【怪談】助けてもらったはずでした〜山の怖い話〜
高柳裕太は大学3年になってから、休日の予定を山から決めることが増えた。
講義のない日を見つけると、スマートフォンで登山記録や地図を眺める。友人と予定が合えば一緒に行くが、最近では一人で登ることも珍しくなくなっていた。
登山を始めたのは大学に入ってからだった。
最初は友人に誘われ、ほとんど付き合いで登っただけだ。朝早く起こされ、何時間も坂道を歩かされた時には、こんなことを趣味にする人間の気が知れないと思った。
それが山頂まで行ってみると、次はもう少し高い山へ登ってみたくなった。
何度か出かけるうちに靴を買い替え、レインウェアを揃え、気づけば1年半ほど続いている。雪山や本格的な縦走をするほどの経験はないが、日帰りなら、自分でルートを調べて歩けるくらいには慣れてきていた。
6月29日の夜も、裕太はベッドに寝転がりながら次に登る山を探していた。
「どっかないかな……」
有名なところは、だいたい一度は検索している。
景色がいい山、初心者でも登れる山、アクセスのいい山。いくつか検索結果を開いてみたものの、見覚えのある名前ばかりだった。
「ここ、人多そうだな」
休日の山頂で、順番を待ちながら写真を撮るのも嫌いではない。ただ最近は、それより登山記録の少ない山の方が気になっていた。
検索する言葉を何度か変えているうちに、県北の山間部にある白峯山という名前が目に留まった。
「白峯山……?」
聞いたことがない。
身体を起こし、山名をもう一度検索する。
大手の登山サイトにも記録はあったが、数は多くなかった。その代わり、地元の観光協会が以前作ったらしいウェブページが見つかった。
少し古い作りのページには、登山口、その先の林道、沢を渡る場所、途中にある特徴的な岩などが写真付きで紹介されている。山頂から撮られた写真には、山間の町が小さく写っていた。
「へえ。結構よさそうじゃん」
標高は1200メートルに少し届かず、往復で5時間ほど。危険な岩場や鎖場があるわけでもない。
自宅から登山口までは車で2時間弱だった。
「朝7時に出れば、9時前か」
それなら十分日帰りできる。
裕太は地図を拡大しながらルートを確認し、ページを最後まで読んだ。そこで一つだけ注意書きが目に入った。
《降雨時や落葉の多い時期は、一部で踏み跡が不明瞭になります。道迷いに注意してください》
「まあ、雨降ったら無理しなきゃいいか」
翌日の予報は曇りで、降水確率も高くない。登山地図をもう一度見ても、特別複雑なルートには見えなかった。
「ここにしよう」
そう決めると登山届を入力し、ザックの中身も確認した。
レインウェア、ヘッドライト、モバイルバッテリー、水、行動食。いつもの日帰り登山で持っていくものは揃っている。
最後にヘッドライトのスイッチを押すと、白い光が部屋の壁を照らした。
「よし」
ライトをザックへ戻し、念のためもう一度だけ白峯山の予報を見る。
翌7月30日は曇り。午後も、大きく崩れる予報にはなっていなかった。
「これなら大丈夫だな」
スマートフォンを充電器につないだ。
あとは朝起きるだけだった。
*
6月30日。
実際に歩き始めてみても、白峯山の印象は悪くなかった。
登山口には数台分の小さな駐車スペースと、日に焼けた案内板があるだけだった。9時を少し過ぎた頃に歩き始め、古い林道から杉林へ入り、小さな沢を渡る。そこを過ぎるとブナが混じるようになり、濃い夏の緑が頭上まで覆っていた。
登山者にはほとんど会わなかった。
駐車スペースには自分以外の車が1台停まっていたから、誰かが先に入っているはずだったが、その姿も見ない。
「ほんとに人いないな」
裕太には、それがむしろ心地よかった。
人気のある山では前にも後ろにも人がいて、少し休めば追いつかれ、再び歩き出せば今度はこちらが誰かに追いつく。今日は木々を抜ける風と、自分の靴が地面を踏む音くらいしか聞こえない。
途中、昨夜見たページに載っていた、三角形に割れた大きな岩を見つけた。
「あった」
立ち止まって写真を撮る。
画面で見た場所へ自分の足で来た。それだけのことなのに、妙に嬉しかった。
山頂へ着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。
雲は多少あったものの、木々の切れ間から遠くの町まで見渡せる。軽く食事を取り、何枚か写真を撮った。
「ここ、当たりだったな」
思っていたよりいい山だった。
人は少なく、道も極端に険しくない。今度は誰かを連れてきてもいい。
しばらく休んでから下山を始めた。
空の様子が変わったのは、それから1時間ほど経った頃だった。
最初に気づいたのは風だった。山頂ではほとんど感じなかった風が頭上の枝を大きく揺らし始め、そのうち雲が厚くなって、森の中まで薄暗くなってきた。
「降るのか……?」
スマートフォンを確認してみたが、電波が弱く、新しい天気予報は読み込めない。
やがて細かな雨が落ちてきた。
「まあ、このくらいなら」
レインウェアを着て歩き出す。
だが、雨だけでは済まなかった。
少しずつ霧が出始め、最初は木々の向こうを白く霞ませていたものが、気づいた頃には数十メートル先の景色まで曖昧にしていた。
「やだな、これ」
足元の土や落ち葉も濡れ、踏み跡が見えづらくなってきた。
昨夜見たサイトに書かれていた場所だろうか。
前方で、道らしきものが二つに分かれていた。
「こっち……だったか?」
登ってきた時、こんな分岐を通った覚えがない。
地図を開いてみたものの、現在地を示す点は落ち着かず、少し待っているうちに数十メートル離れた場所へ飛んだ。
「参ったな……」
裕太は先へ進むのをやめた。
一度、確実に分かる場所まで戻った方がいい。
そう考えて来た道を振り返った時だった。
「下りるの?」
不意に後ろから声がした。
振り向くと、霧の向こうから一人の男が歩いてくる。
40代後半くらいだろうか。日に焼けた顔には薄い無精髭があり、紺色のレインウェアも登山靴もかなり使い込まれていた。それでも濡れた山道で足の置き方に迷う様子はなく、歩き方だけを見ても、自分よりずっと山慣れしているのが分かった。
「あ、はい。ちょっと、ここ分かんなくなって」
「ああ、ここ初めてだと分かりづらいんだよ」
「やっぱりそうなんですね」
「地図ある?」
裕太がスマートフォンを見せると、男は画面と周囲を見比べてから左手を指した。
「こっち。俺も下りるから、一緒に来ればいいよ」
「助かります」
「こういう天気になると、余計分かんなくなるからな」
男が笑った。
その声が、見た目から想像していたより少し高かった。
裕太は一瞬だけ男の顔を見たものの、すぐに気にしなくなった。
*
男の道案内は頼りになった。
滑りやすいところでは「右の石を踏んだ方がいい」と声をかけ、急な場所へ来れば、裕太に合わせるように速度を緩めてくれる。しばらく後ろを歩いているうち、さっきまでの不安も薄れていった。
「登山始めて長いの?」
「1年半くらいです」
「へえ。もっとやってるのかと思った」
「まだ全然ですよ」
「どこ登った?」
裕太がいくつか山の名前を挙げると、男はほとんど知っていた。
「去年、黒岳行きました」
「あそこ最後きついだろ」
「そうなんですよ。最初飛ばしすぎて、最後めちゃくちゃ抜かされました」
男が笑った。
低い話し声から、笑う時だけ音が妙に上へ跳ねる。さっきより、その高さが耳に残った。
「今日は一人?」
「はい」
「友達とは登らないの?」
「たまには。でも最近は一人の方が多いですね」
「ああ。一人の方が気楽だもんな」
そこまでは、山で会った者同士の普通の会話だった。
それから少しして、男が前を向いたまま尋ねた。
「今日ここ来るって、誰か知ってる?」
「まあ、一応」
「ああ、そう」
それ以上、男は何も言わなかった。
しばらく二人の間には雨音だけが続いた。
「学生なんだっけ」
「はい」
「一人暮らし?」
「まあ」
「実家は遠いの?」
裕太は返事をせず、スマートフォンを取り出した。
「……結構聞くな、この人」
聞こえない程度に呟きながら地図を確認する。現在地は相変わらず安定しない。
それより気になったのは、周囲の景色だった。
どうも、事前に見たルートより森の奥へ入り込んでいる気がする。
「あの、こっちで合ってます?」
「合ってるよ」
男はすぐに答えた。
「でも、登ってきた時より、なんか奥に入ってる気がするんですけど」
そこで男が立ち止まり、振り返った。
「いいから。俺についてくれば大丈夫だから」
笑顔は変わっていない。
ただ、その一言だけが少し強かった。
裕太は黙って後ろを歩いた。
離れた方がいいかもしれない。
そんな考えが初めて浮かんだ。
しかし、今さら一人になったところでどちらへ行けばいいのか分からない。雨は強くなってきたうえ、男と歩き始めてからすでにかなり時間が経っている。
木々の向こうは、天候のせいだけではなく夕方の暗さを帯び始めていた。
「若いっていいよな」
不意に男が言った。
「え?」
「体力あるし」
「ああ。いや、俺なんて全然ですよ」
「そういうんじゃなくて」
男が裕太を見る。
その視線は顔から首筋へ落ち、肩、腕へとゆっくり移っていった。
「若い身体って、いいよな」
「……はあ」
男が笑った。
短く甲高い音が混じったように聞こえ、裕太は思わず横顔を見た。
男は何でもない様子で歩いている。
今のは本当に笑い声だったのだろうか。
そう思った時、男の唇の端から透明な唾液が細く伸びた。
手の甲で、何気なくそれを拭う。
裕太は少し気味が悪くなったが、何も言わなかった。
*
雨脚はさらに強くなった。
男について歩き始めてから、どれくらい経っただろう。
スマートフォンを見ると、時刻は17時半を回っていた。思っていた以上に時間が経っている。
木々の間もかなり暗くなっていた。
「これ、もう無理だな」
男が空を見ながら言った。
「何がですか」
「今日中に下まで行くの」
「でも、下りないと」
「もうじき暗くなる。この先に小屋あるから」
「山小屋ですか?」
「昔の作業小屋。雨くらいはしのげる」
裕太はスマートフォンの地図を見た。
そんな建物は載っていない。
「サイトにもなかったと思いますけど」
「古いからな。昔、林業の人が使ってたんだよ」
男は迷う様子もなく先へ進んでいった。
しばらくすると、霧の中から本当に建物が現れた。
森に埋もれるように古びた木造の小屋が立っている。屋根の一部は錆びたトタンで補修され、窓は小さい。周囲を見ても、今も人が出入りしていると分かるような道はほとんどなかった。
「ここ……?」
「雨はしのげるよ」
裕太は入口の手前で足を止めた。
理由をうまく説明できるわけではない。それでも、この男と二人で中へ入ることに強い抵抗があった。
「俺、やっぱり下ります」
男の笑顔が消えた。
「この天気で?」
「来た道戻れば……」
「どれが来た道か分かってんの?」
裕太は黙った。
言われてみれば、その通りだった。
すぐに男の顔へ笑みが戻った。
「危ないよ。無理しない方がいい」
現在地も曖昧なまま、暗くなってから雨の山を一人で歩く方が危険なのは裕太にも分かる。
「朝になれば下りればいいんだから」
男は小屋の戸を開けた。
「もう暗くなる。俺について来な」
裕太はしばらく入口を見つめた。
「……朝までですよね」
「そうそう」
男が笑う。
その声に、また少し高い音が混じった気がした。
迷った末、裕太は小屋へ入った。
*
小屋の中には、古い木材と湿った埃の臭いがこもっていた。
壁には錆びた道具が掛かり、隅には傷んだ木箱が積まれている。少なくとも、昔ここが何かの作業に使われていたこと自体は本当らしかった。
男はザックを下ろした。
裕太も壁際へ座ってスマートフォンを確認したが、圏外だった。
「疲れただろ。寝とけ」
「いや、大丈夫です」
「寝た方がいいよ」
「眠くないんで」
男はそれ以上言わなかった。
雨が屋根を叩いている。
時間が経つにつれ、窓の外は完全に暗くなった。
「横になれば?」
また男が言った。
「大丈夫です」
裕太はスマートフォンで時刻を確認し、画面を伏せた。
しばらくして、もう一度声がした。
「寝ないの?」
顔を上げる。
その一瞬だけ、男の表情が抜け落ちたように見えた。
「……眠くないので」
すぐに笑顔へ戻る。
「いいから寝ろよ」
最後のところだけ、声が少し高かった。
裕太は視線を落とした。
ここにいてはいけない。
今度は、かなりはっきりそう思った。
とはいえ、男は戸口に近い場所へ座っている。外へ出たところで、真っ暗な雨の中、自分がどこにいるかさえ分からない。
少し考え、なるべく自然に言った。
「……じゃあ、ちょっと休みます」
「そうしな」
返ってきた声が、妙に嬉しそうだった。
裕太は壁際へ横になったが、靴は脱がなかった。スマートフォンは上着のポケットへ入れ、ライトもすぐ手を伸ばせる位置に置く。
何かあればすぐ起き上がれる姿勢のまま、目を閉じた。
雨音。
風が吹くたびに軋む小屋。
すぐ近くで聞こえる男の呼吸。
時間だけがゆっくり過ぎていった。
「……寝た?」
男が小さく尋ねた。
裕太は動かなかった。
自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
しばらく沈黙が続いた。
「寝たな」
そのあと、男が笑った。
「クククッ……」
これまでより、ずっと高かった。
抑えきれないものが喉の奥から漏れているような笑いだった。
続いて、ざり、ざり…と何かを掻く音がする。
裕太は耐えきれず、ほんの少しだけ目を開けた。
男は背中を向け、右手を頭へやっていた。
最初は頭を掻いているのだと思った。
違った。
指が、髪の生え際へ入り込んでいる。
男は額の皮膚をつまみ、そのまま前へ引いた。
皮膚が伸びた。
さらに引くと、額から眉、目元へと皮膚がめくれ、鼻の輪郭までが濡れた薄い布のように浮き上がっていった。
裕太は息を止めた。
皮膚はそのまま頬まで剥がれていく。
男が自分の顔を剥いでいる――そう思った。
だが、違う。
剥がれていく方が、人間の顔だった。
その下から現れたものには、鼻らしい隆起がほとんどなかった。目は異様に深いところへ沈み、黒ずんだ皮膚には濡れたような光沢がある。
そして、口の位置がおかしかった。
被っていた人間の口よりさらに外側へ、頬の奥から耳の近くまで裂けている。その中には、小さな歯が細かく並んでいた。
それは剥がした人間の顔を両手で持ち、しばらく眺めた。
「キキキッ…」
ひどく嬉しそうな笑い声だった。
裕太は飛び起きた。
もう人間ではない…その何かが振り返り、真正面から目が合った瞬間、考えるより先に身体が動いた。
ザックを掴もうとしたものの、肩紐が何かに引っ掛かった。すぐに手を離して戸へ走る。
背後で何かが立ち上がった…
その音を聞きながら、小屋の外へ飛び出した。
*
外は完全な闇だった。
裕太はライトを点け、雨の中を走った。登山道がどちらなのかも分からない。ただ、あの小屋から少しでも離れたかった。
背後から男の声が聞こえた。
「おーい……待てってー」
間延びした、どこかニヤついた声だった。
裕太は振り返らない。
少しして、声の調子が急に変わった。
「危ないぞ。そっち道じゃない。気をつけろ」
驚くほど落ち着いていた。
本当に、道を間違えた登山者へ注意しているような口調だった。
そのあと、森の奥から甲高い笑いが聞こえた。
「キキキッ…」
裕太は足を速めた。
右手の斜面で何かが動いた。
ライトを向けると、木々の間に紺色のレインウェアが見えた。
男だった。
ただし、道を走っているのではない。
人間なら足場を確かめなければ下りられないような急斜面を、身体を低くし、時折両手まで地面につけながら木々の間を進んでいる。
速い…
裕太の位置に合わせるように斜面を横切りながら、顔だけをこちらへ向けた。
人間の顔らしくはなっていたが、どこかがおかしい。
片側の口元がわずかに耳の方へずれ、その隙間から黒ずんだ皮膚と細かな歯が覗いていた。
裕太は息を呑み、そのまま斜面を駆け下りた。足を滑らせるたびに木へ手をつき、身体を支える。
すぐ後ろで枝が折れた。
「危ないって言ってるだろ」
声が近い。
次の瞬間、肩を後ろから強く掴まれた。
「うわっ」
身体をひねって振りほどくと、レインウェアが大きく裂け、腕に鋭い痛みが走った。
あの手が届いた。
裕太は転びかけながらも走り続けた。
どれだけ進んだのか分からない。
やがてライトの先に、白いものが落ちているのが見えた。
ペットボトルだった。
自分のものだ。
小屋を飛び出した時に落としたはずだった。
「……嘘だろ」
裕太は向きを変え、今度は斜面の低い方へ進んだが…しばらくすると、見覚えのある倒木が現れた…その先の木々の間に、黒い四角いものが見えている…
あの小屋だった。
入口に男が立っていた。
顔立ちは人間らしく整っていたが、さっきまで見たものを知ってしまった裕太には、もう普通の中年男性には見えなかった。
男は裕太を見つけると、片手を上げた。
「おーい……もういいだろ。戻ってこいって」
まだ声には笑いが混じっている。
裕太が後ずさると、男の表情がすっと消えた。
「夜の山、危ないぞ。一人じゃ下りられない」
静かな声だった。
少し間を置いて、
「……キキキッ」
と笑った。
裕太は向きを変え、また走った。
脚はもう思うように上がらなかった。
息を吸うたびに喉と横腹が痛む。それでも背後から時折聞こえてくる声のせいで、立ち止まることだけはできない。
「おーい……待てってー」
少し離れた場所から、楽しそうな声がついてくる。
裕太は走り続けた。
やがて、今度はすぐ近くから声がした。
「そっち崖だぞ」
次の一歩で、足元の土が崩れた。
踏みとどまろうとしたが、濡れた地面に靴を取られ、そのまま斜面を転がり落ちた。肩や背中を何度も地面へ打ちつけ、顔には枝が当たる。途中で右脚を石へ強くぶつけ、最後は太い木の根のようなものへ背中から衝突して、ようやく身体が止まった。
しばらく息ができなかった。
口を開いても空気が入ってこないように感じたが、やがて激しく咳き込みながら呼吸が戻った。
全身が痛い。
特に右脚には力が入りづらかった。
横になったまま耳を澄ませる。
声が聞こえない。
あの笑い声も消えていた。
葉を叩く雨の音だけが続いている。
どのくらい、そうしていたのか分からない。
一度、意識を失っていたのかもしれない。
気づいた時には、雨がかなり弱くなっていた。
裕太は痛みに耐えながら身体を起こし、右脚をかばって斜面を下り始めた。
もう地図を見る気にもならない。
しばらく進むと、木々の間が少しずつ明るくなってきた。
夜が明けようとしていた。
薄明かりの中で足元を見ると、人が歩いた跡が続いている。さらに少し先には標識まであった。
裕太は脚を引きずりながら近づき、書かれている文字を確認した。
見覚えがある。
登りの途中で通った場所だった。
「戻った……」
声が震えた。
東の空には淡い赤みが差し、雨もほとんど止んでいる。夜の間ずっと濡れていた木々の輪郭が、朝の光の中で少しずつ普通の森へ戻っていく。
遠くで鳥が鳴いている。
裕太は大きく息を吐いた。
その時、登山道の先に一人の人影がいることに気づいた。
まだかなり距離があるが、登山ウェアらしい服を着て、背中にはザックのようなものを背負っている。早朝から登ってきた登山客に見えた。
「すみませーん」
声を張ると、人影が立ち止まった。
「すみません」
こちらを向いたように見える。
距離があるため、顔までは分からない。
少し間があった。
それから、人影はゆっくり片腕を上げた。
その動きを見た瞬間、張りつめていたものが一気に抜けた。
『助かった』
裕太は痛む脚を引きずりながら、朝焼けの中をその人影へ向かって歩き始めた。
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7月13日、若い男が一人、白峯山を歩いていた。
山頂へ急ぐ様子はなく、分岐や沢へ差しかかるたびに足を緩め、スマートフォンの画面と周囲の地形を見比べている。スマホの山マップのアプリなどを開いた画面には、現在地とは別に点々と残った位置記録が表示されている。
小さな沢を越えてしばらく登ると、登山道の脇に三角形に割れた大きな岩が現れた。男は、画面を確認して小さく頷く。
「ここを通るのか…」
そこから先では、さらに歩みが慎重になった。
道が分かれるたびに一方へ少し入り、地図を確かめて戻る。次の位置記録へ近づくと、また周囲を探した。
昼を過ぎた頃、男が見ていたマップの記録には、次の位置記録が登山道から外れた場所に残っていた。
「ここから行けるのかな」
男は森の奥を見た。
正規の道と呼べるものはない。
それでも、その先には位置記録がいくつか残っている。一度森の奥へ入ったあと登山道の近くへ戻り、そこからまた別の方向へ外れていた。最後の数点は狭い範囲に集まり、そこで記録が途切れている。
*
男はしばらく画面を見つめてから顔を上げた。
木々の奥に、人の気配はない。
「なんでこんなとこ通ったんだ……」
もう一度、最後の位置記録を見る。
2週間前の6月30日、この白峯山へ一人で入った大学3年生が、そのまま帰ってこなかった。
高柳裕太だった。
捜索は行われているものの、裕太は見つからなかった。端末に残っていた位置記録も捜索側へ共有され、この周辺は何度も確認されている。
今、その記録を自分の足でたどっている若い男の名前は熊谷直哉。
裕太の大学の親友だった。
裕太は単独で山へ入る時、登山アプリの現在地を直哉に共有することがあり、白峯山でも、通信が入った時に更新された位置情報だけが途中まで残っていた。
「……どこ行ったんだよ」
直哉は画面を閉じた。
いつの間にか森には薄い霧が入り始め、さっきより風も強くなっている。これ以上奥へ入るのはまずいと思い、今日は戻ろうと身体の向きを変えた。
「……ん?」
前方の霧の中から、一人の登山者が歩いてきていた。
直哉は道を空けようと脇へ寄ったが、相手が近づくにつれて、その顔から目を離せなくなった。
「……裕太?」
登山者も足を止めた。
「……直哉?」
間違いなかった。
「裕太」
直哉は駆け寄り、その肩をつかんだ。
服越しに体温が伝わってくる。
「お前、何してたんだよ。2週間だぞ」
「何でお前がここにいるんだよ」
「それこっちの台詞だろ。みんな探してたんだぞ」
「悪い。俺も下りられなくなっててさ」
「下りられないって……2週間だぞ」
裕太は本気で驚いたように眉を上げた。
「そんな経った?」
直哉は返す言葉を失った。
何があったのかは分からない。それより先に連れて帰らなければと思い、スマートフォンを取り出したが、画面には圏外と出ていた。
「とにかく下りよう。電波入るところまで行けば連絡できる」
「なあ」
裕太が大学の共通の友人の名前を出した。
「あいつ、まだあの教授の授業取ってんの?」
「取ってるよ。お前はすぐに切ったんだよな」
「あれ無理だよな」
「お前は寝坊して来なかっただけだろ」
「違うって」
裕太が笑う。
その受け答えに、直哉の肩から少し力が抜けた。
「それより、この2週間どこにいたんだよ。飯とか寝る場所とか、どうしてた?」
「まあ……いろいろ」
「いろいろって」
「なんとかなるもんだよ」
裕太は軽く笑って済ませた。
直哉は何か言い返しかけて、やめた。
服は泥で汚れている。それなのに頬はこけておらず、歩き方にも衰弱した様子がない。山の中で2週間を過ごした人間にしては、あまりにも普段と変わらなかった。
裕太が空を見上げた。
「天気、悪くなるぞ」
「だから早く下りよう」
「そうだな。行こう」
直哉が登山口の方へ向き直る。
裕太は動かなかった。
「こっち」
指しているのは反対方向だった。
「いや、下山道はこっちだろ」
「大丈夫。休めるところあるから」
「休まなくていいよ。そのまま下りよう」
「すぐ暗くなるよ」
裕太が少し笑った。
「小屋あるんだよ」
「小屋?」
「古いやつ。地図には載ってない」
直哉は足を止めたまま、裕太の顔を見た。
「……裕太」
「ん?」
「本当に、どこにいた?」
「何で?」
「2週間いた人間に見えない」
裕太は答えず、しばらく直哉を見つめていた。
妙な空気になった。
直哉はそれを振り払うように笑った。
「お前さ、去年も道間違えて、俺に偉そうに『こっちだ』って言ってたよな」
裕太も笑った。
「…キキキッ」
直哉の笑みが消えた。
ほとんど同時に、裕太の顔からも表情が消えた。
「……今の何?」
「何が?」
「笑い方」
「笑い方?」
裕太は不思議そうに首を傾げた。
その仕草まで、直哉の知っている裕太だった。
けれど、次に笑った時も同じ音がした。
「キキキッ」
直哉は無意識に一歩下がった。
裕太の口角がゆっくり持ち上がっていく。
最初は見慣れた笑顔だった。
しかし、そこで止まらない。
頬を引きつらせながら、口の端だけが人間なら動かない位置まで上がっていった。
直哉がさらに距離を取ると、目の前の裕太は何事もなかったように真顔へ戻った。
「どうした?」
声だけは、さっきまでと変わらなかった。
それが一歩近づく。
直哉も一歩下がった。
「暗くなるよ」
また距離が縮まる。
「俺に……ついて来なよ」
そう言った裕太の口の端が、またゆっくりと持ち上がった。〜




