9月9日(土)・運動会・昼・二回目
浮かんでいるのか、沈んでいるのか分からない。
でも体に重力を感じないのは分かっていた。
耳の中に感じる閉塞感。そうだこれは……夏のプール。
小学生の夏休み。無駄に広いプールの底に、沈むのが好きだった。
コンクリートの冷たい感覚を背中で感じながらプールの底で空を見ていた。
水中眼鏡から見える世界は、ゆらゆらと美しくて、波打つ空をただ見ていた。
魚はいつもこんな景色を見ているのだろうか。
そんなことを思いながら、いつも沈んで空を見上げていた。
誰かが俺の上を泳いで通過していくと視界が泡に包まれて世界が歪む。
息が苦しくなって下から水を吐き出すと、それに混じっていく。
泡が上がっていくのを見て、俺は金魚みたいだと思う。
浮上して顔を出す間の無音からの、世界が始まる音。
ドン……!
大きな膜を全力で叩くような響きがお腹にきた。
耳の中から生暖かい水がこぼれ落ちるように、胎内から産まれたばかりの子供のように、俺の耳に突然音が流れ込んできた。
耳鳴りが続いていて、奥の方で高い音が響いている。
そして頭痛……くそ、頭が重い……。
重さをなんとか首で支えるが、ぐらりとして首がガクリと後ろに垂れた。
俺はなんでこんな状態になっているのか分からず、指先を動かす。頭が体が重い。
真っ先に戻ったのは聴覚だ。
太鼓……そうだ、この音は太鼓の音……。
俺はなんとかまぶたを上げようとした。
重くて重くて動かない。でも持ち上げると瞼からポロリと液体が落ちた。それが涙なのか雨なのか分からない。
でもその水は何か生臭くて、俺はうっ……と小さく嗚咽する。
ゆっくりと目を持ちあげてピントを合わせる。
すると目の前に七海がいた。
両目から涙をボタボタと落としていた。
まっすぐに俺を見たまま、マバタキもせず。
七海の涙が俺の掌に落ちた瞬間に、思い出した。
俺たちは二人で、時を戻った。
成功したんだ。
信じられなくて頭を地面に叩きつけた。
七海と繋いだ手の上に、オデコを打ち付けた。
七海の小さな手。
土の香り。
そして聞こえるのは太鼓の音。
頬を撫でているのは、あの時、七海と天むすを食べた時の風。
そう、間違いない。
俺と七海は、二人で時を戻ったんだ。
頭を手に叩きつけたまま、何度も首を振った。
信じられないけど、この痛み、この感覚、現実だ。
声が出るのか?
俺は胸元から空気を送り出してみる。
ん……と喉から声が漏れて、そのまま咳き込んで、頭をあげた。
口元を押さえようとして、気が付いた。
七海から手を離しちゃいけない!!
「七海っ……」
ちゃんと声が出た。
七海は俺の目の前で何度も静かに頷いた。
頷いて、そのまま目を伏せた。俺と繋いでいる右手とは逆……左手で胸元を押さえる。
そこには紫色のアザが見えた。
やっぱり体はそのままなのか……。
俺は唇を噛んだ。
視線を落とすと、タロットカードがそのまま展開されていた。
でも
「うわ……」
俺は思わず声を上げた。
世界のカードが、半分になっていたのだ。
誰かが破ったとかのレベルではない。半分しか、残ってなかったのだ。
ハサミで切り落としたように、切り口も鮮やかに半分は消えていた。
何度も模写したから覚えている。ガブリエルの微笑みが、半分になっていた。
その異様さに言葉を失う。俺の視線を追ってそれを見た七海も絶句した。
もう、三度目は無いってことだ。
七海は俺と握っていた手を、強く、強く、握りしめた。
分かってる。
こんな風に二人で時を超えられたことが奇跡なんだ。
本当は叫びだしたいほど、走り出したいほど、奇跡に感謝してる。
でも……泣き出しそうなほど怖かった。
七海だってバカじゃない。
色々調べて、頑張って、あの結末を迎えたんだ。
またあんなこと……させたくないし、したくない。
少しでも早く行動を起こさなくては。
何をどうすれば良いかなんて、何も分からないけど、とにかく動き出す必要があると思った。
俺と七海はタロットカードを片付けて、とりあえず帰ることにした。
手を繋いだまま立ち上がると、俺は頭がグラリと重い事に気が付いた。
「ヤバ……そういえば」
「そうだ、諒真。体調は?」
「寝込んだんだ、二日も。そうだった……体調、悪いわ」
俺はオデコに触れた。
まだ熱はない。前回……という感覚でいいのか? その時に病院で調べたけど、ただの風邪でインフルエンザとかでは無かった。
今回は何日も寝込んでいる暇はない。七海がこんな状態なのだ、俺が倒れている場合じゃない。
「大丈夫」
俺は七海と歩き出した。
体操服のままだが、もうそんなのはどうでもいい。
前回は保健室で眠ったが、そんな時間も惜しい。そのまま自転車置き場に向かった。七海を後ろに乗せて近所のドラッグストアに向かった。
体操服の俺たちを店員は一瞬不思議そうに見たが、俺は商品を買い、それをその場で飲んだ。
「すごく高いけど……大丈夫?」
様子を見ていた七海が心配そうに聞く。
俺が飲んだのはユンケルの一番高い商品だ。二本セットで四千円。
緊急用に渡されているクレジットカードを使ったのも初めてだ。
ユンケル投入は姉貴がどうしても休めない時にやってる方法で、これを飲んですぐに寝ると復帰が早い! といつも言っている。
そんなの効くかどうか分からないけど、もうやるしかない。
飲み終えて、自転車で家に帰ることにした。
熱があるし、正直かなりしんどい。そうだった、前は運動会の後二日も寝込んだんだ。
そして神宮司のパーティーにも行けなかった。
とにかく寝よう。
俺は七海と手を繋いだまま、部屋に入った。
もう発熱が始まっているのか、俺は七海の手を引いて、フラフラとベットに向かった。
「ねえ、ちょっと……このまま私も寝るの?」
七海は完全に躊躇している。
でも俺は頭もフラフラしてきたし、とにかく布団に入りたかった。
ていうか、もう一緒に寝た仲じゃないか……と言ったら怒られそうで、黙った。
頭がフラフラして言葉も選べない。
「そこに座っててくれてもいい……」
俺は手を繋いだまま、ベッドの横を指さした。
「ねえ、ちょっと諒真。こんなの諒真のご両親とか、お姉さんに見られたらどうするの?」
「親は運動会の後に会社行くはず。前はそうだった。帰りは深夜だった。姉貴には……話そうと思ってる」
俺は話しながら布団に入った。
「話すって?」
七海は俺と手を離さないまま、ベットには入らないが、横に座った。
「姉貴はあれで冷静で頭がいいから……今の状態をちゃんと話せば、理解してくれると思うんだ。事実が、そこにあるから」
俺はアゴを小さく上げて、七海のアザをさした。
「……そうだね、汐里さんなら分かってくれるかも」
七海も小さく頷いた。
俺と七海と椎名と姉貴は、ずっと仲良く遊んできた仲だ。
正直俺は、両親より姉貴を信頼してる。椎名より姉貴のほうが……椎名……、そうだ、椎名は。
「椎名って……模試に来てないよな。良かった無事で……椎名の意見も聞きたい……」
椎名は前日にピアノ発表会で負傷、肩を強く打ったので、大事を取って土曜日の模試は受けてない。
スマホを取ろうと体を起こした俺を、七海が制した。
表情は真剣だ。
「……前の前。諒真が食べられた時も、椎名くんは模試に居なかった。あの現場に居なかったのよ」
七海は強く言い切った。その言い方は、間違いなく椎名を【悪い】方向に入れている。
「ちょっと待てよ、七海。これを椎名が仕込んだと思ってるのか? 椎名が模試に出られなかったのは偶然だぞ。怪我したんだ」
「そんなこと知ってる。ただ今は、可能性を全て洗い出す必要があるの。前回私も沢山調べたし、色んな可能性を考えた。でも現場に居なかったというだけで、可能性はゼロじゃない」
「ゼロじゃないけど……椎名が何のためにそんなこと」
「じゃあ聞かせて。椎名くんと体育前に着替えてるから裸を見てるよね? 椎名くんにアザはあった?」
俺は記憶を呼び覚ます。
ああ……そうだ……
「無かった……」
「やっぱり。これでひとつ実証出来た」
七海は俺の手を強く握った。
そうだ、俺と椎名には無くて、織田にも浜島にもあった。
でもそんな事、ありえない。椎名はそんなバカみたいなことしない。
頭を回そうと首を振るが……ああ、思考が動かない。何から考えるべきなのかも分からない。
七海が俺のアゴの下まで布団を持ち上げた。
そしてすぐ横に顔を置いた。
「一度寝よう? 手が熱い。熱が上がってるよ」
俺は素直に頷いて目を閉じた。
椎名は頭が良いヤツで、得がないと損なことは絶対しない。
絶対に……。でも七海は【この時間帯は三回目なんだ】。七海のほうが沢山考えているだろう。
枕にパタンと頭を打ち付けて、目を閉じた。話したいことが沢山ある。
お互いに持っている情報や、話をもっとするべきだ。
でももう眠くて……。
「七海……絶対俺から離れないで……」
そう言い残して、ベッドの海に沈み込むように眠りに落ちた。




