9月9日(土)・運動会・昼食後
体育館裏の広場は、芝生が敷き詰められていて、運動会のお弁当を食べる家族が多い。
学校のシンボルである大木もあり、それを囲むようにシートの花が咲いていた。
俺の家族と、七海の家族が、シートをくっつけて、お弁当を食べている。
小さな街なので、運動会の日は全ての会社が休みになり、全ての親がお弁当持参で来る。
「遅い! もう午後の部始まるわよ」
やっと来た俺に母さんは叫んだ。
わりぃ、なんか熱中症っぽいわ、と俺は広げられたシートに座った。
「え? 大丈夫? ほら、休んだら?」
シートをくっつけていた七海のお母さんは、お弁当をズラして空間を作り、俺が横になれるようにしてくれた。
七海はシートの一番隅に座って、おにぎりを食べている。
俺の方をチラリとも見ない。
「いえ、大丈夫です、ありがとうございます」
俺は軽く頭をさげた。
「食べられるならスイカを食べなさい。90%が水分、それに糖分、カリウム、カルシウム、マグネシウムが入った熱中症対策には最適な食べ物よ」
俺の母さんはタッパーをあけて、スイカを見せた。
神宮司研究所で唯一の女性部署長の母さんは、基本的に知識無双だ。俺はそれが嫌いじゃない。
七海のように何だか分からない感情をぶつけられるより、気が楽だ。
「気分が悪いなら、まずは白湯だな」
父さんが、水筒からお湯を注ぐ。俺の父さんも研究所の部署長だ。もはや宗教的に白湯しか飲まない。しかもきっちりと36℃。温度計で測って入れている。
冷めたら持ってきた熱湯を足している。一度熱い、冷たいも分かる鉄の舌を持っている。しかし一番好きなのはカップラーメンという味覚音痴。
「気分悪いなら、私の膝枕で寝る? 人の体温には、心を落ち着かせる効果が実証されてるのよ?」
姉貴は俺をオモチャにして遊ぶのが好きな研究員で、年が10も離れている。
俺の家は全員神宮司研究所で働いている研究員で変人ばかり。
俺は違うと思いたい。
母さんが俺にスイカをひとかけら持たせた。
まっ赤な果実から指先に向かって汁が垂れる。
うん、スイカなら食べられそうだ……と俺はそれを口に入れた。
「冷た……」
保冷剤で冷やして持ってきていたのか、スイカはひんやりと冷たくて、それだけで美味しかった。
俺はタッパーに入っていた半分ほどを食べた。
胃にスイカが落ちると、やたらと眠くなってきた。
そういや昨日は遅くまでゲームしたり漫画読んだりしてて、遅かったな。
この頭痛、それも原因なのか……?
「わりぃ。少し寝て良い?」
「あっちのが風通し良いわよ」
母さんが、七海がいる校舎の隙間風が抜けるほうを指さす。
「ほら、七海!」
七海のお母さんが七海を退かす。
七海はチラリと俺をみて、お弁当箱を退かして、移動を始めた。
「……サンキュ」
七海は頷きもせず、口の中におにぎりを入れて、目を反らした。
なんだよ、態度悪いな、と思うけど軽口も叩けない。
首にあのタオルがぶら下がっているのを見たからだ。
俺が濡れた頭を拭いたから、かなり濡れてるんじゃないか、それ。
そんなの使うなよ、という言葉がのど元まで出てきたが、飲み込む。
家族の前じゃ、会話したくない。
「ふー……」
俺は深くため息をつき、横になった。
頭の中がすこし回っている感覚。これ本当に熱中症か?
とにかく少し眠ろう……。
木陰で、ひやりとした風が頬を撫でて抜けていく。
背中のシートが、一部だけ少し温かい。
これは、あれ?
……さっきまでここに座っていた七海の体温……?
……もう、くそ。
俺は目を固く瞑った。こんなことにイチイチ反応していたら、心臓がもたない。
寝返りを装ってその場から少し動き、皆が食べている景色に背を向けた。
地面に吸い込まれるように眠気がきて、俺は頬に風を感じながら、眠りに落ちていった。
遠くで太鼓が鳴っている。
どれくらい眠ったのだろう。
ゆっくりと目を開けると、上にガーゼケットのようなものが掛けられていた。
冷房嫌いの母さんが持ち歩くものだ。薄いガーゼを七枚重ねたもので、温かい。
少し動かずに、揺れる枝を見ていた。
太陽が葉の隙間からキラキラと光を落とす。
俺は高校に入学した時からこの木が好きだ。樹齢何十年もたっているこの木は学校のシンボルで俺たち高校生が六人手を繋いでも囲みきれない。
学校が出来る何十年も前からここにあるのって、この木が見てきたのは、この景色だけじゃない。
もっと違う景色をこの木は知ってるんだと思うと、それだけで面白かった。
それをボンヤリとみながら体調を探る。うん、頭痛はかなり良い。
ただ、ずっと同じ体制で眠っていたので、肩が痛い。
体を起こすと、後ろに七海が居た。
「起きた?」
うわ……びっくりした、居たの……と小さな声で言う。
七海はシートの上にタロットカードを展開させていた。
七海は占いやタロットが好きだ。当然占いは毎日チェックしてるし、その指示で服も決めるし、宇宙人も幽霊も赤い糸も水素水も信じている。
知識無双な研究一家の我が家とは対照的だが、だからこそ仲が良いのかも知れない。
広げていたタロットカードを軽く片付けて、七海は俺にポカリスエットを渡した。
サンキュ、とそれを受け取って、飲む。
懐かしい、この味。ポカリは珍しいな……と思う。母さんはポカリよりアクエリ信者だから。
ふと見ると、七海の影に何本もポカリが見えた。
……俺が寝てから、何本も買ってきたのだろうか。
お礼を言おうと口を開くが、七海が買ってきたことを隠してるのに「買ってきてくれたのか、サンキュ」って?
本当は母さんが買ってあっちに置いたのかもしれないだろ?
あああ、何をどう対応すれば良いのか、わかんねーーんだよ!
俺は一気にポカリを飲んだ。
「ん」
七海は影からもう一本出した。その奥にもう一本見える。何本買ってきたんだよ……。
ポカリは、体にしみこむように美味しかった。
再び、ドン……と大きな太鼓の音が聞こえてきて、腹に響いた。
これって……。
「応援合戦始まってないか?」
昼休み明け、一番最初は応援合戦だ。
七海はポカリスエットの空を片付けながら
「先生が一時間くらい寝せとけって」
と、こっちも見ずに言った。
そっか。俺は体を起こした。
遠くでドン……ドン……と太鼓の音が響く。椎名も応援団だから、ちょっと見たかったけど、まあ仕方ない。
ていうか、俺が寝込んでる場合、親とか姉貴とかが残るべきじゃ……?
でも奴らは全員応援合戦を見るのが一番好きなんだ。
七海が「見てます」と言えば、余裕で置いていくだろう。
そうじゃなくても、最近の俺たちの距離感を面白がっている。
机の上に【恋する脳は何を見ている】とか【恋する細胞は踊る】とか【恋愛は脳から始めろ】とか、アホみたいな本を置いていく。
脳とか細胞とかで何とかなるなら、苦労しない。
七海をチラリとみて、俺は口を開いた。
「……お前、学級委員長だろ。いいのかよ、応援合戦」
七海は商業科の学級委員長で、生徒会の役員でもある。偉そうに言うのは口だけじゃなくて、仕事もしてるから、それは偉いと思う。
俺は人前なんて、クジで負けても椎名と七海に押しつけるくらい苦手だ。
「ん」
七海は包んである弁当箱を渡してきた。
開けると中に天むすが入っていた。エビの天ぷらがおにぎりに包まれた俺の超大好物。
好物と好物のコラボレーション、手も汚さず好物がマッチングした最高の食べ物だ。
七海は俺のほうを見ないでタロットを展開しながら
「食べたら?」
と言った。
俺は体調が少し戻ると、すぐに腹がへる。むしろ腹が減って気持ち悪くなるくらいだ。
中を確認すると、天むすが二つ入っていた。
俺は天むすを一口食べた。
エビが柔らかくて、すごく美味しい。醤油のタレも少し付いてる?
俺は姉貴が名古屋出張のお土産で買ってきたときから、ずっと天むす大好きだ。
七海も好きなはずだけど……。
もう一つはお前が食べろよ、と口に出せなくて、二つ目も食べ始めた。
グラウンドの方から、椎名のかけ声と、神宮司のかけ声が聞こえる。
同時に両家の戦うような声援も響く。
「……ほんと、両家はバカみたいだな」
俺は話すことがなくて、なんとなく共通の話題をふってみる。
俺は椎名と友達だし、七海は神宮司と友達なのだ。
「……何もしらないくせに」
七海はこっちをみずに吐き捨てた。
なんだよ、感じ悪い。俺は残った天むすを口に入れた。
風が枝を揺らす音だけが響く。もの凄く居心地が悪い。
「……もう大丈夫だから、行けば?」
俺は言った。というか、一人の方が気楽だと思った。
「途中から入れないでしょ、応援合戦なんて」
まあ、確かに今更入っていけるものじゃないか。俺はふー……と隠れてため息をついた。終わるまで、この空気に耐えるしかないのか。
七海も居心地が悪いのか、手で触れていたタロットを展開しはじめた。
七海のタロットカードは、俺の両親がイギリスで買ってきた、かなり本格的な物で、かなり古い。
タロットカードに本格的も何も無い気がするが、七海はとても気に入り、毎日触れている。
「……またやるの?」
俺は呟いた。その後に続くのは「うさんくさ……」なんだけど、さっきの反省を活かしてそこから先は黙る。
思ってもないことや、考えなしで言葉を口にするなら、黙っているのが正解な気がする。
「……これだけカードがあるんだからさ」
七海は展開させながら言う。「引くカードには、それなりに意味があるに決まってるじゃない」
思い込みと決めつけじゃね? と俺は思うけど、まあいいや。プラシーボは科学的に実証されているし、占いとかはその一部だと俺は思っている。
「暇だし、久しぶり占わせてよ」
七海はカードを持って俺のほうを一瞬見た。
「えー……」
別にいいでしょ。七海は言い切った。
会話にも困ってたし、応援合戦が終わるまで、七海が勝手に話してくれるなら、それでいいか。
七海はカードを展開し始めた。
何か色々やり方があるんだけど、俺は目の前で七海がいつもやっているので、形だけは覚えてしまった。
それに絶対に口は出さないけど、このカードの絵はキレイだなあと思っていた。
古文書のような絵で、人間が人間とも描かれないような、不思議なものが多い。
死に神に至っては、完全にカラスと人間のミックスで、異様だ。
世界のカードでは、完全に世界がねじれている。
これをイギリスで母さんが買ってくる前は、日本で売っている普通のカードでやっていたのだが、その絵はアニメっぽくて好きじゃなかった。
でもこのカードの絵は良いと思う。
なにより大昔の人の手書きらしいのだ。
七海が最後までカードを展開させた。
「審判の逆カードに……死に神の逆カードに……運命……それに世界まで逆」
「どう考えても良い話じゃねーな」
俺は笑った。
何年も何度もされていれば、内容はなんとなく分かる。
「死を受け入れて、それでも奇跡を信じれば、世界は審判される……みたいな」
「奇跡って」
そう言いながらほんの少し、今の俺っぽいな……と思っていた。
椎名は高校卒業したら、当然のように医者を目指すと言っていたけど、俺はこの街から一歩踏み出す勇気が持てずにいる。
結局自分の力が理解できてない。自信がない。
奇跡……? そんなもの信じて生きていけるのか?
「奇跡ねえ……?」
俺は半笑いで言った。
七海は俺の目の前にズイと世界のカードを見せた。
「諒真は真実だって信じて無い。まず信じないと奇跡なんて起こらないでしょ」
真ん中に大天使ガブリエルが微笑みと、嘆きとも言えぬ表情で俺を見ている。
七海と同じような表情で。
……言いたいことがあるなら言えばいいのに。
真っ直ぐにそう思った。
俺は口を開くが、すぐに唇を噛んだ。
真実なんて、沢山目の前に並べられても、それを信じられなければ奇跡と変わらない。
最近の俺はそれを実感している。
目の前で七海が俺をまっすぐ見ている。
何を、どうやって、目の前にあるものを信じればいいんだ。
七海が、俺を好きかもしれないなんて。
キスされたかもしれないなんて。
七海が何も言わないのに、俺がそれを信じて、行動に移すのか?
確信もなく動くなんて状況を悪化される。今だって最悪だけど、このままのがまだマシだ!!
ドン……! と一番大きな太鼓が鳴って、応援合戦の終了を知らせた。
七海はカードを広げたまま、俺のほうを見た。
「……天むす。全部食べた?」
「おう」
「美味しかった?」
「おう」
「良かった」
そう言って七海は微笑んだ。
久しぶりに七海の笑顔を見た気がする。
七海は微笑むと目尻が垂れて、たぬきのような表情になる。
昔はそれを笑っていたけど、最近はケンカするか、お互いを避けているので、その表情をみたのは久しぶりだった。
七海はお弁当箱を畳んだ。食べ終わると小さくなるカゴタイプのものだった。
そしてそれをお重が入っているのとは、別の袋に押し込んだ。
え? 天むすだけ、別の入れ物?
他の弁当はお重に詰まってたし、七海もそこからおにぎりを食べていたはず。
それにあの容器。
……もしかして。
そう考えると、俺の心臓はまたバカみたいに締め付けられた。
「……俺、保健室で塩飴追加してくる」
これ以上、七海と一緒に居られる気がしなかった。
俺はフラリと立ち上がった。やっぱり頭が痛い。
七海は黙って俺に手を振った。
保健室に向かって芝生を走る。
芝生だからなのか、足下がふわふわしている。
いや、ふわふわしているのは、俺の脳内だと気が付いていた。
やっぱりあの天むすは、七海の手作りのような気がする。
だってお重は他にあったのに、天むすだけ別の容器に入っていた。
それにあの容器は、七海がいつもお弁当持ってくるときの入れ物だ。
……んだよ、なんでそんなことするんだよ。
だったら手作りだよって言えよ。
……絶対言うよなよ。なんて答えればいいのか、分からない。
そうだよな、俺がこんなだから、七海は何も言えないんだよな。
でもさあ……どうすりゃ良いんだよ。
顔が熱くて、やっぱり熱がある気がする。それに胸が苦しい。
どうしてもこの状態を言葉にすることが出来ないし、気持ちを口に出すことが出来ない。
苦しくて、息が出来ない。
この世界はいつのまに水没したのだろう。息が苦しくて苦しくて、酸素が足りない。