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9月15日(金)1

 七海は結局早退することになった。

 両親は忙しくて家に居ないことは知っていたので俺も付き添うと言ったが、タクシーで帰ると言い乗り込んで行った。

 真っ白な顔で、真っ白な手袋をしたままの手を静かに振り。

 微笑む唇も白くて、心底心配したが「本当に寝不足なの。恥ずかしいけど……」と言う七海を信じることにした。


「椎名、お前、一応病院の息子じゃん? なんか分からないの?」

 俺は八つ当たりした。

「遺伝子系の本を借りてたから、何か関係あるかもな。図書館でずっと読んでて、俺の家にはもっとあるよ? って貸したんだけど」

「なんか病気か? でもそれだったら両親が知ってるだろ」

「諒真が妊娠させられるはずないし」

「おいこら」

 あまりに椎名が断言するので、一瞬で突っ込んだ。

 椎名は何を言ってるんだ!

「七海のことは七海がなんとかするだろ。で、今日は俺のピアノ、聞いてくれるの?」

 椎名は鞄を持って立ち上がった。

「お前のピアノより朝倉先輩のピアノな。その前に、能率差異は変動費のみで計算って……何だ?」

 俺は教室でだた一人、最後の模試をやっていた。

 俺以外はみんな模試を終了させている。

 はー……と椎名はため息をついて、俺の前の席に座った。

「能率差異は、変動能率差異」

 ん? ちょっと待てよ、その場合……。

「固定費から発生する能率差異は予算差異……?」

「どうして固定費から予算が出てくるんだよ」

「もう俺はダメだ……」

「ダメだな」

 適当に記入した模試を提出して、俺と椎名は教室を出た。

 明日の試験は諦めた。

 俺の高校生活はまだ始まったばかりだ!



「なんか椎名の家に泊まるの、久しぶりだな」

 俺は椎名の部屋に鞄を置いて言った。

 椎名の部屋は、川沿いにあるマンションの一室で完全に独立した部屋になっている。

 だから椎名はいつもこの部屋で好き勝手に女の子を呼んでいた。すくなくとも、中学までは。

 俺が知ってるだけでも、四人くらい? 毎回派手めの女の子で、俺は苦手でよく知らないけど。

 でも高校に入ってから三本地所の娘さんと婚約が決まり、ぱたりと止んだと……思ってたんだけどなあ。

 俺は洗面所に手を洗いに入って、落ちている長い髪の毛を見て思う。

 俺は椎名の姑か?

 この長さ……まさに神宮司。

 この部屋に……神宮司?

 もう考えるの止めとこう。

 俺は髪の毛を洗面所に流した。

 椎名が水を流し終えたタイミングで洗面所に服を持ってきた。

「これに着替えろよ。リハ始まるし、朝倉先輩も来てるぞ」

「サンキュ……って、これ?!」

 俺は渡された服をみて叫んだ。

 それは紺色にラメのラインが入った派手なスーツだった。

 椎名の家のパーティーに出る時は、いつも服を借りていたけど、今日は結構派手だな。

「俺のと交換する?」

 椎名が見せたのは、深紅のスーツだった。もの凄くギラギラしている。

「オッケ。俺、これ、全然着られるわ、超余裕、ありがとうございます、毎回」

「だろ?」

 洗面所で制服を脱いで着替えると、ズボンのお腹が……苦しい!

 俺と椎名は身長と体重が、あまり変わらないこともあり、いつも服を借りてたんだけど、これは……。

「……椎名。お前、痩せた?」

「諒真。お前、太った?」

 だよな……。俺はなんとかズボンのボタンを止めて、ベルトを締めた。

「お弁当の量が多い、のか?」

「幸せ太りだろ……福茶堂でイチャイチャしてたって聞いたぞ」

「椎名の情報網が怖すぎる」

 俺に隠し事が出来ると思うなよ? 何食べたかも知ってるよと椎名は笑った。

 怖い……。

 俺たちは、部屋を出た。すると部屋の外に榊さんが待っていた。

「朝倉さまがお待ちです」

「りょーかい」

 椎名は振向きもせず、廊下を歩いて行く。

 俺は当然のように廊下で待っている榊さんに毎回驚くけど。この人には気配ってものがない。忍者の末裔か?

 歩き出した俺に榊さんが声をかけた。

「ネクタイが曲がっております」

「あ……よくわからくて」

 俺が止まった瞬間に榊さんは手を伸ばし、ネクタイを直した。その手さばきたるや、目に見えないレベル。

「失礼いたします」

「ありがとうございます」

 俺が顔を上げた時には、榊さんは視界から消えていた。ジャパニーズ忍者ヤバいわ、ホント……。


 ホールは川に面した場所にある。

 広場があり、そこを通り抜けるとかまぼこのような形をした建物が出てくる。

 それが音楽専用のホールで、椎名病院がこの町に寄付したものだ。

 反対側には市民用の入り口もあり、舞踊や、小さなコンサートに使われている。

 前面ガラス張りで、中で練習している朝倉先輩が見えた。

 天気がよい日は、このガラスが全開になり、中庭のようなテラスで音楽を聞くことも出来る。

 有名な設計士に頼んだらしいが、変な建物は趣味全開で、こういう金の使い方は良いなあと個人的には思ってしまう。

 俺は橋といい、建物といい、思い切りが良い大きな物は好きだ。


「朝倉先輩」

 椎名と中に入っていくと、朝倉先輩の横、ピアノの隣に女性が座っていた。

 女性といってもそれなりの年齢の方で、長い髪の毛を高い場所でしっかりと結んで、真っ黒なスーツを着ている。

「今日はよろしくおねがいします」

 そう言って立ち上がった。

「こちらこそ」

 椎名はよそ行きの表情で微笑んだ。

 そしてその女性は、では失礼します……とホールを出て行った。

 俺は視線で見送る。

「私のお母さんなの」

 朝倉先輩が、俺に向かって言った。ああ、なるほど。

「じゃ、俺は」

 椎名も来たばかりなのに、何故かホールから出て行こうとする。

 おい、ひとりで置いて行くなよと言いかけると、朝倉先輩が、大きな音を立ててピアノを弾き始めた。

「諒真くんに、今日弾く曲、聞いてほしいな」

 そう言って微笑んだ。

 よく見ると、朝倉先輩はもう発表会用のドレスを着ていた。肩が全部出ているドレスで……俺は服の名前は分からないけど、とにかく胸が強調される衣装だった。

 俺は恥ずかしくなって、目を反らした。

 それを追うように、ピアノの音が降ってくる。

 朝倉先輩の指は踊るように撫でるようにピアノの上を走り、そのたびに空から音が下りてくる。

 肩を出しているドレスには意味があると気がついた。

 腕が長く見えるのだ。

 長い腕がピアノを走り回る。白い龍のように。

 俺はスケッチするような気持ちで、その風景を見ていた。

 そして家に帰ったら、この景色を絵にしよう……と思っていた。

 これはピアノじゃなくて、白龍だ。白い龍が天に昇るために、音楽を所望している。

 音楽がないと、白龍は空に登ることが出来ない。

 その腕で、音で、空を駆け上っていく。音楽と共に。そして雲間に消えていくんだ。


「……どう?」


 朝倉先輩が最後の音を弾いて、俺のほうを見た。


「真っ白な、龍が見えました」


 俺の言葉に、朝倉先輩はキョトンとした。でもすぐにニッコリと笑顔になり

「ほんと諒真くんって面白い」

 そう声を出して笑い、次の曲を弾き出した。俺はさっきお母さんが座っていた椅子に座った。

 音の振動がお腹に響いてきて気持ちが良い。ピアノの音が響くように作らせたと聞いたから、それもあるのだろう。

 俺は音の洪水に身を任せた。

 俺がバレリーナだったら、間違いなく踊り出してる。

 俺が歌手だったら、間違いなく歌っている。

 俺が絵を書く人間なら……今すぐ絵筆で描くのに。

 そう思って、やっぱり絵を書きたいな、と思う。

 こんなにストレートに感覚を音にされると、正直心に来る。

 朝倉先輩は何を思って弾いているのだろう。少し不思議に思った。

 同時に考える。

 俺は、絵を書きたいという気持ちだけで、そんな不安定な人生を選んでいいのだろうか。

 両親はやっぱり自分たちと同じように研究者の道を選んでほしい……とどこかで思っている気がする。

 なにもやりたいことがないなら……っていつもいうけど、俺が絵を書いてることは知ってるんだ。

 それを完全に無視してるわけで。それは反対してるってことだよなあ。

 絵なんて書き続けてどうにかなるわけじゃない。

 朝倉先輩ほどの実力を持ってしても、才能だけで生きているのを悩んでいるのに。

 涙が出てきそうになり、俺は朝倉先輩に会釈して、外に出た。

 川沿いの風が一気に首筋を吹き抜ける。誰かにこの気持ちを話したいと思った。言葉という形にしたら、何か変わる気がした。弱気な自分を、白い龍が空に連れて行ってくれるような。

 椎名……どこかな。ダラダラと話したい気分だった。

 マンションに向かおう……と思い、正面玄関に向かうと、入り口に榊さんが立っていた。

 立っているというか、完全に入り口をふさいでいる。誰も入れないように拒んでいるように見える。 

 でも俺は大丈夫だろ……と近づくと、進路を絶たれた。

 目の前に榊さんが立つ。

「あの、椎名は……」

「ただいま取り込み中でして」

「ええ……?」

「ホールの方でお待ちください」

「はあ……」

 俺は榊さんの迫力に押されてホールの方に戻った。んだよ……。少し疲れたし何だか絵が書きたかった。完全に朝倉先輩の音楽に当てられていた。

 今なら良い絵が描けそうなのに。

 そして、あ、と思った。椎名のマンションに裏口があることを思い出した。正式名称はゴミ出しの道だけど、椎名はよくそこを通って家を出ていた。

 俺もこっそり遊びに行く時はあそこを使う。

 川沿いを移動して獣道を歩く。雑草が刈られてないレベルの場所を通ると、巨大なゴミ箱があり、そこから道がある。

 椎名家から出る多くのゴミに対応するべく、かなり大きなゴミ捨て場があり、そこは中と通じている。

 暗証番号も覚えている、と。よくここから姉貴と入って椎名にイタズラしにいった。

 万年日陰なので地面はズルズルしていて。空気がひやりとして体が冷える。

 俺はそこから中に入る。ゴミ捨て場を経由して通路へ。

 進むと、目の前に椎名が居た。

 丁度いいや。

「椎名……」

 呼びかけると、椎名が俺の向かって手を伸ばして、俺の口を押さえた。

 んだよ!

 俺はその手を退ける。

 すると目の前に、さっきの女性が見えた。纏めた髪の毛に、真っ黒のスーツ。

 あれって、朝倉先輩のお母さん……。

 黒いスーツが、無骨な指に抱き寄せられた。

 そして深紅のヒールの靴の踵が浮いた。

 軽い音が響く。

 うわ。俺は唇を噛んだ。

 朝倉先輩のお母さんが、男性に抱き寄せられていた。

 そのまま背中に腕を回して、下から舐めるような表情で見て……男性が下を向いて、長い舌を口から出した。

 その舌を、朝倉先輩にお母さんが求めるように舐める。

 付近には濡れた音と匂いが響き始めた。

 お互いに口の中を舐め合う動き、腰をしならせてる。

 うわあ……生ラブシーンだ。俺は初めて見る人のキスシーンに無駄に興奮してしまった。

 二人は何度も激しく舌を絡め合っている。舌を舐める音が静かな廊下に響いている。

 男性が朝倉先輩のお母さんの髪の毛に触れる。

 まとめていた髪の毛が、ザワリと音を立てて崩れ落ちた。

 そして真っ黒な龍のように背中に落ちた。

 その髪の毛の隙間から見える表情は、完全に女性の表情をしていて、とんでもなくドキドキした。

 ……後ろを見ると、椎名がスマホを持ち、それを撮影していた。

 えー? 何してるんだよ。俺は思ったが、椎名の目がとても真剣だったので、邪魔にならない位置に移動した。

 二人の絡みを見ながら、俺は思った。

 あれ、なんだだろう、俺あの男性、見たことあるな……。

 二人はキスをやめて、近くの部屋に入っていった。

 椎名はドアが閉まるまでずっと録画していた。

 ここのフロアは貸し出しのホテルになってるはずだ。

 つまりあの二人は今……。

「あの男、三本地所の社長だよ」

 椎名が吐き捨てるように言った。


 え? 


 まだ声を出しちゃいけない気がして、俺はジェスチャーだけで聞いた。

 こっち。と椎名に呼ばれて、非常階段に入り、そのまま椎名の部屋に移動した。


 ずっと調べてたんだけど、今日やっと動かぬ証拠ゲットだ……と椎名は大きなソファーに座った。

「諒真、よく入って来れたな。入り口に榊居たでしょ」

「ああ、見張り?」

「そそ、あの二人のH用ににね。ゴミ口から来たの?」

「おう」

「あそこは小さいから榊も入れないからなー。あーしかしやったーー! これでカビゴンと結婚しなくていいぞー」

 椎名はそのままソファーに転がった。

 カビゴンと結婚?

「三本地所の娘さんだっけ、椎名の婚約者」

 俺は机に上にあった福茶堂の饅頭を手に取った。

「おばさんも浮気相手に三本地所だけは無いわ~~」

「なるほど」

 俺は饅頭をあけて、口に入れた。


 スーパー朝倉の経営者は、椎名の父親の弟で、スーパー朝倉に婿入りした朝倉太一(元・椎名太一)なのだ。

 スーパー朝倉は、近所三件で巨大なスーパーを多数持って居る巨大企業で、椎名としては手放せない資金源だ。

 朝倉太一の嫁であるさっきの奥さんが、三本地所の社長と浮気してたとなると……たしかに揉めるな。

「ずっと浜島にもデータ押さえて貰ってたんだけど、さすがにラブホには行って無くてさ、ずっと証拠探してたんだ。朝倉先輩の読みは確かだったな」

 椎名も転がったまま、饅頭を食べ始めた。

 いつも食べものを食べるときは、ちゃんと座る! と俺に怒る椎名が、珍しく自堕落だ。

「朝倉先輩の読み……?」

「俺が調べ始めたのと同タイミングで、母親が浮気してることに気が付いてたよ。ピアノレッスンの時は付いてきて消えるからおかしいって」

 密会のタイミングになってのか。

 あれ……でも……

「離婚に、ならないか? 朝倉先輩の両親は」

「それは朝倉先輩も分かってる。事が大きくなる前に終わらせて欲しかったんだろ。三本地所と浮気してたのはヤバすぎる。普通の女にしとけば良いのに、どうして秘密は蜜の味なんだろうな」

 俺には分からないよと椎名はソファーで伸びをした。

 そんなこと言ったって……椎名も神宮司さくらと手を繋いでたじゃないか。

 秘密は蜜の味だからじゃないのか?

 のど元まで言葉が出たが、飲み込んだ。

 椎名は、ちゃんと撮れてるわー、転送転送~保存保存~ロックロック~と喜びながら、スマホで動画を見ていた。

「……そんなにイヤだったのか、婚約者」

「俺はさ、基本的に運命論者で、あるがままに受け取って、その中で最善と尽くすのが好きなんだ。でも、これだけは譲れなかった」

「そっか……じゃあ、今日はお祝いだな」

「俺の魂のバッハ楽しみにしとけよ」

 椎名はソファから起きて、饅頭の粉がついた手を払って、スマホをポケットに入れた。

 その笑顔が、最近見たこと無かったほど晴れ晴れしい表情で、俺は吹き出してしまった。

「無駄にかき鳴らすなよ」

「孤独の中の神の祝福とかにすれば良かった」

「わかんねーよ」

 俺たちは笑いながら部屋を出た。

 椎名が嬉しいなら、それでいいや。



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