饂飩で飲んだが、臓腑がさながら蚯蚓のような、へなへなした紛い物の江戸っ子が、どうして腹なんぞ立てられるものかい。ふん、だらしないったらありゃしない。
他の子ども達はキョロキョロ見ている。
子ども三:何だか知らないけれどね、今、向こうから来る兄さんに、糸目をつけて手繰っていたんだぜ。
画家:何だ? 糸をつけて?……手繰ったか。いや、怒りやしない。一体何の真似だ?
子ども一:兄さんがね、そうやってね、ぶらぶら来た所がね。
子ども二:遠くから見ると、まるで凧の形に見えたんだもの。
画家:ははあ、凧か。(背負っている絵を見る)成程、そこでこうやって(と、凧の真似をする)面白がっていたんだな。で、俺がこう近くに来たから、怒られやしないかと思って、その悪戯を止めたんだ。だから、面白かったと言うのか。……しかしな、『かった』は淋しい。つまらない。元気よく面白がれ、もっと面白がれ、さあ、糸を手繰れ、揚げろ、引張れ。俺が、凧になって揚がってやろう。揚がって、高い空から上野の展覧会を見てやる。京や大阪を見よう。日本中を、いや、世界を見よう。……さあ、そこの子、こっちへ来て煽れ。それ、お前は向こうで揚げる真似をするんだ。さあやれ、やれ。(笑う)ははは、面白い。
子ども達はしばらくためらっていたが、画家が機嫌の良いのを見て、一人は画家の背中を抱いて、凧を煽る真似をする。一人は駈け出して距離を取る。と、その子ども
子ども三:やあ、大凧だい、一人じゃ重い。
子ども四:よし、手伝ってやらぁ。(独楽を懐に入れ、立ち並ぶ)
風よ吹け、もっと吹け。山の風よ吹いて来い。(皆、同じように囃す)
画家:(煽った子の手を離れると同時に、大手を開いて)こうなりゃ凧絵だ、提灯屋だ。そりゃあ、しゃくるぞ、水汲むぞ、べっかっこうだぁ。
子ども等が糸を引いて駈けるがままに、ふらふらと舞台を飛び回り、やがて木の根にどうと倒れ込んで、切なく呼吸をつく。
夕暮れる。
子ども三:凧が切れちゃった。
子ども一:暗くなった。ちょうどいい。
子ども二:また、……あれをやろう。
その他:やろうよ、やろうよ。(一同、手は繋がずに、少しずつ間を置き、ぐるりと輪になって唄う)
♪ 青山、葉山、羽黒の権現さん
あとさき言わずに、中はくぼんだ、おかまの神さん ♪
歌いながら、廻って、それを繰り返す。
画家:(きょとんとして沈黙していたが、ため息をついて立ち上がり、これを眺める)おい、それは何の唄だ?
子ども一:ああ、何の唄だか知らないけれどね、こうやって唄っていると、誰か一人踊り出すんだよ。
画家:踊る? 誰が踊る。
子ども二:誰が踊るって、このね、輪の中へ入ってしゃがんでいる者が踊るんだって。
画家:誰も入ってはいないじゃないか。
子ども三:でもね、気味が悪いんだもの。
画家:気味が悪いってどういうことだ。
子ども四:ああ、あの、それがね、踊ろうと思って踊るんじゃないんだよ。ひとりでにね、踊るの。踊らないぞと思っても、勝手に踊り出すんだもの。気味が悪いんだ。
画家:やってみよう、俺を入れろ。
一同:やあ、じゃ、兄さん入ってみるかい。
画家:俺が入る。ああ、ちょっと待て、(画を取って大樹の幹に寄せかける)
さあ、いいか。
子ども三:目を塞いでいるんだぜ。
画家:よし、この世間を酔って踊りゃ本望だ。
♪ 青山、葉山、羽黒の権現さん……
子ども達は唄いながら画家の周りを廻る。環が脈を打つように伸びたり縮んだりするにつれて、画家はほとんど無意識になったように片手、片足を異様に動かし始める。唄う声がますます冴えて、辺りは次第に暗くなる。
その時、樹の陰から、顔が黒く、嘴も黒く、烏の頭をした、真っ黒なマントのような衣を裾までスッポリ被った怪しいものが一つ現れ出て、子どもと子どもの間に交じって、同じように廻る。
地面に蹲った画家は、この時、中腰に身を起こして、半身を左右に振って踊る真似をする。
続いて、初めの黒いものと同じ姿をした三つのもの、人の形の烏が木陰から現れ、同じく子ども達の間に入って、画家の周囲を廻る。
子ども達は絶えず唄っている。子ども達は皆、その怪しいものの姿は見えないようである。後から出た三羽の烏が輪に加わる頃から、画家はすっかり立ち上がり、我を忘れたようにして踊り出す。初めの烏も一緒に踊り、取り分け後からの三羽の烏は、足も地面に着かないほどに飛び上がっている。
彼らが踊り狂う時、子ども達は唄を止める。
一同:(手に手に石を取り、カチカチと打ち鳴らして)
魔が来た、でんでん。影がさいた、もんもん。
(これを四、五度、口々に淋しく囃す)
ほんとに来た。そりゃ来た!
子どもの中の一人、誰かは分からないが、そう叫ぶと、バラバラと左右に分かれて逃げて行く。
木の葉が落ちる。
木の葉が舞い落ちる中、一人の画家と四つの黒い姿のものは頻りに踊っている。画家は靴を履いている。後からの三羽の烏は皆爪先まで黒いが、初めの烏だけは、裾からはみ出ている褄は紅色で、白い足をしている。
画家:(疲れ切った様子で、どうと、仰向けに倒れる)水だ、水をくれい。
皆、踊りを止める。後からの三羽の烏は、身体を開いて、翼を交わせたようにして、腕を組み合わせながら、画家の様子を眺める。
初めの烏:(うら若い女の声で)寝たよ。まあ……だらしのないこと。人間、
こうはなりたくないものだわね。そのうち、目が醒めたら行くだろう。別にお座敷の邪魔にもなりはしないだろうし。……どれ、(樹の陰の一叢生い茂った薄の中から、組み立て式の交叉した三足の竹を取り出して据え、次に、その上に丸い板を置き、卓子のようにする)
後から出て来た烏、この時、三羽とも無言で近づいてきて、手伝う様に、二脚のズック製の同じ組み立ての床几をテーブルを挟んで差し向かいに置く。
初めの烏、またもや、旅行用の手提げの中から葡萄酒の瓶を取り出して、卓子の上に置く。後の烏達、青い酒や赤い酒の瓶、続いてコップを取り出して並べ揃える。
やがて、初めの烏は一本の蝋燭を取って、これに火を点す。
舞台が明るくなる。
初めの烏:(思いついたような仕草で、一つの瓶の酒を美しい盃に酌ぎ、蝋燭の火に翳す)
おお、綺麗だ。蝋燭の灯が映って、透き通り、いつかの、そう、あの時、夕日の色に輝いて、丁度東の空に立った虹の、その虹の目のようだと言って、薄雲に翳してご覧になった、奥様の白い手の細い指に重そうに嵌められていた指環の玉に似ていること。
三羽の烏、それに耳を傾けて聞いている。
ああ、あの玉が溶けたと思う酒を飲んだら、どんな味がするだろうねぇ。
(烏の頭を乗せた咽喉の辺りの黒い布を開けて、若い女が顔を覗かせ、酒を飲もうとして躊躇う)あれ、ここは私には口だけれど、烏にすると丁度咽喉の部分。厭だよ、咽喉だと血が流れるようでねぇ。こんなことをしていると気になる。よそう。まぁ、独り言を言って、誰かと話をしているようだよ。
(四辺を見廻す)そうそう、思った同士、人前で内緒で心を通わす時は、お互いに向かい合った卓子が、人知れず、脚を上げたり下げたりする幽かな、しかし脈を打って血の通う、その符牒でもって、黙っていても暗号が出来ると、いつも奥様が仰るもんだから、――卓子さん(卓を叩く)殊にお前さんは三つ脚で、狐狗狸さんそのままだもの。生きているも同じことだと思うから、つい、お話しをしたんだわ。しかし、うっかりして、少々大事なことを喋っちゃったんだから、お前さん、聞いただけにしておいておくれ。誰にも言っちゃいけないよ。ちょいと、注いだお酒をどうしよう。ああ、いいことを思いついた。
(酔い倒れた画家に近づく。後から出て来た烏が一羽、同じように近寄って画家の項を抱いて仰向けにする)
酔っ払いさん、さあ、冷水だよ。
画家:(飲みながら、目が覚めた状態で)アア、日が出た、が、俺は暗夜だ。(そのまま寝てしまう)
初めの烏:日が出たって? 赤い酒を透かして、私のこの烏を見たから、まあ、画に描いた太陽の夢を見たんだろう(*太陽には三本足の烏がいると信じられたことによる)。でも、俺は暗夜だなんて、何だか謎のようなことを言ってるわ。さあさあ、お寝間をこしらえておきましょう。
(元に立ち戻って、また薄の中から、今度は一張りの天幕を引き出してきて、卓子をグルリと蔽う。三羽の烏、左右からこれを手伝う。天幕の裡は、観客席からは見えない)お楽しみだわね。
(天幕を背後にして、正面に立つ。三羽の烏はその両側にたたずむ)
もう、すっかり日が暮れた。
(この時、はじめてフト自分の他に、烏が立っている姿に気づく。しかし、自分の目がおかしいのではないかと怪しむ様子。少しずつ、あちこち歩いてみる。歩くにつれて烏の形をしたものも動くのを見て、次第に疑いを増し、手を挙げれば、烏達も同じく手を挙げ、袖を振り動かせば、同じように振り動かす。足を爪立てれば爪立ち、しゃがめばしゃがむのを食い入るように見詰めていたが、急に激しい恐怖に襲われ、慌ただしく駈け出す)
帽子を目深に被り、鼠色のオーバーコートを着て、太いステッキを持った老紳士が、憂鬱に沈んだ様子で登場。
そこに、初めの烏がバッタリ行き当たる。驚いて、羽を広げるようにして身を開くと、紳士はその袖を捉える。初めの烏は、逃れようと、威す真似をして、かあかあ、と烏の声で鳴く。泣くような女の声である。
紳士:こりゃ、重い罪に塗れた地獄の門を背負っておるのに、出来もしない空を飛ぶ真似をするか。
(掴んだものを押しつぶすようにして突き放す。初めの烏、どうと地に倒れるようにして坐る。三羽の烏はわざとらしく驚いた身振りをする)
地を這う烏は、鳴く声が違うじゃろう。うむ、どうじゃ。地を這う烏は何と鳴くか。
初めの烏:ご免なさいませ。ご免なさいませ。
紳士:ははあ、ご免なさいませと鳴くか。(繰り返して)ご免なさいませと鳴くのじゃな。
初めの烏:はい。
紳士:うむ。(重く頷く)聞こえた。とにかく、お前の声は聞こえた。
こりゃ、俺の声が分かるか。
初めの烏:ええ?
紳士:俺の声が分かると言うんじゃ。こりゃ、面を上げろ。どうだ。
初めの烏:ご主人様! あれ……。
紳士:(ステッキでもって、その裾を圧える)
ばさばさ騒ぐな。槍で脇腹を突かれでもせん限り、樹の上へ上がれる身体でもないくせに。羽ばたきをするな、女、手をついてじっとして口を利け。
初めの烏:真に申し訳ございません。とんだ失礼を致しました。……先だって、奥様がお好きな催しで、お屋敷に園遊会の仮装がございました時、私がいたしました、あの、このこしらえが余りにもよく似合ったと、皆様がそうおっしゃいましたものでございますものですから、つい、心得違いなことを始めました。あの……後でご主人様がご旅行をなさいましたお留守中は、お屋敷にもご用が少のうございますものですから、自分の買い物だとか、用達しだとか、何のかのとか申して、奥様にお暇をいただいて、こんな所に出て参りましては、たまに通りますものを驚かしますのが面白くてなりませんので、つい、あの、癖になりまして、今晩も……旦那様には申し訳のございません失礼をいたしました。どうか、お許し下さいませ。
紳士:言うことはそれだけか。
初めの烏:はい?(聞き返す)
紳士:俺に言うことは、それだけか、女。
初めの烏:あの、(口籠もる)今夜はどうしたことでございますか、私の形……あの、影法師が、この、野中の宵闇にはっきりと見えたのでございます。それさえ気味が悪うございますのに、気をつけて見ますと、二つも三つも、私と一緒に動くのでございますもの。
三方に分かれてたたずんでいる三羽の烏、また打ち頷く。
もう、恐ろしくなりまして、夢中で駈け出しましたものですから、ご主人様に、つい……。あの、そして……ご主人様は、いつご旅行先から?
紳士:俺の旅行か。ふふん。(自ら嘲る口振り)
お前たちは、俺が旅行をしたと思うか。
初めの烏:はい、一昨日から、北海道の方へ。
紳士:俺が北海道と言うのは、すぐ俺の屋敷の周囲のことじゃ。
初めの烏:はあ?!(驚く)
紳士:俺の旅行は、冥土の旅みたいなものじゃ。昔から、事が、こういう事が起こってそれが破滅に近づいた時は、誰でもするわ。平凡な手段じゃ。通例過ぎるやり方じゃが、せんという訳には行かなかった。今言った冥土の旅を厭じゃと思っても、誰もしない訳には行かないようなものじゃ。また、お前等としても、こういう事件の最後の際には、その家の主人か、良人か、ええか、俺がじゃ、ある手段としてこういう旅行するのに決まっていることを知っておる。お前は知らなくても、怜悧なあれは知っておる。お前としても少しは分かっておろう。分かっていて、その主人が旅行という隙間を狙う。わざと安心して大胆な不埒を働く。うむ、耳を蔽って鈴を盗むというのじゃ。いずれ音が立って、声の響くのは覚悟じゃろう。何もかも隠さずに言ってしまえ。何時のことか。一体、何時のことか、これ!
初めの烏(侍女):いつ頃とおっしゃって、あの、影法師のことでございましょうか。それは、ただ今……
紳士:黙れ! 影法師か何か知らんが、お前等三人の黒い心が形にあらわれて、俺の屋敷の内外を横行し始めた時だ。
侍女:お許し下さい。ご主人様、私は何も存じません。
紳士:用意は出来とる。女、俺の衣兜には短銃が入っているぞ。
侍女:ええっ!
紳士:さあ、言え!
侍女:ご主人様、どうかお許し下さいませ。春の、暮れ方のことでございます。美しい虹が立ちまして、お庭の池に、盛りの藤の花や躑躅と一緒に影が映り込んだのですが、その虹が、薄紫の頭で、胸には炎の搦んだような真紅の躑躅の羽が交じった、虹の尾を曳く大きな鳥のようで、お二階を覗いておりますように見えたのでございます。その日は、ご主人様はお留守。奥様が欄干越しに、その景色をお眺めなさいまして、「ああ、綺麗なこの白い雲と、蒼空の中に漲った大鳥をご覧」と、お傍におりました私にそうおっしゃいまして、「この鳥は、頭は私の簪に、尾は私の帯になるために来たんだよ。角が九つある龍が、頭に兜を被り、尾を草摺りに敷いて、敵に向かう大将軍を飾ったように。……けれども、虹には目がないから、私の姿が見つからないので、頭を水に浸してうなだれ悄れている。どれ、目を遣ろう」とおっしゃいますと、右の中指に嵌めておいでになった指環の紅い玉でございますが、手の甲を上に翳しては虹には見えないし、掌を表にしてしまうと奥様の目には見えません。ですから、その指環をお抜きなさいまして。
紳士:うむ、指環を抜いてだな。うむ、指環を抜いて。
侍女:そして、雪のようなお手の指を環になさいまして、高いところ、ちょうど二階に伸びた青葉の上から、虹の膚へ嵌めるようになさいますと、その指に空の色が透き通りまして、紅い玉は、颯と夕日に映り、本当に虹の瞳のようになって、晃々と輝きました。その時でございます。お庭も池も真暗になったと思います。虹も消えました。黒いものがぱっと来て、目潰しを打ちますように翼を広げたと思いますと、その指環を奥様の手から攫いまして、烏が飛びましたのでございます。紅い玉を、露に光る木の実だと間違えたのでございましょう。築山の松の梢を飛びまして、遠くも参りませんで、この野原の末との境にあります堀の上――真っ赤な、まん円な、大きな太陽様の前に黒く留まったのが見えたのでございます。私は裸足で庭へ駈け下りました。駈けつけて声を出しますと、烏はそのまま堀の外へまた飛んでいったのでございます。ちょうどそこが、裏木戸の所でございます。あの木戸は、私がご奉公いたしましてから、五年もの間、お開けなさったことは一度もなかったのでございます。
紳士:うむ、あれは開けるべき木戸ではないのじゃ。俺が知っている限り、やむを得ん凶事で、二度だけは開けなければならんかったが、それとて、凶事を追い出しただけじゃ。禍々しいことが外から入ってきた試しはない。――それをその時、お前の手で開いたのか。
侍女:ええ、錠の鍵はがっちりささっておりましたけれど、赤錆に錆切りまして圧しますと開きました。腐れ落ちたのでございます。と、堀の外に、散歩していたらしい男が一人立っていて、その男が烏の嘴から落とした奥様のその指環を掌に載せてじっと見ていたのでございます。
紳士:餓鬼め、そいつか。
侍女:ええ。
紳士:相手はそいつじゃな。
侍女:あの、私が訳を話して、その指環を返しますように申しますと、冗談めかすように、「いや、これは人間の手を離れたもの、烏の嘴から受け取ったのだから返せない。もっとも、烏にだったら、何時でも返してあげよう」と、そう申して笑うんでございます。それで、どうしても返しません。そして、「確かに預かる。決して怪しいものではない」と言って、ちゃんと衣兜から名刺を出してくれました。奥様は「面白いわね」とおっしゃいました。それから日を決めまして、同じ暮れ方の頃、その男を木戸の外まで呼びましたのでございます。その間に、この、あの、烏の装束をお誂えなさいました。そして、私がそれを着て出て行き、指環を受け取るつもりでございましたが、「からかってやりましょう」と仰って、奥様がご自分で烏の装束をお召しになって、堀の外へ出ようと……。でも、ひょっとして、野原で遊んでいる子どもなどが怪しい姿を見て、騒がせても悪いというお心遣いから、四阿へお呼び入れになりました。
紳士:奴は、あの木戸から入ったのだな。あの木戸から。
侍女:「男が吃驚するのを見ていてご覧」と、私にお囁きなさいました。奥様が、「烏は脚では受け取りませんもの」とおっしゃって、男が掌に載せました指環を、ここをお開きなさいまして、(咽喉の開く所を示す)口でお咥えになったのでございます。
紳士:口でな。もう、その時からか。毒蛇め。
侍女が示した所の上顎、下顎へ拳を引っかけ、めりめりと引き裂く。侍女の透き通った歯と紅色の唇が現れる。
売婦が!(足を挙げて、枯れ草を踏みにじる)
画家:うむむ。(二声ばかり、夢に魘されたようなうめき声)
紳士:(はじめて、画家の居ることに気づく)女、こっちへ来い。(杖で一方を指す)
侍女:(震えながら)はい。
紳士:頭を着けろ、被れ。俺の前を烏のように躍って行け。飛べ、屋敷を横行する黒いものの形をしっかりと見覚えておかなければならん。躍れ。衣兜には短銃があるぞ。
侍女、烏のようにその黒い袖を動かす。おののいて震えているようにも見える。紳士、後に続いて舞台袖に入る。
三羽の烏:(声を揃えて叫ぶ)おいらのせいじゃないぞ。
一の烏:(笑う)ははははは、これはどう言えばいいのだ。
二の烏:致し方ない。やっぱり、最後は、烏のせいだと言わねばなるまい。
三の烏:すると、人間のしたことを俺たちが引っ被るのだな。
二の烏:被ろうとも、背負おうとも、被ったところで、背負ったところで、人間のしたことは人間同士が勝手に仲間内で帳面づらを合わせて行く。勘定のやり取りをするんだ。俺たちが構うことは少しもない。
三の烏:成程な、罪もその報いも人間同士が背負いっこ、被りっこをするわけだ。大体、この度のことの起こりは、そこのお一殿の悪戯から始まった次第だが、さて、こうなってみれば、もう高いところからの見物でことが済む。しかし、嘴を引傾げて、ことんことんと思案すればだ、我等は、これ、余り性の善い烏仲間ではないな。
一の烏:いや、悪いことは少しもない。人間から言わせれば、善いとか悪いとか勝手に言うが、俺はただ屋敷の棟で、例のように夕飯を探していただけだ。そんなところへ、艶麗な奥方とか、それ、人間界ではそんな風に言うのが、「虹の目だ、虹の目だ」と言って(嘴を指す)この黒い鼻の先へひけらかした。この時節、肉どころか、血どころか、贅沢な目玉などはいつになく味わったためしがない。鳳凰の髄、麒麟の腮ですら、世にも稀な珍味と聞く。そこへ虹の目玉だ。よし、これを喰って八千年生き延びてやるぞと、廂はずれから、逆さ落としの鵯越の大技をやったがよ、生命がけの仕事と思え。鳶なら油揚げも攫おうが、人間が手に持ったままのやつを引手繰るというのは、人間も烏もお互い馴れてもいないし、得意じゃない。それでも首尾よくカチリと咥えてな、スポンと中庭を抜けたまではよかったが、虹の目玉という、あの代物はどうだ、歯も立たない。ほんに、とんでもないくらいにお堅い。先祖以来、田螺を突ついて鍛えた口も、これには、がっくりと参ったわ。お蔭で舌の根が弛んだ。癪だがよ、振り放して素っ飛ばしたまでのことだ。な、それが源で人間が何をしようと、彼をしようと、ついぞ俺が知ったことではあるまい。
二の烏:その通り、その通り。それが道理というものだ。お釈迦様より間違いのないことを言うわ。いや、又、お一殿が指環を咥えたのが悪いと言うなら、晴れ上がった雨も悪いし、ほかほかとした陽気も悪い。もっと言えば、虹も悪いと言わねばならん。雨や陽気がよくないからと言っても、どうすることもできないのと同じことだ。とかく空に美しい虹の立つ時は、地にも綺麗な花が咲くものよ。芍薬とか、牡丹とか、菊とか、あるいは猿が折って蓑にさす、お花畑に咲くそんなものではない不思議な花、名も知れぬ花よ。言ってみれば虹のような花よ。人間の家の中にそうした花の咲くのは壁に優曇華(*3000年に一度花を咲かせると言われる想像上の植物)が開くのと同じだ。俺たちが見れば、薄暗い人間界に、眩しい虹のような、その花がぱっと咲いた所は鮮麗だ。な、家を忘れ、身を忘れ、生命を忘れて咲く怪しい花ほど美しい眺望はない。取り分け今度の花は、お一殿が蒔いた紅い玉から咲いたもの。吉野紙(*奈良県吉野に産する薄手の和紙。白くて宝石や貴金属などを包むのに用いる)の霞で包んで、露をかためた硝子の器の中へ密と蔵ってもおこうものを。人間の黒い手は、これを見たが最後、掴み散らす。当人は自分の手や腕を黒ではなく、黄色い手袋とか白い腕飾りみたいに思うそうだが、お互いに見れば真黒よ。人間が見て、俺たちを黒いというのと同一ようなものだ。特に今来た親仁などは鉄棒同然。そんな腕を筒にして、火の舌を搦めて吹いて、先ほどの不思議な花を微塵にしようと焦っておるわ。野暮めな奴が。なぁ、見ていれば綺麗なものを、仇花であったとしても美しく咲かせておけばいいことなのによ。
三の烏:フフ……、などと言ってな、お二めは、体のいいことを吐す癖に、朝烏だの、朝桜だの、朝露だの、朝風だのと言って、朝早くから朝飯を急ぐ野郎だ。何だ? 仇花であっても美しく咲かせておけばいいことだ? からからからと笑わせる。お互いここで何をしている。この虹が散るのを待って、やがて食おう、突こう、舐めよう、しゃぶろうと、毎夜、毎夜、この間、……咽喉、嘴をカチカチ噛み鳴らしているのではないのかい。
二の烏:だからこそ待っているんだ。桜の枝を踏んでも、虫の数ほど花片も露もこぼさない俺たちだ。この度の不思議なその大輪の虹の台、紅玉の蕊に咲いた花に、俺たちは絶対に手などつけるものか。雛芥子が散って実になるまで、風が誘うのを眺めているのだ。色には、恋には、情には、その咲く花の二人を除けて、他の人間はたいがい風だ。中にも、ぬしというものはな、主人というものはな、淵に棲むぬし、峰にすむ主人と同じで、これが暴風雨よ、旋風だ。ひとたまりもなく吹き散らす。ああ、無慙なことによ。
一の烏:と言いながら嘴を、こつこつ鳴らして、内々にその吹き散るのを待つのは誰だ。
二の烏:ははははは、俺たちだ。ははははは。まず口だけは体のいいことを言って、その実はお互いに餌食を待つのだ。また、この花は紅玉の蕊から虹に咲いたものだが、散る時は肉となり、血になり、五色の腸となる。やがて見ろ、脂の乗った鮟鱇のひも、みたいな珍味を、つるりだ。
三の烏:いつのことだ。ああ、聞いただけでも堪らんわ。(ぱたぱたと羽を煽る)
二の烏:急ぐな。どっち道俺たちのものだ。餌食がその柔らかな白々とした手足を解いて、木の根の塗膳の上、錦手の木の葉の小皿に盛られるまでは、精々咲いた花を最後まで守護して、夢中で躍り跳ねるまで楽しませておかねばならん。網で捕ったのと、釣ったのとでは鯛の味が違うと言わないか。あれ等を苦しませてはいかん。悲しませてはならん。海の水を酒にして泳がせろ。
一の烏:むむ、そこで椅子やら卓子やら、天幕の上げ下げまで手伝うかい。
三の烏:あれほどのものを(天幕を指す)持ち運びから始末まで、俺たちがこの黒い翼で人間の目から蔽って手伝うとは知らずに、薄の中に隠したつもりの、彼奴等の甘さが堪らん。が、俺たちのしているのは、一歩引いて眺めてみると、間違いなく、これは下女下男のすることだ。天下の烏ともいうものが、大いに威厳を落とすわけだな。
二の烏:獅子、虎、豹、地を走る獣、空を飛ぶ仲間では、鷲、鷹、みさごくらいなものか、餌食を掴んで容色のいいのは。……熊なんかがあの形で椎の実を拝んでいる姿とか、鶴とは言えども、尻を振って泥鰌を追っかける格好などは、余り喝采とはできない図だ。誰も誰も、食らうためには品も威も下げると思え。そこまでして手に入れる餌食だ。突くとなれば礼儀作法などない。骨までしゃぶるわ。餌食の無慙さ、いや、またその骨の肉汁の旨さはよ、何とも言えんわ。(身震いする)
一の烏:(聞いている途中から、ジロジロと酔い臥した画家を見ている)おふた、お二殿。
二の烏:あい。
三の烏:あい、と吐すか、この魔物めが、ふてぶてしい。
二の烏:お望みとあれば、可愛く鳴いても見せるぞ。
一の烏:いや、冗談は措け。俺がさっきから思うことだ。待ち設けの珍味もいいが、ここに目の前に転がっている餌食はどうだ。
三の烏:そのことよ。血の酒に酔う前に、腹の底に何か入れておく、なんていうのはどうだ。何分にも空腹だ。
二の烏:右に同じ、夜食前よ。俺も真っ先に気づいてはいるが、その人間はまだ食い頃にはならんと思う。念のために面を見ろ。
三羽の烏、ばさばさと近寄り、頭を、手を、足を、フンフンとかぐ。
一の烏:堪らん、いい香だ。
三の烏:ああ、旨そうだ。
二の烏:いや、まだそうにはなるまい。この歯を食いしばった所を見てみろ。大体、寝ていても口を結んだ奴は、蓋をした貝だと思え。迂闊に嘴を入れたら最後、大事な舌を挟まれるぞ。やがて意地の汚い野良犬が来て舐めるだろうから、その四つ足の奴等に味見をさせておいてから、可いとなったら、その後で味わいにかかろう。よく見ろ、食い物が悪いかして、脂のない人間だ。
一の烏:この際、乾物でも構わんよ。
二の烏:生命がけで乾物を食って、面目が立つと思うか。もっと豪華な肴を待て。
三の烏:や、待つと言えば、例の通り、ほんのり薫ってきた。
一の烏:おお、人臭いぞ。こりゃ女のにおいだ。
二の烏:おい、下司な奴だな。同じ言うなら不思議な花が薫ると言え。
三の烏:おお、蘭奢待(*天下第一の名香といわれる)、蘭奢待。
一の烏:鈴ヶ森(*八百屋お七が処刑された刑場)でも、この薫は百年目に二、三度しかお目に掛からなんだな。
二の烏:化鳥が古いことを言う。
三の烏:などと、若い気でいると見える。はははは。
一の烏:いや、それにしても、こうして暗闇で笑う所は我ながら不気味だな。
三の烏:人が聞いたら何というか。
二の烏:烏が鳴いている、と吐すだろうよ。
一の烏:何も知らずにか。
三の烏:不憫な奴等だ。
二の烏:(手を取り合って)おお、見える、見える。それ、侍女の気になって迎えてやれ。(自ら天幕の中から、点した蝋燭を取りだし、野中に黒く立って、高く手に翳す。一の烏、三の烏は、二の烏の裾にしゃがむ)
薄の彼方、舞台の深い所、天幕の奥斜めに、男女の姿が立ち現れる。一人は若い紳士、一人は貴婦人。容姿美しく輝くばかり。
二の烏:恋も風、無情も風、情も露、生命も露、別れるも薄、招くも薄、泣くも虫、歌うも虫、跡は野原だ、好きにすればいい。(怪しい声で呪す。一と三の烏、同時に跪きながら天を仰ぐ。風が一陣吹き、灯が消える。舞台は一時暗黒となる)
初め、月はなかったが、この時になって薄月が出る。舞台が明るくなって、貴婦人も若い紳士も、三羽の烏も皆見えない。天幕があるのみ。
画家、猛然と目覚める。
悪夢に魘されて、覚めたように辺りを見廻し、慌ただしく画の包みを開く。衣兜からマッチを探り、枯れ草に火を点ける。
野火が炎々(あかあか)と燃え、絹地に三羽の烏があらわれる。
画家はそれを凝視する。
どこかに敵がいるかのように、腕を上げて睨む。
画家:俺の絵を見ろ。ん? 待て、しかし、絵なのか、それとも、実際の奴等な
のか。
――幕――
鏡花の文章は、何度も書いているように、一つのまとまった文章に置き換えるのが難しい。感性の色濃い、ぶつ切れの言葉は平凡な言葉にされるのを拒否しているようである。
私としては「勝手」を言い訳として、自分の言葉をある程度補った。間違って解釈して、突っ走っている場面もあるかも知れない。
この戯曲はかつて、実際に上演されたようである。
寺山修司が好むような作品だと思うが、彼の脚本があったかどうか、私は知らない。もしも彼の手にかかれば、どんな作品になっていたのかと興味深い。