秋風と黄金色のコロッケ
プロローグ
調香師を続けている山下ワタルは、あの一件以来、
毎年同じ時期になると、
きまって古都・京都への旅路につく。
頬をなでる秋風はどこまでも爽やかで、
周囲の山々は黄色や赤へと鮮やかに染まり始めている。
世界が最も美しく、人間の五感を揺さぶる色彩に満ちていく、あの時とまったく同じ季節だ。
カサカサと乾いていたかつての自分は、
もうそこにはいない。
いまのワタルの瞳には、自然が織りなす「揺らぎ」の美しさが、まっすぐに、
愛おしく映し出されていた。
完璧を求めるあまりに見失いかけていた、不完全なもの、雑多なものの中にこそ宿る息づかい。
それを教えてくれた、あの懐の深い香りの記憶に、もう一度逢いに行くために――。
第一章 境界線のグラデーション
あの奇跡のような出来事から一年。
ワタルは調香師として一回り成長したものの、最近、新たな壁にぶつかっていた。
傷や歪みといった「世界のノイズ」を愛せるようにはなった。
しかし、それをいざ一本の香水の中に、誰もが心地よいと感じる「調和」として落とし込むことの難しさに、泥泥とのたうち回るような焦りを感じていたのだ。
(また、先生の淹れてくれたあのお茶の香りを嗅げば、何かが掴めるだろうか……)
はやる心を抑えながら、ワタルはあの時と同じ銀閣寺の門をくぐった。
だが、その途中のことだった。
門内へと一歩足を踏み入れた瞬間、吹き抜ける秋風の中に、ふわりと、あの懐かしい匂いが混ざり込んだ。
――覆い香。
記憶の底に鮮烈に刻み込まれた、あの濃厚で、どこか青く甘い、宗易の淹れたお茶の香り。そして、仄かに混ざる「沈香」の重厚な香り。
「……っ!」
ワタルは弾かれたように足を止めた。
今回は、周囲の生活音――現代の観光客の賑やかな話し声や、スマートフォンのシャッター音――も、はっきりと聞こえる。
現代と過去の境界が、今、この場所でグラデーションのように溶け合っているのだ。
「おやおや、ここは……。ふむ……」
考え込むような声を漏らしながら、生垣の向こう角から一人の人物が姿を現した。 小柄ながら、圧倒的な存在感と美意識をまとった、あの懐かしい姿。
ワタルは胸がいっぱいになり、深く頭を下げた。
「宗易先生、お久しぶりです」
その声に、男はゆっくりと顔を上げた。
すべてを見透かすような、けれどどこまでも温かい瞳。宗易はフッと口元を綻ばせた。
「ふむ……やはり、貴殿でございましたか。どうやら今回は、私が貴殿の世に迷い込んでしまったようですな」
宗易は驚き慌てる風でもなく、ただ興味深そうにあたりを見回した。
「あの茶室は、今は使われておらんな。生きた温もりが失われておる。ワタル殿、どこか他に、活気のある良い場所へ案内をいただけないだろうか」
「……では、参道へ向かいましょう。あちらには今、生きている僕たちの街の匂いが溢れています」
第二章 黄金色の調和
銀閣寺の門をくぐり抜けると、現代の京都の活気が一気に押し寄せてくる。
観光客たちの楽しげな笑い声、石畳を叩く靴音。
甘く香ばしい匂い、お出汁の匂い、どこか懐かしいスパイスの匂い。
「何か祭りでも行われているのかな」
「いえ、この辺りはいつも、こんな感じですよ」
「ほぉ……南蛮人もいるのか。これは、摩訶不思議じゃのう。――おや、あれはなんだ? あの、黄金色の小判のような物は」
宗易が身を乗り出して指差したのは、店先で油の音をパチパチと響かせている、揚げたてのコロッケだった。
「すいません、コロッケを二つ、お願いします」
受け取ったばかりの熱々のコロッケを、ワタルは宗易に手渡した。
宗易はハフハフと息を吹きかけながら、サクッと音を立てて一口かじった。
その瞬間、彼の目が驚きに丸くなる。
「おぉ……これは、美味い……!」
サくサくとした薄い衣、その中から溢れ出す、なめらかな芋の甘みと肉の香ばしい脂の匂い。
宗易は断面をじっと見つめ、深く考え込むように匂いを嗅いだ。
「ただの芋にあらず、肉の脂の旨味が中に閉じ込められておる。この衣の歯触り、そして鼻に抜ける香ばしさは……。ふむ、これこそまさに、雑多なものが混ざり合って生まれた、極上の『調和』ですな」
その言葉に、ワタルはハッと胸を突かれた。 (雑多なものが混ざり合って生まれた、調和……)
自分は今まで、ノイズを香りに取り入れようとするあまり、成分をバラバラに目立たせようとしすぎていた。
そうじゃない。衣の中に全てを包み込み、噛み締めた瞬間に一体となるこのコロッケのように、香りを「一つの命」として包み込まなければならなかったのだ。
霧が晴れていくような感覚に震えるワタルの隣で、宗易はさらに、車道を通る黒い車に近づき、ふんふんと鼻をひくつかせた。
「おや……嗅ぎ慣れぬ匂いだ。鋭く、しかしどこか力強いな」
「それはガソリンですね。あの鉄の箱が走るための『食べ物』の匂いです」
「なんと! あの鉄の獣の主食か。しかし、この匂いでは、人はとても食べる気にはならぬだろうの。やはり、先ほどの黄金色の小判の方が、私には格段に美味そうに思える」
宗易はワタルを見つめ、悪戯っぽくポピーのように微笑んだ。
既成概念で枠をはめず、良い悪いをジャッジせず、まずは目の前にあるすべてを面白がり、愛おしむ。
その圧倒的な「好奇心」こそが、この男の美学の根源なのだと、ワタルは深く突き動かされていた。
第三章 鉄の獣の世、切ない祈り
参道を抜け、二人は行き交う現代の人々へと視線を向けた。
誰もが戦を怯えることなく、楽しそうに笑い合い、平和な秋の一日を享受している。
「……しかし、この時代は、実によいのぅ」
宗易の口から、ぽつりと、静かな呟きが漏れた。
「皆の顔に、笑顔が溢れておる。戦の影も、飢えの恐怖もない。……私のいる世も、早くこのような時代になってくれればよいのだが」
そう言った宗易の横顔には、先ほどまでの無邪気な笑顔は消え、どこか遠くを見つめるような、深く寂しげな表情が浮かんでいた。
己の生きる苛烈な戦国の世を想い、やがて自らの美学のために命を散らすことになる自らの運命を知ってか知らずか――切ない祈りが、そこにはあった。
「ワタル殿。……すまないが、そろそろ銀閣寺まで、送ってはくれぬだろうか」
その問いかける瞳の奥に、引き返せぬ強い時空の引力を見て取り、ワタルは胸を締め付けられながらも頷いた。
「はい、宗易先生。お供させていただきます」
参道を引き返す二人の頭上に、どこからともなく、あの覆い香と沈香の混ざり合った香りが、濃密に漂い始めた。
別れの時が、近づいている。
「ワタル殿。私はな、貴殿と逢えたことが、この生涯における一番の宝物となるだろう。……奇妙な出会いではあったが、出会うべくして出会った。そんな気がするがのぅ」
「宗易先生、私の方こそ。先生のおかげで、今日もまた、香りの答えを見つけることができました。だから……」
ワタルはポケットから、京都へ来る前にラボから密かに持ち出していた、一本の小さな遮光瓶を取り出した。
「これを受け取ってください。現代の、僕たちの時代の『調香』です」
第四章 平和の香りを握りしめて
「おや、これは……」
宗易が不思議そうに小瓶を受け取る。
ワタルはまっすぐにその目を見つめた。
「それは、僕が作った『秋の縁側』という香りです。お日様に干された布団の匂い、甘いお菓子の匂い、そして今さっき、先生と嗅いだ、あの香ばしいコロッケの匂いを少しだけ混ぜました。……争いがなくて、誰もが笑っている、この現代の『平和の匂い』です」
宗易は驚いたように目を見張った。
「先生の生きる時代は、きっと辛いことや、理不尽なことが多いと思います。だから……もし心が折れそうになったら、その瓶の蓋を開けて、この現代の匂いを嗅いでください。僕たちの平和は、先生の、あの戦国の世の祈りの先に繋がっているんだって、この香りが証明してくれますから」
宗易は、じっと小瓶を見つめた。やがて、その目元がじわりと、温かい肉親のような慈愛で細められる。
「……ふぉふぉ。これは、とんでもない茶器をいただいてしまいましたな。極上の平和の味、確かに、私の世へ持ち帰りましょう」
宗易はそっと右手を差し出してきた。現代の挨拶である、握手を。
ワタルは弾かれるようにその手を強く握り返した。
「宗易先生。また、会いましょう」
「……そうじゃな。またな」
繋いだ手が離れる。
宗易は茶室へと続く角に向かって、ゆっくりと歩み始めた。 サクサク、サクサク……チッ。
乾いた落ち葉を踏みしめる音。
覆い香と沈香、そしてワタルが手渡した
「平和の香り」が、時空の隙間に心地よい揺らぎを残したまま、その気配は角の向こうへと静かに溶けて消えた。
エピローグ
東京のラボへと戻ったワタルは、真っ白なデスクに向かっていた。
手には、約束の生八ツ橋。
そして、あの賑やかな参道で見つけた、新しいお菓子が並んでいる。
以前なら「不純なノイズ」として切り捨てていたはずの、油の匂い、スパイスの匂い、人々の雑多な生活の息遣い。
そのすべてが、今は愛おしい調和のパーツとして、ワタルの脳内で美しい数式へと変換されていく。
都会のビル群の隙間から覗く空は、あの京都で見た秋特有の高い空と、同じ色をして広がっていた。
ワタルは新しいフラスコを手に取り、一滴の液体を落とす。
もう迷わない。雑多な世界の美しさを、全て優しく包み込むような、生きた香りを創るために。
その胸には、あの小さな茶室の沈香の余韻と、宗易が持ち帰ってくれた
「黄金色のコロッケの温もり」が、今も確かに息づいている。
(終わり)




