9月15日(金)3
パーティーはすぐにお開きになり、俺は帰ることした。
本当なら椎名の部屋に泊まって朝までゲームの予定だったけど、もう居ても仕方ない。
お手伝いさんにスーツを返却して、スマホがなくて連絡が出来ないので、今日は帰り旨を伝えて、自転車に乗った。
椎名の容体を聞いたら「軽い打撲」だそうだが、今日は病院のほうに泊まるらしい。
良かった。小さいころから運動神経磨いておいて良かったな? 椎名と思ってしまう。
暗闇に浮かぶ赤い橋を渡って家に帰る。
川……ここに椎名のスマホが投げ捨てられたと思うと、少しだけ笑う。
これから毎日「この川に!」と思うだろう。
犯人が誰だったなんて、分からない気がする。
動画アップの履歴なんて残るのかな。少なくとも俺は分からない。
でも動画は残ってる。
さっきクラウドに入って確認した。怖くてコピーもしておいた。
……どうなるんだろう。
階段を走り上がっていった朝倉先輩のことを思い出す。
朝倉先輩が音大に行けると良いなと思う。
気持ち良くあのピアノが弾ける環境に、早くなるといい。
駆け上がっていった朝倉先輩の後ろ姿を思う。
「あれ。泊まるんじゃなかったの?」
帰ると姉貴がジャンボモナカを食べながら言った。
ダイエットの定義について、もう一度考える必要がありそうだ。
俺は事情を話した。
椎名がちょっとした秘密を掴んで、スマホ沈められて階段から落とされたこと、軽い怪我をしたこと。
姉貴は「ええー……マジでー?」と表情を歪めた。そして「至は軽傷なの?」と改めて俺に聞いた。
「さっきお手伝いさんに聞いたから、最新情報」
俺はそれ以上突っ込まれないように、二階に上がった。
ぬるい風呂に入り、ベッドに寝転がった。
椎名に「大丈夫か」とラインしようと思い、スマホを手に取ったが、そういえば水没だったと思い出す。
スマホを持って寝転がっていると、七海からラインが入った。
【帰ってるの? 椎名くんの家にお泊まりは?】
【椎名が怪我してさ、帰ってきた】
【マジで? 大丈夫なの?】
【軽傷。大丈夫だろ、でもスマホが水没】
【えー、なにそれ】
俺たちはとりとめの無いことを話した。
【七海こそ、体調はどうなんだ?】
【帰ってきてから寝たから、大丈夫だよ】
【今日は早く寝ろよ。明日簿記の模試だし】
既読になって、そのまま返信が止まった。
なんだよ、今日も深夜まで起きてるつもりなのか?
俺はカーテンを開けて、七海の部屋のほうを見た。夜の空気が頬に触れた。半分欠けた月が夜空で輝いている。もうすぐ満月だ。
ぼんやり見ていると七海の部屋のカーテンが動いた。そして七海が部屋から顔を出す。
その距離、5mほど。
七海は下を向いた。そして俺のスマホにラインがポンと入った。
【今日は諒真と寝たい】
「えーーーーーーー?!」
俺は画面を見て、声にならない声を出した。
カーテンを開けて、顔を出すと、七海も顔を出していた。
俺たちは無言で見つめ合った。
暗闇に俺たちの顔だけが、灯籠のようにポワンと浮かんでいる。
ううん……と俺は咳払いして、口を開いた。
「……何言ってるんだよ、お前は」
闇夜に俺の言葉が昇っていく。夜に呟く言葉は、どうしてこんなに響くのだろう。昼間に言う言葉より、広がる気がする。
「良いじゃん」
七海は窓のサッシにアゴを乗せた。
「意味わかんねーんだよ」
「ダメ?」
七海は小首を傾げて俺の方を見た。髪の毛がこてんと動いて、猫のように真っ直ぐに俺を見ている。マバタキもせずに真っ直ぐに。
なんだよ、そのクソ可愛い仕草は。
「いやいや俺たちには早いだろ」
「何もしないよ」
「だから何なんだよ」
俺たちは小声で話し続けた。
「一緒に寝てくれるなら、今日は早く寝る。今すぐ寝る」
眠たいなあと言って右側に頭を倒して、もう一度眠たいなあと言って左側に倒した。眠たいヤジロベエのように。
「……ひとりで寝ろよ」
「じゃあ起きてる」
七海が窓を締めて、カーテンを引いた。
「あーー……」
俺は思わずそれを止めた。
とんでもなくもったいない事をしたんじゃないか、俺は。
そう思ったら声が出ていた。
数秒後にすすすす……とカーテンの下が持ち上がり、その隙間に七海の顔が見えた。
俺は窓を開けたまま、スマホを取り出し【とりあえず、来れば?】と打った。
数秒後に、七海の部屋の電気が消えた。
え、マジで?
打っといて何だけど、正直本当に来るとは思ってなかった。いや、残念だと思ったけど、なんていうか、ちょっと待てよ!
俺はすぐに立ち上がって、一階に向かった。時間はすでに一時をすぎていて、早寝早起きがモットーな両親と姉貴はもう寝ている。
静かに玄関の鍵を開けて、ドアを開く。
目の前にパジャマの上に、いつものパーカーを着て、相変らずマスクに、白い手袋姿の七海が立っていた。
「うす」
七海が白い手袋をした掌を俺に見せた。
「……ウス」
俺も掌を見せると、七海は白い手袋をした手を伸ばしてきて、軽くタッチした。
正直それだけで心臓がわしづかみにされたように痛んだが、唇を噛んで冷静を装った。
先に階段を上っていく七海の後ろをついていく。
本当に俺の部屋に向かって行く七海の足。
それも夜に。
マジかよ……いやいや、何なのマジで……。
俺は唇だけ動かして落ち着こうと頑張ったが、勝手に部屋に入っていく七海を見て、大きくため息をついた。
はーーー、マジか……。
七海は部屋に入ると、まっすぐにベットに入って行った。
もう自分の布団のように真っ直ぐに迷い無く。
俺はそれを追って布団に入るべきなのか、どうすれば良いのか分からなくて、とりあえずマットレスのふち、ギリギリに腰掛けた。五センチくらいしか座れてない。
自分のベットなのに、中に七海がいるなんて……俺のベットじゃないみたいだ。
全くリラックスすることが出来ずに、背筋を伸ばしたまま、背中で七海を感じていた。
俺の布団に入った七海が小さな声で言う。
「……すごく、諒真の匂いがする」
七海の声は、陽向で眠る猫が鳴くように小さく、完全に安心しきっていた。
どんな顔で言ってるんだろう……気になって俺は小さく振向いた。そして布団に入っている七海を見た。
七海は俺の布団から顔を半分出して敷き布団の匂いをスン……と嗅いでいた。
そして「柔軟剤の匂いもする。諒真の洗濯物の匂いだねえ」と言い、んふ……と空気を吐き出すように笑った。
俺は顔で顔を包んで、唇を噛んだ。どうすればいいのか分からない。
緊張して胸が高鳴りすぎて、心臓が休む間もなく動く続けているのが分かる。
恥ずかしくて身動きひとつ取れない。
背中がバキバキに固まっているのを感じていた。
その背中に、チョン、と七海の指が触れた。
「おっわ……!」
俺は思わず背中をビクリとさせた。
お前……と言ってみたが、全く力が無い声だし、声も上擦っていた。むしろ恥ずかしい。
んんっ……と咳払いをして誤魔化す。
背中で七海が「あはっ」と小さく笑った。なんだよ、どうしてそんな余裕なんだよ。
俺の背中にもう一度、指が触れた。もう驚かないぞ。
そう決めた俺の背中を、指先がつーーっと下りていく。
「おっわ……!!」
俺はさっきより大きな声を出して海老反りになってしまった。
そして思わず後ろに倒れ込んだ。
「あははは!」
倒れ込んだ頭上に頬杖をついた七海が微笑んでいた。
暗闇に七海の白い手袋が見える。それが俺のおでこに伸びてきて、指先で触れた。
白い手袋をしているので、温度は分からない。
でも、俺は体中に汗をかくほど熱いので、白い手袋越しの七海の指先さえ、冷たく感じた。
俺は腕を伸ばして七海の白い手袋を、指先を握った。
一瞬七海の手は驚いたが、少し待つと、そのまま俺の手を握りはじめた。
一本ずつ、自分の手の中に収めていく。
そして俺の指は、すべて七海の掌の中に収まった。七海の掌の温度と、俺の手の温度が溶ける。
俺の手を七海が引っ張った。そして布団の中に引っ張り込む。
俺の肩がねじられて痛い。
「いたっ……引っ張るなよ……」
「ん!」
七海はまだ引っ張る。
「分かった、分かった」
「ん!」
七海に引っ張られるままに、布団に入った。
が、ヤバい。
俺の頭の横、15センチくらい離れた場所に七海の頭がある。そして俺の方を見ている。
これはどうしたらいいんだ! 俺は上を向いたまま生まれたての蝋人形のように硬直した。背中を向けるのが間違ってることだけは分かる。
でも七海の方を向くのも、きっと間違っている。
布団の中で七海が握ったままの手が、枕元まで出された。
つられるように、俺は七海のほうを見た。繋いだままの手の塊に、七海がコツンとオデコをぶつけた。
真っ黒な髪の毛が、しなりと動いて俺の指先に触れた。
「……ヤバい」
それ以外言葉がない。
ふはっ……と七海が笑った。そして反対側の手でマスクを少しずらした。
久しぶりに見えた七海の白い歯と丸い舌。
薄い唇が、暗闇で小さく艶やかに光った。
ああ、くそっ……。
俺は反対側の腕を伸ばして七海を引き寄せた。
七海は一瞬驚いたが、ゆっくりと俺に体重を預けた。七海の重さ、七海の形が、俺にハッキリと伝わってくる。
俺と七海は布団の中でひとつの塊になった。
俺のアホみたいに高い体温と、七海の冷たい体が溶けて、ただの丸いものになっていく。
抱き寄せたものの、どうしたらよいのか分からず、俺は目の前にある七海の髪の毛に触れた。
一束指先に挟んで、摘まむ。
柔らかくて細い。それにサラサラと流れ落ちていく。
七海がびくりとした。そしてそのまま俺の胸元に、更にぐいぐいと突っ込んできた。
「ちょっと、お前……」
俺はベットから落ちそうになった。
その背中に七海が手を伸ばしてくる。
「おっわ……!」
今度は俺が海老反りになった。どうやら俺は背中が弱いようだ。
「……触らないでよ」
七海が俺に抱きついたまま、布団の中に顔を突っ込んだまま言う。
「最初に俺に触ったのは七海だ!」
「どこも触っちゃダメ」
「だったらこの状況は何だよ!」
「……これは良いの」
勝手すぎる!
んぐっ……と俺は言葉を飲み込んだ。
なぜなら七海が俺の背中を優しく撫でたから。
「……だよ、どうしたんだよ……」
こんなこと、して、さあ……。俺は言葉を絞り出す。
「何もしないで」
「分かったよ!」
「でも」
七海は俺の胸元から顔を上げた。そして俺を下から真っ直ぐに見て言った。
「一緒に寝たいの。良い?」
「ぐ……お、おう……」
俺は言葉を絞り出した。
「良かった」
七海はさらに俺にしがみついてきた。
うっわ……。
マシュマロみたいに柔らかい胸……でも明らかに痩せてしまっている体……でも七海の匂いがして、ヤバい、これは完全にヤバい……めっちゃ勃起してる。
七海は当然気が付いているだろうけど、必死になって腰を七海から遠ざけた。
「ごめんね……」
背中から七海が言う。
「んだよ……もう、拷問かよ……」
「どうしても、どうしても一緒に寝たくて……ごめんね……」
七海が俺の胸元に顔を押しつける。
その声が泣いてる気がして、顔を見たいと思うが、泣いているなら、絶対に七海は顔を見せない、と思った。
「……ごめんね、何もしてあげられなくて……」
「期待しねてーよ……」
下半身が期待しまくってるけど、もうそれしか言えない。嘘でも何でもいい。とにかくもう何でもいい!!
七海は俺の胸元に頭をグリグリと押しつけて、フフ……と小さく笑った。
「何も出来なかった。何も分からなかった。もう……寝るね……」
俺のお腹を包んでいた腕が、そのまま力を失っていく。
え? 本当にこの状態で寝たの? この数秒で?
俺は七海が完全に寝息を立てるまで、身動き一つ立てぬまま、抱きつかれていた。
勃起も収まったころ、七海の腕を解いて、七海のほうを向く。
七海は完全に眠っていた。
痩せた顔……首とか恐ろしく細い。
その下……保健室で見た紫色のアザを思い出す。
少しだけ覗き込むと、そのアザは、間違いなく広がっていた。
保健室で見た時は胸元くらいだったのに、首下手前まで来ている。
広がるのか……これ。
でも保健室で見たときのように発光はしてない。
俺は七海に触れた。
何か悪い病気じゃないといい。
七海がはやくいつもの七海になって欲しいと思いつつ、眠る努力を始めた。
努力。完全に努力だ。
眠気なんて吹き飛んでいて、スマホも遥か遠くにあり、俺は仕方なく羊の数を数えた。
四百を超えるころ、俺はやっと眠りについた。
朝、目覚めると、横で眠っていたはずの七海の姿は見えなかった。
ぼんやりとした頭で、掌を七海が寝ていた場所に伸ばす。
もうそこに温度は無い。
ずっと前に部屋を出たのだろう。
枕元に置いたスマホを引き寄せる。冷たい画面に触れて確認すると、アラームが鳴る五分前だった。
解除ボタンを押して投げた。そして枕に顔を埋めた。
同時にふわりと七海の香りが立った。俺はその香りを吸い込んだ。
自分の中に満タンに着地させるように。目を閉じて、昨日の夜の事を思い出す。
視界が暗闇になると記憶の輪郭が鮮明に顔を出す。
俺は幸せな時間に浸った。
どうしようもなく幸せな時間に。
次は運命の日。
七海視線です。




