9月13日(水)
珍しい。
俺は昼下がりの教室で、右斜め前の席に座る七海を見て思った。
七海が授業中に居眠りをしていた。
日本史教師の京田の声は細くて小さくて抑揚がなくて、四時間目の暖かな陽が教室を包む。そして生徒の半分が寝る。
日本史があると「睡眠時間ゲット」と宣言する生徒もいるくらいだ。
でも七海は違う。
俺は長く七海と一緒にいるけど、授業中に寝てるのを見たのは初めてかも知れない。
俺はこっそりと、でもじっくりと七海が眠っているのを観察した。
手袋をしている手が、教科書を持ったまま、目がゆっくりと閉じられていく。
ああ、ダメだ、と目を覚ますけど、やっぱりゆっくりと揺れて、手元から教科書が落ちた。
教科書が机に当り、響いた軽い音になんとか目を覚ます。マスクの位置を正して、だけど眠くて……を繰り返している。
ゆっくりと閉じられていく瞳を後ろから見ていた。
開いて、閉じて。
その繰り返しをずっと見ていた。ただ可愛いなあ……と思いながら。
アレルギーの調子が悪いのだろうか。俺も春には花粉アレルギーがあって、薬を飲むと眠くなる。
それが関係してるのだろうか。
教科書を諦めたように机に置いて、ついにウトウトとし出した七海を見て、俺は鉛筆を持った。
ノートの白いページを開いて落書きを始める。
最初のラインを引いた。
迷わずに、美しく。
それは七海の輪郭。丸すぎずに甘い。
鉛筆から伝わる感覚が好きで、次々と線を引いた。
俺の趣味は絵を書くことだ。
最初は少年漫画の模写だった。好きな漫画の絵をそのまま描き写して満足していた。
けれど、小学校の時に書いた絵が県で入選して、そのまま大賞を取った。
それはあの椎名の家にかかる真っ赤な橋を書いた絵だった。
小学生の俺には、あの橋が雄大に川を泳ぐ恐竜に見えていた。
それをそのまま描いた。
今思うと、子どもの発想の割には大胆な絵柄が評価されたのだろう。
今でもその絵は部屋に飾ってあるし、気に入っている。
中学では美術部に入り、ひたすら絵を書いた。風景、描写、デッサン……鉛筆一本あれば、俺は何でも書けると思っていたし、事実無敵だった。
毎日書いて、その頃から始めていたSNSにアップしていた。
俺の絵に毎回「イイネ」をくれるひとが居た。
その人は高校生で美大を目指していたんだけど、驚くほど絵が上手だった。
毎日やりとりをして、どんな大学があるかも、彼から教えてもらった。
美大に入って学びたいこと、将来やりたいのは本のデザインだと彼は熱っぽく語ってくれた。
俺の数千倍上手だったのに、彼は美大に落ちた。
不思議なことに、彼の友達の、微妙な人は合格していた。
そこからだ、俺が完全に夢も自信も見失ったのは。
絵が上手い下手が分からなくなり、自分の絵に自信がなくなった。
そして上手い下手でしか絵を見なくなってしまった。
自分の絵を見失い、なんで書いているのか分からなくなった。
だた分かったのは、好きなことなんて仕事にして生きていけないってこと。
とくに絵とか曖昧なものは、仕事になんて出来ない。
だったら、俺に何ができるんだよ。
高校でも一応美術部には所属したが、部室にも全く行ってない。
なんだろうな。俺より真摯に頑張ってる人が、成功していくべきなんだ。
たとえば美大に落ちた彼みたいに。
俺みたいに覚悟もなくて、何もかも怖がっているようなヤツが、何か出来ると思えない。
俺は地元で就職して、趣味で絵をかけたらそれでいい。いや、趣味でさえ書くかな……?
絵なんて授業中に書くのが一番楽しい。
結局逃避だ。
軽く鉛筆を動かし続けた。
眠る七海を見ていたら、七海が持っているタロットカードの【世界】の絵柄を思い出した。
眠ったような表情で微笑むガブリエル。
あの絵柄だけは好きで、中学の時から何度も書いているので完全に構図を覚えている。
中学の時も美術部の展示でこのカードを真似て書いた。
七海は「すごい!」と気に入って持ち帰ったけど、正直恥ずかしい。
あれのモデルは完全に七海なんだ。
カードの絵にはないガブリエルの口元にホクロ……七海しかないもの……が書かれている。
今考えると超恥ずかしいし、めざとい椎名は気が付いて「あらら?」と言ってた。椎名の超観察眼は本当に怖い。
俺はカードの絵を忠実に思い出しながら必死に鉛筆を動かした。
書いている時の、何も聞こえなくなる感覚は好きなんだ。集中して、世界から音が消えていく。
ただ絵筆の感覚だけが手に伝わってきて、俺は書きたい絵を吐き出すマシーンになる。
たった一本の線を引くことに集中する感覚。その一本で絵が変わる感覚。
ああ、でも書きたい線は決まっているのに、そこに動かない。
やっぱり最近サボっていたから。
鉛筆の先が丸くなって、ノートでこすって尖らせながら書く。
見ているような、何も見てないような、それでも全てを見透かすようなガブリエルの微笑み、瞳の美しさ。
タロットカードは、17世紀のロマン主義あたりの絵柄だと、母さんは言っていた。
艶やかな肌と、指先は丸く、迷いのない目。
書いてるうちに、ガブリエルじゃなくて、完全に七海を書いていることに気が付いた。
七海が世界を包んで立っている。
ヤバ……またやっちまった、全然忠実じゃない。絵ってその時の精神状態が簡単に出るよなと自分に言い訳する。
「それって七海?」
いつの間に授業が終わったのだろう。顔を上げると、横に神宮司さくらが立っていて、俺の書いている絵を見ていた。
やば……!
「いや、違うよ」
俺はパタンとノートを閉じた。
「見せてよ。すごく上手だった。七海だよね。あのタロットの絵じゃない? なんだっけ……」
神宮司が俺のノートを奪う。そして手に取って開いた。
「見るよなよ」
俺は恥ずかしくてノートを引っ張った。
神宮司はノートを離さないで、絵を見ている。
「いいじゃん、見せてよー、わ、すごいー」
ねえ、七海ー。神宮司が廊下に居た七海を呼ぶ。顔が熱くなるのが分かった。
もう絵は書かないと声高らかに宣言したのに、教室で居眠りしてる七海をみて書いてたなんてバレたら、恥ずかしくて死にそうになる。
「やめろって!」
俺はその声にかぶせるように叫び、絵を書いたページをちぎり、ゴミ箱に捨てた。
「何? 何があったの?」
七海が俺の席に来た。手には二つのお弁当箱を持っている。
「先に行ってる」
そう叫んで教室を飛び出した。
七海はずっと俺の絵を好きだと言ってくれて、応援してくれていた。
でも俺は、もう絵に夢をのせるのは、やめた。
無意味なことはしたくない。
昨日と同じように不思議研究室に入り、窓を開けた。
廊下側の窓も開けると、籠もった空気が一瞬で入れ替わる。
隣の音楽室からは、もうピアノの音が聞こえてきた。
今日も軽やかに、美しい。
窓際に腰掛けて、窓枠に頭を乗せる。
涼しい風が髪の毛を揺らした。
音楽は流れるように続く。本物のピアノの音と、スマホで聞く音は、どうしてこんなに違うのだろう。
同じ音楽なのに、絵に書いたカツ丼と、定食屋のカツ丼くらい違う。
なんで例えがカツ丼なんだろう……、きっとお腹が空いてるからだ。
七海、まだ来ないのかな……?
あれ、ちょっと待てよ。
よく考えると、恥ずかしいぞ。
七海が二つ持っていたお弁当を見て、今日も一緒に二人で食べるんだと勝手に理解してここで待ってるけど、違ったら……?
急にイヤになって、部屋を出た。七海に確認しよう。俺って先走りすぎじゃないか?
廊下を歩くと、聞き慣れた声がした。
覗くと隣の音楽室に椎名がいて、朝倉先輩と話していた。
「諒真。隣で食べてたの?」
椎名が俺に気が付いて、手をふった。
いとこの二人は子どもの頃からよく一緒に遊んでいたらしく仲がいい……らしい。椎名から話は聞いているが、直接話すのは初めてだ。
「諒真くん……だっけ。初めまして」
朝倉先輩は立ち上がって、俺に会釈した。
真っ黒で蛇のような髪の毛は、今は高い場所でポニーテールに纏められていて、細く白いうなじが美しい。
「初めまして」
俺も頭を下げた。
朝倉先輩は
「椎名くんから話は聞いてるから、諒真くんのことは知ってるんだけど、話すのは初めてだね?」
と微笑んだ。
その笑顔は潔くて、美しい。真横に引っ張られた大きな口は口紅が塗られてないのに深紅に見えた。
でも椎名よ、俺の話って、何だよ?
「朝倉先輩、聞いてくださいよ。コイツ、ついに七海と付き合いはじめて……」
「ちょっと!!」
やっぱりそれか! 俺は叫んだ。
「え、やだ、おめでとう。やっと? 長かったわねえ」
朝倉先輩は両手の指を組み合わせて、神様に祈るような表情で俺を見た。
長かったって……どこまで椎名は話をしてるんだ。俺は頭を抱えた。
「じゃあ椎名くん、淋しいわね。友達が諒真くんしか居ないボッチ金持ちなのに」
朝倉先輩は真顔で、さりげなく酷い事を言う。
「ほんと、飯も一緒に食べられないし、遊びにも来ないんですよ、超淋しい……」
「おいこら椎名、俺で遊ぶな」
俺が椎名の腹を殴ってる間に、朝倉先輩はピアノの椅子に座った。
「結婚式するなら、私にピアノ弾かせてね!」
朝倉先輩は、結婚式ならこれでしょ? と笑ってピアノの上に指を置いた。
そして結婚行進曲を弾き始めた。聞き慣れた曲だし、そんなに素晴らしい曲だとも思えない。
でもなんだろう、朝倉先輩がひくと、全然別の曲に聞こえてきた。
音が広がって、部屋を包んでいく。
俺は椎名の腹を殴る手を止めて、聞き入った。
朝倉先輩の軽いハミングも響く。朝倉先輩は何も見ずに踊るように指先を、腕を体を動かしてピアノを弾いた。
この部屋は吹き抜けになっていて、天井が高い。
音が響く設計になってるけど、それでもこんなに生の音……ピアノの隣で聞く音は凄いのか。
ピアノだけが鳴っているじゃない。体全体が歌うように踊るように音が響き、俺は静かに聞いた。
音で体さえ震える。
……すごい。
弾き終えて「あはは、こんな感じ?」と笑った。
俺は「……結婚するなら、頼みます」と普通に言ってしまった。
椎名と朝倉先輩は一度完全に静止して、お互いに顔を見合わせて、大笑いした。
そんなに笑わなくても。
朝倉先輩が次の曲を弾き出した。
これまた難解そうな曲で、俺は曲名を知らないんだけど
「……なんだか、楽しく踊ってたら階段から毎回突き落とされるような曲ですね」
そう言ったら、朝倉先輩が声を出して笑った。じゃあこれは? と言って次の曲にする。
俺は音楽を聞きながら、イメージを膨らませる。
「のんびり絵を書いてたら締切りに間に合わなくなった人が焦って書いたら寝ちゃった……みたいな曲ですね」
今度は椎名が吹き出した。これは? これは? と朝倉先輩は次から次に曲を弾いてくれた。
俺は「長い剣を持った人が振り回して転んでるみたいな曲ですね」とか「長いカーテンに巻かれてると思ったら、池に落ちたみたいな曲ですね」と感想を述べた。
そのたびに朝倉先輩は楽しそうに笑った。
どう考えても神聖なピアノを殺す雑な感想だけど、良いのだろうか。
何曲か弾いて、朝倉先輩は床に置いてあったペットボトルの水を飲んだ。
「はー、椎名くんが諒真くんを気に入るの、分かる」
と言った。
「でしょ。根が素直なんですよ」
二人はクスクス笑った。
俺は何を言われても、朝倉先輩のピアノを聞くのは、良いなあと思っていた。
笑う朝倉先輩に話しかけた。
「……朝倉先輩はどこの音大を受験するんですか?」
「あ、ああ。うーん、実は迷ってて」
さっきまで笑っていた朝倉先輩の表情が曇った。
「佐々木先生に師事してるんだから、多摩音大に行くんじゃないの?」
椎名が口を開いた。
師事? 音楽の世界は師匠制度があるのか? 俺はよく分からず、二人のやりとりを聞くことにした。
「佐々木先生は、何の問題もないって言ってくださってるし、都内出てレッスンも受けてるんだけど……他の皆がすごくて自信がなくて」
朝倉先輩は、情けないんだけど……と笑った。
自信がないって……これだけ弾けてて?
「え、すごいと思いますけど」
俺は素直に言った。
朝倉先輩はキョトンとして「あはは、うん。今日は久しぶりに弾いてて楽しかったな。地元でピアノの先生でもやろうかなあ。ここを出るのも怖いし」と言った。
「もっと大きなホールで、朝倉先輩が弾いてるの、俺見たいです」
想像するだけで、ワクワクした。
「えー、嬉しい。頑張ろうかな」
俺たちが話している横で、椎名は何かを考え込んでいた。そして
「……なあ。金曜日にピアノ発表会があるから、諒真も来いよ」
「え?」
俺が? 完全に部外者だけど?
「あ、良いなあ。私も諒真くんに来てほしいなあ。ね、来てよ!」
朝倉先輩が嬉しそうに言う。
「……何なの?」
俺は椎名に聞いた。
「金曜日に俺の家の小ホールで、ピアノ発表会があるんだよ。それ見に来いよ。俺も弾くし、旨い物沢山あるぞ」
「え? 椎名もピアノ弾くの?」
「弾くよ? 知らなかった?」
「知らないよ」
金持ちとピアノはワンセットなのか?
「諒真くんが見にきてくれたら嬉しいな」
朝倉先輩は楽譜を抱きしめて言った。
その表情が思ったり真剣で
「あ……はい」
俺は頷いた。
「やったーー!」
表情が和らいだのを見て、俺は少し安心した。
朝倉先輩は間違いなく才能があるし、頑張ってほしい。
俺も素直に応援したいと思った。
椎名も「朝倉先輩には頑張ってほしいんです、多摩音大入れたらすごいですよ」と笑った。
そして
「……そういうわけだから、金曜日は諒真を借りてもいい? 奥様」と続けた。
奥様?
椎名が振向くと、音楽室の入り口に七海がお弁当を抱えて立っていた。
あ、今日も不思議研究室で食べられる……のかな?
七海はお弁当を抱えたまま俯いていたが、顔を上げた。
その表情は厳しい。
椎名がゆっくりと歩いて七海のほうに近づいていた。
そして七海の耳元で何か話した。
七海は眉間に皺をよせて話を聞き、椎名の顔を見て「……分かった」と言った。
椎名は「奥様もオッケーだそうです!」と言って笑った。
なんだよ、奥様って!
「じゃあ楽しみにしてるね!」
朝倉先輩は次の楽譜を出して、じゃあ頑張ろうかなー、と練習を始めた。
軽やかな音楽と、七海の厳しい表情が対照的で、俺はその場を動けなかった。
風が吹き抜ける不思議研究室で、俺と七海はお弁当を食べ始めた。
なんと今日の内容はカツ丼だった。
さっきの妄想は、ここに繋がっていたのだろうか。
濃いめに味がついていて、卵がからんで、すごく美味しい。
「……七海って、料理上手いよな」
「美味しい?」
俺は無言で何度も頷いた。美味しいものは大好きだ。
七海はお弁当を食べ終わり、お茶を飲んだ。マスクは相変らずアゴの下につけたままだ。
「うちってほら、飲食でしょ? だからお母さん、家だとあんまり料理したくないみたいで。私結構やってるんだ」
七海の両親は、駅前の中華料理屋で働いている。お父さんは厨房で、お母さんはお運び。
経営は朝倉スーパー系列で、食材をそのまま使えるので、値段も安くて人気の店だ。
「そっか……」
知らなかった。小学校の時は結構家にお邪魔してたけど、中学に入ってからは一度も行ってない。
高校に至っては逃げていた。だから、今こんな風に一緒にお弁当を食べるのが不思議なくらいだ。
距離があった期間に沢山の七海がいて、それを俺は知らないんだなあ……と思う。
同時にそれを知りたいと思うし、俺のことも知って欲しいと思う。
俺は一粒も残さずにお弁当を食べて「ごちそうさまでした」とお弁当箱を返した。
七海はそれを受け取って片付けて、マスクを戻し、はあ……とため息をついた。
「……諒真が作るものを、すべて私が作りたい」
「へっ?!」
俺は飲もうと思っていたお茶をこぼしそうになる。
七海はお弁当箱の上に顔を置いて、俺のほうをじっと見ている。
そもそもなんで突然お弁当なんだ?
作ってくれるから、普通に食べていたけど……。
「パーティーは……本当は行かないで欲しい。椎名くんは……信用できない」
「信用って……何が?」
俺たち三人長い付き合いなのに、なんでそんなこと突然言うんだろう。
「ピアノなんて、諒真、全然興味ないじゃん」
七海がペットボトルの蓋に触れながら言う。
俺は少しカチンときた。
「興味ないけど、朝倉先輩のことは、応援したいと思うよ」
上手じゃん、すごく。そう続けた。
七海はペットボトルの蓋を開けたり、閉めたりしながら
「……わかるけど……」
と呟いた。
「なんか……付き合い、はじめてから、束縛、すごくね?」
俺は自分で付き合いはじめてから、と口出して、それだけで顔を熱くなった。
自分でいうと恥ずかしすぎる。
「……諒真の全部を知って、管理したいと本気で思う。でもそんななこと出来ないんだもんね……何の保障も、ないんだもんね……」
七海は簡単にすごいことを呟いた。
全部知って、全部管理って……。
「……独占欲すごいよな……」
思わず言った。
「知らなかったの?」
七海はパーカーの帽子部分を自分にかぶせて、ニコリと微笑んだ。
その仕草が可愛くて、俺は頭を抱えた。
俺が両手で作った小さな空間を、七海が覗き込んでくる。
「じゃあ金曜日は我慢するから。明日、行きたい所があるんだ。付き合ってくれる?」
「ん」
俺は無言で何度も頷いた。
今、顔を上げたらきっと赤い。
だから何度も頷きながら、隙間隙間で深呼吸した。
もう、どこだって付き合うから、そんな可愛い仕草はやめてくれ。
手を伸ばしたら、また逃げるんだろう?
くそ……。
隣の音楽室からはピアノの音が聞こえてくる。
俺は頭を抱えた。