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2-2

 二人で時間のあるとき、いつも決まって入るのは、茨木駅近くの、カフェというよりは、昭和の香りの残る喫茶店だ。


 コーヒーが売りの店で、彼女はダージリンを注文する。


「砂糖とミルクを入れたほうが絶対おいしいと思うけど」

「だからってココアなんて、子供の飲み物です」


 お決まりのやり取りのあと、表面に浮かんだ生クリームを沈めないよう、綺里がスプーンですくう様子を、涼葉は無言で眺めていたが、やがて声を低くしてこう言った。


「ところで、その桜井って人はどんな感じなんですか」


 思わず顔を上げた。


 あまり聞いたことのない声調だったのだ。窓のほうへと視線をそらせ、髪をいじる仕草が珍しい。


「どんなと言われてもな。眠そうでやる気はなさそうだった。三十代で役職がないっていうのは一般的なのかどうか」


 素直な感想を述べると、いつの間にそうしていたのか、相手は綺里の目の奥をのぞき込むように、鋭い視線を向けていた。


「あまり期待されている人ではなさそうですね。係長くらいでも不思議はない年齢ですし。ちなみに――男性として見た場合の評価はどうなんです?」

「何を言ってる?」

「話をそらさないで」


 よくわからないが、つまりは恋愛対象になるか、という意味だろうか。


 だとすれば、安っぽいスーツを着ている点でマイナスが大きい。身なりは、人となりだとは、マリンさんの教えだ。


 そのことを伝えると、彼女はどこかほっとした様子を見せた。


「そうですか。まあ、どうでもいいことですけど。そういえば、見せたいものがあるって言ってませんでしたっけ」


 そっちから話を振ったくせに。


 改めて、リュックから、候補となっている競技の一覧を取り出した。


「テレビ番組表から検索して作ったんだ。チェックが付いてるのは、土日にテレビ観戦したので、丸印のが、あーしが名前を聞いたことのあるやつ」


 彼女はリストを手にすると、新人作家の担当編集のように脚を組んだ。


「ここまで絞り込んだのなら、あとは直接見て決めるだけ、じゃないんですか」

「今話した通り、CSでいくつかはチェックはして――」


 そこまで言ったところで、相手は首を振りながら軽く机を叩いた。ベテラン編集者か。


「そうじゃなくて。生観戦するってことですよ。生徒会の予算編成で、色んな部活からお呼ばれされたときのこと、覚えてますよね。現地に出向くことで、受ける印象は全然違ったでしょう?」


 生徒会は各部の予算配分の決定権を持つ。生徒たちは部の実績を訴えるため、公式戦の中で、もっともいい結果を残せそうな相手のとき、接待と称して、役員たちを招待することがあった。


 もっとも、どのケースも、試合内容より、解説役の部員たちの言動にばかり気を取られていた気がする。


 中でも、深く印象に残っているのが、真夏の女子ソフトボールの試合だ。日陰のない酷暑のスタジアム。ベンチ外メンバーの子たちが、綺里に日傘を差し、本人は根性を見せるため、汗を地面に落としながらそばに立ち続ける。熱中症になるからと差し出したペットボトルを受け取らず、一時間ほどして、「大丈夫?よく頑張ったね。あとは私に任せて」と、次のメンバーの胸に倒れ込むように役割を引き継いでいくあの姿は、ほとんど海兵隊だった。


「そう、だったかな。あーしには、試合内容そのものの記憶があまりないんだけど」

「何ですか、その冷たい反応は。だいたい、現場を知らない状況で、例えばブレイキンに決めたとして、いったい誰を支援するつもりですか?」

「それがまさに相談したいこと、だったんだけど。涼の人脈から、この中の競技で、ある程度の結果を残している人、みたいに選べないかな」

「さすがに無理がありますよ。うちの知り合いは特技で分類されてるわけじゃないですし」

「やっぱりそうだよね……。となると、知ってる学校の部活やサークルに、直接行って探すしかないのかなあ。うちの大学で候補になりそうなのは、チアリーディングとキンボールくらいか」


 涼葉は再び机の上の紙を手にした。


「高校時代の知り合いの学校の中には、スカッシュ、スポーツクライミング、ボート、ボクシング、自転車はあった気がします」

「さすが交友関係が広いな。チェックするから貸して。ちなみに、スポーツクライミングは、個人的に一度やってみたいんだけど。その高校に頼めないだろうか」

「民間のジムがありますから、お金払ってご自由にどうぞ」


 悩みは解決せずとも、人と話すだけで気が晴れる、とはよく聞くが、実際、今の短い相談だけでも、多少は進展した気になった。


 ただ、それはあくまで願望がもたらした一時的な幻想だ。テスト勉強のスケジュールを立てたあとのような、偽りの達成感。


 そんな錯覚は、会社用のスーツを見立ててもらうため、二人で梅田に連れ立ち、買い物を終えたあたりで、効果が切れた。


 一人になってからは、うしろ向きな考えに頭が支配される。帰りの御堂筋線の中、気づくと携帯を取り出していて、「競技者を見つけるのは、簡単ではなさそうです」と、ほとんど愚痴のようなメッセージを桜井に送っていた。


「了解しました。そこは我々で対処します」


 などという人生の先達の反応を期待していたが、次の日の朝になっても返事はなかった。


 役員会議で多くの大人たちが口を揃えていたように、企業活動のしきたりに無知であるのはそうだと思う。最後に彼と交わした会話の中で、無意識に相手を怒らせるような内容がなかったとは断言できない。


 そう考えると、現時点で唯一、綺里側の人間を失ったのではと、あっという間に不安になった。


 他に打開策を思いつかず、名刺の番号に九時ぴったりに電話をかけることにした。


「おはようございます。中之島トレーディングでございます」


 電話に出たのは女だった。本人が出るのだと疑っておらず、一瞬、話す内容を忘れる。


「あの、桜井さんは……」

「失礼ですが」


 なぜか声を低くした相手。当然何か続きがあるのかと待っていたが、それ以上言葉を発さず、やがて電話が切れた。


 何だ、これは。


 失礼ですが、というのは、綺里の中ではその後に続く本文への枕詞だった。「失礼ですが、服を着て下さい」とか、「失礼ですが、あなたは変態ですか」とかだ。


 何が起きたのか意味がわからず、リダイヤルする勇気を喪失した。


 ダイニングでは、母親はいつもの通り、朝からバラエティ番組を楽しんでいた。


 綺里が生まれるまで、父と同じ会社で働いており、社会人としての常識は、ある程度備わっているはすだ。今の状況について、助言を請うことにした。


「そういえばこの前も平服のこと聞いてたわね」

「新しいバイト先なんだ」

「ふーん。綺里ちゃんみたいに常識のない子が務まるのかしら。まあ、それもいい社会勉強か」

「ママ。子供は褒めて育てたほうがいいらしいよ」


 半分以上は本気でそう言ったが、彼女は腹の底から笑った。


「あーおかしい。それで何だっけ。ああ、会社の電話応対ね。そういうときはまず自分の身分から名乗るのがマナーよ。会社名と名前。学生なら学校名とか。今回の場合なら、先日からアルバイトをしている江坂ですが、って。それから相手の所在を確認するものなの」


 それはうすうすわかっていた。問題なのは無言で切った相手の対応だ。


「もしかして桜井さんは男の人?なるほど、だったら誤解されたのかもね」


 朝一番の、名を告げぬ若い女からの電話で、業務と無関係だと疑われた可能性があるのだという。


 さらに驚いたことに、失礼ですが、という無愛想な応答は、そのあとに「あなたは誰ですか」という一文が省略されているのだそうだ。つまりはそこで名乗る機会が一度はあったわけで、母の裁定によれば、非礼の度合いは7対3で綺里の負けとのことだ。


 その程度の短い文言を最後まで言わないケチくささに苛立つのと同時に、社会の間違った常識を正してやろうという、気概が再び芽生えた。


 もっとも、またあの女が出る可能性がある以上、もう一度電話をする気にならない。


 幸い、その日、午前の授業を終えた昼休みに、桜井から返信があった。


 どうやら、プライベートでメッセージを使うことがあまりないらしい。


 ただ、そこに書かれていたのは、連絡が遅くなったことへの短い謝罪と、競技の選び方については綺里に一任するという、何の飾りもない一文で、その行間にうっすらと見えたのは、無関心というよりは、無気力さだった。



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