9月9日(土)・運動会・昼
やはり熱中症っぽい気がして、友達に塩飴を貰い、水道水で頭を冷やす。
何度言うが、この時期に運動会をするのは間違ってる。
どう考えても非効率的。
蛇口の下に頭を置いて濡らす。耳の後ろや、おでこを伝って水が流れるのが気持ち良い。
まだ午後の部があるのだ。すぐに乾くだろう。
「ちょっと、バカなの?」
蛇口の水を止めて、そのままの姿勢で後ろに下がると、布らしきものでお尻を叩かれた。
「……んだよ」
犯人なんて分かってる。
「アンタのお母さんが探してる」
七海絢子は、濡れた俺の頭にタオルを投げた。
そのタオルからは七海の家の洗濯物の匂いがして、一瞬体が熱くなる。
「……どーも」
俺は赤くなっている顔を悟られないよう、タオルで顔を隠しながら、歩き始めた。
「タオル貸してあげるんだから、感謝くらいしなさいよ」
大騒ぎしながら七海は俺の後ろをついてくる。
「だからありがとうって言っただろ」
「言ってないし!」
七海は俺の背中を後ろから叩く。
どうしてこんなに常に凶暴なんだ。
「いてーな……。今言っただろ」
「アンタ、本当にクソガキね」
「二時間しか先に産まれてない人に、ガキ呼ばわりされるなんて心外だ。で、母さんどこ?」
俺が立ち止まると、すぐ後ろを歩いてきていた七海が、俺の背中にぶつかった。
「あ、わり、ごめん」
「突然止まらないでよ」
七海は鼻血を気にするように、鼻に触れた。
「お前は近いんだよ」
俺は血が出ていないか確かめよう……と手を伸ばしたが、七海は大きく一歩下がって、鼻を拭いた。
「……大丈夫だし」
俺から顔をそらして、目を合わせようようとしない。
「……そっか」
俺も目を反らして、タオルで頭を拭いた。
そのたびに七海の香りがして心臓が早く脈をうつ。
七海の弟、奨太はたまに遊びにくるけど、いつも抜きたての雑草みたいな香りがして、こんな匂いじゃない。
やっぱりこのタオルの匂いは、七海の汗……?
……ヤバ。俺は大急ぎでタオルを頭から取った。
一歩離れていた七海が、俺に近づき、手元からタオルを奪った。
白いタオルが蛇のように舞う。
「体育館裏の芝生にいるから!」
と言い、走り去った。
「……おう」
すぐいく。
そう小声で言いながら、俺はうるさいほど暴れる心臓を押さえつけた。
七海との関係は、こんなじゃ、無かったのに。
前のように軽口叩いて、戦っていた時のほうが、近かった気がする。
いっそ殴り返すか。いや、でも、もう触れるのが無理だな。
友達にも幼馴染みにも家族にも恋人なれない関係は、何て言うんだ?
この距離感は、なんていう名前なんだ?
どう進めばいいのか、進むのが正解なのか、間違っているのかも、分からない。
俺と七海の付き合いは長い。
七海が俺の家の隣に引っ越してきたのは、俺たちが八歳の頃。
挨拶にきた七海は弟を従えて、真っ直ぐに俺の家に玄関に立った。「同じ作りなんだ」それが第一声。そりゃ同じ会社が建てた戸建てだからな。
話すと誕生日が同じ日だと分かった。
でも二時間だけ七海の方が早く産まれていると知り、その瞬間から七海は俺に「姉貴」ぶった。
事実、年が離れた姉貴しかいない俺は甘えん坊で、弟がいる七海はしっかりしていた。
小学生のときは毎日七海が迎えにきて、一緒に登校した。
それは偉そうに俺の世話をやき「男の子って、みんなクソガキ!」と叫んでいた。
まあ、さっきも叫んでいたけど。
中学にあがると、男女ゆえ距離も出来たが、家族の仲もよく、よく一緒に出掛けた。
ずっと悪態をつかれ、クソガキ扱いされ、殴り合い、戦った。何度も一緒に寝ている。同い年の姉弟のように。
こんな……距離感じゃなかった。
決定的に変わったのは、二ヶ月前。
夏休みに、神宮司さくらが主催するパーティーがあった。
神宮司家はこの土地で一山と湖を所有していて、定期的にパーティーしている。
クラスメイトの俺たちも毎回招待されて「ただで旨い物食べられるなんてラッキー」と行っている。
もちろん椎名は絶対来ないし、椎名家は椎名家でパーティーがある。
俺は金持ちに挟まれて迷惑ばかりしていない。旨い物が食べられたら、それで良い。
女子にはドレスの貸し出しがあったり、ゲーム大会には景品なんかもあって、俺は毎回楽しみにしている。
神宮司家と椎名家はパーティーの内容で戦っていて、毎回派手になっている。
夏休みにあったパーティーは湖畔で行われた。
広い場所で、みんな好き勝手に遊んでいたんだが、俺は相変らず日光に弱い。
木陰で休憩してたら、眠くなり、そのまま眠ってしまった。
どれだけ寝ただろう。寒くてうっすらと意識が戻った。
近寄ってくる足音。
風が後ろからふいてきて、耳の横を駆け抜けた。湿った土と樹木の香り。背中から湖に向けて抜けていく。
その風が、追い風から、向かい風に変わった。その瞬間に、香りが変わった。
【あの香り】になった。
七海の香り。そう、あのタオルの。
俺の体になにか掛けられた。柔らかい布? 俺は目を開くことができない。見てはいけないと、本能で知っていた。
掛けられた布から七海の香りがした。
心臓の音が聞こえてしまうのはないかと、心配になるほど体中で響いていた。
まだ風の匂いは七海の香りで、気配も近くにあると分かっていた。
俺は動かないように、一ミリだって動かないように体を固くした。
起きていることを気が付かれたら、ダメだと分かっていた。
体を固くしすぎて、浅くなった呼吸が、風に混ざる。
一瞬、風も音もやんだ瞬間に、俺の手元で小枝が折れる音がした。
そして【あの香り】が強くなって、俺のおでこに何かが触れた。
髪の毛……? そう考えるのと同時に温度が伝わってきた。
そう思った瞬間に、唇に何かが触れた、気がした。
土を踏みしめる音が続き、気配は消えて、香りだけが残った。
目をゆっくり開くと、そこには誰も居なくて、香り……七海の上着が俺にかけてあった。
灰色の、紐部分が赤色の、七海のお気に入り。
帽子部分が、俺の目の前に垂れている。
そこから七海のシャンプーの香りがしていた。
俺は動けなかった。そのまま横に倒れ込んだ。
パキンと小枝が折れて、目の前にも折れた小枝があることに気がついた。
……七海は、俺に何をした?
俺は自分の唇に触れた。……何が?
そのまま起き上がることができず、神宮司が探しにくるまで、俺は湖畔に転がっていた。半分凍えながら。
何だったんだ? 何がおこったんだ? 俺はブツブツ言いながらフラフラを歩いて帰宅した。
見上げた七海の部屋は、もう電気が付いていて、俺は持ち帰ったパーカーを手に、七海の家の前で立ち尽くした。
なんて言ってコレを返したらいい?
おいこれサンキューな。帰る時に声かけろよ、風邪ひく所だったじゃねーか、がははは。
……軽い。軽すぎる。それにバカっぽい。
これサンキュー、助かったよ。
これだけでいい。
いや、スルーしすぎじゃないか。
……何を?
俺の唇に触れたのは、何だったんだ。
希望的観測だと……七海にキス、され、た……わけがねーーーーだろ、死ねよ、今すぐ死ね。
だったら何だよ、指? なんで指で俺の唇に触れる必要があるんだよ、意味わかんねえよ。海苔でもついてたか? 食べてねーよ。
俺は大きく息を吸って、吐き出した。
……わかった、奨太をラインで呼びだそう。「渡しといてー」でオッケーだ。
俺はスマホを取り出した。
その瞬間に目の前のドアが開いた。
「諒真!」
もう部屋着に着替えた七海が、スマホを片手に立っていた。
薄いTシャツで、体のラインがはっきり分かる。
首の長さ、鎖骨までハッキリ見えて。
それに艶やかな唇。
「……っ!!」
俺は持っていたパーカーを投げつけて、走ってその場から逃げ出した。
階段を駆け下りて、もたつく足を無理矢理走らせる。
動け、俺の足。ここから逃げるんだ。
「くそっ……!」
いや、何やってるんだ! 戻って「ありがとう」って普通に言えよ。
もう逃げてきたんだ、今更引き返したら意味不明だろ。
これは時間が開けば開くほど、やっかいなことになるぞ。
なにがやっかいだ、今もうすでにやっかいだ。
二人の俺が、脳内で順番に俺に叫ぶ。
帳が下りてもまだ熱を帯びている夏の街を俺は走り続けた。頭を何度も振りながら、叫びながら。
坂を下りおりて、インターくぐって、駅前まで走り抜ける。
俺の声は真っ暗な街に消えて行く。大きな川が俺の声を飲み込む。飲み込んで川の音として吐き出す。いつのもこの街のように。
田舎だから電灯は少なくて、走る車もいない。大きな橋があるので、そっちにむかって一気に走る。
汗をかくと、まだ七海の匂いがする気がして、俺は再び頭を振った。
「……ていうか、俺はどこに向かってるんだーーーー!」
俺の家は七海の家の、隣だ。
走れば走るほど、家から遠ざかっていく。
でもとにかく走りたくて、橋の向こう側にある椎名の家まで行ったら爆笑された。
自分の部屋から七海の部屋が見えるので、帰りたくなくて、そのまま椎名のマンションに泊まることにした。
突然家にきた俺を椎名は笑顔で迎えてくれて、榊さんは俺の好物を沢山運んでくれた。
俺の話を聞く間、椎名はずっと笑っていて、それでも言葉を吐き出すのを止められなくて、ひたすら「もう帰りたくねー」と叫びながらベットに持ち込んだゲームで惑星を爆弾を爆発させた。
あれから一ヶ月経ったが、俺と七海は、どうしようもなく、あのままの距離感から動くことができない。
お互いに真実を聞くことも出来ず、妙な距離感のまま。
口を開けば「クソガキ」「バカ」、俺も売り言葉に買い言葉。
正直、どうにもならない。
解決策も分からないままだ。
「惑星爆発させてえ……」
あの頃から俺と椎名のストレス解消方法は、惑星爆破だ。
「はあ……」
体育館裏で皆待ってるから、行こう……お昼ご飯……。
俺は動き出した。