9月15日(金)2
夜になり、ピアノ発表会が始まった。
上機嫌な椎名は、今まで見たことが無いような笑顔で軽やかにピアノを弾いた。
こんなに弾けるなんて、知らなかった。本当にお坊ちゃますぎるだろ。
そして朝倉先輩の番になった。
朝倉先輩のピアノは、川の流れのように美しいのに、それに抗うような強さを感じる演奏で……本当に素晴らしくて、俺は心から聞き惚れた。
一番前の席に朝倉先輩のお母さんが座っている。
さっき乱れていた髪の毛は、すっきりと纏まっている。
赤いヒールが、当たり前のように美しい。
さっきみた踵を思い出して、体が熱くなった。
表情も全くちがう母親の表情だ。
怖いな……と思ってしまう。どれだけの顔をもっているのだろう。
それが蜜の味? 全てを捨ててしまえるような?
朝倉先輩がピアノにのし掛かるように体を動かして曲を弾く。
音大に進学を悩んでるのは、お母さんの不倫のこともあるのかも知れない。
最悪離婚の可能性もある。
というか、明るみにでたら、可能性はかなり高い。
自分の弟を裏切って不倫した朝倉先輩にお母さんを、椎名の社長は絶対に許さない。
椎名は、朝倉先輩に事実を掴んだことを言ったのだろうか。
いや……そんなこと、知ってても、知らなくても、朝倉先輩は見事に弾く気がする。
だからこそ、やっぱり音大に行ってプロになってほしいと思った。
「そんなに良かった?」
「はい!」
その後行われたパーティーで俺は、朝倉先輩のピアノを褒めまくった。
「やっぱり朝倉先輩は音大にいくべきだと思います」
俺は椎名家特製のモンブランを食べながら言った。
ああー、やっぱり生クリームたっぷりで超うまい。
「そうかなあ、嬉しい。ありがとう。逃げるためにも、アリかもなね」
朝倉先輩は、グラスに入ったジュースを一口飲んだ。
逃げるって……?
「さっき話したの。お母さんに。動画撮ったよって。もう止めてねって」
「ああ……」
俺は生クリームを口の中に入れた。
「バカだよね、ほんとバカ。死ねばいいのに」
「……あはは」
「クソ汚い」
「あはは」
「ビッチ。最低。椎名家裏切るとか、本当にバカ」
「あはは」
朝倉先輩は汚い言葉を連続で吐き出した。
俺は椎名が毎日親をディスすのを聞いているので、慣れている。
軽く笑って流した。
朝倉先輩はグラスを傾けてジュースを飲み干した。
「……本当ね」
「え?」
「椎名くんが言ってた。諒真は俺のゴミ箱って」
「酷すぎる」
言いそうだ。
「私のゴミも……入れてくれる?」
「はい?」
俺が振向くより速く、朝倉先輩は俺に近づいた。
柔らかい体に、フワリと高貴な香りが漂う。
そして小さな声で言った。
「音大行きたい」
「それはゴミじゃないですね、頂けません」
「……あはは」
今度は朝倉先輩が笑う番だった。
「モンブランどうよ?」
振向くと椎名だった。深紅のスーツは地味なスーツに変更されている。ラメがなくてシックだ。
なんだよ、消えたと思ったら着替えてたのかよ。俺もラメ無しのほうが良かった。ていうか、スーツにラメって何だよ。
「モンブランは最高だ」
俺は二つ目を食べながら言った。
「美味しそうだね。今日は私も食べちゃおうかな~!」
朝倉先輩が俺の食べていたモンブランを見て言った。
「持ってきます!」
俺はその場を離れた。
モンブランの場所まで行き、皿に盛ると、俺の進路を誰かが絶った。
そこにはカビゴン……じゃない、CP1500……じゃない、椎名の婚約者の三本亜佳音が立っていた。
「っと……すいません」
俺はさりげなく右にずれた。すると三本亜佳音も右にずれた。
……俺はこの状態に覚えがあった。
約束があったのに椎名が我慢出来ずに逃げ出した時があって、その時三本亜佳音が学校に来たんだ。
そして俺を探し出して、廊下の真ん中でこのやり取りをした。つまり何か
「話……でも?」
俺はチラリと三本亜佳音を見た。彼女は大きな顔をんっと落として頷いた。
すると強烈な匂いがして俺は顔をしかめた。……分かった。香水のかけ過ぎだ。まるで瓶をひっくり返したように濃い匂いが体中から漂っている。
それになんで蛍光に近い黄緑のドレス……。正直カマキリに見える。椎名を捕食しそうだ。
お金が唸るほどあるのだから、矯正すればいいのにしていない口元がヌラリと開いた。
「あの女、誰?」
三本亜佳音は開いた口から言葉を出した。というか、口から漏れてきた。
あの女……? 奥を見ると、朝倉先輩と椎名が談笑しているのが見えた。
椎名は身長が高くてイケメンだし、朝倉先輩は肩を大きく出したパステルドレスで美しい。
お似合い……だなあ……俺は目だけでチラリと三本亜佳音を見た。
この子ももっと色々気を使えば良くなる気がするんだけど、たしかに三本の娘ということにアグラを掻いているように見える。
太りすぎだし、全体的に垢抜けない。そんなこと、きっと俺に言われたくないし、美味しい物を我慢出来ないのはわかるけど、好きな人を手に入れたいなら、もっとすることがある気がする。
「朝倉さん。ピアノの発表会はごらんになりましたか?」
俺は精一杯丁寧な言葉で話しかけてみた。
三本亜佳音は二度ゆっくりと首を振った。
「椎名くんだけ、見た。椎名くん良かった。椎名くんの音、もっと欲しかった」
だからそういう偏りが……と思ったけど、俺はそうですか……と答え
「そこで弾かれていた演奏者の方で、僕たちと同じ高校生ですよ」
と言った。その瞬間鼻腔を香水の匂いが支配した。顔を上げると目の前に三本亜佳音が居た。
「っ……?!」
俺は思わず一歩引いた。
「高校でも接点あるの? 話してる? 年上? 同じクラスに無い名前だよね? 何してる人?」
矢継ぎ早の質問に、俺は一歩後退したが
「あの……婚約者なんだし、本人に聞いたら……?」
と何とか言った。三本亜佳音は、スッと体を引いて「そうね」と言い、俺から離れて行った。
……こえええ……!! 俺はモンブランを朝倉先輩の分と、自分用に二つ盛って、駆け足で戻った。
「椎名ああああ、モンスターボールが必要だ!」
「ああ、居た?」
椎名は俺の皿の上からモンブランを一つとり、ぱくりと食べた。
「怖いなんてもんじゃねーよ、お前!」
「あ、俺見せたいものがあるんだわ。ちょっとスマホ取ってくるね」
椎名は俺の言葉を無視して、中二階の方に消えた。
ったく、お気楽すぎるだろ。俺は朝倉先輩にモンブランを渡した。朝倉先輩は「うわあ……中に生クリームたっぷりだ~」と笑いながらそれを食べ始めた。そして
「怖いって、何が?」
と口に生クリームと付けた状態で言った。年上なのに、この抜けた感じ。先輩はすごくモテるだろうなあ……と素で思った。
俺は指で自分の口元に触れて「ついてますよ」と言った。先輩は「わーー!」と慌てて、それを口の中に入れた。
「いつも発表会の前は甘い物やめてるの。ドレスが着られなくなると困るでしょ?」
そう言って細い両肩を上げた。だから久しぶりに甘くて必死になっちゃった! と続けて笑った。
この美意識。三本亜佳音にもあれば、もっと椎名も見ただろうに……。
俺はさっき椎名の婚約者に会った話をした。
「なるほど。さすが椎名家ひとり息子。三本地所の四女とは強いね。超大手ゼネコンじゃない。でも……」
「そうですね、今回のことでどうやることやら……」
俺はチラリと朝倉先輩を見ながら言った。だって自分の母親が浮気している……という話なのだ。
「全部壊れてしまえばいいと本気で思うわ。でも大事なものまで壊れちゃうわね」
朝倉先輩は言い切った。
俺はその言葉の強さに黙った。
椎名が取った動画が明るみに出れば、朝倉先輩は嵐の中に投げ込まれる。俺はその聡明が笑顔が曇るのを見たくない……と思った。
最後の一口を食べた時、パーティー会場の上の方で、悲鳴が聞こえた。
この会場は、川の斜面を利用した高低差がある会場で、吹き抜けの二階構造になっている。
悲鳴は上のほうから聞こえた。
俺と朝倉先輩は目を合わせて、二人で吹き抜けに向かった。
すると、階段の下に椎名が座っていた。右肩を押さえて、眼鏡が転がっている。
「いてー……、マジやべえ」
「大丈夫か?!」
俺は椎名に向かって駆け寄った。
「榊!」
椎名が叫ぶと同時に、忍者榊さんが椎名と俺の間に座った。
「玄関から出た、服は黒スーツ。スマホ取られた。ヤバい映像が入ってるから、絶対取り返して」
椎名は早口で話した。
榊さんは無言で頷き、影も残さず消えた。こういう時に役にたつのか。さすが忍者。
それを後ろで立って聞いた朝倉先輩も、スッと立ち上がって階段を駆け上がっていった。
え、ひょっとして?
いやいや、でも。
もしかして……もしかするの、か?
「なあ……もしかして、朝倉の人間?」
俺は椎名の耳元で聞いた。
椎名は三本地所の社長とスーパー朝倉の不倫現場を押さえたんだ。
その映像を狙っての犯行だとしたら……?!
椎名はなんとか体を起こすが、痛そうに呻いた。
「それだけじゃ無いな、可能性は無限だ。三本地所、朝倉、最悪椎名側かもな。わかんね……ていうか、痛い」
椎名が右腕を動かそうとして、表情を歪めた。
「ていうか、ここ椎名病院じゃねーか。行こうぜ」
俺が椎名を抱えると、椎名が待て、と言った。そうだ、分かるじゃん場所と呟いた。
「お前のスマホ出せ。今すぐ俺のスマホの場所見ろよ」
「なるほど」
俺は椎名にスマホを渡した。
俺と椎名は同じスマホなので、使い慣れている。
スマホの位置を検索すると……もう川の中だった。
「……うへえ」
俺と椎名は、吐き出すように笑った。
でも俺も椎名も分かっている。
データはクラウドに転送済みだ。
椎名はにやりと笑って俺を見た。
「俺って天才だと思わない?」
「いや、天才は階段の上から突き落とされても、二回半ひねりで着地するはず」
「体操選手かよ……っと」
俺に支えられて椎名は立ち上がった。
「至!」
階段を駆け下りてきたのは、椎名病院の医院長、椎名貞夫だった。
「大丈夫か」
「右肩ヤバいかも。レントゲン」
「今すぐ行こう」
椎名は数人に抱えられて、会場から出ていった。
俺に掌をヒラヒラと踊らせて。




