9月9日(土)・運動会
バカみたいに晴れ渡る青空の下、俺たちは土の上に体育座りしている。脳天を焦がすような太陽が、俺の頭皮を焼く。
髪の毛から煙があがりそうだ。黒い紙に虫眼鏡をあてて、火を出す実験を思い出す。
夏休みが終わり、二学期が始まったなあ……なんて思った瞬間に運動会だ。
こんなクソ暑い時期に運動会とか、この学校は間違ってる。
隣町の運動会は五月だと聞いた。そのほうが涼しくて良くないか? なんでこんな時期なんだ。
それに週末には簿記の模試もあるし、運動会より、簿記の勉強したほうが良くない?
「あっつ……」
俺は、暑くなった頭を掌で押さえた。
なんだか頭に大量の血が流れ込んでいるのを感じる。熱中症になりかけてないか?
小さくため息をつく。
「高校生は運動会とか、やらなくて良くない? 暑すぎる」
「この小さな街で、イベント減らすわけにいかないだろ」
クラスメイトの椎名至は、俺の隣で軽く笑った。
椎名とは、幼馴染みで、小学校一年生からの付き合いだ。
だから鼻で笑いながら言った。
「高校の運動会は街のイベントじゃねーだろ」
「うちの会社からしたら立派なイベントだよ。見ろよ、東京の重役も、秘書という名の愛人も全員集まってる」
椎名はチラリと白軍の応援席を見た。
俺もつられて見る。
そこには高そうなスーツを着た集団と、まっ赤なスーツをきた女性が何人も見えた。
秘書で愛人……?
「まさか、応援席の赤いスーツ全員?」
「ロングが東京用、茶髪が名古屋用、ショートカットが地元用。あのバカは赤いスーツの女が好きなんだ」
「混ぜるな危険じゃないの?」
「たまにしか会わないから、結構仲良いんだぜ。母さんはこの時期海外に飛ぶけど」
椎名は眉をつり上げて小さく笑った。
白軍の応援席。
黒スーツと赤いスーツの真ん中に、勝手に持ち込まれた大きな椅子があり、そこに座っているのが椎名の父親、椎名病院の、椎名貞夫だ。
運動会の観戦に来たと思えない立派なスーツは九月の太陽を浴びても負けないほど輝いている。
この炎天下でスーツ。見ているこっちが暑いが、病院長であり市議会議員が、Tシャツ姿ってワケにはいかないのだろう。
汗をかいているのか、後ろの立っている秘書で従者の榊さんがひたすらウチワで風を送っている。
榊さんも真っ黒なスーツを着ているが、顔色ひとつ変えてない。
椎名と行動すると、よく付いてくるから知ってるけど、あの人が汗をかいたのをみたことがない。ついでにここ10年顔の年齢も変わってない。俺の中のナンバーワン妖怪だ。
いつも一緒に居て荷物持ったり、運転したり……金持ちはすごいわ。
まあ椎名病院は、ただの病院じゃない。全国に巨大リハビリ施設と、高齢者用のホテル、高齢者専用施設を持っていて、この土地には本社がある巨大企業だ。
俺の友達、椎名至はそこの一人息子だ。
ゆえの苦労も多くて……。
「至!! 一番以外許さんぞ!!」
レーンに入った俺たちに向かって椎名貞夫が応援席から大声で言う。
俺の隣に入った椎名は、笑顔で手を振りながら小声で「うるせえ、今すぐ死ねよ」とライトに言い放った。
俺は思わず、くっ……と笑う。
椎名はいつもこうだ。
感じたストレスを一瞬で吐き出す。
でも黙って横でイライラされるより分かりやすくて俺は良いと思う。
「今死んだら、即刻跡取りだぞ」
「だとしても、あの席ごと爆破したいわ」
「50連発な」
「運動会終わったら惑星ゲームしようぜ」
「最近やってねーもんな」
用意……という声に俺たちは腰を低く屈めた。
ピストルの高い音で、俺たちは走り出した。
スタートで一気に前に出た椎名の髪の毛がゆるやかに揺れる。椎名は走るのが速い。
俺も身長は大きいほうだし、走るのも遅くない。膝を上げて加速するが、まったく距離は縮まらない。
一番以外許さないなんて、何度も聞いたクソ野次だけど、俺たちのクラスで椎名より早いヤツなんて居ない。
それは椎名の努力の賜だ。
椎名は小学校時代太っていた。それは美味しいものを毎日与えられたら、ああなる。
だから走るのも遅かった。それに苛立った父親は、椎名に専属コーチをつけた。わざわざ東京から呼び寄せて。
放課後はいつも俺と靴投げしていた公園で、椎名は泣きながら練習していた。
遊ぼうぜと誘う子を榊さんが「練習中ですので」と遠ざけ、父親は「バカと付き合うな」と言い切った。実際俺も何度も言われた。
服を捨てられたり、テスト破られたり(毎回百点)、陰湿なイジメも沢山あった。
ある日椎名は俺に言った。「お前、これ以上俺といたら、お前も虐められるぞ」俺は言った。「だったらお前とだけ遊ぶよ」。
それを聞いたときの椎名の笑顔を俺は忘れない。
イヤだイヤだと愚痴りながらも椎名は走り続けて、今じゃ誰にも負けない走りができる。
俺が椎名の立場だったら、あんなにしなやかに強く生きていけるだろうか。
遊びを、友達を、自由を奪われても尚、走り続けることが出来るだろうか。
俺の遥か前の方を走る椎名の後ろ姿を見て、いつも思う。
あの背中には、とんでもない努力と、期待を裏切らないという縛りが詰まってる。
……すげえよ、ホント。
俺には到底無理だ。
だからこそ俺は椎名を尊敬してるし、付き合いをやめるつもりは全く無い。
一番でゴールした椎名に向かって、白軍の応援席から大きな拍手が響く。
だたの400mだぞ? 相変らずアホだなあ。
椎名は軽くお辞儀をして、一位の旗の下に座った。
これでも俺は二位だ。横に座った。息を整えながら座り込む。地面は相変らず熱い。
「さすが椎名のお坊ちゃまは走るだけで拍手があがりますな」
前の座っている男が椎名をチラチラみながら下品な事を言う。
俺は無言で前の男の背中に砂を入れた。
「んだよ?!」
「俺じゃない」
「だったら誰だよ」
「砂かけジジイかな?」
「っ……あははは!!」
俺の横で椎名が笑った。
はあ……と、安堵なのか、ため息なのか、大きく息を吐き出した椎名は、俺の方を見ないで言った。
「……なあ、諒真は進路どうすんの?」
「は? 進路? なんだよ、突然」
さっきまで走りながら考えていたことを透けて見られたようで、すこしぶっきらぼうに答えた。
椎名は、やりたいことないならさあ……と言い
「俺と一緒に医学部行こうぜ。お前がいたら楽しい」と笑った。
なんだよ、それ。と思う。
毎日死にたいとか言って、親の文句ばかり言ってるのに、ちゃんと医学部目指すんだ。
ちゃんと親の希望する人生を選んで、それが楽しいと、希望だと言えるんだ。
「……椎名は本当にすげぇな。完璧感あるわ。お前はすげぇ!!」
俺は勝手に納得して何度も頷いた。
「なんだよそれ。真剣に誘ってるのに」
椎名は脱力したように笑った。
すげぇよ、ホント。お前はすげぇ。
連呼する俺の頭を椎名が殴った。
俺も椎名の腹にチョップした。
将来のことなんて考えたくない。
今この時、楽しければそれでいい。
アナウンスが響いて、女子の400mが始まった。
「さくらーーー、絶対一番になれ!!」
反対側、紅軍の応援席から声援が飛ぶ。
そこにはこの町、もう一人の市議会議員、神宮司久彌がいる。
神宮司久彌は、神宮司遺伝子研究機関の所長だ。
椎名貞夫と同じくらい大きな椅子を持ち込んで、ついでに大きな日傘もさして。
俺の横の椎名が「まーた始まった」と小さく毒づく。
スタートラインに立った一人娘、神宮司さくらは、声援に向かって小さく、でも丁寧にお辞儀をした。
その表情は華やかで、美しい。長い手足が、スタート地点でひとり別の人種のように見える。
ピストルの音と共に高い場所にまとめられたポニーテールが生き物のように動いて、神宮司さくらが走り始める。
長いリーチと、カモシカのように軽い足捌きで、校庭を走り抜けた。
そして余裕の一位。
全く乱れない髪の毛を後方に回して、息も荒くなく、余裕の表情で紅軍の拍手に手を振った。
そして悠然と歩いて、椎名の後ろに座った。
前に椎名、後ろに神宮司。
俺は居心地に悪さに目を閉じた。
俺の横も、その周辺も、ピン……と緊張したのが分かった。
「……背中にバカみたいに汗かいて、気持ち悪い」
俺の斜め後ろ、神宮司さくらが呟いた。
「俺のこと? 夏だし汗くらいかくでしょ」
椎名は軽くスルーしようとするが、神宮司は
「汗かきの男って、ちょっと気持ち悪くない?」
「子どもかよ……」
「は? あんたは子どもじゃないの? 何なの? 子どもなのに大人って言い切る厨二病なの?」
はー……と軽きため息をついてスルーしようとする椎名に神宮司はくってかかる。
「言いたいことあるなら言えば?」
椎名がため息をついただけで、神宮司が叫び始めた。
ああ……また始まった。
同時に応援席でも椎名と神宮司の父親たちが、どっちのタイムが早かったのか、教師に聞きに行き、戦い始めた。
椎名と神宮司は、家同士も仲が悪く、クラスメイト二人も仲が悪い。
神宮司は椎名に固執しすぎてるし、椎名も我慢できずにケンカを買ってるし……。
親同士が競ってるからといって、子どもまで戦う必要があるのだろうか。
暑いし、疲れた。
俺は体育座りした膝の間に頭を入れて目を閉じた。真っ黒闇が静かに回転してるのを感じる。
やっぱり少し頭痛がする。定期的に前頭葉を殴られたような痛みが続く。
熱中症? 風邪? なんだろ。まだ午後の部があるのに、イヤだな。
おでこに触れるが、手も熱くて分からない。
歓声が聞こえて、何事かと顔を上げると、俺の幼馴染み、七海絢子が走ってきた。
「おお、七海はやっぱり速いな」
椎名が表示されたタイムを見て言った。
七海は小柄だが、その分機敏に動けるのか、走るのが速い。今回も神宮司を抜いて一位だ。
そのタイムに後ろで騒いでいた神宮司さくらも黙った。
「俺とあんまり変わらないな。すげえな」
一位の旗の方に歩いてきた七海に、椎名が掌を見せた。
七海は「えへん」と笑い、椎名の掌を叩いた。
軽い音が響く。
七海は俺の方を少し見た。少しだけど、しっかりと、俺と目を合わせるように見た。
目があったのは、ほんの数秒なのに、ものすごく長く目を合わせているような気がする。
体中の血が逆流するように熱くなり、俺はさっと目を反らした。
七海は「おつかれー!」と言いながら、後方に歩いて行った。
神宮司さくらも、七海には「もう、七海すごいなあ」と優しく声をかけている。
俺は誰にも聞こえないように気をつけながら息を吐き出した。
本当は椎名みたいに「やるな~」なんて言いたいし、手だって叩きたいけど……そんなこと、恥ずかしくて絶対に出来ない。
俺と七海の関係は、たった一日、あの日を境目に変わってしまった。
長い間友達より近い幼馴染みだけど、あの日から変わった。
もう友達でもない、恋人未満……それも違う。
名前のつけられない関係になってしまった。
それは絶対的に俺が悪くて……だからこそ身動きが取れない。
「もうヤダ……」
俺は呟いて、膝を抱えた。