ある日の出来事。
スペードの家はとにかく広い。知っているだけでお風呂が三つにトイレが五つ、台所も四つある。迷路のように入り組んでいるようで、実はとても規則正しく部屋がある。
立ち入りが許されている部屋は風呂場を含めて五つだけれども、特に他の場所に入ることを禁止されているわけでもない。ただ、迷子になるからあまり出歩かないほうがいいと言われている。
魔術で空間を無理やりつなげているのだから当然と言えば当然だ。
そして、スペードは人使いが荒い。
これだけ広い家だと掃除も大変なわけで……。
「今日の当番表、風呂掃除って、どこの風呂だよ……」
当番表といいつつ掃除するの私一人なんだけど。
ひとりでやるのつまんないからちょっとお楽しみ要素をって思っただけ。
とりあえず一番最初に辿り着いた風呂の掃除をすることにした。どうせ迷子になったらスペードが探してくれるんだし。
とぼとぼと歩いていると、珍しく洋風の空間に辿り着いた。
なんというか、すごく清潔だ。やっぱスペードの家だ。どこに入ってもあんまり掃除の必要が無いくらい綺麗だけど、少しでも汚れを発見するとうるさいからな。あの男。
陶器の浴槽の白が眩しい。蛇口は金だ。これって洗剤使っても大丈夫なのかな?
綺麗に二段に並べられた壜を見る。
【髪】や【皮膚】などの文字が読めた。いったい何が入っているのか恐ろしくて見られない。そうだここは魔術師の家だ。得体のしれない生物の皮膚があってもおかしくない。少し離れれば【足】や【腕】の文字も見えた。
まさか人間を殺して製造したんじゃないだろうな。
セシリオの話ではスペードは虐殺が趣味だったと聞く。
思わず身震いをした。
はやく終わらせよう。雑巾を手に取る。すると突然背後に気配がした。
「薫、ここはいいので厨房を手伝いなさい」
突然の声に飛び上がりそうになった。
「……お前、悪戯でもしていたのですか?」
「え?」
スペードか。よかった。いやよくない。
何があるかわからない空間だぞ。
「まさか、その壜の中身を使ったのですか」
スペードは呆れたように言う。
「まさか! こんな怖いの」
「そうですか? まぁ、使う分には構いませんが、僕の体質に合わせて調合した特別品ですから、お前には合いませんよ」
「え?」
これって何なの?
ってか手製?
「これ、何?」
我慢できずに訊ねてしまった。答えを聞くのが怖い。
「なにって、化粧品です。書いてあるでしょう。お馬鹿さん」
「はぁ!?」
普通化粧品に【髪】とか【皮膚】なんて書かないでしょ。
「髪はともかく皮膚って何さ。体、とか、顔とか、肌とか他にあるでしょ」
てっきり皮膚でできてるかと思った。しかも粉末だし。
「顔にも体にも使うので、皮膚が妥当かと思って……。確かに、皮膚では誤解を招きますね。肌にするか」
スペードは指で文字を消し、どこからか現れた金の糸のようなものが壜に溶け込んで【肌】という文字を作った。
「ってか、あんた化粧するの?」
「化粧というほどでは。最低限の身だしなみとして肌と髪には気を使う程度ですかね。特に、髪は重要です。魔術師にとって髪の質と色と長さが実力を表すようなものですからね」
「ってことは、スペードってあんまり髪長くないからそうでもない感じ?」
「お馬鹿さん、長さだけではなく色も関係があると言ったばかりでしょうが」
スペードは軽く私の頭を小突いた。色?
「金が最上級、次が黒。濃い色ならば濃いほど魔力が高くなり薄ければ薄いほど魔力が低い。師匠は生まれつき魔力が高い部類で、メルクーリオは魔力自体はさほど高くないが、手入れと長さであれだけの魔力を維持している。僕は、魔力が制御できなくなるので適度に切っているだけです」
切ったら魔力が無くなったりするってことなのかな? どうでもいいけど。
ただひとつ納得した。だから坊主が居ないのか。
「瑠璃と玻璃なら玻璃の方が魔力が高い?」
「そうですね。ただ、稀に例外も居ます。髪以外に血液が関係したり、瞳の色などが関係する場合もあります。金の髪、青い瞳が最上級と言われているが、国によってもそれは異なる。物事はそれほど単純ではない」
そう言ってスペードは他の壜のラベルを確認するように一つ一つ手にとって並べなおしていた。
「【毛】も変えたほうがいいだろうか」
「それの効果は?」
「脱毛です」
「ならそう書けばいいじゃん」
まぁ、使う本人が分かればいいんだろうけど。
とりあえず風呂場に怖いものがないとわかっただけいいや。
「スペードって脱毛派だったんだ」
「どうも、髭が苦手で……似合わないですからね。僕は」
そういえば、髭を伸ばしている人ってあまりいないな。
「魔術師に髭は不要?」
「さぁ? 師匠の祖国では髭を長く伸ばした魔術師が大勢いたようですが」
時代とともに流行も変わるってものなのかしら?
スペードはまた壜のラベルを書き換えて、それからこちらを見た。
「今日はうるさいウラーノが来ますからね。茶に毒でも混ぜましょうか」
「どうせ死なないしね」
スペードも安心して悪戯ができるってわけか。そう考えていると小突かれた。
「お馬鹿さん」
呆れたような声。
でも、心なしかスペードも楽しそうだった。
広すぎるこの家にはまだ慣れないけれど、スペードという人には慣れた。
まだ知らないことがある。
まだ知りたいことがある。
長い廊下を歩く。さっきは無かった道だったはずだ。
怖くなってスペードの手を握れば驚いたように見られた。
それからふわりと頭を撫でられ、ゆっくりと手を引かれる。
掌のぬくもりが、怖い世界を安心に変えてくれる。そんな気がした。